2013年07月07日

『スロウハイツの神様』(辻村深月)「いいはなし」にはられた伏線の数々

『スロウハイツの神様』(辻村深月・講談社文庫)

4冊目の辻村深月作品。
どの本もまるでちがうスタイルなのに、
辻村テイストにみちている。辻村深月の本線がどこにあるのか
わたしにはまだわからない。それぞれどれも圧倒的におもしろい。
この本もまた、これまでとちがった
やさしさとつよさをたのしませてくれた。

はじめからいろんなひとの名前がとびかい、
ものがたりになかなかはいりこめない。
とちゅうでなげだしてしまうかも、と
イライラしながらなんとかよみすすめる。
「スロウハイツ」というアパートに、
小説家・脚本家・漫画家など、作家たちがくらす。
もっとも、名前がうれているのは
脚本家の赤羽環と小説家のチヨダ・コーキだけで、
あとのメンバーは「夢が叶う予定もないニート」たちだ。
現代版のトキワ荘なのだそうだ。
メンバーは家主である赤羽環がきめる。

設定のおもいしろさでひっぱっていくのかとおもっていると、
だんだんとスタートからは予想できなかった
ひろくてふかい構図があきらかになってくる。
上下巻で850ページもあるながいストーリーのなかに、
いくつものエピソードが巧妙にシャッフルされており、
それらがあとからだんだんときいてくる。

はじめて環を紹介されたときにコーキは
「ああ。ーお久しぶりです」という。
コーキの大ファンである環は、
そんなありきたりのかんちがいをされるほど、
コウキにとって自分はとるにたらない存在なのだとがっかりする。
でも、そうではなかった。
ほんとうに、「お久しぶり」だったのだ。

この本の「予想外の展開」になれてくると、
さびれた図書館になぜチヨダ・コーキの本がならぶようになったか、
クリスマスの夜に、だれが「ハイツ・オブ・オズ」のケーキをくれたのかが
わかるようになる。
でも、だからといって期待がうらぎられるわけではない。
胸のおくにしまいこんでいるあつい気もちを
みんなたくみにかくしながら、
ものがたり全体としてつよく、やさしい。

『スロウハイツの神様』は環とコーキのものがたりだ。
自分の作品が、少女たちの生きるささえになっていることをしったコーキは、
自分の仕事にほこりをもてるようになり、ふたたび創作にむかう。
その「いいはなし」がかたられるために、
いったいどれだけの伏線がはられていたことか。

「スロウハイツ」の神様は、もちろんほかのメンバーにも
目をとどかせる。
「ひたすら優しく、誰も傷つかず」という
子どもむけのマンガしかかけない狩野は、
編集部からの評価がひくくなかなか芽がでない。
ある日、その狩野の作品をよんで環がないてしまった。
涙のせいで化粧がくずれ、ピエロのメイクみたいな顔になる。

「『どうしてくれるんだよ。
私、今夜これから出かけるのに』
環の声は怒っていた。目が赤く充血し、
瞼の端から新しく涙が滲む」

「狩野は、決意したのだ。とにかく、嬉しかった。
人を傷つけず、闇も覗き込まずに、
相手を感動させ、心を揺さぶることは、きっとできる。
そうやって生きていこう、自分の信じる、優しい世界を完成させよう。
それができないなら自分の人生は失敗しているもおなじなんだと」

スロウハイツにくらす「夢が叶う予定もないニート」たちは、
狩野みたいにゆらぎながらもそれぞれが自分をしんじて創作をつづける。
きりひらいていくのは自分でしかない。
そうしたきびしい世界で生きるときに、
スロウハイツの仲間たちがいることが(環のきびしさもふくめて)
どれだけ彼らのささえになったことだろう。
スロウハイツは、たしかに現代版のトキワ荘ものがたりでもある。
わたしは環を栗山千明にキャスティングしてよんだ。
いいはなしだった。

環がスーにいった
「何かに依存しなけりゃ生きていけない個性の持ち主は、
誰か他人に幸せにしてもらうしかない」って、
おれのことなのだろうか。

posted by カルピス at 10:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする