『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』(辻村深月・講談社文庫)
地方の負け犬についてのはなしだ。
わたしがそうきめつけているのではない。
本書のなかになんども負け犬についての記述がある。
主要参考文献としてあげられているのも
『負け犬の遠吠え』と『結婚の条件』であり、
この2冊を愛読書とするわたしにとって、
地方にすむ負け犬の心理と生態は興味ぶかいものだった。
山梨県の甲府でそだったみずほは、
東京の大学にいき、いったんは甲府にもどったものの、
結婚にあわせてまた東京へでていく。
みずほのおさななじみのチエミは、
甲府の短大をでて地元で就職し、
キャリアがつみあげられることのない
事務職についている。
甲府という町の規模は
わたしがすんでいる町とおなじみたいだ。
都会こそが負け犬の繁殖地であり、
ちいさな地方都市における「30代・独身・子どもなし」へのまなざしは
当事者でなければわからないきびしさがあるのだろう。
結婚し、子どもが生まれたからといって、
順風満帆の人生がひらけるわけではない。
地元企業の若手専務と結婚した政美は、
専務婦人として嫁ぎ先や世間からの
無言の圧力のなかでくらしている。
酒井順子さんがかいた『負け犬の遠吠え』は、
「負け犬ですが、なにか?」という
お腹をみせてのひらきなおりが特徴で、
いま日本にこうした犬たちがふえつつある現象を
かろやかにおしえてくれた。
しかし、いかにかるく・あかるく表現しようとも、
負け犬として生きるのは、とくに地方都市においては、
けしてなまやさしいわけではない。
わたしたちは、『負け犬の遠吠え』から10年たっても、
これまでの価値観から自由になれず、
けっきょくまだこの生き方を肯定しきれていない。
おおくの負け犬が幼稚園のころからその資質をみがいた結果なのにたいし、
じつは、チエミの価値観はもっとも負け犬からとおいものだった。
チエミがおかしてしまったあやまちは、ただひとつだ。
酒井さんの『負け犬の遠吠え』にはちゃんと
「負け犬にならないための十ヶ条」が用意されていて、
そのいちばんはじめに
「不倫をしない」とおさえてあるのに、
チエミはこのマニュアルをいかすことができなかった。
そのほかの点では、いかにも男に肉じゃがをつくって
さっさと結婚してしまいそうななのに、
なぜ大地みたいな男をすきになってしまったのか。
ここが地方にすむ負け犬の、もっともむつかしい点かもしれない。
対処法がないわけではない。
おなじく『負け犬の遠吠え』にある
「負け犬になってしまってからの十ヶ条」
の10番目は「突き抜ける」だ。
どうか地方にすむうつくしい負け犬たちが
つまらないしがらみや男にからめとられずに、
「突き抜け」たあかるい負け犬人生をおくってほしい。
辻村深月さんの本ははじめてだった。
女性の会話のおそろしさになんどもドキドキする。
女性はこんなきびしい人間関係のなかで生きているのか。
角田光代さんの本も、女性のこわさをおしえてくれるけど、
辻村深月のこの本は会話でたたみこんでくる。
女友達との会話、母とむすめの会話。
その迫力に、わたしはとおぼえもできず、
キャンキャンなきそうになる。
500ページちかくの大作でありながら、
こまかな伏線をはりめぐらし、
コントロールしきった力量がすばらしい。
もっと辻村さんの本をよみたくなったので、
まえから本棚にあった『ぼくのメジャースプーン』を手にとった。
『負け犬の遠吠え』も、もういちどよんでみたくなった。