『レイヤー化する世界』(佐々木俊尚・NHK出版新書)
世界はいまあたらしいシステムの時代にはいろうとしている。
中世はローマ帝国やイスラム帝国といった、
帝国の時代だった。
やがてヨーロッパの国々がちからをつけ、
民主主義が世界システムとなる。
しかし、民主主義は人類のしくみの到達点ではない。
「ヨーロッパという特殊な地域で起きた特殊なシステムが、
ちょっとした偶然で世界に普及してしまっただけのことです。
世界中の人たちにとっての
最善で最高のシステムというわけではないのです」
そして、いまきずかれつつあるシステムは、
コンピューターとインターネットによるものだ。
本書は、これからやってくる世界について、
「場」と「レイヤー」という概念をもちこんで
とてもわかりやすく説明されている。
パソコンとインターネットというテクノロジーは
ひとつの「場」のようなものをつくる。
「場」はまず音楽業界をのみこみ、
書籍や映像へとひろがっている。
自動車もガソリンエンジンからモーターへとかわり、
ソフトウェアによるコントロールになると、
車づくりはおおきくかわっていくといわれている。
政府や自治体も「場」へ移行していく。
「場」に境目はなく、どこまでもつづくひとつの世界だ。
「いまや、国民国家のなかで全員が同じ好みを共有するという文化が
ほとんどなくなってきています。(中略)
だれもが読む本、だれもが観るテレビ番組なんて
もはや存在しません。
そうなると、自分が本当に好きなものをつくって、
それを少しの人たちに買ってもらえばいいいと考える人たちも現れてきます。
数百万人に売るのではなく、数千人、数百人に
売れればいいということなのです」
国ごとの市場はなくなり、国際市場がひとつあるだけ、
という構造になりつつある。
労働力のやすいところでものがつくられ
仕事がうけおわれていく。
日本のテレビメーカーの不振はそのひとつのあわわれだ。
いまやテレビだけでなく、おおくの製品のつくり方がかわってしまった。
「部品は世界中のメーカーがつくり、
組み立ても世界中のあちこちで行なわれています」
それがすすんでいくと、おなじ仕事については
やがては世界中の国々がおなじ給料となる。
そして、そのさきはロボット化だ。
かいもの市場はオンラインショッピングが成長し、
だれもがインターネットでかいものをすませるようになる。
これからアマゾンの倉庫で必要とされるのは、
ベルトコンベアーをながれてきた商品をつかみ、
べつの箱にいれる、という単純作業をするロボットだ。
そのロボットさえあれば倉庫ではたらく人間は
ますますすくなくなる。
そうしたときに、「ロボットが普及すれば人間は知的労働を」
というのは幻想なのだそうだ。
「ロボットにできないような知的な仕事のできる人は限られて」おり、
「たいていの人にはそんな知的な仕事はできず、
ロボットの普及で仕事を奪われて終わるだけ、
というのが冷酷な未来像」という。
「巨大工場が衰退して『場』が台頭してくると、
巨大工場で働いていた人たちの多くは
行き場がなくなってしまいます。
『場』を運営するのには、
ほんのわずかなの人間しか必要ないからです。
その汰のすべての人びとは、『場』を運営するのではなく、
いずれは『場』に参加する側に回るしかありません(中略)
まったくお先まっくらにみえる世界だけど、
そんな世界は、これまでの強者と弱者が逆転する世界でもある。
著者は「レイヤー」という、いくつもの層をかさねあわせたもの
という概念をもちこみ、
「場」の時代で生きのびていく2つの戦略をあげている。
・それぞれのレイヤーごとに他者とつながり、
そのさまざまなつながりの総体として自分をつくりあげていく
・「場」による収奪を承知のうえで、「場」のテクノロジーを利用していく
本のさいごに
「非正規雇用の中年女性」
「ネット中毒のひきこもり」
「地方の工場で働く若者」
という3人を例にあげ、
さまざまなレイヤーで世界とつながる生き方が紹介されている。
レイヤー化された世界は、
「形のはっきりしない大きなネットワークのようなものです。
だれも覇権を奪えないけれど、
だれもが覇権に参加している。
そういうアメーバみたいな姿が、世界の未来なのです」
レイヤーでさまざまなつながりをもちながら、
自分なりにすきなことをやればいいようだ。
「場」による世界をくらい未来とみても、
もはやあともどりするわけではない。
「場」のなかでレイヤーをいかしながら
自分にたのしい環境をつくっていくしかない。
(おしまいに)
本書はとてもおもしろくよめたけれど、
梅棹忠夫さんファンのわたしからすれば、
帝国の時代やその衰退についてふれるとき、
梅棹さんの学説をまったくとりあげない姿勢は
リスペクトの精神にかけるとおもう。
参考文献のリストにも梅棹さんの著作はあげられていない。
また、著者は「ひとつの民族がつくったひとつの国」として、
帝国以後の国々をとらえている。
しかし、ひとつの民族による国などほとんどないからこそ、
世界中でいつまでたっても民族問題がなくならないのではないか。
中国にしてもソ連にしても、ヨーロッパの国々にしても、
おなじ国に複数の民族をかかえている。
それをあえて「ひとつの民族がつくったひとつの国」と
きりすててとらえることに抵抗をかんじた。