『ツナグ』(辻村深月・新潮社文庫)
いちどだけ、死んだひととあうことができる。
死んだほうも、生きている側にあえるのはいちどだけだ。
その再会をアレンジしてくれるのが使者(ツナグ)。
あいたいという希望を相手が承諾してくれると、
ホテルの部屋でひとばんをいっしょにすごすことができる。
いちどだけ、という条件があるので、
ツナグにもうしこむときは慎重にならざるをえないし、
そもそもツナグに依頼したからといって、
かならず使者との再会をとりもってくれるとはかぎらない。
じっさいにつながるかどうかはすべて「めぐりあわせ」だ。
ツナグのちからは代々うけつがれていくもので、
18歳の歩美は祖母から後継者となる打診をうける。
5つのはなしからなる連作長編というスタイルで、
ひとつひとつのはなしはたいしてせまってくるわけではない。
それまでによんだふたつの長編
『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』『ぼくのメジャースプーン』にくらべると
ものたりなさをかんじながらも、なんとかよみつづける。
それが、最後の5話でそれまでのものがたりがひとつにまとっていく。
それまでも、連作長編というかたちがいかされて、
みおぼえのある人物がすこしずつ登場するおもしろさがある。
その「すこしずつ」がうまい、とおもってよんでいると、
5話でその全部がつながった。
それまでの個々の依頼と、
歩美がツナグのちからをひきつごうとする背景があきらかになる。
連作というかたちをとりながら、
しらないうちにひとつのものがたりがかたられていたことに気づく。
わたしだったらだれにあいたいか。
1回だけの機会を、わたしのためにつかってくれるのはだれか。
死んでしまったひとにあえるから、
死のかなしみや、そのときのショックがうすらぐかというとそうではない。
死者とあうことによって、あたらしい一歩をふみだせるひともいるし、
それまでよりもっと自分の人生に背おいこむひともいる。
そのひとが、どんな生き方をしてきたかがとわれてくる。
「悔いがない、生き方してね」
事故により、18歳で死んでしまった御園奈津のことばだ。
この言葉にどんな意味がこめられているかは、
御園にあいたいとツナグに依頼した嵐美砂にしかわからない。
嵐をゆるし、これからのながい人生にエールをおくったようにみえて、
嵐がずっと御園の死をわすれられなくするこわい言葉。
死者にあえるからといって、
かんたんにやりなおしができるわけではない。
わたしたちは「悔いがない生き方」をさぐるしかない。
この作品で吉川英治文学新人賞を受賞したときに
辻村深月さんはこうコメントされたそうだ。
「青春時代に色んな本を読む中で、
自分のために書いてもらったと
幸せな勘違いをさせてもらいながら
続けてきた読書体験がある。
今度は、自分の書いた話に誰かが『自分のため』と
幸せな勘違いをしてくれたら、こんなに嬉しいことはない」
これまでによんだ辻村深月さんの3冊はいずれもおもしろかった。
しかし、まだ「自分のため」という
しあわせなかんちがいまでは体験していない。
それをもたらしてくれる力量をかんじさせてくれるので、
これからよんでいく作品とのめぐりあわせをたのしみにしたい。