村上春樹の小説にはスパゲティーがよく登場する。
そのなかでゆでられているメンの量は
おそらく慎重にかんがえられたすえに、
おなじ場面でもはっきりちがったあつかいとなっている。
おなじ場面、とは、
短編の『ねじまき鳥と火曜日の女たち』が2つと、
長編の『ねじまき鳥クロニクル』のことだ。
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』をふくらませて
『ねじまき鳥クロニクル』がかかれており、
その導入の部分はほぼおなじものがたりがかたられている。
いずれも「僕」がスパゲティーをゆでているシーンからはじまる。
短篇集『パン屋再襲撃』(文春文庫・1989年4月10日第1刷)におさめられた
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』では
そのとき「僕」がゆでていたのは250グラムのスパゲティーだ。
「僕はラジオの音楽を聴きながら、
その二百五十グラムぶんの麺を一本残さず
ゆっくりと胃の中に送りこんだ」
それが、2005年に発売された短篇集『象の消滅』(新潮社)にはいっている
おなじ『ねじまき鳥と火曜日の女たち』では、
ここがメンの量だけ「百五十グラム」にかわっている。
さらに、『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫・平成9年10月1日発行)では
「そしてガスの火をとめてスパゲティーをざるにあけた。
スパゲティーは電話のせいでアルデンテというには心もち
柔らかくなりすぎていたが、致命的なほどではない」
と、こんどは量についての記述がなくなってしまった。
料理を中心にした小説ではないのだから、
何グラムのスパゲティーをゆでるかまで
ふれるほうがめずらしいだろう。
そこをあえて250グラムとか、150グラムとかの
はっきりした数字をいれたのは
特別な意味をもたせたかったはずだ。
たとえば、30歳の男性は、250グラムという量を
ふつう1度の食事でたべない。
一般的な一人前の量は90グラム程度なので、
250グラムはものすごいおおもりということになる。
それが150グラムとなると、
まだおおいとはいえ
「だいぶお腹がすいていたんだ」
と納得できる量になってくる。
こうしてメンの量をかえることで、
村上春樹はなにをつたえたかったのだろう。
ただ単純に、わかいころは250グラムを平気でたべていたのが、
歳をとって150グラムが適量になった、
というわけではないはずで、
よんでいるほうとしてはすごく気になる。
そして、『ねじまき鳥クロニクル』のように、
ただスパゲティーをたべただけの記述になると、
「僕」がどれだけお腹をすかせていたかは
あまり重要な情報ではなくなったみたいだ。
たくさん出版されているハルキ本の「よみ方」みたいに
数字やことばをいじくりまわして
裏にかくされた秘密をさぐろうとするわけではなく、
ただ単純に、250グラムのスパゲティーをたべる
「僕」の食欲の意味をしりたい。