2013年06月06日

「自分でえらんだ人生」だけど、どうえらんでもじつは正解

しりあいとはなしていたら
「自分でえらんだ人生」ということを、ないげなくいわれた。
ベタな表現ではあるけれど、
ほんとうに人生は自分でえらんできたことの結果といえる。
いまさらながらすごく新鮮にきこえた。
自分がやっているすべてのことは、
自分がえらんできたことなのだ。
職業も、進路も、いまの生活も、なにをたべたかさえ、
きめたのは自分だ。
Wカップブラジル大会へ、応援にいくのも、
テレビ観戦でがまんするのも、きめるのは自分だ。
そして、自分できめたという責任がある。

あらためておもいかえしてみると、なにかの目標をたて、
長期的にコツコツとめざした体験はスポーツだけで、
あとはみんななりゆきといえる。
「やめる」判断は自分でしてきたけれど、
「やる」ことにかんしては
なんとなく、とか、まきこまれて、みたいなものばかりだ。
それで後悔しているかというと、そうでもないし、
あんがいほかのひとのおおくも
なりゆき型がおおいのではないかとおもう。

ただ、自分できめることのできるしあわせをおもった。
国によっては政治的な条件で
選択肢がないところもあるし、
生まれた環境によっても、
すべてを自分ではきめられないひとがいる。
戦争はそのさいたるものだろう。
『バンド・オブ・ブラザーズ』をみていたとき、
ドイツ兵にむかってアメリカ兵が
「おれの人生をめちゃくちゃにしやがって」とののしっていた。
政治的なことをいえば、「おたがいさま」ともいえる戦争も、
徴兵され前線でたたかう兵士にとっては
こんな目にあわせやがって、とたまらないおもいだろう。
大震災にしたって、個人のちからではどうにもならない
運命としかいえない(そこに原発などがからんでくるからややこしい)。
いまという時代にうまれ、自分でえらべる環境にある(あった)ことが
どれだけしあわせなことか。

それにしても、いまわたしがこうしているのも、
自分でえらんだ結果だとおもうとすごく不思議だ。
こうやってパソコンにむかうこともできるし、
本をよむ選択もあった。
べつの仕事をはじめようと
ゴソゴソうごきまわることもできる。
もちろん、やろうとおもえばなんだってできる自由は、
失敗し、おなかをすかせる自由でもある。

このごろよくのこされた時間についてかんがえる。
わたしが自由につかえる時間はあとどれだけあるのだろう。
年をとってくると、ますます「自分でえらぶ」ことが切実になってくる。
家族や自分の健康など、えらべる範囲がせまくなるせいだろうか。
手もちのカードはすくないし、
とびきりのエースなんかもうのこっていない。
それでも「おりる」わけにはいかないので、
きょうもきのうとおなじような時間をすごす。
もしかしたら、どう選択しても
おなじような人生をおくるのかもしれない。
きのうとおなじ日をおくることは、
それはそれでしあわせなことかもしれない。

posted by カルピス at 09:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする