『耳をすませば』(近藤喜文監督・1995年)
録画しておいた「鷹の爪」をみようとテレビをつける。
『耳をすませば』がやっていた。
おおすぎるCMにいらいらしながら、
けっきょくエンディングまでつきあってしまった。
何回もみてるのに、放映のたびについみてしまうのは、
ジブリの作品では『トトロ』と『耳をすませば』くらいだ。
『紅の豚』や『ハウルの動く城』なら、すこしみるだけで
チャンネルをかえる。
『耳をすませば』はそれができない。
作画スタッフは、町の風景をしっかりロケしたのだろう。
都会のまちなみがとてもリアルにかかれている。
たとえば、ふつうならみえない部分の
橋のよごれがちゃんとかいてあるのに、
きたなくていやだなー、とはおもわない。
ひとがすんでいるって、ただそれだけですてきなことなんだ、と
町のやさしさをかんじさせてくれたのは、この作品がはじめてだ。
雫の家だってちらかりほうだいだ。
本があふれだし、ダンボール箱がそこらじゅうにおかれ、
玄関先もごちゃごちゃしてるし、アパートじたいがそうとうふるい。
ワープロが1台あるだけで、つかうのは順番まちだし、
雫はお姉さんといっしょに2段ベッドをつかっている。
そうしたことをぜんぶふくめて、
家族でくらすあたたかさをかんじさせる。
雫と聖司も気もちのいいわかものだ。
いやなやつの登場にイライラさせられることがなく、
ふたりのものがたりに安心して没頭できる。
この作品は、近藤喜文監督の初演出であり、遺作でもある。
中学生の気もちのこまやかなえがきかたは、
宮崎駿監督の作品とはまたちがううつくしさをあじあわせてくれた。
こういうストレートな作品が、わたしはだいすきだ。
最後の場面で聖司が雫にプロポーズする。
「おれと結婚してくれないか」
「うれしい!そうなれたらいいとおもってた」
「そうか! 雫! だいすきだ!」
年齢に関係なくつかえそうにみえて、よくかんがえてみると、
このセリフはピュアな中学生でないとにつかわしくない。
高校生でこれをやると、もし男が真剣であればあるほど始末がわるそうだ。
その年代では、『69』のケンみたいに
バカげたことをたくさんしてほしいとおもう。
ピュアな高校生という存在は、おもたすぎる。
では、おとなになってからはどうかというと、
いったことばがすぐにでも実現できるので、
これもまたやっかいだ。
余韻というものがなく、いったさきから責任がうまれる。
「はいはい、ふたりでかってにやってね」と
みてるほうもどうでもよさがさきにたってしまうだろう。
ポニョとソースケほどおさないと、
またちがった意味あいの会話になってしまうし。
「そうか! 雫! だいすきだ!」は、
中学生のふたり、自分たちのなかにある原石を
真剣にみがこうとしている
あのふたりだけにふさわしいプロポーズだった。
はじまりのものがたり。
よくいわれるように、おおくのはなしは
めでたし、めでたしでおわるけど、
それからふたりのほんとうのものがたりがはじまる。
どう自分のなかの原石をみがいていくのか。
ふたりの関係がどうかわっていくのか。
『耳をすませば』は、なんどみても気もちのいい、うつくしいものがたりだ。
おおくのひとがもっていながらも、
かくされていることがおおいこのうつくしさを、
直球勝負でみせてくれた近藤喜文監督の才能に感謝したい。