もう20年くらいまえに、
小学校のプールが夏やすみには一般にも開放されていたので
友だちとおよぎにでかけた。
でも、プールは帽子をかぶることがきまりになっていて、
あいにくわたしはそのとき帽子をもってなかった。
けっこうとおいところからそのプールにきたので、
できればなんとかおよがせてもらいたいところだ。
そうしたら、「んー」とプール監視の先生(男性)はすこしかんがえ、
「髪の毛がぬけないように注意しておよいでください」といって
帽子なしでプールにはいるのをゆるしてくれた。
もちろん髪の毛がぬけないように注意しながらおよげるわけがない。
でも、何本ぬけたかもまたはっきりはわかることではない。
「帽子がないとダメです」とはねつけるのではなく、
条件をつけておよぐのをゆるしてくれた
先生の機転をすばらしいとおもった。
「わかりました」とわたしはこたえ、
髪の毛がぬけないように注意しながら
水泳をたのしむことができた。
まだプールでは帽子、というルールが
そんなに徹底していないころのはなしだ。
なんでもこんなふうにゆるやかだったらいいのに、とおもう。
はじまりのころは、たいていこんなふうにルールなんてほとんどなく、
スキマだらけの状態なのに、
つづけているうちに「前例」とか「常識」とかがくっついてきて、
きゅうくつな運用になってくる。
あるべき姿とか、なにが期待できるか、とか、
合理的・論理的にものごとをおっかけていると、
いろんなものがぬけおちて、たのしくなくなっていく。
目にみえる目標の設定や、原因と結果の把握に注目するだけでなく、
なんだかしらないけどこうなっていた、という
「たまたま」や「なりゆき」から生まれおちるものも大切にしたい。
けっきょく「もっとあそびを」ということなのかもしれない。
自由は注意しないと、すぐに不自由になってしまう。
あの先生は、いまもゆるやかな方針でお仕事をされているだろうか。
わたしもできるだけこまかいことはいわず、
「髪の毛がぬけないように」という精神でのぞみたい。