『ロードムービー』(辻村深月・講談社文庫)
小学校5年生のトシとワタルは2人で家出の旅にでる。
理由ははじめあかされない。
よみすすめるうちに、クラスのリーダー格、アカリに
ワタルがきらわれており、
そのアキラとなかよくするトシも、
クラスのいじめにまきこまれていることがわかってくる。
だんだんと自分のたちばがあやうくなっていく過程が、
学級委員長と生徒会長という2つの選挙をつうじてえがかれる。
学級委員長選までは、まさか自分が
そんなにクラスで相手にされていないなんておもいもしない。
それが、得票はトシ自身とワタルがいれた2票だけで、
あとはぜんぶアカリにとられてしまった。
「自分のクラスにこんないじめめいた
嫌がらせが存在するということに対する驚きもだけど、
その標的が他ならぬトシだということに対する驚きも
多分に含まれている」
2人はある理由からどうしても家出をしなければならなかった。
家出は生徒会長選のあとにおこなわれており、
選挙の結果はあきらかにされていない。
家出さきからトシは家に電話をかける。
目的は1千万円を要求することだ。
「払わないと、あんたの子どもはずっと家に帰ってこない。
安全の保障はでいないよ」
最後にアッとおどろく結末がかくされているが、
おどろきがあるだけで、とくに必要な設定ではない。
ラストまでひっぱってご苦労様だけど、
「やられた」という爽快感よりも
そんなことをしてまで意表をつきたいか、
とちょっと興ざめがした。
トシはトシでよかったとわたしはおもう。
「ロードムービー」というジャンルがわたしはすきで、
そのなかでも家出がからんでくるとますます身につまされる。
切実に打開策をねり、自分のちからでなんとかやっていこうとした場合、
子どもだと、どうしても家出という形になってしまうのだろう。
小学生には小学生なりの、そして中学生にはまたそれなりの家出があり、
トシとワタルは小学生のリアリティのなかで
よくたたかったといえる。
『ロードムービー』はこの表題作のほか
4編がおさめられており、どれもそれぞれよませる。
『トーキョー語り』では、中学校でのいじめがでてきて、
それまでクラスで地味な存在だった遠山さんという女の子が
かっこよく解決にのりだしてくる。
百人一首でクラスのボスを
圧倒的にまかしたときのすてゼリフがきまっていた。
「こういう遊びの時にはねー。
『自分が本当に気に入ってる歌を一つか二つ取って、
あとは黙ってスルーしておくべきよ。
中途半端な丸暗記じゃなくて、本当に好きなら』」
ここからは別の本についてのやつあたりとなる。
「新潮文庫の100冊」にえらばれた本をなんにちかまえによみはじめた。
新潮社の企画というよりも、ラジオの番組で書店につとめるひとが
おもしろそうに紹介していたのが記憶にのこった。
その作家はこれまでも話題作をいくつもかいているし
(まだよんだことがないけど)、
そんなにおもしろいというなら、とたのしみによみはじめると・・・
いつまでたってもはなしにひきこまれない。
そのうちおもしろくなるだろう、と我慢してページをめくるが、
84ページまできたところでとうとうなげだしてしまった。
これをおもしろいとおもってかく作家と、
それをおもしろいとおもってよむ読者は、
わたしには縁のない世界のひとだ。
男性作家・女性作家という区別はしたくないけれど、
ますます男はだめだなーといいたくなる一冊。
そんな本を「100冊」にえらぶなんて
新潮社にはどんな意図があったのだろう。
わたしはこの本の失敗によって、
当分は(かなりながい期間になるだろう)この作者の本に
手をださないだろう。
「100冊」をえらぶ出版社は、
ながきにわたるつよい影響をしっかりと自覚し、
本当にすぐれた本を100冊おしえていただきたい。
とりあえずわかい読者をふやしそうだから、という
その場しのぎの選択はあまりにもキケンだ。
くちなおしに角田光代の未読本をひっぱりだした。
2013年07月31日
2013年07月30日
ヒロシの『とことんやさぐれ・ふてくされソング』がおわってしまった
夕方6時からのNHK-FMで
ヒロシの『とことんやさぐれ・ふてくされソング』
というのをやっていた。
「やっていた」というのは、今週から別の番組、
香山リカさんが担当する『とことんYMOとその界隈』にかわったからで、
この時間帯はよく番組がかわるから、きゅうな変更に
もしかしたらたいした意味はないかもしれない。
「ヒロシ」は、あの「ヒロシです」の「ヒロシ」で、
いったん有名になり、そしてまたしずんでしまった芸人として、
ひらきなおったコメントがときどきちりばめられる。
いまはけして陽がさしていないヒロシが、
「とことんやさぐれ」て、
「ふてくされ」た曲をえらぶというところに
おもしろみがある企画なのだろう。
『とことんやさぐれ・ふてくされソング』といったって、
べつにそう「やさぐれ」てたり
「ふてくされ」てたりする曲ばかりが紹介されるわけではなく
(おもてだって「やさぐれ」てる曲って、どんなのがあるだろう)、
ただの番組名にすぎないのだけど、
この放送をきいていると、
ヒロシがあまり音楽に「ひろく・あかるく」はないことに気づいてしまう。
曲をかけておいて、その感想に
はじめてきいたようなことをいうので、
いったいなぜこの曲をえらんだのか不思議になってくる。
いちどヒロシがむかしよくきいていた、
という曲ばかりをかけたときがあり、
あまりにもわたしのこのみとちがうので
さすがについていけなくてべつの番組にかえた。
ひかえめにいっても、きわめてマイナー路線にこのみがかたよっている。
もしかしたら、ヒロシは音楽番組にむかないのかもしれない。
『とことんやさぐれ・ふてくされソング』
のまえは『とことん同名異曲』という、
おなじ曲名のうたをあつめた番組だった。
おなじ曲名だからといって、なにか特別な意味がうまれるかというと
そういうわけでもなく、
なんだかもっともらしいそうだから、
とりあえずやってみるか、という
楽屋うらがみえるような企画だ。
さすがにヒロシもくるしそうだった。
これらの番組の、そのいいかげんさがわたしはきらいではなく、
ちからがぬけた、というか、
ぜんぜん工夫のない番組構成のぬるま湯にひたり、
それはそれでたのしんでいた。
なによりも曲のはじめからおわりまで
カットしないできかせてくれるので
たまにいい曲がかかると(そんなときは3曲ぐらいつづけてかかるので)
純粋に音楽をきける番組としての価値はたかかった。
きのうからはじまった
香山リカさんの『のとことんYMOとその界隈』は、
香山リカさんのYMOずきがつよくつたわってきて、
好感のもてる番組となっている。
わかいころYMOの音楽にであったときの興奮をおもいだしながら、
YMOの結成以前にさかのぼって彼らの音楽的ルーツを紹介している。
香山さんの気もちのはいったはなし方は
あつからず、ぬるからず、適度にバランスがたもたれていて、
こちらもはやくつぎの曲をききたくなってくる。
はやいはなし、対象へのせまり方がヒロシとぜんぜんちがうのだ。
まあ、ほとんどの番組がそういうスタイルでやってるわけで、
そうでないヒロシがめずらしいともいえる。
『とことんYMOとその界隈』をきき、
いい番組がはじまった、とおもいつつも、
まるでくらべものにならないヒロシの番組のことをおもう。
『とことんYMOとその界隈』のあとに、
またヒロシの番組がかえってくるだろうか。
いちどは「うれた」芸人として、
でもいまはずいぶん底のほうにきてしまったさみしさを、
ついぼそっとつぶやいてしまうヒロシ。
自分こそ「とことんやさぐれ・ふてくされ」たいだろうに、
諦念とでもいえるかわいた心境にたっしたヒロシ。
仕事があるだけありがたい、といわんばかりに、
こうやって番組を担当しているヒロシが
わたしはあんがいすきだ。
ヒロシの『とことんやさぐれ・ふてくされソング』
というのをやっていた。
「やっていた」というのは、今週から別の番組、
香山リカさんが担当する『とことんYMOとその界隈』にかわったからで、
この時間帯はよく番組がかわるから、きゅうな変更に
もしかしたらたいした意味はないかもしれない。
「ヒロシ」は、あの「ヒロシです」の「ヒロシ」で、
いったん有名になり、そしてまたしずんでしまった芸人として、
ひらきなおったコメントがときどきちりばめられる。
いまはけして陽がさしていないヒロシが、
「とことんやさぐれ」て、
「ふてくされ」た曲をえらぶというところに
おもしろみがある企画なのだろう。
『とことんやさぐれ・ふてくされソング』といったって、
べつにそう「やさぐれ」てたり
「ふてくされ」てたりする曲ばかりが紹介されるわけではなく
(おもてだって「やさぐれ」てる曲って、どんなのがあるだろう)、
ただの番組名にすぎないのだけど、
この放送をきいていると、
ヒロシがあまり音楽に「ひろく・あかるく」はないことに気づいてしまう。
曲をかけておいて、その感想に
はじめてきいたようなことをいうので、
いったいなぜこの曲をえらんだのか不思議になってくる。
いちどヒロシがむかしよくきいていた、
という曲ばかりをかけたときがあり、
あまりにもわたしのこのみとちがうので
さすがについていけなくてべつの番組にかえた。
ひかえめにいっても、きわめてマイナー路線にこのみがかたよっている。
もしかしたら、ヒロシは音楽番組にむかないのかもしれない。
『とことんやさぐれ・ふてくされソング』
のまえは『とことん同名異曲』という、
おなじ曲名のうたをあつめた番組だった。
おなじ曲名だからといって、なにか特別な意味がうまれるかというと
そういうわけでもなく、
なんだかもっともらしいそうだから、
とりあえずやってみるか、という
楽屋うらがみえるような企画だ。
さすがにヒロシもくるしそうだった。
これらの番組の、そのいいかげんさがわたしはきらいではなく、
ちからがぬけた、というか、
ぜんぜん工夫のない番組構成のぬるま湯にひたり、
それはそれでたのしんでいた。
なによりも曲のはじめからおわりまで
カットしないできかせてくれるので
たまにいい曲がかかると(そんなときは3曲ぐらいつづけてかかるので)
純粋に音楽をきける番組としての価値はたかかった。
きのうからはじまった
香山リカさんの『のとことんYMOとその界隈』は、
香山リカさんのYMOずきがつよくつたわってきて、
好感のもてる番組となっている。
わかいころYMOの音楽にであったときの興奮をおもいだしながら、
YMOの結成以前にさかのぼって彼らの音楽的ルーツを紹介している。
香山さんの気もちのはいったはなし方は
あつからず、ぬるからず、適度にバランスがたもたれていて、
こちらもはやくつぎの曲をききたくなってくる。
はやいはなし、対象へのせまり方がヒロシとぜんぜんちがうのだ。
まあ、ほとんどの番組がそういうスタイルでやってるわけで、
そうでないヒロシがめずらしいともいえる。
『とことんYMOとその界隈』をきき、
いい番組がはじまった、とおもいつつも、
まるでくらべものにならないヒロシの番組のことをおもう。
『とことんYMOとその界隈』のあとに、
またヒロシの番組がかえってくるだろうか。
いちどは「うれた」芸人として、
でもいまはずいぶん底のほうにきてしまったさみしさを、
ついぼそっとつぶやいてしまうヒロシ。
自分こそ「とことんやさぐれ・ふてくされ」たいだろうに、
諦念とでもいえるかわいた心境にたっしたヒロシ。
仕事があるだけありがたい、といわんばかりに、
こうやって番組を担当しているヒロシが
わたしはあんがいすきだ。
2013年07月29日
男子東アジア杯日本対韓国 おおきな収穫をこれからどう生かしていくか
男子東アジア杯日本対韓国
とくに韓国のプレッシャーがきびしいわけではないのに、
日本はルーズボールがまるでおさまらない。
おもしろいように(おもしろいわけないけど)
韓国へ韓国へとボールがながれていく。
この試合で、ゴールキーパーの西川は全部ロングボールをけっていた。
下からつないでせめあがる、というのはいちどもなく、
ロングボールをいれてはセカンドボールをひろわれていた。
なんだか相手にボールをプレゼントしてるような攻撃だった。
スローイングもうまくいかず、
おおくを韓国にうばわれている。
パスをつなごうとするのは韓国のほうで、
日本はせっかくボーリうをうばっても、
あわてて前におくってはうばわれる。
試合のながれがなかなか日本にこない。
よくあれだけせめつづけられて、1失点におわったものだ。
ポゼッション率は4:6以上で韓国だったのではないか。
1-1のまま後半ロスタイムへ。
ひきわけが頭をかすめたときに、
原口が左サイドからぬけだし、強烈なシュートをはなつ。
ゴールキーパーがはじいたところを柿谷がおちついてボレーをきめる。
ロスタイムは5分とながく、
そのあとも韓国がたてつづけにコーナーキックをあびせてくる。
レフリーが韓国よりで、90分をとおしてなんども不可解な判定がくだされた。
それでも日本の選手たちはくさらずに
冷静に試合をすすめていく。
栗原がたのもしくたちはだかったし、
豊田のつよさが、ディフェンダーとしてもきいていた。
ただ、クリアーが精一杯で、とてもつないでせめあがる余裕はない。
柿谷のあげた2点は、そんななかの、
ほんとうに数すくないチャンスをいかしたことになる。
決定力不足の日本としては、
ほしくてたまらなかった強力な決定力だ。
ずっと守備におわれていた原口は、
さぞドリブルでかけあがりたかったことだろう。
前半はまったく攻撃のチャンスがなく、
後半もドリブルにもちこめたのは2回だけだ。
さいごに、シュートこそキーパーにふせがれたが、
原口らしいうごきで得点にからむことができた。
この試合にかったことで、日本は東アジア杯ではじめての優勝を手にした。
さすがにどの選手もうれしそうだ。
海外組にたよらなくても、
オーストラリア、それに韓国にかつことができき、
優勝という結果さえ得たのだ。
6失点したとはいえ、8得点をあげられたのはおおきな収穫だった。
得点王となった柿谷や、大会MVPにえらばれた山口蛍だけでなく、
キレのあるドリブルと決定力が印象にのこった斉藤学、
2得点をあげた大迫、ポストプレーや守備への貢献がひかった豊田や
その豊田へ的確なパスをおくりつづけた山田大記など、
おおくの選手が期待どうりの活躍をみせてくれた。
原口のたたかう姿勢にあふれたプレーもだいすきだ。
優勝という結果をあげることができ、
ザッケローニ監督もしばらくは雑音になやまされることなく
仕事に専念できるだろう。
予想外のゆたかな収穫を監督がどういかしていくのか、
これからの代表戦がたのしみになってきた。
とくに韓国のプレッシャーがきびしいわけではないのに、
日本はルーズボールがまるでおさまらない。
おもしろいように(おもしろいわけないけど)
韓国へ韓国へとボールがながれていく。
この試合で、ゴールキーパーの西川は全部ロングボールをけっていた。
下からつないでせめあがる、というのはいちどもなく、
ロングボールをいれてはセカンドボールをひろわれていた。
なんだか相手にボールをプレゼントしてるような攻撃だった。
スローイングもうまくいかず、
おおくを韓国にうばわれている。
パスをつなごうとするのは韓国のほうで、
日本はせっかくボーリうをうばっても、
あわてて前におくってはうばわれる。
試合のながれがなかなか日本にこない。
よくあれだけせめつづけられて、1失点におわったものだ。
ポゼッション率は4:6以上で韓国だったのではないか。
1-1のまま後半ロスタイムへ。
ひきわけが頭をかすめたときに、
原口が左サイドからぬけだし、強烈なシュートをはなつ。
ゴールキーパーがはじいたところを柿谷がおちついてボレーをきめる。
ロスタイムは5分とながく、
そのあとも韓国がたてつづけにコーナーキックをあびせてくる。
レフリーが韓国よりで、90分をとおしてなんども不可解な判定がくだされた。
それでも日本の選手たちはくさらずに
冷静に試合をすすめていく。
栗原がたのもしくたちはだかったし、
豊田のつよさが、ディフェンダーとしてもきいていた。
ただ、クリアーが精一杯で、とてもつないでせめあがる余裕はない。
柿谷のあげた2点は、そんななかの、
ほんとうに数すくないチャンスをいかしたことになる。
決定力不足の日本としては、
ほしくてたまらなかった強力な決定力だ。
ずっと守備におわれていた原口は、
さぞドリブルでかけあがりたかったことだろう。
前半はまったく攻撃のチャンスがなく、
後半もドリブルにもちこめたのは2回だけだ。
さいごに、シュートこそキーパーにふせがれたが、
原口らしいうごきで得点にからむことができた。
この試合にかったことで、日本は東アジア杯ではじめての優勝を手にした。
さすがにどの選手もうれしそうだ。
海外組にたよらなくても、
オーストラリア、それに韓国にかつことができき、
優勝という結果さえ得たのだ。
6失点したとはいえ、8得点をあげられたのはおおきな収穫だった。
得点王となった柿谷や、大会MVPにえらばれた山口蛍だけでなく、
キレのあるドリブルと決定力が印象にのこった斉藤学、
2得点をあげた大迫、ポストプレーや守備への貢献がひかった豊田や
その豊田へ的確なパスをおくりつづけた山田大記など、
おおくの選手が期待どうりの活躍をみせてくれた。
原口のたたかう姿勢にあふれたプレーもだいすきだ。
優勝という結果をあげることができ、
ザッケローニ監督もしばらくは雑音になやまされることなく
仕事に専念できるだろう。
予想外のゆたかな収穫を監督がどういかしていくのか、
これからの代表戦がたのしみになってきた。
2013年07月28日
失業者だった2年前に、わたしはなにをしてすごしていたか
2年まえのいまごろは仕事をやめた直後で、
失業保険の手つづきをしながら家でぶらぶらしていた。
いったい毎日なにをしていたんだろうと、
当時の日記をよみかえしてみた。
事務の仕事だけはうけおいの形でつづけており、
ときどきまえの職場に顔をだしながら、
ほぼ毎日のトレーニングと、コパアメリカを中心にしたサッカー、
映画もときどきと、すごく充実したようすが
しるされている。
基本的にいそがしそうな毎日だ。
仕事をやめたとき、どこにも所属していないこころもとなさと、
これからどうするのかという「あせり」がわいてきて、
おちつかない精神状態になるといわれている。
わたしの場合は、まえの職場と完全にきれていたわけではないので、
さみしい気もちにはならなかったし、
配偶者が常勤職員としてはたらいているので、
いざとなったら扶養してもらうというにげ道があった。
そんなのがあるからいつまでもハンパなことしかできないのだろう。
でも、そういう人生でもいい、というひらきなおりがわたしにはあった。
2年前の日記をよみかえしてみると、
われながらよく運動をし、よくあそんでいる。
主夫でもあるから夕ごはんも毎日つくっている。
こんな毎日がつづいたら、という
うらやましくなるような生活を、
わたしは2年前にさきどりしてすごしていたのだ。
そして、それはたしかに「しあわせ」な生活だったようにおもう。
日記をよみかえさないかぎり、なにをしていたのか
いまではほとんどおぼえていない。
なにか柱になるものがないと、
どこまでもダラダラしてしまい、リズムがつくりにくいので、
あえて毎日の運動をとりいていたような気もする。
とにかくこれはわたしが理想とする生活だ。
8月の下旬には、被災地へのボランティアにでかけたし、
9月にはアンコール遺跡群とベトナムへの旅行にいっている。
そんな生活をおよそ1年間おくったときに、
いまの仕事(放課後等デイサービス)を
いっしょにはじめないかと声をかけられた。
完全な失業者としての期間は、
だから1年しかつづかなかったことになる。
あのまま主夫をしていたら、いまごろどうなっていただろう。
なにか仕事をはじめたくなっていたのか、
ズルズルと居心地のよさにひたってぬけだせなくなっていたのか
興味ぶかいところだ。
なんだかんだいいながら、そうした生活を手ばなしてしまったのだから、
あたらしいうごきをはじめたい気になっていたのだろう。
村上春樹の小説なら第2章にさしかかり、
いつのまにか事件にまきこまれていくところだけど、
わたしの平凡な人生にはそんなおおきな変化はおとずれない。
人生というのは、かわりそうでいて、
あんがいかわらないもので、
かえようとする意思がなければ「ながい休暇」でおわってしまう。
まっているだけであたらしい展開がはじまるのは
本や映画のはなしくらいだろう。
それでもいい、とわたしはおもってるけど。
失業保険の手つづきをしながら家でぶらぶらしていた。
いったい毎日なにをしていたんだろうと、
当時の日記をよみかえしてみた。
事務の仕事だけはうけおいの形でつづけており、
ときどきまえの職場に顔をだしながら、
ほぼ毎日のトレーニングと、コパアメリカを中心にしたサッカー、
映画もときどきと、すごく充実したようすが
しるされている。
基本的にいそがしそうな毎日だ。
仕事をやめたとき、どこにも所属していないこころもとなさと、
これからどうするのかという「あせり」がわいてきて、
おちつかない精神状態になるといわれている。
わたしの場合は、まえの職場と完全にきれていたわけではないので、
さみしい気もちにはならなかったし、
配偶者が常勤職員としてはたらいているので、
いざとなったら扶養してもらうというにげ道があった。
そんなのがあるからいつまでもハンパなことしかできないのだろう。
でも、そういう人生でもいい、というひらきなおりがわたしにはあった。
2年前の日記をよみかえしてみると、
われながらよく運動をし、よくあそんでいる。
主夫でもあるから夕ごはんも毎日つくっている。
こんな毎日がつづいたら、という
うらやましくなるような生活を、
わたしは2年前にさきどりしてすごしていたのだ。
そして、それはたしかに「しあわせ」な生活だったようにおもう。
日記をよみかえさないかぎり、なにをしていたのか
いまではほとんどおぼえていない。
なにか柱になるものがないと、
どこまでもダラダラしてしまい、リズムがつくりにくいので、
あえて毎日の運動をとりいていたような気もする。
とにかくこれはわたしが理想とする生活だ。
8月の下旬には、被災地へのボランティアにでかけたし、
9月にはアンコール遺跡群とベトナムへの旅行にいっている。
そんな生活をおよそ1年間おくったときに、
いまの仕事(放課後等デイサービス)を
いっしょにはじめないかと声をかけられた。
完全な失業者としての期間は、
だから1年しかつづかなかったことになる。
あのまま主夫をしていたら、いまごろどうなっていただろう。
なにか仕事をはじめたくなっていたのか、
ズルズルと居心地のよさにひたってぬけだせなくなっていたのか
興味ぶかいところだ。
なんだかんだいいながら、そうした生活を手ばなしてしまったのだから、
あたらしいうごきをはじめたい気になっていたのだろう。
村上春樹の小説なら第2章にさしかかり、
いつのまにか事件にまきこまれていくところだけど、
わたしの平凡な人生にはそんなおおきな変化はおとずれない。
人生というのは、かわりそうでいて、
あんがいかわらないもので、
かえようとする意思がなければ「ながい休暇」でおわってしまう。
まっているだけであたらしい展開がはじまるのは
本や映画のはなしくらいだろう。
それでもいい、とわたしはおもってるけど。
2013年07月27日
女子東アジア杯日本対韓国 反撃がおそすぎて1-2とやぶれる
女子東アジア杯日本対韓国。
日本はかてば優勝という位置につけている。
いっぽうの韓国はグループ4位で、
優勝の可能性はない。
しかし、男子同様に、日本戦にたいする意識はたかそうだ。
日本はまえの試合の北朝鮮戦から中1日ということで、
コンディションがくるしいのか
ゲームへのはいりかたがうまくいかない。
ルーズボールは全部韓国にうばわれるし、
パスがなかなかつながらず、攻撃のかたちができない。
前半14分に、チ=ソヨンがフリーキックをきめて先制をゆるす。
これはけったチ=ソヨンをほめるしかないプレーだった。
しかし、そのあとも日本はパスミスがおおく、
なんども韓国のカウンターをゆるしていた。
いつまでも自分たちのリズムをつくれない。
後半は田中にかわって阪口がはいる。
中1日ということで、阪口と大野はベンチスタートだった。
阪口はおちついてボールをちらし、
日本がボールをもてるようになる。
前半にくらべてあきらかにパスがつながるが、
シュートまではせまれない。
21分に、カウンターからチ=ソヨンに2点目をきめられてしまう。
日本の反撃はここからやっとはじまった。
宮間が選手たちをおしあげ、ぶあついせめでゴールにせまる。
28分には、クロスバーやディフェンダーにはばまれながら、
なんとか大儀見がきめて1-2へ。
そのあともせめつづけるものの、のこされた時間はすくなく、
けっきょくそのまま試合終了。
大会3連覇をのがすこととなった。
もうすこしはやくせめはじめていたら、という試合で、
内容からいえば1-2はしかたないところだろう。
ひさしぶりにみた女子サッカーは、
とくに前半はまったくパスをつなぐことができず、
くるしい内容だった。
このサッカーでは、どのチームとやっても苦戦するだろう。
以前からのメンバーだよりなのもあいかわらずで、
先発した田中・中島・岩渕はいきていなかったし、
かわってはいった菅澤もスピードのないプレーしかできず、
迫力のある攻撃とはならなかった。
後半のさいしょからはいった阪口の
おちついたプレーがとくに印象にのこる。
阪口はうしろからみると髪の色が左右でわかれており、
はじめはギョッとしたけど、
みなれてくると彼女の意思のつよさがかんじられ、
阪口らしくてクールだとおもいはじめる。
攻撃にもさかんに参加するし、いつもたよりになるだいすきな選手だ。
きょねんの夏は、ロンドンオリンピックの決勝でアメリカにやぶれ、
でも表彰式ではとびきりの笑顔をみせてくれたことをおもいだす。
そして佐々木則夫監督が秋移行もつづけて指揮をとることになり、
あたらしいスタートをきった。
それから1年たち、きょうの試合をみたところでは、
いまのところめざすべきサッカーを
確認できずにいるようにみえる。
あすおこなわれる男子の韓国戦がたのしみになってきた。
日本はかてば優勝という位置につけている。
いっぽうの韓国はグループ4位で、
優勝の可能性はない。
しかし、男子同様に、日本戦にたいする意識はたかそうだ。
日本はまえの試合の北朝鮮戦から中1日ということで、
コンディションがくるしいのか
ゲームへのはいりかたがうまくいかない。
ルーズボールは全部韓国にうばわれるし、
パスがなかなかつながらず、攻撃のかたちができない。
前半14分に、チ=ソヨンがフリーキックをきめて先制をゆるす。
これはけったチ=ソヨンをほめるしかないプレーだった。
しかし、そのあとも日本はパスミスがおおく、
なんども韓国のカウンターをゆるしていた。
いつまでも自分たちのリズムをつくれない。
後半は田中にかわって阪口がはいる。
中1日ということで、阪口と大野はベンチスタートだった。
阪口はおちついてボールをちらし、
日本がボールをもてるようになる。
前半にくらべてあきらかにパスがつながるが、
シュートまではせまれない。
21分に、カウンターからチ=ソヨンに2点目をきめられてしまう。
日本の反撃はここからやっとはじまった。
宮間が選手たちをおしあげ、ぶあついせめでゴールにせまる。
28分には、クロスバーやディフェンダーにはばまれながら、
なんとか大儀見がきめて1-2へ。
そのあともせめつづけるものの、のこされた時間はすくなく、
けっきょくそのまま試合終了。
大会3連覇をのがすこととなった。
もうすこしはやくせめはじめていたら、という試合で、
内容からいえば1-2はしかたないところだろう。
ひさしぶりにみた女子サッカーは、
とくに前半はまったくパスをつなぐことができず、
くるしい内容だった。
このサッカーでは、どのチームとやっても苦戦するだろう。
以前からのメンバーだよりなのもあいかわらずで、
先発した田中・中島・岩渕はいきていなかったし、
かわってはいった菅澤もスピードのないプレーしかできず、
迫力のある攻撃とはならなかった。
後半のさいしょからはいった阪口の
おちついたプレーがとくに印象にのこる。
阪口はうしろからみると髪の色が左右でわかれており、
はじめはギョッとしたけど、
みなれてくると彼女の意思のつよさがかんじられ、
阪口らしくてクールだとおもいはじめる。
攻撃にもさかんに参加するし、いつもたよりになるだいすきな選手だ。
きょねんの夏は、ロンドンオリンピックの決勝でアメリカにやぶれ、
でも表彰式ではとびきりの笑顔をみせてくれたことをおもいだす。
そして佐々木則夫監督が秋移行もつづけて指揮をとることになり、
あたらしいスタートをきった。
それから1年たち、きょうの試合をみたところでは、
いまのところめざすべきサッカーを
確認できずにいるようにみえる。
あすおこなわれる男子の韓国戦がたのしみになってきた。
2013年07月26日
「恐怖の夏やすみ」のはずが、あんがいなんとかなっていることについて
夏やすみがはじまり、最初の1週間がすぎた。
いつもは放課後の3〜4時間をピピですごすだけだけど、
やすみちゅうは9時から6時までと、9時間のながい活動時間となる。
戦々恐々、というと利用者に失礼だけど、いったいどうなることかと、
ずいぶん心配して夏やすみをむかえたものだ。
時間のながさだけでなく、いちにちの利用人数もおおい。
これまではいちにち平均9人程度だったのに、
夏やすみちゅうは12人をこえている。
ピピの定員は10名なので、この平均12人というのは
利用人数をオーバーしていることになる。
利用調整をしてかなりしぼっても、
ことわりきれずにこういう利用予定になってしまった。
それが、はじまってみると、
これまでのところぜんぜん大変ではない。
時間がながいだけで、基本的にはいつもとおなじようなながれで
子どもたちはピピですごしている。
春やすみにくらべ、スケジュールでうごけるようになっているので、
スタッフがいちいち活動をうながさなくても
ながれがとどこおることがすくなった。
なによりも、ピピにあるおもちゃをつかって、
自分なりに工夫しながらあそべるようになったことがおおきい。
自分ひとりで、あるいは友だちといっしょに、
やりたいあそびに没頭している場面がおおくなった。
スタッフがいっしょにつきそわなければあそべない、というのでは、
子どもひとりにスタッフがひとり必要になってしまうけど、
いまみたいに子どもたちどうしであそびに熱中できれば
わたしたちのうごきはずいぶん楽になる。
職員がなまけているわけではなく、
そういうながれをつくるのが職員の仕事であり、
それがある程度うまくいったから
いまのような状態になったといえる。
究極的には、スタッフはみまもってるだけで、
子どもたちがかってにあそびまくっている、
という事業所をわたしたちは目ざしており、
その成果をこんなにもはやく実感できたのはうれしかった。
おおい日で14人の利用があったのに、
わたしはほとんどすることがなく、
2階の事務室でひとりしずかにお弁当をたべた。
わたしが夏やすみの準備としてちからをいれたのは利用調整だけで、
あとは優秀なスタッフがテキパキとしたうごきで支援にあたってくれる。
わたしの仕事は朝の玄関そうじくらいという、
拍子ぬけするような平和な1週間だった。
いつもは放課後の3〜4時間をピピですごすだけだけど、
やすみちゅうは9時から6時までと、9時間のながい活動時間となる。
戦々恐々、というと利用者に失礼だけど、いったいどうなることかと、
ずいぶん心配して夏やすみをむかえたものだ。
時間のながさだけでなく、いちにちの利用人数もおおい。
これまではいちにち平均9人程度だったのに、
夏やすみちゅうは12人をこえている。
ピピの定員は10名なので、この平均12人というのは
利用人数をオーバーしていることになる。
利用調整をしてかなりしぼっても、
ことわりきれずにこういう利用予定になってしまった。
それが、はじまってみると、
これまでのところぜんぜん大変ではない。
時間がながいだけで、基本的にはいつもとおなじようなながれで
子どもたちはピピですごしている。
春やすみにくらべ、スケジュールでうごけるようになっているので、
スタッフがいちいち活動をうながさなくても
ながれがとどこおることがすくなった。
なによりも、ピピにあるおもちゃをつかって、
自分なりに工夫しながらあそべるようになったことがおおきい。
自分ひとりで、あるいは友だちといっしょに、
やりたいあそびに没頭している場面がおおくなった。
スタッフがいっしょにつきそわなければあそべない、というのでは、
子どもひとりにスタッフがひとり必要になってしまうけど、
いまみたいに子どもたちどうしであそびに熱中できれば
わたしたちのうごきはずいぶん楽になる。
職員がなまけているわけではなく、
そういうながれをつくるのが職員の仕事であり、
それがある程度うまくいったから
いまのような状態になったといえる。
究極的には、スタッフはみまもってるだけで、
子どもたちがかってにあそびまくっている、
という事業所をわたしたちは目ざしており、
その成果をこんなにもはやく実感できたのはうれしかった。
おおい日で14人の利用があったのに、
わたしはほとんどすることがなく、
2階の事務室でひとりしずかにお弁当をたべた。
わたしが夏やすみの準備としてちからをいれたのは利用調整だけで、
あとは優秀なスタッフがテキパキとしたうごきで支援にあたってくれる。
わたしの仕事は朝の玄関そうじくらいという、
拍子ぬけするような平和な1週間だった。
2013年07月25日
東アジア杯 なんとかオーストラリア戦でかちこす
男子東アジア杯日本対オーストラリア。
まえの中国戦から、スターティングメンバー全員がいれかわった。
キャプテンは高橋で、チームをまとめようとする気もちがつたわってくる。
森脇もいつもながらいいムードメーカぶりを発揮している。
本来のプレーだけでなく、雰囲気づくりという意味で
代表にえらばれるような気がする。
前半26分に、斉藤が得意のドリブルでゴール前をゆさぶり先制点。
斉藤の「エヒメッシ」らしいドリブルは、
みているものをひきつけるちからがある。
後半11分には豊田がチョンとボールをそらし、
大迫がそれをおちついてきめる。
オーストラリアはキューウェルやケイヒルといったベテランがぬけ、
威圧感がなくなった。
ただ、2点目をいれられてからはラフプレーが目だつようになる。
後半31分と33分に、日本はにたような形で左サイドからくずされ
あっという間に同点においつかれる。
その直後に大迫が2点目となるかちこし点をいれたからよかったものの、
あぶなく中国戦のにのまいになるところだった。
つづけざまの失点は、しかし前半からその予感があった。
あぶなげなくまもりきっていたわけではなく、
相手のミスやキーパー権田のファインセーブにすくわれていたにすぎない。
無失点だったのが不思議なくらいだ。
ザッケローニ監督はたまらずセンターバックの千葉をさげ、
かわりに栗原をいれる。
栗原も、中国戦での反省をいかすわけでもなく、
かんたんにボールを相手にわたしてしまう。
センターバックについてはこれまでのところ
効果的なアピールをはたした選手はいない。
3−2と、あいかわらずバタバタ試合だったけど、
斉藤と大迫が名前をうりだすことに成功した。
豊田もおしいヘディングシュートがあったので、
きめきりたかったところだろう。
攻守にわたってのハードワークは目をひいたし、
くさびのプレーも有効だったので、
もういちど出場のチャンスがほしい。
中国戦、そしてきょうのオーストラリア戦と、
若手中心の代表チームをみていると、
攻撃に関するかぎり魅力的な選手がたくさんいる。
以前からこの選手を代表に、
とおもっていた選手たちがじっさいにえらばれて、
まがりなりにもひとつの大会をたたかっているのだから、
この東アジア杯は、時期的にも位置づけ的にも、
大胆な実験のできるありがたい大会だった。
心配していたラフプレーも(これまでのところ)みられず、
あとはいちばんやりにくい韓国戦のみとなった。
あたらしく代表監督となったホン=ミョンボ氏は、
とにかく気迫でせまるひとだから、これまでの2戦とは
またちがった面がためされる試合になるだろう。
個人的には原口と豊田の活躍に期待している。
まえの中国戦から、スターティングメンバー全員がいれかわった。
キャプテンは高橋で、チームをまとめようとする気もちがつたわってくる。
森脇もいつもながらいいムードメーカぶりを発揮している。
本来のプレーだけでなく、雰囲気づくりという意味で
代表にえらばれるような気がする。
前半26分に、斉藤が得意のドリブルでゴール前をゆさぶり先制点。
斉藤の「エヒメッシ」らしいドリブルは、
みているものをひきつけるちからがある。
後半11分には豊田がチョンとボールをそらし、
大迫がそれをおちついてきめる。
オーストラリアはキューウェルやケイヒルといったベテランがぬけ、
威圧感がなくなった。
ただ、2点目をいれられてからはラフプレーが目だつようになる。
後半31分と33分に、日本はにたような形で左サイドからくずされ
あっという間に同点においつかれる。
その直後に大迫が2点目となるかちこし点をいれたからよかったものの、
あぶなく中国戦のにのまいになるところだった。
つづけざまの失点は、しかし前半からその予感があった。
あぶなげなくまもりきっていたわけではなく、
相手のミスやキーパー権田のファインセーブにすくわれていたにすぎない。
無失点だったのが不思議なくらいだ。
ザッケローニ監督はたまらずセンターバックの千葉をさげ、
かわりに栗原をいれる。
栗原も、中国戦での反省をいかすわけでもなく、
かんたんにボールを相手にわたしてしまう。
センターバックについてはこれまでのところ
効果的なアピールをはたした選手はいない。
3−2と、あいかわらずバタバタ試合だったけど、
斉藤と大迫が名前をうりだすことに成功した。
豊田もおしいヘディングシュートがあったので、
きめきりたかったところだろう。
攻守にわたってのハードワークは目をひいたし、
くさびのプレーも有効だったので、
もういちど出場のチャンスがほしい。
中国戦、そしてきょうのオーストラリア戦と、
若手中心の代表チームをみていると、
攻撃に関するかぎり魅力的な選手がたくさんいる。
以前からこの選手を代表に、
とおもっていた選手たちがじっさいにえらばれて、
まがりなりにもひとつの大会をたたかっているのだから、
この東アジア杯は、時期的にも位置づけ的にも、
大胆な実験のできるありがたい大会だった。
心配していたラフプレーも(これまでのところ)みられず、
あとはいちばんやりにくい韓国戦のみとなった。
あたらしく代表監督となったホン=ミョンボ氏は、
とにかく気迫でせまるひとだから、これまでの2戦とは
またちがった面がためされる試合になるだろう。
個人的には原口と豊田の活躍に期待している。
2013年07月24日
『本の雑誌』特集 「青木まりこ現象」を再検証する
『本の雑誌』(8月号)の今月の特集は
「いま『青木まりこ現象』を再検証する!」だ。
「青木まりこ現象」とは、
「書店にはいると突然便意をもよおす」
というもので、
28年前の『本の雑誌』(40号)にのった
青木まりこさんの投稿がきっかけで
おおくのひとがおなじなやみを
かかえていることがあきらかになり、
この現象がひろくしられることとなった。
2012年には「THEクイズ神」というテレビ番組で
「本屋に長時間いると便意を催す症状を一般になんというか」
という問題がだされ、20人中10人が正解だったというから
かなりの知名度といえる。
今回の特集では、「青木まりこ現象」の原因について
文字の量・インクのにおい・紙のにおいという3つの仮説をたて、
社員3人が取材している。
で、けっきょくはよくわからない、という
いつもながらのパターンだ。
「再検証」のため、青木まりこさん宅もおとずれている。
ややこしいことに、もしくはさいわいにも、
青木さんは偶然おなじ姓の男性と結婚されており、
いまも「青木まりこ」という氏名のままだ。
青木さんによると、28年後のいまでも
ときどきおなじ症状がおこるといい、
「自然に治癒するものでもなかった」
というのが取材班が得た情報だ。
わたしがはじめてこの症状についてしったのは、
吉行淳之介さんのエッセイをよんだときで、
吉行さんは「なぜかわからない」というかきかたをしておられたので、
さすがに達人は妙なクセをもっている、と感心したものだ。
一般的には、インクのにおいが便意をしげきする、
ということになっているのだそうだ。
数百万年という人類の歴史のなかで、
グーテンベルクによって印刷技術が発明されたのは
ほんの500年まえのできごとにすぎない。
紙、あるいはインク、もしくは活字が
便意になんらかの影響をおよぼすとしたら、
なぜそいういう現象がおこるかについての
正確な解説をまちたいとおもう。
わたし個人のことをいわせてもらうと、
これまで書店や図書館で便意をもよおしたことはいちどもない。
でも、本の背表紙をみているうちに、いつのまにか・・・
というありがたくない状況はリアルに想像できる。
すべてのひとにあらわれるわけではなく、
あるかぎられた、しかしけしてすくなくはないひとたちの身におきているのが
この現象のおもしろいところだ。
精神心理のふかいところにかくされている
人類の進化がかかえた謎のひとつなのかもしれない。
トイレつながりでいうと、読者の投稿コーナー「三角窓口」で
三浦しをんさんは、トイレの排泄音けしのために水をながさない、
つまり「音けしをしない」ことが紹介されている。
しをんさんらしい、いいはなしだ。
「いま『青木まりこ現象』を再検証する!」だ。
「青木まりこ現象」とは、
「書店にはいると突然便意をもよおす」
というもので、
28年前の『本の雑誌』(40号)にのった
青木まりこさんの投稿がきっかけで
おおくのひとがおなじなやみを
かかえていることがあきらかになり、
この現象がひろくしられることとなった。
2012年には「THEクイズ神」というテレビ番組で
「本屋に長時間いると便意を催す症状を一般になんというか」
という問題がだされ、20人中10人が正解だったというから
かなりの知名度といえる。
今回の特集では、「青木まりこ現象」の原因について
文字の量・インクのにおい・紙のにおいという3つの仮説をたて、
社員3人が取材している。
で、けっきょくはよくわからない、という
いつもながらのパターンだ。
「再検証」のため、青木まりこさん宅もおとずれている。
ややこしいことに、もしくはさいわいにも、
青木さんは偶然おなじ姓の男性と結婚されており、
いまも「青木まりこ」という氏名のままだ。
青木さんによると、28年後のいまでも
ときどきおなじ症状がおこるといい、
「自然に治癒するものでもなかった」
というのが取材班が得た情報だ。
わたしがはじめてこの症状についてしったのは、
吉行淳之介さんのエッセイをよんだときで、
吉行さんは「なぜかわからない」というかきかたをしておられたので、
さすがに達人は妙なクセをもっている、と感心したものだ。
一般的には、インクのにおいが便意をしげきする、
ということになっているのだそうだ。
数百万年という人類の歴史のなかで、
グーテンベルクによって印刷技術が発明されたのは
ほんの500年まえのできごとにすぎない。
紙、あるいはインク、もしくは活字が
便意になんらかの影響をおよぼすとしたら、
なぜそいういう現象がおこるかについての
正確な解説をまちたいとおもう。
わたし個人のことをいわせてもらうと、
これまで書店や図書館で便意をもよおしたことはいちどもない。
でも、本の背表紙をみているうちに、いつのまにか・・・
というありがたくない状況はリアルに想像できる。
すべてのひとにあらわれるわけではなく、
あるかぎられた、しかしけしてすくなくはないひとたちの身におきているのが
この現象のおもしろいところだ。
精神心理のふかいところにかくされている
人類の進化がかかえた謎のひとつなのかもしれない。
トイレつながりでいうと、読者の投稿コーナー「三角窓口」で
三浦しをんさんは、トイレの排泄音けしのために水をながさない、
つまり「音けしをしない」ことが紹介されている。
しをんさんらしい、いいはなしだ。
2013年07月23日
ほんとうはありえない『アルプスの少女ハイジ』第41話「お医者さまの約束」
『アルプスの少女ハイジ』第41話「お医者さまの約束」は、
ハイジのすむアルムの山が、クララの治療にてきしているかどうかを
フランクフルトからお医者さまがたしかめにこられる。
ハイジはクララが山にこられるよう、
せいいっぱい山のすばらしさをお医者さまにつたえようとする。
ヤギの乳をのんでもらい、うつくしい景色をみせ、
ここがクララにとってどんなにいい場所であるかをはなす。
お医者さまは、山の空気のよさと、
おちついたくらしそのものがすばらしいとみとめつつも、
山の斜面のけわしさをかんがえないわけにいかない。
クララの車いすが、ここで安全につかえるとはおもえないことを
ハイジにはなすしかなかった。
ハイジはなきじゃくってお医者さまにうったえる。
せっかくいい場所だとみとめながらも、
車いすがつかえないせいでクララがこれないなんて、かなしすぎる。
「そうよ、こんなところで車いすなんかつかえないわ。
でもそんなことあたりまえだわ。
ここだけじゃない。
フランクフルトだって車いすなんてなんにもならなかったわ。
車いすでクララがどこをうごきまわったっていうの!
車いすなんてなくったっていいのよ。
車いす、車いすって、先生は車いすのことばっかりおっしゃるけど、
クララだってほんとうはあんなものにのっていたくないんだわ。
あんな車いすにのっているより、
この草のうえにすわっているほうが、
ずっといいにきまっているわ!」
ハイジのこのうったえに、お医者さまは
それまでの自分の固定的観念のあやまりに気づく。
車いすにのっていると、いつまでもそれにたよってしまい、
なかなかあるきだす気もちをそだてにくい。
お医者さまはハイジに自分がまちがっていたことをみとめ、
クララがこの山ですごせるようにはなしをすすめると約束する。
第41話はこのように要約できる。
障害者介護にたずさわるものとして、
このハイジのうったえと、お医者さまの改宗を
どううけとめるべきだろう。
これまでげんきにすごしてきたひとが
車いす生活になった、なんていうと、
ひどくくらいイメージをもってしまうが、
老人の介護では、ねたきりの生活だったひとが、
車いすにのれるようになることで、
一気に生活にはりが生まれるそうだ。
どこでどもいけるし、なんでもできるような意欲がわいてくるという。
自分であるけはしないけれど、
車いすにのればどこへでもいけるのだから、
客観的にいえば、できることはまだまだたくさんある。
クララの場合は、あるけるようになるちからがはるはずなのに、
心理的なハードルをきずいてしまい、
あるくための訓練に正面からむかうことができない。
けっきょく、障害者にとっての車いす、
という漠然としたとらえ方ではなく、
ひとりひとりの個人にとって、
車いすとはどういう存在なのか、ということなのだろう。
車いすを自由にうごきまわるための補助具とするひともいるだろうし、
車いすがあるために、そのさきへの一歩をふみだせないひともいるだろう。
そしてもうひとつ。
ハイジのおこなった熱弁は、
バリアフリーなどほとんどかんがられていない時代においては、
かりに都会でくらしていたとしても、
車いすのメリットはなかったことを示唆している。
部屋のなかはうごくことができても、
いっぽおもてにでれば、車いすにのって移動できる場所なんて
そうおおくはなかったのだ。
それをしりつつ、なぜお医者さまはそんなに
車いすの利用を大前提にとらえていたのだろうか。
かんがえるまでもなく、
山のうえで車いすがつかえないことなど、
わざわざしらべにいかなくてもわかりきったことだ。
ふもとの村ならまだしも、
そこからさらにたかくあがったおじいさんの家で、
車いす用の通路がととのっているわけがない。
そうかんがえると、お医者さまがなにを懸念していたかが
わからなくなってくる。
車いすの利用を前提にしたクララの滞在など、
はじめから想定できなかったのではないか。
やさしそうな表情のお医者さまと、
ハイジの熱弁にかくされて、
この第41話はじつはありえないはなしであることがわかる。
お医者さまがするべき役割は、
車いすをつかわずに山のうえでどうすごせるかを
こまかいところまで確認することだったのではないだろうか。
ハイジのすむアルムの山が、クララの治療にてきしているかどうかを
フランクフルトからお医者さまがたしかめにこられる。
ハイジはクララが山にこられるよう、
せいいっぱい山のすばらしさをお医者さまにつたえようとする。
ヤギの乳をのんでもらい、うつくしい景色をみせ、
ここがクララにとってどんなにいい場所であるかをはなす。
お医者さまは、山の空気のよさと、
おちついたくらしそのものがすばらしいとみとめつつも、
山の斜面のけわしさをかんがえないわけにいかない。
クララの車いすが、ここで安全につかえるとはおもえないことを
ハイジにはなすしかなかった。
ハイジはなきじゃくってお医者さまにうったえる。
せっかくいい場所だとみとめながらも、
車いすがつかえないせいでクララがこれないなんて、かなしすぎる。
「そうよ、こんなところで車いすなんかつかえないわ。
でもそんなことあたりまえだわ。
ここだけじゃない。
フランクフルトだって車いすなんてなんにもならなかったわ。
車いすでクララがどこをうごきまわったっていうの!
車いすなんてなくったっていいのよ。
車いす、車いすって、先生は車いすのことばっかりおっしゃるけど、
クララだってほんとうはあんなものにのっていたくないんだわ。
あんな車いすにのっているより、
この草のうえにすわっているほうが、
ずっといいにきまっているわ!」
ハイジのこのうったえに、お医者さまは
それまでの自分の固定的観念のあやまりに気づく。
車いすにのっていると、いつまでもそれにたよってしまい、
なかなかあるきだす気もちをそだてにくい。
お医者さまはハイジに自分がまちがっていたことをみとめ、
クララがこの山ですごせるようにはなしをすすめると約束する。
第41話はこのように要約できる。
障害者介護にたずさわるものとして、
このハイジのうったえと、お医者さまの改宗を
どううけとめるべきだろう。
これまでげんきにすごしてきたひとが
車いす生活になった、なんていうと、
ひどくくらいイメージをもってしまうが、
老人の介護では、ねたきりの生活だったひとが、
車いすにのれるようになることで、
一気に生活にはりが生まれるそうだ。
どこでどもいけるし、なんでもできるような意欲がわいてくるという。
自分であるけはしないけれど、
車いすにのればどこへでもいけるのだから、
客観的にいえば、できることはまだまだたくさんある。
クララの場合は、あるけるようになるちからがはるはずなのに、
心理的なハードルをきずいてしまい、
あるくための訓練に正面からむかうことができない。
けっきょく、障害者にとっての車いす、
という漠然としたとらえ方ではなく、
ひとりひとりの個人にとって、
車いすとはどういう存在なのか、ということなのだろう。
車いすを自由にうごきまわるための補助具とするひともいるだろうし、
車いすがあるために、そのさきへの一歩をふみだせないひともいるだろう。
そしてもうひとつ。
ハイジのおこなった熱弁は、
バリアフリーなどほとんどかんがられていない時代においては、
かりに都会でくらしていたとしても、
車いすのメリットはなかったことを示唆している。
部屋のなかはうごくことができても、
いっぽおもてにでれば、車いすにのって移動できる場所なんて
そうおおくはなかったのだ。
それをしりつつ、なぜお医者さまはそんなに
車いすの利用を大前提にとらえていたのだろうか。
かんがえるまでもなく、
山のうえで車いすがつかえないことなど、
わざわざしらべにいかなくてもわかりきったことだ。
ふもとの村ならまだしも、
そこからさらにたかくあがったおじいさんの家で、
車いす用の通路がととのっているわけがない。
そうかんがえると、お医者さまがなにを懸念していたかが
わからなくなってくる。
車いすの利用を前提にしたクララの滞在など、
はじめから想定できなかったのではないか。
やさしそうな表情のお医者さまと、
ハイジの熱弁にかくされて、
この第41話はじつはありえないはなしであることがわかる。
お医者さまがするべき役割は、
車いすをつかわずに山のうえでどうすごせるかを
こまかいところまで確認することだったのではないだろうか。
2013年07月22日
男子東アジア杯日本対中国 圧勝かとおもったら、急に防戦一方に
男子東アジア杯日本対中国
柿谷・森重・青山・山口・高萩・工藤の6人が代表初出場となった。
システムは4−2−3−1で、
キーパーは西川
ディフェンダーは駒野・栗原・森繁・槙野
ボランチに青山・山口
1トップが柿谷で、トップ下が高萩、
右が工藤、左が原口。
開始3分でいきなりPKをあたえてしまう。
そのショックでしばらくは圧倒的にせめこまれる。
ロングボールをいれてくるだけなのに、
定評どおりフィジカルがつよいのか、
いつのまにか中国選手がボールをおさめている。
心配していたラフプレーはなく、
格上の日本にたいして遠慮しているようにもみえる。
ただ、やることがシンプルなぶん、
まよいがないので、日本はやりにくそうだ。
20分をすぎてから、日本はようやくパスがつながるようになった。
前半32分にコーナーキックを栗原がヘディングできめて同点。
ザッケローニ監督はぜんぜんうれしそうじゃなかった。
後半14分に槙野のクロスに柿谷が頭であわせて逆転。
その直後、こんどはドリブルでゴールまえにもちこんだ柿谷が
工藤へやわらかいラストパスをおくる。
工藤がおちついてきめて3−1。
その後も、つかれからあきらかに足がとまった中国に
日本がたたみかけ、大量得点の様相をみせてきた。
なんだかんだいっても、やっぱり日本のサッカーはアジアでは
ぬきんでているようだ。
と、おもっていたら、30分をすぎて
きゅうに日本はボールをもてなくなった。
うけ手にまわり、防戦一方だ。
相手のシュートがポストにたすけられたすぐあとに、
駒野が足をたかくあげたということで、
2つ目のPKをあたえてしまう。
この日の駒野はミスがめだった。
ボールを簡単にうしなうし、
クロスをあげても精度がひくい。
キャプテンになど指名されたのが
このひとにはプレッシャーだったのではないか。
PKをきめられ、3−2になったあとも
日本はおちつきをとりもどせず、
交代カードも有効にはたらかなかった(高橋・斉藤・大迫)。
代表経験の豊富な駒野や、常連ともいえる栗原に、
元常連の槙野がいながらピッチ上の選手たちに
効果的な指示をだせなかったのか。
なんでこんなにきゅうに防戦一方になってしまったのだろう。
けっきょくそのあときれいにくずされて3点目を献上し、
3−3のドローとなってしまった。
経験のあささとは、こういう形であらわれるのだろうか。
なんだかみたことのある光景で、そういえば
関塚監督のひきいたロンドンオリンピックの代表チームみたいではないか。
いいときはせめこめるのに、
いったんリズムがくるうとガタガタッとくずれてしまう。
まあ、あつまってまだ2日目のチームなので、
連携がとれてくるのはこれからだろう。
それに、この大会に優勝することが目的ではなく、
W杯にむけて選手層をあつくすることがもとめられている。
のこりのオーストラリアと韓国との試合に期待したい。
柿谷・森重・青山・山口・高萩・工藤の6人が代表初出場となった。
システムは4−2−3−1で、
キーパーは西川
ディフェンダーは駒野・栗原・森繁・槙野
ボランチに青山・山口
1トップが柿谷で、トップ下が高萩、
右が工藤、左が原口。
開始3分でいきなりPKをあたえてしまう。
そのショックでしばらくは圧倒的にせめこまれる。
ロングボールをいれてくるだけなのに、
定評どおりフィジカルがつよいのか、
いつのまにか中国選手がボールをおさめている。
心配していたラフプレーはなく、
格上の日本にたいして遠慮しているようにもみえる。
ただ、やることがシンプルなぶん、
まよいがないので、日本はやりにくそうだ。
20分をすぎてから、日本はようやくパスがつながるようになった。
前半32分にコーナーキックを栗原がヘディングできめて同点。
ザッケローニ監督はぜんぜんうれしそうじゃなかった。
後半14分に槙野のクロスに柿谷が頭であわせて逆転。
その直後、こんどはドリブルでゴールまえにもちこんだ柿谷が
工藤へやわらかいラストパスをおくる。
工藤がおちついてきめて3−1。
その後も、つかれからあきらかに足がとまった中国に
日本がたたみかけ、大量得点の様相をみせてきた。
なんだかんだいっても、やっぱり日本のサッカーはアジアでは
ぬきんでているようだ。
と、おもっていたら、30分をすぎて
きゅうに日本はボールをもてなくなった。
うけ手にまわり、防戦一方だ。
相手のシュートがポストにたすけられたすぐあとに、
駒野が足をたかくあげたということで、
2つ目のPKをあたえてしまう。
この日の駒野はミスがめだった。
ボールを簡単にうしなうし、
クロスをあげても精度がひくい。
キャプテンになど指名されたのが
このひとにはプレッシャーだったのではないか。
PKをきめられ、3−2になったあとも
日本はおちつきをとりもどせず、
交代カードも有効にはたらかなかった(高橋・斉藤・大迫)。
代表経験の豊富な駒野や、常連ともいえる栗原に、
元常連の槙野がいながらピッチ上の選手たちに
効果的な指示をだせなかったのか。
なんでこんなにきゅうに防戦一方になってしまったのだろう。
けっきょくそのあときれいにくずされて3点目を献上し、
3−3のドローとなってしまった。
経験のあささとは、こういう形であらわれるのだろうか。
なんだかみたことのある光景で、そういえば
関塚監督のひきいたロンドンオリンピックの代表チームみたいではないか。
いいときはせめこめるのに、
いったんリズムがくるうとガタガタッとくずれてしまう。
まあ、あつまってまだ2日目のチームなので、
連携がとれてくるのはこれからだろう。
それに、この大会に優勝することが目的ではなく、
W杯にむけて選手層をあつくすることがもとめられている。
のこりのオーストラリアと韓国との試合に期待したい。
2013年07月21日
『熱風』の「憲法改正」特集 みんなで貧乏になること
宮崎駿さんがジブリの小冊子『熱風』(7月号)で
「憲法を変えるなどもってのほか」という記事を発表した。
宮崎さんのほかに、鈴木敏夫さん・中川李枝子さん・高畑勲さんが
憲法改正への意見をのせている。
『熱風』7月号の特集は「憲法改正」です。
この問題に対する意識の高さを反映したためか、
7月号は多くのメディアで紹介され、
編集部には「読んでみたい」という
たくさんの問い合わせがありました。
しかし取扱書店では品切れのところが多く、入手は難しいようです。
今回編集部では、このような状況を鑑みて、
インターネットで、特集の原稿4本を全文緊急配信することに決定しました。
ダウンロードは無料、配信期間は8月20日18時までです。(ジブリ)
宮崎さんは記事のなかで
・憲法を変えることについては、反対にきまっています。
・慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、
きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです。
・領土問題は半分に分けるか、あるいは
「両方で管理しましょう」という提案をする。
・今、はっきりしなきゃいけないのは、
産業構造をどうするかという問題です。(中略)
何で僕らが3本100円のバナナを食えるのか。
自国では誰も作っていないような服を平気で着て、捨てて、
それがおかしいんですよ。
というかんがえをのべている。
これらは以前から宮崎さんがいってきたことで、
わたしはどれもしごくまっとうな意見だとおもう。
『熱風』での「改憲特集」がおおきな反響をよんだのは、
宮崎さん、そしてジブリがどんなかんがえ方をしているかについて
よくしられてなかったからだろう。
以前から、なんでジブリの、そして宮崎さんの作品が
おおくのひとに支持されるのに、
日本はあいかわらずおろかなことをやりつづけるのか
不思議におもっていた。
たとえば、トトロをいいとおもうひとが、
子どもたちがあそぶ校庭に芝生をしきつめる、
というかんがえ方はしないとおもうし、
ナウシカを評価するなら除草剤などばらまかないはずだ。
作品からなにかおおきなものをえる、ということは、
そうした根本的な意識変革をともなうものとおもっていた。
でも、そう簡単なものではなかった。
歴史感覚のとぼしい政治家があいからわずえらばれているし、
福島での事故があったばかりなのに、
原発再稼働や外国への輸出などを平気でやろうとする。
経済成長をいつまでもおいもとめていると、
ひとの意識なんてなかなかかわらない。
わたしは宮崎さんがいう
「みんなが貧乏になる」でしょうがないとおもう。
「どこの地方自治体も財政は硬直化してます。
福祉関係だけでにっちもさっちもいかなくなっている。(中略)
僕が住んでいる所沢の財政支出を見ていても、
これはすごそうだなと思います。
だから、どっかでずるずるずるっと
貧乏になっていかざるを得ないんだと思います。
それはもう、そういうことだからしょうがないんですよ。
なので、将来の希望とかではなく、
今やってる仕事がおもしろいとか、
友人とホッとする時間を持つだとか、
好きな亭主の顔見たらうれしいとか、
これから、人はそういうことで生きていかないといけない。
将来の保障なんかない。
こんなこと言っても何の励ましにもならないけれど(笑)。
でも、本来人間はそうして生きて来たんです」
おおくのひとに『熱風』の「改憲特集」をよんでほしい。
そういうかんがえ方がある、ということを、
そして、それは子どもたちがだいすきなジブリの
根本的なかんがえであることをしってほしい。
「憲法を変えるなどもってのほか」という記事を発表した。
宮崎さんのほかに、鈴木敏夫さん・中川李枝子さん・高畑勲さんが
憲法改正への意見をのせている。
『熱風』7月号の特集は「憲法改正」です。
この問題に対する意識の高さを反映したためか、
7月号は多くのメディアで紹介され、
編集部には「読んでみたい」という
たくさんの問い合わせがありました。
しかし取扱書店では品切れのところが多く、入手は難しいようです。
今回編集部では、このような状況を鑑みて、
インターネットで、特集の原稿4本を全文緊急配信することに決定しました。
ダウンロードは無料、配信期間は8月20日18時までです。(ジブリ)
宮崎さんは記事のなかで
・憲法を変えることについては、反対にきまっています。
・慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、
きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです。
・領土問題は半分に分けるか、あるいは
「両方で管理しましょう」という提案をする。
・今、はっきりしなきゃいけないのは、
産業構造をどうするかという問題です。(中略)
何で僕らが3本100円のバナナを食えるのか。
自国では誰も作っていないような服を平気で着て、捨てて、
それがおかしいんですよ。
というかんがえをのべている。
これらは以前から宮崎さんがいってきたことで、
わたしはどれもしごくまっとうな意見だとおもう。
『熱風』での「改憲特集」がおおきな反響をよんだのは、
宮崎さん、そしてジブリがどんなかんがえ方をしているかについて
よくしられてなかったからだろう。
以前から、なんでジブリの、そして宮崎さんの作品が
おおくのひとに支持されるのに、
日本はあいかわらずおろかなことをやりつづけるのか
不思議におもっていた。
たとえば、トトロをいいとおもうひとが、
子どもたちがあそぶ校庭に芝生をしきつめる、
というかんがえ方はしないとおもうし、
ナウシカを評価するなら除草剤などばらまかないはずだ。
作品からなにかおおきなものをえる、ということは、
そうした根本的な意識変革をともなうものとおもっていた。
でも、そう簡単なものではなかった。
歴史感覚のとぼしい政治家があいからわずえらばれているし、
福島での事故があったばかりなのに、
原発再稼働や外国への輸出などを平気でやろうとする。
経済成長をいつまでもおいもとめていると、
ひとの意識なんてなかなかかわらない。
わたしは宮崎さんがいう
「みんなが貧乏になる」でしょうがないとおもう。
「どこの地方自治体も財政は硬直化してます。
福祉関係だけでにっちもさっちもいかなくなっている。(中略)
僕が住んでいる所沢の財政支出を見ていても、
これはすごそうだなと思います。
だから、どっかでずるずるずるっと
貧乏になっていかざるを得ないんだと思います。
それはもう、そういうことだからしょうがないんですよ。
なので、将来の希望とかではなく、
今やってる仕事がおもしろいとか、
友人とホッとする時間を持つだとか、
好きな亭主の顔見たらうれしいとか、
これから、人はそういうことで生きていかないといけない。
将来の保障なんかない。
こんなこと言っても何の励ましにもならないけれど(笑)。
でも、本来人間はそうして生きて来たんです」
おおくのひとに『熱風』の「改憲特集」をよんでほしい。
そういうかんがえ方がある、ということを、
そして、それは子どもたちがだいすきなジブリの
根本的なかんがえであることをしってほしい。
2013年07月20日
老化とは、調子がわるくてあたりまえ、というコンディションをうけいれること
中国の習主席がアメリカのオバマ大統領と会談したときに、
挨拶として運動のことがはなされたと紹介されていた。
「最初にオバマ氏が『何か運動していますか』と尋ねると、
習氏はすぐさま『水泳と散歩をしている』と返答。
さらに『運動しなければ我々は崩壊してしまう。
こんなに(仕事が)忙しいから』と語った」
わたしは習近平氏ほどにはいそがしくないが、
それでも「運動しなければ崩壊する」、
というかんじがよくわかる。
かんがえごとをしすぎて脳がつかれてくると、
からだにある程度の負荷をかけないと
頭がおかしくなってしまいそうだ。
まあ、それはむかしのはなしで、
いまはそんなに頭をつかいすぎることはない。
崩壊する危機感からというよりも、
習慣でつづけている運動だ。
30代のころは、なんにちかにいちどは
からだがすごくかるくて、いくらでもはしれそうな日があった。
それが40代になると、はしるときはいつもいつもからだがおもい。
やがて、かってのようなキレキレの日は
もういくらまってもこないことがわかってきた。
調子がわるいというより、
からだがおもいのがあたりまえ、というかんじだ。
きょうはだるいなー、というより、
だるいのを当然の前提としてうけいれ、
とにかく運動をスタートさせる。
脳はいろんないいわけをしてくるので、
いちいち脳のうったをきいていたら
たのしく運動できるコンディションのときなど
いつまでもめぐってこないからだ。
水泳でもおなじで、およぐまえ、およぎだしてしばらくは、
しんじられないくらいからだがおもい。
習近平氏は悠然と横およぎなんかをしてそうだけど、
わたしはくるしまぎれに手足をうごかし、
うつくしくないフォームなのが自分でわかる。
かえるころになるとやっとからだが目ざめてきて、
なんとかきょうも無事におえた、ということのくりかえしだ。
以前できたことにだんだんからだがついていけなくなり、
やがてはそれをからだと頭がうけいれる。
老化とは、そいいうことのつみかさねだということが、
このごろなんとなくわかってきた。
脳がもっているわかいころのイメージが
いつまでも現実とのおりあいをつけれないのはこまったものだ。
挨拶として運動のことがはなされたと紹介されていた。
「最初にオバマ氏が『何か運動していますか』と尋ねると、
習氏はすぐさま『水泳と散歩をしている』と返答。
さらに『運動しなければ我々は崩壊してしまう。
こんなに(仕事が)忙しいから』と語った」
わたしは習近平氏ほどにはいそがしくないが、
それでも「運動しなければ崩壊する」、
というかんじがよくわかる。
かんがえごとをしすぎて脳がつかれてくると、
からだにある程度の負荷をかけないと
頭がおかしくなってしまいそうだ。
まあ、それはむかしのはなしで、
いまはそんなに頭をつかいすぎることはない。
崩壊する危機感からというよりも、
習慣でつづけている運動だ。
30代のころは、なんにちかにいちどは
からだがすごくかるくて、いくらでもはしれそうな日があった。
それが40代になると、はしるときはいつもいつもからだがおもい。
やがて、かってのようなキレキレの日は
もういくらまってもこないことがわかってきた。
調子がわるいというより、
からだがおもいのがあたりまえ、というかんじだ。
きょうはだるいなー、というより、
だるいのを当然の前提としてうけいれ、
とにかく運動をスタートさせる。
脳はいろんないいわけをしてくるので、
いちいち脳のうったをきいていたら
たのしく運動できるコンディションのときなど
いつまでもめぐってこないからだ。
水泳でもおなじで、およぐまえ、およぎだしてしばらくは、
しんじられないくらいからだがおもい。
習近平氏は悠然と横およぎなんかをしてそうだけど、
わたしはくるしまぎれに手足をうごかし、
うつくしくないフォームなのが自分でわかる。
かえるころになるとやっとからだが目ざめてきて、
なんとかきょうも無事におえた、ということのくりかえしだ。
以前できたことにだんだんからだがついていけなくなり、
やがてはそれをからだと頭がうけいれる。
老化とは、そいいうことのつみかさねだということが、
このごろなんとなくわかってきた。
脳がもっているわかいころのイメージが
いつまでも現実とのおりあいをつけれないのはこまったものだ。
2013年07月19日
『サッカー批評63号』西部謙司氏がしめすW杯にむけた今後の方針
西部謙司氏が『サッカー批評63号』にかかれた、
「ザッケローニは日本代表を正しく導けているか」
という記事が興味ぶかい。
コンフェデ杯の日本代表について西部氏は、
「『日本は良いプレーをしたが
強豪には勝てないことがはっきりした』となる。
ここが、どうすればいいかの出発点だ」
と総括している。
そして、これからの方針として、
「現在の日本代表が自陣でのプレーをベースに戦うのはナンセンスだ。
自陣が弱点で敵陣が長所なら、
なるべく自陣でのプレーを避けて敵陣を多くすべきなのは自明である。
自陣でのプレーに強みがあるなら別だが、
そこが弱いのだから自ら引く選択はありえない。
やるならメンバーの入れ替えが必要だ」
「あと1年で何をすべきか。
戦術的には日本の特徴が出やすい
敵陣での攻守を増やすのが得策だと思う。
ただし、そのためには自陣でのプレーを改善しなければならない」
という方向性をしめし、
そのポイントのひとつとして
「リトリート時(後退するとき)の奪取力」
をあげている。
「日本の守備力では前にでて守らないと苦しい。
前方から引かせるのではなく
後方から押し出す守り方をしたほうが有利」
というかんがえ方からで、
具体的には今野をアンカーとした4-1-2-3
というシステムを提案している。
みかけはW杯南アフリカ大会のときみたいだけど、
攻撃につなげるためのアンカーという意味なので、
これまで日本がめざしてきたパスをつなぐサッカーを
手ばなすわけではない。
「自陣でのプレーのクオリティを上げて
敵陣でのプレー時間を増やし
日本の長所が出る流れを強化したい」
というのが西部氏の基本的なかんがえである。
コンフェデ杯で勝ち点をあげられなかったことから、
きゅうに代表チームの実力について
批判的な意見がでるようになった。
いまの日本のたち位置と、とりくむべき課題をおしえてくれたという意味で、
3敗は妥当な授業料だったといえるだろう。
これからの1年間に、日本代表がどんな方向性をしめすのか
たのしみになってきた。
『サッカー批評63号』の特集は、
「サッカー監督の正しい叩き方」だ。
西部氏の記事のほかにも
・「監督批評」、新たなる地平へ
・日本代表監督の「批評史」
・海外に見る監督批判の作法
と、おもしろい記事がおおかった。
「ブラジルでは誰もが『セルジオ越後』状態」
なんてかいてあると、まあそうだろうなと、納得する。
わたしのすきな連載「僕らはへなちょこフーリガン」では
3-4と「おしくも」やぶれたイタリア戦について
「いやぁ、大いに驚かされたよ。
勇敢で高度なポゼッションサッカーで
40分アズーリを圧倒したのも驚きだったが、
残りの50分でアズーリの底力とポテンシャルを
あそこまで見事に引き出して見せてくれたのも2度驚きだった」
と、やたらに「世界を驚かす」ことに熱心な
日本メディアをおちょくっている。
ほんとに。
なんでそんなに「世界を驚か」したいのだろう。
「ザッケローニは日本代表を正しく導けているか」
という記事が興味ぶかい。
コンフェデ杯の日本代表について西部氏は、
「『日本は良いプレーをしたが
強豪には勝てないことがはっきりした』となる。
ここが、どうすればいいかの出発点だ」
と総括している。
そして、これからの方針として、
「現在の日本代表が自陣でのプレーをベースに戦うのはナンセンスだ。
自陣が弱点で敵陣が長所なら、
なるべく自陣でのプレーを避けて敵陣を多くすべきなのは自明である。
自陣でのプレーに強みがあるなら別だが、
そこが弱いのだから自ら引く選択はありえない。
やるならメンバーの入れ替えが必要だ」
「あと1年で何をすべきか。
戦術的には日本の特徴が出やすい
敵陣での攻守を増やすのが得策だと思う。
ただし、そのためには自陣でのプレーを改善しなければならない」
という方向性をしめし、
そのポイントのひとつとして
「リトリート時(後退するとき)の奪取力」
をあげている。
「日本の守備力では前にでて守らないと苦しい。
前方から引かせるのではなく
後方から押し出す守り方をしたほうが有利」
というかんがえ方からで、
具体的には今野をアンカーとした4-1-2-3
というシステムを提案している。
みかけはW杯南アフリカ大会のときみたいだけど、
攻撃につなげるためのアンカーという意味なので、
これまで日本がめざしてきたパスをつなぐサッカーを
手ばなすわけではない。
「自陣でのプレーのクオリティを上げて
敵陣でのプレー時間を増やし
日本の長所が出る流れを強化したい」
というのが西部氏の基本的なかんがえである。
コンフェデ杯で勝ち点をあげられなかったことから、
きゅうに代表チームの実力について
批判的な意見がでるようになった。
いまの日本のたち位置と、とりくむべき課題をおしえてくれたという意味で、
3敗は妥当な授業料だったといえるだろう。
これからの1年間に、日本代表がどんな方向性をしめすのか
たのしみになってきた。
『サッカー批評63号』の特集は、
「サッカー監督の正しい叩き方」だ。
西部氏の記事のほかにも
・「監督批評」、新たなる地平へ
・日本代表監督の「批評史」
・海外に見る監督批判の作法
と、おもしろい記事がおおかった。
「ブラジルでは誰もが『セルジオ越後』状態」
なんてかいてあると、まあそうだろうなと、納得する。
わたしのすきな連載「僕らはへなちょこフーリガン」では
3-4と「おしくも」やぶれたイタリア戦について
「いやぁ、大いに驚かされたよ。
勇敢で高度なポゼッションサッカーで
40分アズーリを圧倒したのも驚きだったが、
残りの50分でアズーリの底力とポテンシャルを
あそこまで見事に引き出して見せてくれたのも2度驚きだった」
と、やたらに「世界を驚かす」ことに熱心な
日本メディアをおちょくっている。
ほんとに。
なんでそんなに「世界を驚か」したいのだろう。
2013年07月18日
J1は前半戦を終了。めちゃくちゃつよい川崎フロンターレ
きのうおこなわれた第17節で
J1は前半戦をおえ、2週間の中断にはいる。
ザッケローニ監督が視察におとずれたマリノス対レッズでは、
東アジア杯にえらばれたマリノスの斉藤学と栗原が得点をあげている。
おなじく代表となったレッズの原口と槙野は、
目のまえで2人にきめられ、がっくりきた様子だった。
東アジア杯というと、以前の大会での
中国と韓国のラフプレーをおもいだしてしまう。
あまりたいした位置づけのできる大会ではないのに、
選手たちは(当然ながら)えらばれようと必死になっている。
サッカーとしてのまともな大会となるようねがう。
J1でいまめちゃくちゃつよいのが川崎フロンターレだ。
4月20日におこなわれた7節のベガルタ戦まで
3負3分とかちがなく、
風間監督の解任が話題にのぼるようになっていた。
しかし、5月は4勝1分、コンフェデ杯の中断後は
3勝1負とまけないチームとなり、前半を7位でおりかえした。
上位チームにつよく、広島には2-4でやぶれたものの、
7月はアントラーズ・レッズ・アルディージャを相手にうちかっている。
レッズ戦では4-0と圧勝し、レッズの選手たちを呆然とさせていたし、
きのうのアルディージャ戦では、
アルディージャに今季はじめての連敗をプレゼントすることになった。
わたしにはフロンターレの戦術を分析するちからはないが、
コンフェデ杯がえりの憲剛がさえているのと、
大久保が決定機にきめきれているのがみていてもわかりやすい。
とくに憲剛は得点にからむ場面のほぼすべてに起点となっており、
自分でも3試合連続のゴールをあげている。
憲剛の絶妙なパスが、ピタッと味方の足におさまる瞬間は、
フロンターレ戦ならではの快感だ。
前半戦のリーグでは、アルディージャの活躍がひかっている。
昨シーズンからまけない試合はこびが選手たちに自信をうえつけ、
第11節にベガルタ仙台にやぶれるまで無敗記録を21までのばした。
残留あらそいの常連が、これだけ安定したつよさをみせたのは、
昨シーズンのとちゅうから指揮をとったベルデニック監督の方針が
チームに浸透したのだろう。
マリノスも開幕の好調さを維持しつづけ、3位につけているし、
レッズ・アントラーズと、ちからのあるチームが
優勝あらそいにからんできそうだ。
下位チームをみると、昇格組の
大分・湘南・甲府がくるしんでいることと、
鳥栖と磐田がなかなかリズムをとりもどせていない。
監督のかわった磐田が後半どうまきかえしてくるだろうか。
一時期まけがこんでいたグランパスは、
ここにきてようやくかちきれるようになっており、
一安心というところだ。
フロンターレの活躍に期待しつつ、後半戦の再開をたのしみにしている。
J1は前半戦をおえ、2週間の中断にはいる。
ザッケローニ監督が視察におとずれたマリノス対レッズでは、
東アジア杯にえらばれたマリノスの斉藤学と栗原が得点をあげている。
おなじく代表となったレッズの原口と槙野は、
目のまえで2人にきめられ、がっくりきた様子だった。
東アジア杯というと、以前の大会での
中国と韓国のラフプレーをおもいだしてしまう。
あまりたいした位置づけのできる大会ではないのに、
選手たちは(当然ながら)えらばれようと必死になっている。
サッカーとしてのまともな大会となるようねがう。
J1でいまめちゃくちゃつよいのが川崎フロンターレだ。
4月20日におこなわれた7節のベガルタ戦まで
3負3分とかちがなく、
風間監督の解任が話題にのぼるようになっていた。
しかし、5月は4勝1分、コンフェデ杯の中断後は
3勝1負とまけないチームとなり、前半を7位でおりかえした。
上位チームにつよく、広島には2-4でやぶれたものの、
7月はアントラーズ・レッズ・アルディージャを相手にうちかっている。
レッズ戦では4-0と圧勝し、レッズの選手たちを呆然とさせていたし、
きのうのアルディージャ戦では、
アルディージャに今季はじめての連敗をプレゼントすることになった。
わたしにはフロンターレの戦術を分析するちからはないが、
コンフェデ杯がえりの憲剛がさえているのと、
大久保が決定機にきめきれているのがみていてもわかりやすい。
とくに憲剛は得点にからむ場面のほぼすべてに起点となっており、
自分でも3試合連続のゴールをあげている。
憲剛の絶妙なパスが、ピタッと味方の足におさまる瞬間は、
フロンターレ戦ならではの快感だ。
前半戦のリーグでは、アルディージャの活躍がひかっている。
昨シーズンからまけない試合はこびが選手たちに自信をうえつけ、
第11節にベガルタ仙台にやぶれるまで無敗記録を21までのばした。
残留あらそいの常連が、これだけ安定したつよさをみせたのは、
昨シーズンのとちゅうから指揮をとったベルデニック監督の方針が
チームに浸透したのだろう。
マリノスも開幕の好調さを維持しつづけ、3位につけているし、
レッズ・アントラーズと、ちからのあるチームが
優勝あらそいにからんできそうだ。
下位チームをみると、昇格組の
大分・湘南・甲府がくるしんでいることと、
鳥栖と磐田がなかなかリズムをとりもどせていない。
監督のかわった磐田が後半どうまきかえしてくるだろうか。
一時期まけがこんでいたグランパスは、
ここにきてようやくかちきれるようになっており、
一安心というところだ。
フロンターレの活躍に期待しつつ、後半戦の再開をたのしみにしている。
2013年07月17日
『あの日、僕は旅に出た』(蔵前仁一)雑誌『旅行人』が生まれてから休刊までの総まとめ
『あの日、僕は旅に出た』(蔵前仁一・幻冬舎)
2011年12月に雑誌『旅行人(りょこうじん)』は休刊となった。
20年つづいた『旅行人』の休刊は、
旅行についての、ひとつ時代がおわったことの象徴だった。
以前からこの雑誌と蔵前さんの本にひかれていたので、
休刊をしったときにはおわかれの記念として
最終号の『世界で唯一の、私の場所』と、
『コーカサス』などのバックナンバーを4冊かった。
ビンボーをうりものにした、むかしながらのバックパッカーではなく、
無理をしないで旅行をたのしむスタイルをわたしにおしえてくれたのは
蔵前さんの本だ。
本書は、『旅行人』がどのように生まれ、そだち、
そして休刊へといたったかについての記録だ。
蔵前さんの本なので、期待しながらも
それまでに発表されたエッセイのよせあつめかもしれないと、
すこし心配していた。
でも大丈夫。360ページにわたる、まったくのかきおろしだった。
しかも一気よみのおもしろさだ。
蔵前さんがどういうふうに旅行にでかけるようになり、
どうななりゆきで旅行雑誌をつくるようになったかが
年代をおってまとめられている。
本書をよんでよくわかった。
蔵前さんはやりたいことをぜんぶやったから休刊をきめたのだ。
旅行についての雑誌をつくることが
おもしろくてたまらなかったころ、
あたらしい企画をどんどんうちだし、
おもしろい記事をかく旅行者に発表する場を提供する。
うりあげをかんがえず、やりたいとおもったことを
実行にうつしていたときの蔵前さんはすごくしあわせそうだ。
目黒考二さんや椎名誠さんたちが
『本の雑誌』をつくっていった状況とかさなってくる。
チベットについてのガイドブックがたかい評価をえて、
「この本を持ってチベットを旅行した日本人が増え、
『チベットのことは日本人に訊け』と
欧米人旅行者がいっているという伝説まで生まれた」
なんてすてきなはなしものっている。
しかし時代はうつり、インターネットによる情報収集があたりまえになっていく。
そして2002から2003年にかけて流行したSARSによって
アジア関係のガイドブックがまったくうれなくなる。
それからの蔵前さんは、会社経営のむつかしさにむきあわなければならなかった。
「会社が大きくなればなるほど、
本の製作以外の仕事がどんどん大きくなっていく。(中略)
単純にいえば、動かす金額が大きくなればなるほど管理に追われるのだ。(中略)
忙しいと目の前の仕事をこなすだけで精一杯になり、
おもしろいかどうかは二の次だ。
会社を維持することが目的になっている。完全に悪循環だ」
職員をへらし、スタート時とおなじ3人の会社として整理する。
発行も季刊、やがて年二回刊となり、
そして休刊をきめる。
「できることはみんなやっちゃったよな。
アジア・アフリカを長く旅したときに
イメージしたことはだいたい表現した」
というから、蔵前さんにやりのこした無念さはない。
いつかは休刊をむかえなければならない
一代かぎりの雑誌づくりについて、
すこしはやめにやめる時期をきめたということにすぎない。
この本は、蔵前さんのこれまでの仕事の総まとめであり、
本書をかいたことで、蔵前さんは『旅行人』とのかかわりに
はっきりしたくりぎをつけた。
この本のしめくくりは
「さて、それじゃあまた旅に出ようか」だ。
蔵前さんがこれからどんなかたちで旅行をつづけ、
それを表現していくのかをたのしみにしている。
2011年12月に雑誌『旅行人(りょこうじん)』は休刊となった。
20年つづいた『旅行人』の休刊は、
旅行についての、ひとつ時代がおわったことの象徴だった。
以前からこの雑誌と蔵前さんの本にひかれていたので、
休刊をしったときにはおわかれの記念として
最終号の『世界で唯一の、私の場所』と、
『コーカサス』などのバックナンバーを4冊かった。
ビンボーをうりものにした、むかしながらのバックパッカーではなく、
無理をしないで旅行をたのしむスタイルをわたしにおしえてくれたのは
蔵前さんの本だ。
本書は、『旅行人』がどのように生まれ、そだち、
そして休刊へといたったかについての記録だ。
蔵前さんの本なので、期待しながらも
それまでに発表されたエッセイのよせあつめかもしれないと、
すこし心配していた。
でも大丈夫。360ページにわたる、まったくのかきおろしだった。
しかも一気よみのおもしろさだ。
蔵前さんがどういうふうに旅行にでかけるようになり、
どうななりゆきで旅行雑誌をつくるようになったかが
年代をおってまとめられている。
本書をよんでよくわかった。
蔵前さんはやりたいことをぜんぶやったから休刊をきめたのだ。
旅行についての雑誌をつくることが
おもしろくてたまらなかったころ、
あたらしい企画をどんどんうちだし、
おもしろい記事をかく旅行者に発表する場を提供する。
うりあげをかんがえず、やりたいとおもったことを
実行にうつしていたときの蔵前さんはすごくしあわせそうだ。
目黒考二さんや椎名誠さんたちが
『本の雑誌』をつくっていった状況とかさなってくる。
チベットについてのガイドブックがたかい評価をえて、
「この本を持ってチベットを旅行した日本人が増え、
『チベットのことは日本人に訊け』と
欧米人旅行者がいっているという伝説まで生まれた」
なんてすてきなはなしものっている。
しかし時代はうつり、インターネットによる情報収集があたりまえになっていく。
そして2002から2003年にかけて流行したSARSによって
アジア関係のガイドブックがまったくうれなくなる。
それからの蔵前さんは、会社経営のむつかしさにむきあわなければならなかった。
「会社が大きくなればなるほど、
本の製作以外の仕事がどんどん大きくなっていく。(中略)
単純にいえば、動かす金額が大きくなればなるほど管理に追われるのだ。(中略)
忙しいと目の前の仕事をこなすだけで精一杯になり、
おもしろいかどうかは二の次だ。
会社を維持することが目的になっている。完全に悪循環だ」
職員をへらし、スタート時とおなじ3人の会社として整理する。
発行も季刊、やがて年二回刊となり、
そして休刊をきめる。
「できることはみんなやっちゃったよな。
アジア・アフリカを長く旅したときに
イメージしたことはだいたい表現した」
というから、蔵前さんにやりのこした無念さはない。
いつかは休刊をむかえなければならない
一代かぎりの雑誌づくりについて、
すこしはやめにやめる時期をきめたということにすぎない。
この本は、蔵前さんのこれまでの仕事の総まとめであり、
本書をかいたことで、蔵前さんは『旅行人』とのかかわりに
はっきりしたくりぎをつけた。
この本のしめくくりは
「さて、それじゃあまた旅に出ようか」だ。
蔵前さんがこれからどんなかたちで旅行をつづけ、
それを表現していくのかをたのしみにしている。
2013年07月16日
『必修科目鷹の爪』(内藤理恵子)鷹の爪とはいったいなんなのだ
『必修科目鷹の爪』(内藤理恵子・プレビジョン)
本屋さんの棚をみてまわっていたら
運命的なであいとしてこの本が目にはいった。
目にはいった以上、かわないわけにいかない。
著者の内藤さんは大学で講師をされているようで、
この本は1〜6限までの講義というスタイルをとっている。
かきだしはこうだ。
鷹の爪について内藤さんがおもいついたことを
あまり脈絡なくかきつづってあり、
サッと目をとおしただけでは
いったいこの本はなにがいいたいのか、
じつのところよくわからない。
なんとなくかんじるのは、
鷹の爪をサブカルチャーとしてとらえ、
それをどういまの日本社会、
とりわけネットが中心となった社会で評価し、
位置づけていくかについてかかれている、
ということぐらいだ。
「学生に鷹の爪団の『恋するワタシの不思議パワー』の小話をしたところ、
その後、学生から『先生が言いたいことがなんとなくわかった。
恋愛に依存しないでとりあえずレポートがんばる』(中略)
といった前向きなコメントをもらって、
『鷹の爪団に救われた』と思ったのでした」(内藤)
「先生の言いたいことがなんとなくわかった」
というのがポイントであり、
この本の性格をよくあらわしている。
「なんとなく」でしか鷹の爪をとらえることはできない。
めくっているうちに、これはすごい本なのではないか、
という気がしてきた。
鷹の爪の魅力を、ファンだとおもっているひとが
正確に理解しているかというと、それもまたあやしくて、
おおくの子どもむけ番組や商品にあかるい小学生でなければ
鷹の爪の真意をくみとることはむつかしいのかもしれない。
それほど鷹の爪の魅力はつかみどころがなく、
その存在はこれまでのサブカルチャーのなかでも異色をはなつ。
なにが、なぜおもしろいのか、ということについて、
とらえどころがないのだ。
それを講義としてあつかおうとするから
内藤さんのはなしがあっちにいったり、こっちにいったりするのは
しかたのないことなのだろう。
この本の、ひとつの核となっているのは
「鷹の爪はなぜマイナー感を失わずに
メジャーになったか」だ。
へたうまな絵がうまくなってはいけないし、
キャラクターたちがたくみにうごくようになってもよくない。
マイナー感が生命線でもある鷹の爪は、
しかし進化もまたしていかなければあきられてしまう。
鷹の爪は、とりわけその微妙なバランス感覚が要求される作品だ。
デビューすることはできても、それをつづけるのはかんたんではない。
蛙男こと小野亮氏の経歴をあきらかにしながら、
内藤さんは小野氏の戦略について分析する。
本書は、「鷹の爪」とはいったいなんなのだ、
という問題のおおきさに気づいた内藤さんが、
学問の世界からはじめてとりあげた稀有な本といえるだろう。
よくわからないけど、なんとなくたのしいという、
内藤さんの当初の目標がはたされている。
この本をよんだからといって
鷹の爪の魅力は理解できないけれど、
鷹の爪を社会に位置づけるために必要な本だった。
こういう本がようやくあわられたことをうれしくおもう。
本屋さんの棚をみてまわっていたら
運命的なであいとしてこの本が目にはいった。
目にはいった以上、かわないわけにいかない。
著者の内藤さんは大学で講師をされているようで、
この本は1〜6限までの講義というスタイルをとっている。
かきだしはこうだ。
「必修科目鷹の」』を受講される皆さま、こんにちは。この講義はアニメ『秘密結社 鷹の爪』を通じて、多岐にわたるジャンルを・・・・・いや、ジャンルの垣根を超えて楽しく愉快に学んでいく科目です。
鷹の爪について内藤さんがおもいついたことを
あまり脈絡なくかきつづってあり、
サッと目をとおしただけでは
いったいこの本はなにがいいたいのか、
じつのところよくわからない。
なんとなくかんじるのは、
鷹の爪をサブカルチャーとしてとらえ、
それをどういまの日本社会、
とりわけネットが中心となった社会で評価し、
位置づけていくかについてかかれている、
ということぐらいだ。
「学生に鷹の爪団の『恋するワタシの不思議パワー』の小話をしたところ、
その後、学生から『先生が言いたいことがなんとなくわかった。
恋愛に依存しないでとりあえずレポートがんばる』(中略)
といった前向きなコメントをもらって、
『鷹の爪団に救われた』と思ったのでした」(内藤)
「先生の言いたいことがなんとなくわかった」
というのがポイントであり、
この本の性格をよくあらわしている。
「なんとなく」でしか鷹の爪をとらえることはできない。
めくっているうちに、これはすごい本なのではないか、
という気がしてきた。
鷹の爪の魅力を、ファンだとおもっているひとが
正確に理解しているかというと、それもまたあやしくて、
おおくの子どもむけ番組や商品にあかるい小学生でなければ
鷹の爪の真意をくみとることはむつかしいのかもしれない。
それほど鷹の爪の魅力はつかみどころがなく、
その存在はこれまでのサブカルチャーのなかでも異色をはなつ。
なにが、なぜおもしろいのか、ということについて、
とらえどころがないのだ。
それを講義としてあつかおうとするから
内藤さんのはなしがあっちにいったり、こっちにいったりするのは
しかたのないことなのだろう。
この本の、ひとつの核となっているのは
「鷹の爪はなぜマイナー感を失わずに
メジャーになったか」だ。
へたうまな絵がうまくなってはいけないし、
キャラクターたちがたくみにうごくようになってもよくない。
マイナー感が生命線でもある鷹の爪は、
しかし進化もまたしていかなければあきられてしまう。
鷹の爪は、とりわけその微妙なバランス感覚が要求される作品だ。
デビューすることはできても、それをつづけるのはかんたんではない。
蛙男こと小野亮氏の経歴をあきらかにしながら、
内藤さんは小野氏の戦略について分析する。
本書は、「鷹の爪」とはいったいなんなのだ、
という問題のおおきさに気づいた内藤さんが、
学問の世界からはじめてとりあげた稀有な本といえるだろう。
よくわからないけど、なんとなくたのしいという、
内藤さんの当初の目標がはたされている。
この本をよんだからといって
鷹の爪の魅力は理解できないけれど、
鷹の爪を社会に位置づけるために必要な本だった。
こういう本がようやくあわられたことをうれしくおもう。
2013年07月15日
『そんなに、変わった?』(酒井順子)その後の負け犬について
『そんなに、変わった?』(酒井順子・講談社)
週刊現代に連載されているエッセイをまとめたもので、
もう8冊目になるそうだ。
おもしろかったのが
「負け犬、十歳になりましたワン!」という回だ。
『負け犬の遠吠え』が出版されてから10年たち、
はやくよみたいとおもっていた「その後の負け犬」について
かんたんにふれてある。
酒井さんがあれだけ
「そんなことでは負け犬になってしまいますよ〜」と
注意をうながしてくれたにもかかわらず、
負け犬はあれからも着実にふえつづけ、
いまや30代前半で独身など、ごくあたりまえというご時世となった。
その間、「負け犬になりたくない」とおもっていた
20代の若者たちはなにをしていたのか。
・負け犬にはなりたくないけれど、
だれとでも結婚したいわけではない
・「良い条件の男性に多くの女性がガッと群がるという
椅子取りゲームの競争が激化」
・かといって、親や職場がお見合いというセーフティーネットを
用意してくれるわけでもない
負け犬をとりまくこれらの状況は、
けっきょくこの10年間でかわらなかった。
「十年まえはどこかで他人事だと思っていましたが、
私もあっという間になってしまいましたよ、負け犬に」
と、おおくのわかものが、なしくずし的に
負け犬になっていった10年だったと総括できる。
負け犬がなにかととりざたされるのは、
「30代未婚・子なし」が日本の人口問題に直結するからだ。
晩婚化は非婚化につうじ、少子に歯どめがかからない。
もっとも、一匹いっぴきの負け犬に人口問題の責任はないわけで、
それぞれの価値観が総体としてつくりあげる社会、という意味において
負け犬のうごきに関心がある。
もうひとつおもしろかったのが、
「高齢者は金次第、若者は顔次第」というはなしだ。
じっさいに、介護職員が「イケメン&美女」という施設があるそうで、
たしかにそれもひとつの企業戦略だと納得できる。
だれだってこのみの職員に介護されたい
「平均寿命の男女差を考えると、
高齢者の多くは女性なわけで、
老人施設はほとんど女子校状態なのです。
その時、求められるのは、イケメン職員ということになる」
わたしが介護される側になったとしたら、
容姿よりも介護技術で職員をえらぶようにおもう。
しかし、にたような能力であれば、もちろんかわいい子のほうがいい。
酒井さんは、
「今の七十代以下の世代は、
韓流ブームの洗礼を受けたイケメン好き」
と指摘する。そういった年齢層が施設利用者になったとき、
そして彼女たちがお金をもっていたとしたら、
いまよりももっと「顔」のよしあしがとわれるようになる。
わたしもひそかに老後の生活に期待していることがある。
料理や身のまわりのことをひとりでできるので、
あんがいおおくの女性に評価されるのではないか、ということだ。
残念ながらイケメンではないけれど、
それなりのプロポーションを維持し、
あそびごころのある、やわらかい頭をたもっていたら、
わるいあそび仲間ではないはずだ。
腰のすわった老美魔女には、
くいたりなくて相手にされないかもしれないが、
数でいえば男のほうがすくないわけだから、
そこそこたのしい老後のような気がする。
健康で、お金があったら、のはなしだけど。
週刊現代に連載されているエッセイをまとめたもので、
もう8冊目になるそうだ。
おもしろかったのが
「負け犬、十歳になりましたワン!」という回だ。
『負け犬の遠吠え』が出版されてから10年たち、
はやくよみたいとおもっていた「その後の負け犬」について
かんたんにふれてある。
酒井さんがあれだけ
「そんなことでは負け犬になってしまいますよ〜」と
注意をうながしてくれたにもかかわらず、
負け犬はあれからも着実にふえつづけ、
いまや30代前半で独身など、ごくあたりまえというご時世となった。
その間、「負け犬になりたくない」とおもっていた
20代の若者たちはなにをしていたのか。
・負け犬にはなりたくないけれど、
だれとでも結婚したいわけではない
・「良い条件の男性に多くの女性がガッと群がるという
椅子取りゲームの競争が激化」
・かといって、親や職場がお見合いというセーフティーネットを
用意してくれるわけでもない
負け犬をとりまくこれらの状況は、
けっきょくこの10年間でかわらなかった。
「十年まえはどこかで他人事だと思っていましたが、
私もあっという間になってしまいましたよ、負け犬に」
と、おおくのわかものが、なしくずし的に
負け犬になっていった10年だったと総括できる。
負け犬がなにかととりざたされるのは、
「30代未婚・子なし」が日本の人口問題に直結するからだ。
晩婚化は非婚化につうじ、少子に歯どめがかからない。
もっとも、一匹いっぴきの負け犬に人口問題の責任はないわけで、
それぞれの価値観が総体としてつくりあげる社会、という意味において
負け犬のうごきに関心がある。
もうひとつおもしろかったのが、
「高齢者は金次第、若者は顔次第」というはなしだ。
じっさいに、介護職員が「イケメン&美女」という施設があるそうで、
たしかにそれもひとつの企業戦略だと納得できる。
だれだってこのみの職員に介護されたい
「平均寿命の男女差を考えると、
高齢者の多くは女性なわけで、
老人施設はほとんど女子校状態なのです。
その時、求められるのは、イケメン職員ということになる」
わたしが介護される側になったとしたら、
容姿よりも介護技術で職員をえらぶようにおもう。
しかし、にたような能力であれば、もちろんかわいい子のほうがいい。
酒井さんは、
「今の七十代以下の世代は、
韓流ブームの洗礼を受けたイケメン好き」
と指摘する。そういった年齢層が施設利用者になったとき、
そして彼女たちがお金をもっていたとしたら、
いまよりももっと「顔」のよしあしがとわれるようになる。
わたしもひそかに老後の生活に期待していることがある。
料理や身のまわりのことをひとりでできるので、
あんがいおおくの女性に評価されるのではないか、ということだ。
残念ながらイケメンではないけれど、
それなりのプロポーションを維持し、
あそびごころのある、やわらかい頭をたもっていたら、
わるいあそび仲間ではないはずだ。
腰のすわった老美魔女には、
くいたりなくて相手にされないかもしれないが、
数でいえば男のほうがすくないわけだから、
そこそこたのしい老後のような気がする。
健康で、お金があったら、のはなしだけど。
2013年07月14日
Wカップ至上主義に反対する 代表だけが、Wカップだけがサッカーではない
7月20日からひらかれる東アジア杯で、
どの選手が代表いりするのかが注目されている。
海外組とJ2のガンバからは招集がみおくられるので、
あたらしい選手や、再挑戦となるベテランにも
声がかかるかもしれないからだ。
柿谷・豊田といったあたらしい選手をためすべきだ、という意見や、
佐藤・闘莉王・大久保の実績を評価すべき、というもの、
また、原口・大迫・柴崎をためすいい機会だとか、
外野がものすごくかまびすしい。
代表選出についてメディアが選手たちをあおりつづけている。
代表にえらばれるかどうかは
ザッケローニ監督のかんがえ方しだいだ。
どれだけ実績をあげても監督のとる戦術にあわなければ
招集されることはない。
どのスポーツにしてもそうだけど、
「監督しだい」というのは、かんがえてみれば
ものすごく不自由なしくみだ。
代表だろうが、所属チームだろうが、
そこの監督に評価されるかどうかで
試合にでられるかどうかのすべてがきまってしまう。
代表キャプテンの長谷部誠選手でさえ、
昨シーズンは所属するヴォルフスブルクの
マガト監督に徹底的にほされてしまい、ベンチにもはいれなくなった。
マガト監督が解任されると、その直後から
また起用されるようになったのは記憶にあたらしい。
その選手の能力がいかにすぐれていても、
つかわれるかどうかは完全に監督の「このみの問題」でしかない。
もっとも、その監督にしても結果をださなければ
すぐにクビにされてしまうので、
きびしい競争原理がはたらいているという意味ではおなじ立場ともいえる。
監督のかんがえに納得できなければ
選手は所属するチームをかえることができる。
しかし、国籍を簡単にかえるわけにはいかないので、
代表にだけはどうしてもえらんでもらわなければならない。
「えらんでもらわなければ、でれない」というのは
かなりつらい状況だ。
それに、代表にえらばれたからといって、
すぐにつかわれるわけではないし、
ましてやレギュラーの座をえるのはそうかんたんではない。
選手たちは、つまらないくはないか。
Wカップへの出場や代表にえらばれることを目標にすると、
どうしても選手は「えらばれる側」であり、
主体的になにかをきめる側にはない。
自分が代表監督にえらばれないことを、
実力がともなわないから、とか
結果はあとからついてくる、とか
ほんとうにそう達観できればいいけれど、
Wカップ出場を、到達すべき最高の目標として位置づけたりすると
あまりにもそれにふりまわされてしまいがちだ。
このごろのメディアは、代表選出について
度をこしてやかましくなっており、
選手たちをあおりつづけている。
しかし、サッカー選手としてのしあわせは、
Wカップに出場することだけではないとおもう。
サッカーは野球よりもはるかに現役でいられる年数がかぎられており、
ひとりの選手のピーク中に
Wカップ開催は3回あるかないか、というところだろう。
4年にいちどのこの大会にからむには、
運もまた必要になってくる。
Wカップを中心にサッカーをかんがえてしまうと、
自分できめられることはそうおおくはない。
主体的な立場にない状況では、
自由な思考がうばわれてしまいがちだ。
きのうおこなわれた柏レイソル対鹿島アントラーズ戦には、
ザッケローニ監督が視察におとずれていた。
レイソルの工藤とアントラーズの大迫という
ふたりのフォワードが注目されていたが、
この試合ではふたりとも得点をあげることができなかった。
とくに大迫は決定的なチャンスをなんどもはずしてしまい、
反対の意味で代表監督に印象づけてしまったかもしれない。
きめるべきときにきめられなかったのは残念だろうが、
それを代表選出と関連づけるといっきょにつまらなくなる。
選手には、目のまえの試合に集中してもらいたい。
ザッケローニ監督の視察がどう予定されていても、
へんな色気をださずに自分の特徴をいかしたプレーをする。
代表チームにあまりたかい価値をおかないほうが、
選手としても応援するほうにしても
健全な距離感でサッカーをたのしめる。
代表だけが、Wカップだけがサッカーではない。
どの選手が代表いりするのかが注目されている。
海外組とJ2のガンバからは招集がみおくられるので、
あたらしい選手や、再挑戦となるベテランにも
声がかかるかもしれないからだ。
柿谷・豊田といったあたらしい選手をためすべきだ、という意見や、
佐藤・闘莉王・大久保の実績を評価すべき、というもの、
また、原口・大迫・柴崎をためすいい機会だとか、
外野がものすごくかまびすしい。
代表選出についてメディアが選手たちをあおりつづけている。
代表にえらばれるかどうかは
ザッケローニ監督のかんがえ方しだいだ。
どれだけ実績をあげても監督のとる戦術にあわなければ
招集されることはない。
どのスポーツにしてもそうだけど、
「監督しだい」というのは、かんがえてみれば
ものすごく不自由なしくみだ。
代表だろうが、所属チームだろうが、
そこの監督に評価されるかどうかで
試合にでられるかどうかのすべてがきまってしまう。
代表キャプテンの長谷部誠選手でさえ、
昨シーズンは所属するヴォルフスブルクの
マガト監督に徹底的にほされてしまい、ベンチにもはいれなくなった。
マガト監督が解任されると、その直後から
また起用されるようになったのは記憶にあたらしい。
その選手の能力がいかにすぐれていても、
つかわれるかどうかは完全に監督の「このみの問題」でしかない。
もっとも、その監督にしても結果をださなければ
すぐにクビにされてしまうので、
きびしい競争原理がはたらいているという意味ではおなじ立場ともいえる。
監督のかんがえに納得できなければ
選手は所属するチームをかえることができる。
しかし、国籍を簡単にかえるわけにはいかないので、
代表にだけはどうしてもえらんでもらわなければならない。
「えらんでもらわなければ、でれない」というのは
かなりつらい状況だ。
それに、代表にえらばれたからといって、
すぐにつかわれるわけではないし、
ましてやレギュラーの座をえるのはそうかんたんではない。
選手たちは、つまらないくはないか。
Wカップへの出場や代表にえらばれることを目標にすると、
どうしても選手は「えらばれる側」であり、
主体的になにかをきめる側にはない。
自分が代表監督にえらばれないことを、
実力がともなわないから、とか
結果はあとからついてくる、とか
ほんとうにそう達観できればいいけれど、
Wカップ出場を、到達すべき最高の目標として位置づけたりすると
あまりにもそれにふりまわされてしまいがちだ。
このごろのメディアは、代表選出について
度をこしてやかましくなっており、
選手たちをあおりつづけている。
しかし、サッカー選手としてのしあわせは、
Wカップに出場することだけではないとおもう。
サッカーは野球よりもはるかに現役でいられる年数がかぎられており、
ひとりの選手のピーク中に
Wカップ開催は3回あるかないか、というところだろう。
4年にいちどのこの大会にからむには、
運もまた必要になってくる。
Wカップを中心にサッカーをかんがえてしまうと、
自分できめられることはそうおおくはない。
主体的な立場にない状況では、
自由な思考がうばわれてしまいがちだ。
きのうおこなわれた柏レイソル対鹿島アントラーズ戦には、
ザッケローニ監督が視察におとずれていた。
レイソルの工藤とアントラーズの大迫という
ふたりのフォワードが注目されていたが、
この試合ではふたりとも得点をあげることができなかった。
とくに大迫は決定的なチャンスをなんどもはずしてしまい、
反対の意味で代表監督に印象づけてしまったかもしれない。
きめるべきときにきめられなかったのは残念だろうが、
それを代表選出と関連づけるといっきょにつまらなくなる。
選手には、目のまえの試合に集中してもらいたい。
ザッケローニ監督の視察がどう予定されていても、
へんな色気をださずに自分の特徴をいかしたプレーをする。
代表チームにあまりたかい価値をおかないほうが、
選手としても応援するほうにしても
健全な距離感でサッカーをたのしめる。
代表だけが、Wカップだけがサッカーではない。
2013年07月13日
夏やすみをどういきのびるか
「放課後等デイサービス」という事業名ではありながら、
そのおおきな役わりとして夏やすみなどの
長期休暇中の支援がピピには期待されている。
ふだんは3時間程度をピピですごしているだけだけど、
夏やすみにはながいひとで8時間の活動を用意しなければならない。
いちねんで、いちばんいそがしくなる時期をまえに、
ビビったりうろたえたりしながら
まちがいなくもうすぐやってくる夏やすみにおびえている。
きょねんは夏やすみをどうすごしていたのだろう。
参考にと、きょねんかいたブログをよんでみた。
映画をみたこと、本もそれなりによんでいる。
サッカーもみているし、ネコたちのようすもかいてある。
デイサービスの仕事についての記述はほとんどなく、
のんびりと夏をすごしたようすがつたわってくる。
きょねんは開所したばかりで、利用者がまだすくなかった。
いちにちにおおくて3人。すくない日は1人と、
これではいそがしいおもいなどするわけがない。
ことしは状況がまるでちがう。
おおい日には18人の利用希望がでているので、
どうしても「おことわり」しなければならない日がでてくるし、
ピピですごす活動についても
10人以上の子どもたちがたいくつしないで
8時間をすごすながれをかんがえなければならない。
ノーテンキにすごせたきょねんがなつかしくなってきた。
利用人数のデコボコをならすために、利用調整にとりくむ。
ピピは10人定員の事業所なので、
平均で12人以下、いちにち最大15人をうわまわってはならない。
さいわいおおくの保護者の方にご理解いただき、
どうしても利用したい日と、
ピピをおやすみしても大丈夫な日をききだすことができた。
なんとかたかい山をけずって
なだらかな山なみにかえられそうだ。
人数はおおいけど、子どもたちは、スケジュールにそって
自分のやりたいことにとりくめるようになってきている。
たいへんだ、たいへんだと、
おおさわぎして夏やすみをむかえてみたら、
じつはぜんぜん大丈夫だった、という
ハッピーエンドに期待してもいる。
個人的なごほうびもひそかに準備して、
なんとかぶじに9月をむかえたい。
そのおおきな役わりとして夏やすみなどの
長期休暇中の支援がピピには期待されている。
ふだんは3時間程度をピピですごしているだけだけど、
夏やすみにはながいひとで8時間の活動を用意しなければならない。
いちねんで、いちばんいそがしくなる時期をまえに、
ビビったりうろたえたりしながら
まちがいなくもうすぐやってくる夏やすみにおびえている。
きょねんは夏やすみをどうすごしていたのだろう。
参考にと、きょねんかいたブログをよんでみた。
映画をみたこと、本もそれなりによんでいる。
サッカーもみているし、ネコたちのようすもかいてある。
デイサービスの仕事についての記述はほとんどなく、
のんびりと夏をすごしたようすがつたわってくる。
きょねんは開所したばかりで、利用者がまだすくなかった。
いちにちにおおくて3人。すくない日は1人と、
これではいそがしいおもいなどするわけがない。
ことしは状況がまるでちがう。
おおい日には18人の利用希望がでているので、
どうしても「おことわり」しなければならない日がでてくるし、
ピピですごす活動についても
10人以上の子どもたちがたいくつしないで
8時間をすごすながれをかんがえなければならない。
ノーテンキにすごせたきょねんがなつかしくなってきた。
利用人数のデコボコをならすために、利用調整にとりくむ。
ピピは10人定員の事業所なので、
平均で12人以下、いちにち最大15人をうわまわってはならない。
さいわいおおくの保護者の方にご理解いただき、
どうしても利用したい日と、
ピピをおやすみしても大丈夫な日をききだすことができた。
なんとかたかい山をけずって
なだらかな山なみにかえられそうだ。
人数はおおいけど、子どもたちは、スケジュールにそって
自分のやりたいことにとりくめるようになってきている。
たいへんだ、たいへんだと、
おおさわぎして夏やすみをむかえてみたら、
じつはぜんぜん大丈夫だった、という
ハッピーエンドに期待してもいる。
個人的なごほうびもひそかに準備して、
なんとかぶじに9月をむかえたい。
2013年07月12日
『東南アジア紀行』(梅棹忠夫)の魅力
お風呂で本をよむ時間がながくなっている。
いわゆる半身浴というやつで、
ちょっとぬるいかなー、くらいの温度のお湯に
20分くらいつかっていると、
冗談みたいに汗がでてくる。
辻村深月のながい本も、そうやってかなりの分量をお風呂でよんできた。
大量にながれでる汗は、お風呂からあがってもなかなかひかない。
水をのむとまた汗がでてくるので、
もういちどお風呂につかって汗をながし、
ということを「お風呂」のあとさらに2回くりかえす。
なんだかんだと1時間くらい時間をかけたこの入浴で、
その日の老廃物を全部だしきったかのようなサラサラの皮膚になる。
お風呂のあとは寝床にねそべってよむ。
お酒をのみながらになるので、
なんどもよんできた本や旅行記など、
ねる前の読書にてきした本をえらぶ。
このごろは梅棹忠夫さんの『東南アジア紀行』と
村上春樹さんの『遠い太鼓』の、
数あるすきなところをめくりながら
いちにちのおわりの儀式をたのしむことがおおい。
『東南アジア紀行』は、1957年に梅棹忠夫さんが隊長をつとめた
大阪市立大学の調査隊についてのものだ。
タイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを、
自分たちがもちこんだ車でまわる。
わたしがまだ生まれるまえにおこなわれたふるい旅行なのに、
なんどよんでもたのしめるのは、
歴史へのふかい知識とたしかな観察力によって
現地でみたこと・体験したことを、
梅棹さんが自分のなかでかみくだき、分析されているからだ。
梅棹さんは、みたことがない景色におどろきながら
そこに歴史的な意味をかさねて自説をくみたてる。
わかりやすくかかれていながら、学術的なかおりにあふれており、
目にしたものへのおどろきだけをつづった旅行記とは
一線をかくしている。
土地々々のめずらしいたべものや風習を紹介する旅行記はたくさんあるが、
梅棹さんのような文章をかけるひとはほとんどいない。
ジン・トニックにだんだんよっぱらいながら、
タイからカンボジアにぬけ、
そこからベトナムへ・ラオスへと足をのばしていく
梅棹さんの自動車旅行をおいかける。
いまから55年もむかし、自由自在に
東南アジアの国々をめぐったこの旅行記が
いまもなおわたしがやりたい旅行の原点になっている。
いわゆる半身浴というやつで、
ちょっとぬるいかなー、くらいの温度のお湯に
20分くらいつかっていると、
冗談みたいに汗がでてくる。
辻村深月のながい本も、そうやってかなりの分量をお風呂でよんできた。
大量にながれでる汗は、お風呂からあがってもなかなかひかない。
水をのむとまた汗がでてくるので、
もういちどお風呂につかって汗をながし、
ということを「お風呂」のあとさらに2回くりかえす。
なんだかんだと1時間くらい時間をかけたこの入浴で、
その日の老廃物を全部だしきったかのようなサラサラの皮膚になる。
お風呂のあとは寝床にねそべってよむ。
お酒をのみながらになるので、
なんどもよんできた本や旅行記など、
ねる前の読書にてきした本をえらぶ。
このごろは梅棹忠夫さんの『東南アジア紀行』と
村上春樹さんの『遠い太鼓』の、
数あるすきなところをめくりながら
いちにちのおわりの儀式をたのしむことがおおい。
『東南アジア紀行』は、1957年に梅棹忠夫さんが隊長をつとめた
大阪市立大学の調査隊についてのものだ。
タイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを、
自分たちがもちこんだ車でまわる。
わたしがまだ生まれるまえにおこなわれたふるい旅行なのに、
なんどよんでもたのしめるのは、
歴史へのふかい知識とたしかな観察力によって
現地でみたこと・体験したことを、
梅棹さんが自分のなかでかみくだき、分析されているからだ。
梅棹さんは、みたことがない景色におどろきながら
そこに歴史的な意味をかさねて自説をくみたてる。
わかりやすくかかれていながら、学術的なかおりにあふれており、
目にしたものへのおどろきだけをつづった旅行記とは
一線をかくしている。
土地々々のめずらしいたべものや風習を紹介する旅行記はたくさんあるが、
梅棹さんのような文章をかけるひとはほとんどいない。
ジン・トニックにだんだんよっぱらいながら、
タイからカンボジアにぬけ、
そこからベトナムへ・ラオスへと足をのばしていく
梅棹さんの自動車旅行をおいかける。
いまから55年もむかし、自由自在に
東南アジアの国々をめぐったこの旅行記が
いまもなおわたしがやりたい旅行の原点になっている。