2013年06月14日

山のくらしのリアリティがすばらしい「ハイジ」

フランクフルトからアルムの山にもどり、
ハイジはひさしぶりにペーターと牧場へでかける。
ハイジが町でのくらしをはなし、
ロッテンマイヤーさんからいつもしかられていたとはなす。

ペーター それで、ハイジは町でなにをしていたの?
ハイジ  うーん、なにもしてなかったみたい。
     ペーターは? ペーターはそのあいだなにをしていたの?
ペーター ぼくはヤギかいだから、まいにち山へヤギとでかけていたよ。

ペーターがいった「ぼくはヤギかいだから」
という説明にわたしはしびれた。
まいにちおなじことのくりかえし。
すきとかきらいとかではなく、自分にあたえられた環境のなかで
なんの疑問ももたずヤギの世話をつづけること。
わたしたちは、自分で仕事や生活をえらぶことができるけれど、
だからといって、だれもがおだやかにくらせるわけではない。
現代を生きるわたしが、ペーターの仕事を
一方的にもちあげたくなるのはなぜだろうか。

おじいさんがふもとの村へおりていき、
自分がつくったチーズをパンと交換する。
つづいて、おじいさんはハイジが
パン屋さんにあずけていたカバンをうけとる。
ハイジについてすこし世間ばなしをし、
お礼をいってわかれる。

「ハイジ」にでてくる山でのくらしは、
ゆったりとしたまいにちのくりかえしがえがかれる。
生活とは、こうしたおちついた日々のつらなりをいうのだ。
もちろんわたしがヤギをかい、
その乳からチーズをつくるくらしをつづけられるわけがない。
ペーターみたいにまいにちヤギとすごしていたら、
町であそびたくてたまらなくなるにきまっている。
でも、「ハイジ」はこうしたやりとりを具体的にしめし、
山でのおちつた生活にリアリティをもたせ、
こういう人生もあるということを
くっきりとみるものにつたえてくれた。

「ムーミン」に登場するスナフキンが、
いつも池で魚つりをしながらすごしているのをみて
おさなかったわたしはそんな生き方があるのかと
すごくひかれたのをおぼえている。
でも、仙人のようではあるけど
そこには生活としてのリアリティがない。
スナフキンからは、つった魚を交換して、とか、
じつは親の遺産がたくさんあって、とかの
具体的な背景がかんじられない。

まいにち牧場へでかけるのはペーターの仕事であり、
のんびりしているようにみえても
ややこしいとりきめだってあるだろう。
環境の変化にもよわそうで、
自分の意思とは関係なく生活がかわっていきそうだ。
どこにいたって生きていくのはかんたんではない。
日本にだって自然をあいてにした仕事はいくらでもある。
それでもただ「となりの芝生」があおくみえたのではなく、
ヤギかいのくらしがひとつの到達点にさえおもわせた。
ペーターやおじいさんの仕事をふくめ、
おちついた山でのくらしにリアリティをもたせ、
しずかにすぎていく時間に魅力をもたせたのが「ハイジ」のすばらしさだ。

posted by カルピス at 10:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする