佐々木正悟さんのブログをみていたら、
ブログのネタ用にメモはつくっておらず、
「思いたっていきなり書き始め」る、とかかれていた。
メモ全般について意味をみとめておられず、
「発想をメモするくらいなら、ブログを書いた方が効率的なのだ。
だから今もこうして書いている。これがメモと言えばメモなのだ」
というかんがえ方をされている。
そして、そういうひとは
「おそらく想像以上に多くいるはずだ」といわれる。
本をかくときにはさすがにメモをつかうそうだけど、
それにしても全面的にたよっているわけではなくて、
「一部の発想を抽出してメモにおさめておいて、
それをもう一度まとめ直すというのは無駄が多い」
というかんんじをもっているという。
佐々木さんが引用されている森博嗣さんの本は、
「僕は、メモというものは一切取らない。
これは、研究でもそうだった。
メモをとろうと思った瞬間に、
つまり、言葉にしようとすることで失われるものが多すぎる。
どうせ最後は言葉にするのだ」
というからさらにすごい。
ブログくらいならとくにメモが必要ないにしても、
ちょっとまとまった量の文章になると、
頭のなかでいじくりまわしているだけでは
なかなかかんがえがまとまらないだろうとおもっていたけど、
ひとによってはまったく問題ないらしい。
仕事術についてかかれたおおくの本は、
メモをとることを基本中の基本みたいにあつかっている。
わたしもそれが当然とおもい、
できるだけメモをとるようにこころがけてきた。
しかしそのメモがなにかにやくだつかというと、
かならずしもそうではないのが残念なところだ。
せいぜいブログのネタくらいにしかならず、
そのメモから壮大な発想をえるなんて
経験したことがない。
これはメモがムダというよりも、
わたしの発想術の未熟さに問題がある。
倉下忠憲さんの『ハイブリッド発想術』には
アイデアをみのらせるよい畑をもつためには、
それなりの準備が必要で、
その準備はつまりメモからはじまる、
というふうなことがかかれていて説得力がある。
こういうのをよむと、メモからのひらめきをいちど体験すれば、
コツがわかってくるような気がする。
なんでもメモに、といっても、それがなかなかむつかしい。
すこしまえに、家のネコが綿ぼこりに鼻をつっこみ、
それが鼻にくっついて志村けんの「ヒゲおじさん」みたいになった。
あ、おもしろい、とすぐにメモしたけど、
いってみればただそれだけのはなしだ。
こんなものに「ネコが苦手なこと」なんて第をつけて保存したときは
さすがにむなしかった。
しかし、ひらきなおっていえば、
トホホ感とチープさに価値をおくわたしなのだから、
こんな「発見」こそメモの対象なのかもしれない。
メモをとらないという手があるななんて、
かんがえてもみなかった。