高校にかよっているむすこが「はき気がする」といって
先週末から学校にいったりいかなかったりしている。
今朝は配偶者が車で学校へおくったようだ。
何週間かまえにもはき気をうったえてやすんだことがあり、
体調がよくないのもたしかなようで、
家での食事もあまり量をたべなくなっている。
ただ、体調ばかりではなく、原因はよくわからないが、
学校にいきにくくなってもいるようにみえる。
こういうときに父親はどういう態度をとるべきだろう。
以前の職場で、ある保護者の方と
父親の存在意義みたいなことをはなしたときに、
「自分はたいしたことをしてやれないが、
いざというときにちからになってやれる存在でいたい」といわれた。
「いざというとき」とは、不登校やひきこもりになったときに、
精神的な支柱となりたい、という意味だったとおもう。
わたしも意識としてはまったくおなじことをかんがえており、
世の父親が共通してもっている役割像についておもしろいとおもった。
その方はわたしとちがい社会的にもりっぱな仕事をされておられ、
大人とはこういうひとのことをいうのだ、みたいな人格者だ。
そういう方でも「いざというとき」の存在として
自分をとられておられるとは。
むすこが学校にいかなくなれば、
もちろんその理由をしりたいとはおもうものの、
基本的にはしょうがないこととしてとうけとめるだろう。
ずっと家にこもられて、TVゲームに熱中されてもこまるので、
あまり家のいごこちをよくしないようにして、しばらくようすをみる。
いっしょに旅行へいくしかないか、
なんていって、外国へつれだすかもしれない。
ゲストハウスにとまり、ディープな滞在ができれば
なにがしかのインパクトをあたえるのではないか。
自分の旅行への欲とからめてかんがえるのが
わたしの調子のいいところで、
旅行につれだす役は、父親でないほうがいいとおもいつつ、
できれば自分もいっしょにまわりたい。
世界のひろさをわかいうちに体験するのも大切な勉強だ。
わたしには、それぐらいのことしかできないと
ずっとまえから「覚悟」していた。
いよいよその出番がきたのだろうか。
すこしまえから「パソコンがほしい」とむすこがいっており、
パソコンがほしいくらい欲望があるのなら、
そうたいして精神的なおちこみは心配しなくてもいいかもしれない。
「パソコンがほしい」といわれ、
すぐにかってやるなんておもしろくないので、
パソコンをかったらどんなことをしてくれるか
プレゼンテーションをするようにつたえている。
彼はすでにスマホをもっており、ネットにいつでもつながっているし、
パソコンはわたしがつかっているiMacを
べつのアカウントではいれるようにしてある。
パソコンがどうしても必要な状況ではないわけで、
それなのになぜまたパソコンなのか。
説得力のあるプレゼンと、パソコンの購入にともなって
我が家にむすこがどういう貢献をしてくれるのかをしりたいとおもう。
ひごろ父親らしいことはなにもしないでおいて、
とかきながら、それでは「父親らしいこと」とはなんだろう、ともおもう。
いまさらしつけや道徳についてはなしをするわけにはいかないし、
いっしょに体力づくりにはげむのもへんだ。
自分がどういう生きかたをしているのかをみせるしか
わたしにできることはない。
テキトーでしょぼいわたしのスタイルを
どう判断するかはむすこしだいだ。
これからげんきをとりもどして
学校にいけるようになるだろうか。
なにかもっとつまづきがでるのだろうか。
いざとなったら、カオサンのゲストハウスくらいにはつれていこう。
2013年07月11日
2013年07月10日
「底がぬけた」中高年者エクササイズのかなしみ
8月5日におこなわれるスイムランをめざして
ほそぼそと練習にとりくんでいる。
1ヶ月半まえに再開した水泳は、なんとか1500メートルを
つづけておよげるようになっている。
でも、しんじられないくらいおそい。
どうしても1500メートルに34分ちかくかかってしまう。
いったい自分がどんなかっこうでおよいでいるのか、
もしみることができたら、さぞかしおぞましいフォームなのだろう。
いつもだと、再開しはじめのときこそノタノタしたおよぎとはいえ、
しばらくすると30分をきれるように(ほんのすこしだけど)なるのに。
そのときにも現役のころとくらべておはなしにならないタイムなので、
いったい自分のからだになにがおきたのかと愕然としたものだ。
しかし、あのときはまだ「底」ではなかった。
あれからさらにタイムをおとし、
壁にかけてある秒針時計にがっくりする日々だ。
そして、いまもまた「底」であるという保障はない。
おそらく底はまだまだこんなものではなく、
およげばおよぐほど、練習すればするほどかなしいタイムにであう
負のスパイラルにおちいったかなしい中年スイマー。
基本的には老化なのであり、
もうすこしまともなタイムをだそうとおもうなら、
週に2回程度の水泳ではなく、毎日のトレーニングが必要なのだろう。
そして、だからといってどれだけその労力が結果に反映されるかは、
たいして期待できない気がする。
いまやわたしはアスリートではなく、
健康づくりにとりくむオヤジでしかないのだ。
自分では全盛期のフォームとタイムが
ほんのちょっとしたきっかけでとりもどせるような気がするのに、
それができたのはもう10年まえのことだったのだ、きっと。
むかしのイメージにしがみつくからかなしいのであり、
なんとかはしったりおよいだりできるコンディションを
たもてていることに感謝すべき状況なのだろう。
経験者は現役(かんがえてみればこわいことばだ)
のころのイメージがあるので、
からだがうごかなくなったときのギャップにくるしむということをよくきく。
まさかそれが自分にもふりかかってくるなんて。
練習にとりくむまえのしんじられないダルさは、
老化がまだまだこんなものではないことをしめしているようで
これからたどりつくいきさきがこわい。
スタートの号砲とともにいきおいよく水にとびこみ、
しっかりとした手ごたえでたのもしくすすんいく自分を、
ついこのまえみたいにおもってしまう。
現実とイメージの差は、うけいれがたいし、しんじられない。
精神的な熟成がないので、
からだまでむかしとおなじようにおもっていたら、
生物学的な賞味期間は着実にちかづいていたのだ。
水泳は、タイムによって客観的にそれをおしえてくれるから
ありがたいというか、身もフタもないというか。
わたしの「底」はどこにあるのか。
底なんて、ほんとにあるのか。
ほそぼそと練習にとりくんでいる。
1ヶ月半まえに再開した水泳は、なんとか1500メートルを
つづけておよげるようになっている。
でも、しんじられないくらいおそい。
どうしても1500メートルに34分ちかくかかってしまう。
いったい自分がどんなかっこうでおよいでいるのか、
もしみることができたら、さぞかしおぞましいフォームなのだろう。
いつもだと、再開しはじめのときこそノタノタしたおよぎとはいえ、
しばらくすると30分をきれるように(ほんのすこしだけど)なるのに。
そのときにも現役のころとくらべておはなしにならないタイムなので、
いったい自分のからだになにがおきたのかと愕然としたものだ。
しかし、あのときはまだ「底」ではなかった。
あれからさらにタイムをおとし、
壁にかけてある秒針時計にがっくりする日々だ。
そして、いまもまた「底」であるという保障はない。
おそらく底はまだまだこんなものではなく、
およげばおよぐほど、練習すればするほどかなしいタイムにであう
負のスパイラルにおちいったかなしい中年スイマー。
基本的には老化なのであり、
もうすこしまともなタイムをだそうとおもうなら、
週に2回程度の水泳ではなく、毎日のトレーニングが必要なのだろう。
そして、だからといってどれだけその労力が結果に反映されるかは、
たいして期待できない気がする。
いまやわたしはアスリートではなく、
健康づくりにとりくむオヤジでしかないのだ。
自分では全盛期のフォームとタイムが
ほんのちょっとしたきっかけでとりもどせるような気がするのに、
それができたのはもう10年まえのことだったのだ、きっと。
むかしのイメージにしがみつくからかなしいのであり、
なんとかはしったりおよいだりできるコンディションを
たもてていることに感謝すべき状況なのだろう。
経験者は現役(かんがえてみればこわいことばだ)
のころのイメージがあるので、
からだがうごかなくなったときのギャップにくるしむということをよくきく。
まさかそれが自分にもふりかかってくるなんて。
練習にとりくむまえのしんじられないダルさは、
老化がまだまだこんなものではないことをしめしているようで
これからたどりつくいきさきがこわい。
スタートの号砲とともにいきおいよく水にとびこみ、
しっかりとした手ごたえでたのもしくすすんいく自分を、
ついこのまえみたいにおもってしまう。
現実とイメージの差は、うけいれがたいし、しんじられない。
精神的な熟成がないので、
からだまでむかしとおなじようにおもっていたら、
生物学的な賞味期間は着実にちかづいていたのだ。
水泳は、タイムによって客観的にそれをおしえてくれるから
ありがたいというか、身もフタもないというか。
わたしの「底」はどこにあるのか。
底なんて、ほんとにあるのか。
2013年07月09日
いまさらながらコンフェデ杯決勝 個人的MVPはダビド=ルイス
コンフェデ杯決勝
スペイン対ブラジル
このカードでおもいだされるのは、代表チームではないけれど、
2011年クラブW杯でのバルセロナ対サントスの試合だ。
メッシとネイマールの対決が注目をあつめたものの、
バルセロナがつなぐこまかいパスはサントスをまったくよせつけず、
4-0と圧勝した。
コンフェデ杯はどうなるだろうか。
ブラジルは試合開始からはげしいプレスをかける。
まさかこの時間には、とおもっていた前半2分に
フレッジがつぶされながらもゴールにおしこんだ。
よこたわったまま右足をふりぬく。
なにがなんでも点をいれるんだ、というかたい意思がつたわってくるゴールだ。
前半終了間際にも、ネイマールが技ありのシュートをきめて2点目。
この大会で、ブラジルの得点はどれも効果的な時間帯にあげられている。
それを象徴するような決勝戦の得点シーンだ。
いくつもの「山」があったものの、
この試合を象徴するのは、なんといっても
ダビド=ルイスのありえないカバーリングだ。
もうぜったいにゴールにすいこまれていくにきまっているボールを
ダビド=ルイスはあきらめずに足にあて、
枠外にはじきだしてしまう。
おいついたところでオウンゴールになるコースだったのに、
ダビド=ルイスはボールめがけてすべりこみ、
奇跡的なプレーを成功させた。
ダビド=ルイスはグループリーグのメキシコ戦で
鼻地をだしながらつめものをしてプレーをつづけたり(あとで骨折と判明)、
ウルグアイ戦でのコーナーキックのときに、
マークする相手選手の服をひっぱってひきずりたおし、
イエローカードをもらったり
(フォルランのPKはジュリオ=セザールがとめた)と大活躍だ。
ぜんぜん危険をかえりみないプレーはかなりやばそうで、
「いっちゃってる感」がある。
スペイン戦でのカバーリングは
試合のながれがスペインへたむくのをふせぎ、
そのままブラジルペースで試合がすすむことになる。
スペインは、まえのイタリアとの試合で
延長戦をふくめた120分をたたかいぬき、
その中2日ということもあって
さすがにコンディションが万全ではない。
スペインだけでなく、今回のコンフェデ杯であきらかになったのは、
ひろいブラジルでコンディションをたもつむつかしさだ。
冬かとおもっていたのに、30℃をこえる日もあったし、
移動距離だって半端ではない。
スペインは、イタリア戦とおなじようにパスサッカーがふうじられて、
なかなか自分たちのリズムをつくれなかった。
決勝戦のこの試合は、
3-0と圧勝したブラジルをたたえるべきだろう。
ネイマールは実力をしめしたし、
チーム全体のたたかう姿勢もすばらしかった。
1年後のW杯にむけて、ブラジルは雑音を気にせずに
チームづくりに専念できる条件をえることができた。
反対に、日本はこれからすすむ方向性に疑問符がついたかたちだ。
でも、南アフリカ大会のときみたいに、また守備的になることはなさそうだ。
どんどんせめこんでいくのが日本のスタイルと、
ひろくみとめられる大会になることをねがっている。
スペイン対ブラジル
このカードでおもいだされるのは、代表チームではないけれど、
2011年クラブW杯でのバルセロナ対サントスの試合だ。
メッシとネイマールの対決が注目をあつめたものの、
バルセロナがつなぐこまかいパスはサントスをまったくよせつけず、
4-0と圧勝した。
コンフェデ杯はどうなるだろうか。
ブラジルは試合開始からはげしいプレスをかける。
まさかこの時間には、とおもっていた前半2分に
フレッジがつぶされながらもゴールにおしこんだ。
よこたわったまま右足をふりぬく。
なにがなんでも点をいれるんだ、というかたい意思がつたわってくるゴールだ。
前半終了間際にも、ネイマールが技ありのシュートをきめて2点目。
この大会で、ブラジルの得点はどれも効果的な時間帯にあげられている。
それを象徴するような決勝戦の得点シーンだ。
いくつもの「山」があったものの、
この試合を象徴するのは、なんといっても
ダビド=ルイスのありえないカバーリングだ。
もうぜったいにゴールにすいこまれていくにきまっているボールを
ダビド=ルイスはあきらめずに足にあて、
枠外にはじきだしてしまう。
おいついたところでオウンゴールになるコースだったのに、
ダビド=ルイスはボールめがけてすべりこみ、
奇跡的なプレーを成功させた。
ダビド=ルイスはグループリーグのメキシコ戦で
鼻地をだしながらつめものをしてプレーをつづけたり(あとで骨折と判明)、
ウルグアイ戦でのコーナーキックのときに、
マークする相手選手の服をひっぱってひきずりたおし、
イエローカードをもらったり
(フォルランのPKはジュリオ=セザールがとめた)と大活躍だ。
ぜんぜん危険をかえりみないプレーはかなりやばそうで、
「いっちゃってる感」がある。
スペイン戦でのカバーリングは
試合のながれがスペインへたむくのをふせぎ、
そのままブラジルペースで試合がすすむことになる。
スペインは、まえのイタリアとの試合で
延長戦をふくめた120分をたたかいぬき、
その中2日ということもあって
さすがにコンディションが万全ではない。
スペインだけでなく、今回のコンフェデ杯であきらかになったのは、
ひろいブラジルでコンディションをたもつむつかしさだ。
冬かとおもっていたのに、30℃をこえる日もあったし、
移動距離だって半端ではない。
スペインは、イタリア戦とおなじようにパスサッカーがふうじられて、
なかなか自分たちのリズムをつくれなかった。
決勝戦のこの試合は、
3-0と圧勝したブラジルをたたえるべきだろう。
ネイマールは実力をしめしたし、
チーム全体のたたかう姿勢もすばらしかった。
1年後のW杯にむけて、ブラジルは雑音を気にせずに
チームづくりに専念できる条件をえることができた。
反対に、日本はこれからすすむ方向性に疑問符がついたかたちだ。
でも、南アフリカ大会のときみたいに、また守備的になることはなさそうだ。
どんどんせめこんでいくのが日本のスタイルと、
ひろくみとめられる大会になることをねがっている。
2013年07月08日
『ランチのアッコちゃん』(柚木麻子)
『ランチのアッコちゃん』(柚木麻子・双葉社)
帯にかいてあるのは
「読むほどに不思議と元気が湧く、
新感覚ビタミン小説誕生!!」
たしかによくきいた。
よんだタイミングがよかった。
つかれがたまり、なにもする気になれない。
ふとんによこになってボーっとしていた。
すこしまえにかったけど、ほったらかしていた
『ランチのアッコちゃん』が枕もとにあり、
なんとなく手にとってよみはじめる。
よくきくサプリメントみたいで、すぐにいい気分になってきた。
山本幸久のお仕事小説をおもいだす。
魔法みたいなききめのある、ごきげんなものがたりだ。
派遣社員の三智子は、「YESしか言えないんじゃねえの?」と
4年つきあってきた恋人にふられたばかり。
しょぼくれた顔をしていると、ちょっとしたことがきっかけで、
上司の「アッコちゃん」に一週間お弁当をつくることになる。
そのかわりに、アッコちゃんのランチを三智子がたべる、という交換条件だ。
アッコちゃんは曜日ごとにでかける店とメニューをきめており、
それらの店で姿三智子はだんだんとアッコちゃんの魅力に気づいていくことになる。
一週間がおわるころには、三智子はげんきをとりもどし、
あたらしいメニューをつくったり、事業の企画書を提出できるくらい
まえむきに生きていけるようになっている。
日がわりでランチの司令がだされる。
それにしたがってうごいていくと事件にまきこまれ、
誠実に目のまえの状況に対応していくうちに、
それまで気づかなかった自分のちからをしるようになる、という
ミステリーじたてのお仕事小説だ。
4編のうちの2編をよんだところで本の効果があらわれて、
わたしもいつもとちがうことをしたくなった。
はやめにかいものをすませ、ときどきでかける紅茶専門店にはいってつづきをよむ。
残念なことに、のこりの2編は「アッコちゃん」ものではなかった
(どちらも、ほんのちょっとだけ「アッコちゃん」たちが顔をだす)。
わるくはないけれど、かといってそうたいしたはなしではない。
『ビブリオ古書堂の事件手帖』みたいに、
アッコちゃんだけの短篇集としてまとめてほしかった。
ひとがげんきになっていくことと、たべることはふかい関係がある。
そのときどきでなやんでいることも、
ちょっとその場をはなれてながめる余裕をもてれば、
たいていのことは大丈夫そうだ。
その余裕は、なにをどうたべるか、ということにかかわってくる。
たべることをきりくちに、つかれていたわたしを
ちょっとげんきにしてくれた気もちのいいお仕事小説だ。
帯にかいてあるのは
「読むほどに不思議と元気が湧く、
新感覚ビタミン小説誕生!!」
たしかによくきいた。
よんだタイミングがよかった。
つかれがたまり、なにもする気になれない。
ふとんによこになってボーっとしていた。
すこしまえにかったけど、ほったらかしていた
『ランチのアッコちゃん』が枕もとにあり、
なんとなく手にとってよみはじめる。
よくきくサプリメントみたいで、すぐにいい気分になってきた。
山本幸久のお仕事小説をおもいだす。
魔法みたいなききめのある、ごきげんなものがたりだ。
派遣社員の三智子は、「YESしか言えないんじゃねえの?」と
4年つきあってきた恋人にふられたばかり。
しょぼくれた顔をしていると、ちょっとしたことがきっかけで、
上司の「アッコちゃん」に一週間お弁当をつくることになる。
そのかわりに、アッコちゃんのランチを三智子がたべる、という交換条件だ。
アッコちゃんは曜日ごとにでかける店とメニューをきめており、
それらの店で姿三智子はだんだんとアッコちゃんの魅力に気づいていくことになる。
一週間がおわるころには、三智子はげんきをとりもどし、
あたらしいメニューをつくったり、事業の企画書を提出できるくらい
まえむきに生きていけるようになっている。
日がわりでランチの司令がだされる。
それにしたがってうごいていくと事件にまきこまれ、
誠実に目のまえの状況に対応していくうちに、
それまで気づかなかった自分のちからをしるようになる、という
ミステリーじたてのお仕事小説だ。
4編のうちの2編をよんだところで本の効果があらわれて、
わたしもいつもとちがうことをしたくなった。
はやめにかいものをすませ、ときどきでかける紅茶専門店にはいってつづきをよむ。
残念なことに、のこりの2編は「アッコちゃん」ものではなかった
(どちらも、ほんのちょっとだけ「アッコちゃん」たちが顔をだす)。
わるくはないけれど、かといってそうたいしたはなしではない。
『ビブリオ古書堂の事件手帖』みたいに、
アッコちゃんだけの短篇集としてまとめてほしかった。
ひとがげんきになっていくことと、たべることはふかい関係がある。
そのときどきでなやんでいることも、
ちょっとその場をはなれてながめる余裕をもてれば、
たいていのことは大丈夫そうだ。
その余裕は、なにをどうたべるか、ということにかかわってくる。
たべることをきりくちに、つかれていたわたしを
ちょっとげんきにしてくれた気もちのいいお仕事小説だ。
2013年07月07日
『スロウハイツの神様』(辻村深月)「いいはなし」にはられた伏線の数々
『スロウハイツの神様』(辻村深月・講談社文庫)
4冊目の辻村深月作品。
どの本もまるでちがうスタイルなのに、
辻村テイストにみちている。辻村深月の本線がどこにあるのか
わたしにはまだわからない。それぞれどれも圧倒的におもしろい。
この本もまた、これまでとちがった
やさしさとつよさをたのしませてくれた。
はじめからいろんなひとの名前がとびかい、
ものがたりになかなかはいりこめない。
とちゅうでなげだしてしまうかも、と
イライラしながらなんとかよみすすめる。
「スロウハイツ」というアパートに、
小説家・脚本家・漫画家など、作家たちがくらす。
もっとも、名前がうれているのは
脚本家の赤羽環と小説家のチヨダ・コーキだけで、
あとのメンバーは「夢が叶う予定もないニート」たちだ。
現代版のトキワ荘なのだそうだ。
メンバーは家主である赤羽環がきめる。
設定のおもいしろさでひっぱっていくのかとおもっていると、
だんだんとスタートからは予想できなかった
ひろくてふかい構図があきらかになってくる。
上下巻で850ページもあるながいストーリーのなかに、
いくつものエピソードが巧妙にシャッフルされており、
それらがあとからだんだんときいてくる。
はじめて環を紹介されたときにコーキは
「ああ。ーお久しぶりです」という。
コーキの大ファンである環は、
そんなありきたりのかんちがいをされるほど、
コウキにとって自分はとるにたらない存在なのだとがっかりする。
でも、そうではなかった。
ほんとうに、「お久しぶり」だったのだ。
この本の「予想外の展開」になれてくると、
さびれた図書館になぜチヨダ・コーキの本がならぶようになったか、
クリスマスの夜に、だれが「ハイツ・オブ・オズ」のケーキをくれたのかが
わかるようになる。
でも、だからといって期待がうらぎられるわけではない。
胸のおくにしまいこんでいるあつい気もちを
みんなたくみにかくしながら、
ものがたり全体としてつよく、やさしい。
『スロウハイツの神様』は環とコーキのものがたりだ。
自分の作品が、少女たちの生きるささえになっていることをしったコーキは、
自分の仕事にほこりをもてるようになり、ふたたび創作にむかう。
その「いいはなし」がかたられるために、
いったいどれだけの伏線がはられていたことか。
「スロウハイツ」の神様は、もちろんほかのメンバーにも
目をとどかせる。
「ひたすら優しく、誰も傷つかず」という
子どもむけのマンガしかかけない狩野は、
編集部からの評価がひくくなかなか芽がでない。
ある日、その狩野の作品をよんで環がないてしまった。
涙のせいで化粧がくずれ、ピエロのメイクみたいな顔になる。
「『どうしてくれるんだよ。
私、今夜これから出かけるのに』
環の声は怒っていた。目が赤く充血し、
瞼の端から新しく涙が滲む」
「狩野は、決意したのだ。とにかく、嬉しかった。
人を傷つけず、闇も覗き込まずに、
相手を感動させ、心を揺さぶることは、きっとできる。
そうやって生きていこう、自分の信じる、優しい世界を完成させよう。
それができないなら自分の人生は失敗しているもおなじなんだと」
スロウハイツにくらす「夢が叶う予定もないニート」たちは、
狩野みたいにゆらぎながらもそれぞれが自分をしんじて創作をつづける。
きりひらいていくのは自分でしかない。
そうしたきびしい世界で生きるときに、
スロウハイツの仲間たちがいることが(環のきびしさもふくめて)
どれだけ彼らのささえになったことだろう。
スロウハイツは、たしかに現代版のトキワ荘ものがたりでもある。
わたしは環を栗山千明にキャスティングしてよんだ。
いいはなしだった。
環がスーにいった
「何かに依存しなけりゃ生きていけない個性の持ち主は、
誰か他人に幸せにしてもらうしかない」って、
おれのことなのだろうか。
4冊目の辻村深月作品。
どの本もまるでちがうスタイルなのに、
辻村テイストにみちている。辻村深月の本線がどこにあるのか
わたしにはまだわからない。それぞれどれも圧倒的におもしろい。
この本もまた、これまでとちがった
やさしさとつよさをたのしませてくれた。
はじめからいろんなひとの名前がとびかい、
ものがたりになかなかはいりこめない。
とちゅうでなげだしてしまうかも、と
イライラしながらなんとかよみすすめる。
「スロウハイツ」というアパートに、
小説家・脚本家・漫画家など、作家たちがくらす。
もっとも、名前がうれているのは
脚本家の赤羽環と小説家のチヨダ・コーキだけで、
あとのメンバーは「夢が叶う予定もないニート」たちだ。
現代版のトキワ荘なのだそうだ。
メンバーは家主である赤羽環がきめる。
設定のおもいしろさでひっぱっていくのかとおもっていると、
だんだんとスタートからは予想できなかった
ひろくてふかい構図があきらかになってくる。
上下巻で850ページもあるながいストーリーのなかに、
いくつものエピソードが巧妙にシャッフルされており、
それらがあとからだんだんときいてくる。
はじめて環を紹介されたときにコーキは
「ああ。ーお久しぶりです」という。
コーキの大ファンである環は、
そんなありきたりのかんちがいをされるほど、
コウキにとって自分はとるにたらない存在なのだとがっかりする。
でも、そうではなかった。
ほんとうに、「お久しぶり」だったのだ。
この本の「予想外の展開」になれてくると、
さびれた図書館になぜチヨダ・コーキの本がならぶようになったか、
クリスマスの夜に、だれが「ハイツ・オブ・オズ」のケーキをくれたのかが
わかるようになる。
でも、だからといって期待がうらぎられるわけではない。
胸のおくにしまいこんでいるあつい気もちを
みんなたくみにかくしながら、
ものがたり全体としてつよく、やさしい。
『スロウハイツの神様』は環とコーキのものがたりだ。
自分の作品が、少女たちの生きるささえになっていることをしったコーキは、
自分の仕事にほこりをもてるようになり、ふたたび創作にむかう。
その「いいはなし」がかたられるために、
いったいどれだけの伏線がはられていたことか。
「スロウハイツ」の神様は、もちろんほかのメンバーにも
目をとどかせる。
「ひたすら優しく、誰も傷つかず」という
子どもむけのマンガしかかけない狩野は、
編集部からの評価がひくくなかなか芽がでない。
ある日、その狩野の作品をよんで環がないてしまった。
涙のせいで化粧がくずれ、ピエロのメイクみたいな顔になる。
「『どうしてくれるんだよ。
私、今夜これから出かけるのに』
環の声は怒っていた。目が赤く充血し、
瞼の端から新しく涙が滲む」
「狩野は、決意したのだ。とにかく、嬉しかった。
人を傷つけず、闇も覗き込まずに、
相手を感動させ、心を揺さぶることは、きっとできる。
そうやって生きていこう、自分の信じる、優しい世界を完成させよう。
それができないなら自分の人生は失敗しているもおなじなんだと」
スロウハイツにくらす「夢が叶う予定もないニート」たちは、
狩野みたいにゆらぎながらもそれぞれが自分をしんじて創作をつづける。
きりひらいていくのは自分でしかない。
そうしたきびしい世界で生きるときに、
スロウハイツの仲間たちがいることが(環のきびしさもふくめて)
どれだけ彼らのささえになったことだろう。
スロウハイツは、たしかに現代版のトキワ荘ものがたりでもある。
わたしは環を栗山千明にキャスティングしてよんだ。
いいはなしだった。
環がスーにいった
「何かに依存しなけりゃ生きていけない個性の持ち主は、
誰か他人に幸せにしてもらうしかない」って、
おれのことなのだろうか。
2013年07月06日
『耳をすませば』(近藤喜文監督)なんてうつくしいものがたりだ
『耳をすませば』(近藤喜文監督・1995年)
録画しておいた「鷹の爪」をみようとテレビをつける。
『耳をすませば』がやっていた。
おおすぎるCMにいらいらしながら、
けっきょくエンディングまでつきあってしまった。
何回もみてるのに、放映のたびについみてしまうのは、
ジブリの作品では『トトロ』と『耳をすませば』くらいだ。
『紅の豚』や『ハウルの動く城』なら、すこしみるだけで
チャンネルをかえる。
『耳をすませば』はそれができない。
作画スタッフは、町の風景をしっかりロケしたのだろう。
都会のまちなみがとてもリアルにかかれている。
たとえば、ふつうならみえない部分の
橋のよごれがちゃんとかいてあるのに、
きたなくていやだなー、とはおもわない。
ひとがすんでいるって、ただそれだけですてきなことなんだ、と
町のやさしさをかんじさせてくれたのは、この作品がはじめてだ。
雫の家だってちらかりほうだいだ。
本があふれだし、ダンボール箱がそこらじゅうにおかれ、
玄関先もごちゃごちゃしてるし、アパートじたいがそうとうふるい。
ワープロが1台あるだけで、つかうのは順番まちだし、
雫はお姉さんといっしょに2段ベッドをつかっている。
そうしたことをぜんぶふくめて、
家族でくらすあたたかさをかんじさせる。
雫と聖司も気もちのいいわかものだ。
いやなやつの登場にイライラさせられることがなく、
ふたりのものがたりに安心して没頭できる。
この作品は、近藤喜文監督の初演出であり、遺作でもある。
中学生の気もちのこまやかなえがきかたは、
宮崎駿監督の作品とはまたちがううつくしさをあじあわせてくれた。
こういうストレートな作品が、わたしはだいすきだ。
最後の場面で聖司が雫にプロポーズする。
「おれと結婚してくれないか」
「うれしい!そうなれたらいいとおもってた」
「そうか! 雫! だいすきだ!」
年齢に関係なくつかえそうにみえて、よくかんがえてみると、
このセリフはピュアな中学生でないとにつかわしくない。
高校生でこれをやると、もし男が真剣であればあるほど始末がわるそうだ。
その年代では、『69』のケンみたいに
バカげたことをたくさんしてほしいとおもう。
ピュアな高校生という存在は、おもたすぎる。
では、おとなになってからはどうかというと、
いったことばがすぐにでも実現できるので、
これもまたやっかいだ。
余韻というものがなく、いったさきから責任がうまれる。
「はいはい、ふたりでかってにやってね」と
みてるほうもどうでもよさがさきにたってしまうだろう。
ポニョとソースケほどおさないと、
またちがった意味あいの会話になってしまうし。
「そうか! 雫! だいすきだ!」は、
中学生のふたり、自分たちのなかにある原石を
真剣にみがこうとしている
あのふたりだけにふさわしいプロポーズだった。
はじまりのものがたり。
よくいわれるように、おおくのはなしは
めでたし、めでたしでおわるけど、
それからふたりのほんとうのものがたりがはじまる。
どう自分のなかの原石をみがいていくのか。
ふたりの関係がどうかわっていくのか。
『耳をすませば』は、なんどみても気もちのいい、うつくしいものがたりだ。
おおくのひとがもっていながらも、
かくされていることがおおいこのうつくしさを、
直球勝負でみせてくれた近藤喜文監督の才能に感謝したい。
録画しておいた「鷹の爪」をみようとテレビをつける。
『耳をすませば』がやっていた。
おおすぎるCMにいらいらしながら、
けっきょくエンディングまでつきあってしまった。
何回もみてるのに、放映のたびについみてしまうのは、
ジブリの作品では『トトロ』と『耳をすませば』くらいだ。
『紅の豚』や『ハウルの動く城』なら、すこしみるだけで
チャンネルをかえる。
『耳をすませば』はそれができない。
作画スタッフは、町の風景をしっかりロケしたのだろう。
都会のまちなみがとてもリアルにかかれている。
たとえば、ふつうならみえない部分の
橋のよごれがちゃんとかいてあるのに、
きたなくていやだなー、とはおもわない。
ひとがすんでいるって、ただそれだけですてきなことなんだ、と
町のやさしさをかんじさせてくれたのは、この作品がはじめてだ。
雫の家だってちらかりほうだいだ。
本があふれだし、ダンボール箱がそこらじゅうにおかれ、
玄関先もごちゃごちゃしてるし、アパートじたいがそうとうふるい。
ワープロが1台あるだけで、つかうのは順番まちだし、
雫はお姉さんといっしょに2段ベッドをつかっている。
そうしたことをぜんぶふくめて、
家族でくらすあたたかさをかんじさせる。
雫と聖司も気もちのいいわかものだ。
いやなやつの登場にイライラさせられることがなく、
ふたりのものがたりに安心して没頭できる。
この作品は、近藤喜文監督の初演出であり、遺作でもある。
中学生の気もちのこまやかなえがきかたは、
宮崎駿監督の作品とはまたちがううつくしさをあじあわせてくれた。
こういうストレートな作品が、わたしはだいすきだ。
最後の場面で聖司が雫にプロポーズする。
「おれと結婚してくれないか」
「うれしい!そうなれたらいいとおもってた」
「そうか! 雫! だいすきだ!」
年齢に関係なくつかえそうにみえて、よくかんがえてみると、
このセリフはピュアな中学生でないとにつかわしくない。
高校生でこれをやると、もし男が真剣であればあるほど始末がわるそうだ。
その年代では、『69』のケンみたいに
バカげたことをたくさんしてほしいとおもう。
ピュアな高校生という存在は、おもたすぎる。
では、おとなになってからはどうかというと、
いったことばがすぐにでも実現できるので、
これもまたやっかいだ。
余韻というものがなく、いったさきから責任がうまれる。
「はいはい、ふたりでかってにやってね」と
みてるほうもどうでもよさがさきにたってしまうだろう。
ポニョとソースケほどおさないと、
またちがった意味あいの会話になってしまうし。
「そうか! 雫! だいすきだ!」は、
中学生のふたり、自分たちのなかにある原石を
真剣にみがこうとしている
あのふたりだけにふさわしいプロポーズだった。
はじまりのものがたり。
よくいわれるように、おおくのはなしは
めでたし、めでたしでおわるけど、
それからふたりのほんとうのものがたりがはじまる。
どう自分のなかの原石をみがいていくのか。
ふたりの関係がどうかわっていくのか。
『耳をすませば』は、なんどみても気もちのいい、うつくしいものがたりだ。
おおくのひとがもっていながらも、
かくされていることがおおいこのうつくしさを、
直球勝負でみせてくれた近藤喜文監督の才能に感謝したい。
2013年07月05日
行動援護従業者養成研修に参加する
きのう・おとといと、島根県行動援護従業者養成研修に参加する。
前年度が18名だったのにたいし、
今回は35名の方が受講されている。
わたしのうけもちは、2日目のアセスメントについてのコマで、
もう5回以上やっているのに
いまだにすっきりとつたえることができない。
自分の血肉となっていないことを、
資料をみてもっともらしくはなそうとするからうまくいかないのだ。
毎日の仕事で、切実な問題意識をもって
アセスメントをつみかさねているひとでなければ、
担当するべきではないことを、毎回かんじることとなる。
この研修は、行動援護サービスの質を
全国的にたかめるために企画されるものだ。
まず中央セミナーというかたちで、
全国からあつまった受講者が3日間の研修をうけ、
そこでうけた内容をそのまま県にもちかえって
県ごとの行動援護従業者養成研修で講師をつとめる。
はじめて中央セミナーに参加したときは、
全国的にはあたりまえになっている支援技術が、
自分たちのレベルとあまりにもちがうのにおどろいた。
吸収しなければならないことがおおく、ヘトヘトにつかれたけど、
とても充実した3日間だった。
研修をつうじて、参加者の一体感がだんだんたかまっていく。
最終日、さいごの講義をおえたときには
達成感とともに、これでわかれてしまうというさみしさをかんじた。
このたかい内容を、なんとか地元にもちかえってひろめたいという
つよい刺激をうける。もう5年前のはなしだ。
全国研修にはつきものの、夜の親睦会では、
自己紹介のときに、それぞれが自分のこだわりについて「告白」する、
というノルマがかせられた。
車を運転しているとき、まえの車のナンバーを記憶する、とか、
皮細工のにおいをかぐともうたまらない、とか(これは戸枝さん)、
さすがに行動援護にたずさわるひとのおおくは、
りっぱな当事者感覚のある方がおおかった。
わたしは「女性の肩甲骨がだいすきです」とはなしてしまい、
若干の共感をいただけたものの、
とくに女性からはかなりひかれてしまったことをおもいだす。
今回の研修でおもしろかったのは、
3日目の演習で、ピカチュウ人形のある
ショッピングセンターでのかいものにするか、
安全な文具店にするかをえらぶとき、
5グループ中4グループが文具店にしたことだ。
そのまえのロールプレイングで、
ピカ夫くん役のインストラクターが
かなりリアルにえんじたので、2回目の演習では
安全策をえらびたくなる心理がはたらいたようだ。
自分たちで役をつけてえんじたときには
すんなりピカ夫くんをやりすごせたのに、
「ほんもの」のピカ夫の「らしさ」に
とまどってしまったのがおかしかった。
行動援護は、行動障害をもつ方の地域生活をささえるきりふだとして
期待されたサービスだ。
全国で、そして島根県で、どういうふうにつかわれているかの
県の報告はなかったので、現状がつかめない。
まわりをみるかぎり、自閉症や、その障害特性を配慮した支援について、
理解がふかまっているとはいえないようにおもう。
行動援護サービスが本来的なつかわれ方をして、
地域生活をささえる有効な道具となることをねがっている。
前年度が18名だったのにたいし、
今回は35名の方が受講されている。
わたしのうけもちは、2日目のアセスメントについてのコマで、
もう5回以上やっているのに
いまだにすっきりとつたえることができない。
自分の血肉となっていないことを、
資料をみてもっともらしくはなそうとするからうまくいかないのだ。
毎日の仕事で、切実な問題意識をもって
アセスメントをつみかさねているひとでなければ、
担当するべきではないことを、毎回かんじることとなる。
この研修は、行動援護サービスの質を
全国的にたかめるために企画されるものだ。
まず中央セミナーというかたちで、
全国からあつまった受講者が3日間の研修をうけ、
そこでうけた内容をそのまま県にもちかえって
県ごとの行動援護従業者養成研修で講師をつとめる。
はじめて中央セミナーに参加したときは、
全国的にはあたりまえになっている支援技術が、
自分たちのレベルとあまりにもちがうのにおどろいた。
吸収しなければならないことがおおく、ヘトヘトにつかれたけど、
とても充実した3日間だった。
研修をつうじて、参加者の一体感がだんだんたかまっていく。
最終日、さいごの講義をおえたときには
達成感とともに、これでわかれてしまうというさみしさをかんじた。
このたかい内容を、なんとか地元にもちかえってひろめたいという
つよい刺激をうける。もう5年前のはなしだ。
全国研修にはつきものの、夜の親睦会では、
自己紹介のときに、それぞれが自分のこだわりについて「告白」する、
というノルマがかせられた。
車を運転しているとき、まえの車のナンバーを記憶する、とか、
皮細工のにおいをかぐともうたまらない、とか(これは戸枝さん)、
さすがに行動援護にたずさわるひとのおおくは、
りっぱな当事者感覚のある方がおおかった。
わたしは「女性の肩甲骨がだいすきです」とはなしてしまい、
若干の共感をいただけたものの、
とくに女性からはかなりひかれてしまったことをおもいだす。
今回の研修でおもしろかったのは、
3日目の演習で、ピカチュウ人形のある
ショッピングセンターでのかいものにするか、
安全な文具店にするかをえらぶとき、
5グループ中4グループが文具店にしたことだ。
そのまえのロールプレイングで、
ピカ夫くん役のインストラクターが
かなりリアルにえんじたので、2回目の演習では
安全策をえらびたくなる心理がはたらいたようだ。
自分たちで役をつけてえんじたときには
すんなりピカ夫くんをやりすごせたのに、
「ほんもの」のピカ夫の「らしさ」に
とまどってしまったのがおかしかった。
行動援護は、行動障害をもつ方の地域生活をささえるきりふだとして
期待されたサービスだ。
全国で、そして島根県で、どういうふうにつかわれているかの
県の報告はなかったので、現状がつかめない。
まわりをみるかぎり、自閉症や、その障害特性を配慮した支援について、
理解がふかまっているとはいえないようにおもう。
行動援護サービスが本来的なつかわれ方をして、
地域生活をささえる有効な道具となることをねがっている。
2013年07月04日
浜田には、石見神楽があります
研修会に参加したとき、
浜田からこられている方に神楽のはなしをきいた。
島根は神楽がさかんなところで、地域によっていくつかのながれがある。
出雲地方にも、ヤマタノオロチがでてくる神楽があり、
いろいろなもよおしで上演されているのをみたことがある。
ゆったりしたおどりがくりかえされて、
それらのうごきがなにを意味しているのかわたしにはわかりにくく、
たいくつな伝統芸能という印象がつよい。
浜田の神楽、つまり石見神楽は、
しかし出雲のものとはずいぶんちがうようだ。
石見神楽は8ビートのテンポで、
はやいリズムにのってどんどんはなしがすすんでいくという。
観光用ではなく、完全に地元のひとたちがたのしむためのおどりで、
浜田だけでもいくつもの社中があるそうだ。
結婚式にはかならず神楽がよばれるとか、
ディナーショーでの神楽とか、夜にやる夜神楽とか、
神楽が生活に完全に根づいていることがうかがえる。
町内ごとに特色のある社中があるそうで、
人気のある社中にはわかい女の子の「おっかけ」もいて、
チケットがすぐにうりきれることもあるという。
きいていて、まるでバリ島のチャゲダンスだとおもった。
チャゲダンスは、観光客むけという面もあるとはいえ、
地元のひとたちが自分たちの生活にかかせないおどりとして位置づけている。
石見神楽は外国でも名がしられており、
ハワイやオーストラリアの公演にもよばれたことがあるそうだ。
神楽をはじめて目にした方から
熱狂的な感想をつたえられるという。
いろいろなイベントをみなれたひとがおどろくのだから、
世界のひとがみとめるほんものの迫力があるのだろう。
あまりパッとした観光名所がなく、
地味なイメージのつよかった浜田だったけど、
そんな神楽こそものすごい観光資源なのではないか。
パワースポットとか、なんとか広場とか、
とってつけたような「観光名所」ではなく、
すんでいるひとがすきでたまらないという神楽のほうが
よっぽど世界にうったえるちからをもっていそうだ。
地方色がつよまると、だんだんと国際性をもつという
いい例かもしれない。
後継者がおらず、ただ保存するだけで精一杯なのではなく、
地元のひとが自分たちのおどりをすきでたまらず、
子どものころから日常的にふれているという
生きた文化であることがすごくかっこいい。
つたえられたおどりをそのままえんじるのではなく、
あたらしいながれもとりいれて、
どんどん神楽がかわっていくという。
神楽だけではなく、
浜田はサーフィンとしても有名な場所なのだそうだ。
県外からもたくさんのサーファーがやってきており、
浜田にすみながらサーフィンをやってないというと、
しんじられないという目でみられました、とはなされる。
浜田って、あんまり観光ではしられてないですね、
なんて失礼なことをいってしまったが、
松江のほうがよほどマンネリ化した観光資源に
しがみついているみたいだ。
観光地をめざしたわけではないのに、
すきなことをやってたらまわりがみとめてくれた、というのが
インターネットによるあたらしい世界システムのはなしをきいているみたいで、
浜田における石見神楽の存在がとても現代的なものにおもえた。
浜田からこられている方に神楽のはなしをきいた。
島根は神楽がさかんなところで、地域によっていくつかのながれがある。
出雲地方にも、ヤマタノオロチがでてくる神楽があり、
いろいろなもよおしで上演されているのをみたことがある。
ゆったりしたおどりがくりかえされて、
それらのうごきがなにを意味しているのかわたしにはわかりにくく、
たいくつな伝統芸能という印象がつよい。
浜田の神楽、つまり石見神楽は、
しかし出雲のものとはずいぶんちがうようだ。
石見神楽は8ビートのテンポで、
はやいリズムにのってどんどんはなしがすすんでいくという。
観光用ではなく、完全に地元のひとたちがたのしむためのおどりで、
浜田だけでもいくつもの社中があるそうだ。
結婚式にはかならず神楽がよばれるとか、
ディナーショーでの神楽とか、夜にやる夜神楽とか、
神楽が生活に完全に根づいていることがうかがえる。
町内ごとに特色のある社中があるそうで、
人気のある社中にはわかい女の子の「おっかけ」もいて、
チケットがすぐにうりきれることもあるという。
きいていて、まるでバリ島のチャゲダンスだとおもった。
チャゲダンスは、観光客むけという面もあるとはいえ、
地元のひとたちが自分たちの生活にかかせないおどりとして位置づけている。
石見神楽は外国でも名がしられており、
ハワイやオーストラリアの公演にもよばれたことがあるそうだ。
神楽をはじめて目にした方から
熱狂的な感想をつたえられるという。
いろいろなイベントをみなれたひとがおどろくのだから、
世界のひとがみとめるほんものの迫力があるのだろう。
あまりパッとした観光名所がなく、
地味なイメージのつよかった浜田だったけど、
そんな神楽こそものすごい観光資源なのではないか。
パワースポットとか、なんとか広場とか、
とってつけたような「観光名所」ではなく、
すんでいるひとがすきでたまらないという神楽のほうが
よっぽど世界にうったえるちからをもっていそうだ。
地方色がつよまると、だんだんと国際性をもつという
いい例かもしれない。
後継者がおらず、ただ保存するだけで精一杯なのではなく、
地元のひとが自分たちのおどりをすきでたまらず、
子どものころから日常的にふれているという
生きた文化であることがすごくかっこいい。
つたえられたおどりをそのままえんじるのではなく、
あたらしいながれもとりいれて、
どんどん神楽がかわっていくという。
神楽だけではなく、
浜田はサーフィンとしても有名な場所なのだそうだ。
県外からもたくさんのサーファーがやってきており、
浜田にすみながらサーフィンをやってないというと、
しんじられないという目でみられました、とはなされる。
浜田って、あんまり観光ではしられてないですね、
なんて失礼なことをいってしまったが、
松江のほうがよほどマンネリ化した観光資源に
しがみついているみたいだ。
観光地をめざしたわけではないのに、
すきなことをやってたらまわりがみとめてくれた、というのが
インターネットによるあたらしい世界システムのはなしをきいているみたいで、
浜田における石見神楽の存在がとても現代的なものにおもえた。
2013年07月03日
『午後の最後の芝生』(村上春樹)にでてくる女性のはなしかたが気になる
『午後の最後の芝生』(村上春樹)
短篇集『中国行きのスロウ・ボート』におさめられている。
ごく普通の日常風景なのに、
よんだあとで不思議な余韻がのこる。
「僕」が夏のあつい日に、最後となる芝かりのアルバイトをするはなし。
ガールフレンドと旅行にいくためにはじめた仕事だったけど、
彼女からわかれをつたえる手紙がおくられてきた。
お金のつかいみちがなくなったので、
アルバイトをつづける必要がないことに気づく。
というわけで、ある日の仕事が最後の芝かりとなった。
そこは50前後の女性の家で、
丁寧な仕事ぶりが彼女に気にいられる。
からだがおおきな女性で、ずっと酒をのんでいる。
声まできこえてくるのに、でも、具体的なキャストとなると、
芸能音痴のわたしには、
この女性をだれにえんじてもらえばいいか
おもいつかない。
フランス人女優でいうとジャンヌ=モローだ。
とても映像的なはなしで、ほかの場面も、
その情景をくっきりと頭にえがくことができる。
そして、この女性はなんだかかわったしゃべり方をする。
「でもあんたの仕事は気に入ったよ。
芝生ってのはこういう風に刈るもんだ。
同じ刈るにしても、気持ちってものがある」
「じゃあうちにあがって冷たいものでも飲んでいきな。
たいして時間はとらないよ。
それにあんたにちょっと見てほしいものもあるんだ」
女性は「僕」を家にあげ、
「洋服ダンスを開けてみなよ」という。
なかにはいっている服をみて、
その部屋のもちぬしが、どんな子だったかをあてさせようとする。
「僕」は、かんじたことを女性にはなしはじめる。
それで、なにかがおこるかというと、
なにもおきない。
「ひきとめて悪かったね」と女は言った。
「芝生がすごく綺麗に刈れてたからさ、
うれしかったんだよ」
といっておしまいだ。
文学がわかるひとにとっては、
タンスのなかにおさめられた服とか、
サンドイッチがすきだったという
なくなった旦那の影から
小説のふかみをたのしめるのかもしれない。
わたしには、でもさっぱりわからない。
わからなくても気になるかわったはなし、というしかない。
わたしの興味はもっと即物的で、
女性ののんでいた酒が、ウィスキーからビール、
そしてレモンぬきのウォッカ・トニックにうつったことと、
なんでそんなに酒をのみつづけるのかを不思議におもう。
このはなしをよむと、サンドイッチがたべたくなり、
ウォッカ・トニックをのみたくなる。
そして、女性のダミ声がきこえてくる。
『納屋を焼く』とともに、わたしのだいすきな短編だ。
短篇集『中国行きのスロウ・ボート』におさめられている。
ごく普通の日常風景なのに、
よんだあとで不思議な余韻がのこる。
「僕」が夏のあつい日に、最後となる芝かりのアルバイトをするはなし。
ガールフレンドと旅行にいくためにはじめた仕事だったけど、
彼女からわかれをつたえる手紙がおくられてきた。
お金のつかいみちがなくなったので、
アルバイトをつづける必要がないことに気づく。
というわけで、ある日の仕事が最後の芝かりとなった。
そこは50前後の女性の家で、
丁寧な仕事ぶりが彼女に気にいられる。
からだがおおきな女性で、ずっと酒をのんでいる。
声まできこえてくるのに、でも、具体的なキャストとなると、
芸能音痴のわたしには、
この女性をだれにえんじてもらえばいいか
おもいつかない。
フランス人女優でいうとジャンヌ=モローだ。
とても映像的なはなしで、ほかの場面も、
その情景をくっきりと頭にえがくことができる。
そして、この女性はなんだかかわったしゃべり方をする。
「でもあんたの仕事は気に入ったよ。
芝生ってのはこういう風に刈るもんだ。
同じ刈るにしても、気持ちってものがある」
「じゃあうちにあがって冷たいものでも飲んでいきな。
たいして時間はとらないよ。
それにあんたにちょっと見てほしいものもあるんだ」
女性は「僕」を家にあげ、
「洋服ダンスを開けてみなよ」という。
なかにはいっている服をみて、
その部屋のもちぬしが、どんな子だったかをあてさせようとする。
「僕」は、かんじたことを女性にはなしはじめる。
それで、なにかがおこるかというと、
なにもおきない。
「ひきとめて悪かったね」と女は言った。
「芝生がすごく綺麗に刈れてたからさ、
うれしかったんだよ」
といっておしまいだ。
文学がわかるひとにとっては、
タンスのなかにおさめられた服とか、
サンドイッチがすきだったという
なくなった旦那の影から
小説のふかみをたのしめるのかもしれない。
わたしには、でもさっぱりわからない。
わからなくても気になるかわったはなし、というしかない。
わたしの興味はもっと即物的で、
女性ののんでいた酒が、ウィスキーからビール、
そしてレモンぬきのウォッカ・トニックにうつったことと、
なんでそんなに酒をのみつづけるのかを不思議におもう。
このはなしをよむと、サンドイッチがたべたくなり、
ウォッカ・トニックをのみたくなる。
そして、女性のダミ声がきこえてくる。
『納屋を焼く』とともに、わたしのだいすきな短編だ。
2013年07月02日
川上弘美さんに「しょぼ飯」の王道をきわめてほしい
朝日新聞の土曜日版ページに
川上弘美さんが「人には『しょぼ飯欲』がある」
という文をよせている。
川上さんと「しょぼ飯」がふにあいなので、
どんなしょぼさかとたのしみしてよむと、
「トマトを切っただけ」
「わかめとじゃこをまぜてお酢をかけただけ」
というもので、しょぼいというよりシンプルなだけだ。
肉屋さんでかったやすいコロッケに、
ソースをジャブジャブかけて
ご飯のうえにのせてたべる、
みたいな「料理」を期待していたけど、
そういう路線ではないようだ。
FM山陰に『俺達に週末は来るのか』という番組があり、
そのなかで「秘密のレシピ」として
超簡単な料理を紹介している。
「モヤシをいためて◯◯するだけ」という、
ほんのちょっとしたひとひねりで
手をぬきながら見ばえをよくしているのがミソだ。
はじめのころは
ポテトチップスをご飯にふりかけてたべる、
みたいなすごいのがあったけど、
このごろはだいぶ手がかかる「料理」がふえてしまった。
それでも
「ご飯を炊く時にウインナー輪切りにいれて
味の素と醤油で味付け、炊き上がり
容器ごと食べる」
なんて王道をいくすごいのが紹介されるとうれしくなる。
わたしにとっての「しょぼ飯」とは
つまりこういう「料理」だ。
わたしにも立派すぎる「しょぼ飯欲」があり、
料理本をならべた棚には
ほぼ日の『がんばれ自炊くん!』や
小泉武夫氏の『ぶっかけ飯の快感』、
椎名誠氏の『球ねぎフライパン作戦』が
出番をまっている。
わたしがかんがえる「しょぼ飯」の基本はやはり
ぶっかけ飯につきる。
『ぶっかけ飯の快感』のいちばんはじめに紹介されている「猫飯」は、
・缶詰のサバの身を取り出し
・丼にご飯をもり、「腹も」をのせて
のこった汁を全部かける
・醤油をかけ、一度ざっとかき混ぜる
というから、かなりしょぼい。
川上弘美さんにも、ぜひこんな料理にくらいついていただき、
「やっぱりしょぼ飯でないと」とひそかにつぶやいてもらいたい。
わたしがよくお世話になる「しょぼ飯」は
シーナ・マコト氏が考案した
「スパゲッティ・アラ・ショーユ・マヨ」だ。
これはなんのことかというと、
ゆでたてのスパゲッティにカツオブシをかけ、
マヨネーズと醤油をすばやくまぜるというもので、
できあがったらすぐにワシワシたべる。
スピードが勝負の料理でもあり、
時間がたつと残念な味と外見になってしまうから、
気をぬかずに挑戦してほしい。
川上弘美さんが「人には『しょぼ飯欲』がある」
という文をよせている。
川上さんと「しょぼ飯」がふにあいなので、
どんなしょぼさかとたのしみしてよむと、
「トマトを切っただけ」
「わかめとじゃこをまぜてお酢をかけただけ」
というもので、しょぼいというよりシンプルなだけだ。
肉屋さんでかったやすいコロッケに、
ソースをジャブジャブかけて
ご飯のうえにのせてたべる、
みたいな「料理」を期待していたけど、
そういう路線ではないようだ。
FM山陰に『俺達に週末は来るのか』という番組があり、
そのなかで「秘密のレシピ」として
超簡単な料理を紹介している。
「モヤシをいためて◯◯するだけ」という、
ほんのちょっとしたひとひねりで
手をぬきながら見ばえをよくしているのがミソだ。
はじめのころは
ポテトチップスをご飯にふりかけてたべる、
みたいなすごいのがあったけど、
このごろはだいぶ手がかかる「料理」がふえてしまった。
それでも
「ご飯を炊く時にウインナー輪切りにいれて
味の素と醤油で味付け、炊き上がり
容器ごと食べる」
なんて王道をいくすごいのが紹介されるとうれしくなる。
わたしにとっての「しょぼ飯」とは
つまりこういう「料理」だ。
わたしにも立派すぎる「しょぼ飯欲」があり、
料理本をならべた棚には
ほぼ日の『がんばれ自炊くん!』や
小泉武夫氏の『ぶっかけ飯の快感』、
椎名誠氏の『球ねぎフライパン作戦』が
出番をまっている。
わたしがかんがえる「しょぼ飯」の基本はやはり
ぶっかけ飯につきる。
『ぶっかけ飯の快感』のいちばんはじめに紹介されている「猫飯」は、
・缶詰のサバの身を取り出し
・丼にご飯をもり、「腹も」をのせて
のこった汁を全部かける
・醤油をかけ、一度ざっとかき混ぜる
というから、かなりしょぼい。
川上弘美さんにも、ぜひこんな料理にくらいついていただき、
「やっぱりしょぼ飯でないと」とひそかにつぶやいてもらいたい。
わたしがよくお世話になる「しょぼ飯」は
シーナ・マコト氏が考案した
「スパゲッティ・アラ・ショーユ・マヨ」だ。
これはなんのことかというと、
ゆでたてのスパゲッティにカツオブシをかけ、
マヨネーズと醤油をすばやくまぜるというもので、
できあがったらすぐにワシワシたべる。
スピードが勝負の料理でもあり、
時間がたつと残念な味と外見になってしまうから、
気をぬかずに挑戦してほしい。
2013年07月01日
Googleリーダーとコンフェデ杯さいごの日
「Googleリーダー終了」
まださきのはなし、とのんびりかまえていたら、
とうとう7月1日になってしまった。
Googleリーダー終了。
なにかが決定的にかわるわけではないかもしれないが、
つかいなれたサービスがなくなるのはかなりさみしい。
かわりとなるサービスがほかにもでているので
Googleリーダーとにたものをためしていくことになる。
ひとは、なんにでもなれてしまうとはいっても、
あまりにもあたりまえの存在だったので、
なじんできた日常の変化にしばらくとまどうだろう。
なくなることがわかっていながら
なにも準備ができなかったのは、
なんだかわたしのすべての傾向をあらわしているみたいだ。
きょうはもうとどかないかとおもっていたら、
7月1日で終了、ということで、
きょうが最後のGoogleリーダーだった。
いつものようにおくられてくる
(わたしの気もちとしては「おくられてくる」かんじなので)
おなじみの記事をひらく。
「おわり」って、こないようでいて
確実にやってくるものなのだ。
7月1日でさいごといえば、
コンフェデレーションズカップの決勝戦、
ブラジル対スペインがある。
こちらは夜に録画でたのしむつもりだ。
はじめてみるコンフェデ杯は、
予想以上に迫力のある大会だった。
Wカップの予行練習みたいなものだろう、とおもっていたのに、
どのチームも全力でかちにくる。
スポーツだからかちにくるのは当然のようにおもうけど、
その気もちのいれかたが、ほんとにもう半端じゃないのだ。
たとえば、Bグループのブラジル対イタリアの試合。
両チームともグループリーグ突破がきまっているのに、
両チームともがかちにきた。
すごくはげしい試合。
どうしてもまけられないと、
グランドのあちこちで選手たちがこぜりあいをしている。
どちらの選手も一歩もひかない。
まけられない、という意識がはっきりみてとれる。
準決勝のスペイン対イタリアもそうだ。
イタリアは、ユーロ2012の決勝で0-4という
屈辱的なまけかたをしており、
どうしてもスペインにかりをかえさなければならなかった。
イタリアがパスをつなぎ、自分たちのペースで試合をすすめる。
あのスペインが、うまくいかないとなると
ロングボールをいれてきたりする。
そして、両チームともゴールは絶対にわらせない。
延長にはいっても、おたがいの意地のはりあいがつづき、
けっきょくPK戦での決着ということになってしまった。
これがサッカー強国どうしの試合なのか。
まけてもいい試合なんてない、と
どのチームのどの選手もおもっている。それが前提だ。
日本なんて、まだまだゆるいレベルであることを
はっきりとみせつけられた大会だった。
Googleリーダーとコンフェデ杯のさいごの日。
2013年7月1日は、記憶にのこる日になりそうだ。
まださきのはなし、とのんびりかまえていたら、
とうとう7月1日になってしまった。
Googleリーダー終了。
なにかが決定的にかわるわけではないかもしれないが、
つかいなれたサービスがなくなるのはかなりさみしい。
かわりとなるサービスがほかにもでているので
Googleリーダーとにたものをためしていくことになる。
ひとは、なんにでもなれてしまうとはいっても、
あまりにもあたりまえの存在だったので、
なじんできた日常の変化にしばらくとまどうだろう。
なくなることがわかっていながら
なにも準備ができなかったのは、
なんだかわたしのすべての傾向をあらわしているみたいだ。
きょうはもうとどかないかとおもっていたら、
7月1日で終了、ということで、
きょうが最後のGoogleリーダーだった。
いつものようにおくられてくる
(わたしの気もちとしては「おくられてくる」かんじなので)
おなじみの記事をひらく。
「おわり」って、こないようでいて
確実にやってくるものなのだ。
7月1日でさいごといえば、
コンフェデレーションズカップの決勝戦、
ブラジル対スペインがある。
こちらは夜に録画でたのしむつもりだ。
はじめてみるコンフェデ杯は、
予想以上に迫力のある大会だった。
Wカップの予行練習みたいなものだろう、とおもっていたのに、
どのチームも全力でかちにくる。
スポーツだからかちにくるのは当然のようにおもうけど、
その気もちのいれかたが、ほんとにもう半端じゃないのだ。
たとえば、Bグループのブラジル対イタリアの試合。
両チームともグループリーグ突破がきまっているのに、
両チームともがかちにきた。
すごくはげしい試合。
どうしてもまけられないと、
グランドのあちこちで選手たちがこぜりあいをしている。
どちらの選手も一歩もひかない。
まけられない、という意識がはっきりみてとれる。
準決勝のスペイン対イタリアもそうだ。
イタリアは、ユーロ2012の決勝で0-4という
屈辱的なまけかたをしており、
どうしてもスペインにかりをかえさなければならなかった。
イタリアがパスをつなぎ、自分たちのペースで試合をすすめる。
あのスペインが、うまくいかないとなると
ロングボールをいれてきたりする。
そして、両チームともゴールは絶対にわらせない。
延長にはいっても、おたがいの意地のはりあいがつづき、
けっきょくPK戦での決着ということになってしまった。
これがサッカー強国どうしの試合なのか。
まけてもいい試合なんてない、と
どのチームのどの選手もおもっている。それが前提だ。
日本なんて、まだまだゆるいレベルであることを
はっきりとみせつけられた大会だった。
Googleリーダーとコンフェデ杯のさいごの日。
2013年7月1日は、記憶にのこる日になりそうだ。