7月20日からひらかれる東アジア杯で、
どの選手が代表いりするのかが注目されている。
海外組とJ2のガンバからは招集がみおくられるので、
あたらしい選手や、再挑戦となるベテランにも
声がかかるかもしれないからだ。
柿谷・豊田といったあたらしい選手をためすべきだ、という意見や、
佐藤・闘莉王・大久保の実績を評価すべき、というもの、
また、原口・大迫・柴崎をためすいい機会だとか、
外野がものすごくかまびすしい。
代表選出についてメディアが選手たちをあおりつづけている。
代表にえらばれるかどうかは
ザッケローニ監督のかんがえ方しだいだ。
どれだけ実績をあげても監督のとる戦術にあわなければ
招集されることはない。
どのスポーツにしてもそうだけど、
「監督しだい」というのは、かんがえてみれば
ものすごく不自由なしくみだ。
代表だろうが、所属チームだろうが、
そこの監督に評価されるかどうかで
試合にでられるかどうかのすべてがきまってしまう。
代表キャプテンの長谷部誠選手でさえ、
昨シーズンは所属するヴォルフスブルクの
マガト監督に徹底的にほされてしまい、ベンチにもはいれなくなった。
マガト監督が解任されると、その直後から
また起用されるようになったのは記憶にあたらしい。
その選手の能力がいかにすぐれていても、
つかわれるかどうかは完全に監督の「このみの問題」でしかない。
もっとも、その監督にしても結果をださなければ
すぐにクビにされてしまうので、
きびしい競争原理がはたらいているという意味ではおなじ立場ともいえる。
監督のかんがえに納得できなければ
選手は所属するチームをかえることができる。
しかし、国籍を簡単にかえるわけにはいかないので、
代表にだけはどうしてもえらんでもらわなければならない。
「えらんでもらわなければ、でれない」というのは
かなりつらい状況だ。
それに、代表にえらばれたからといって、
すぐにつかわれるわけではないし、
ましてやレギュラーの座をえるのはそうかんたんではない。
選手たちは、つまらないくはないか。
Wカップへの出場や代表にえらばれることを目標にすると、
どうしても選手は「えらばれる側」であり、
主体的になにかをきめる側にはない。
自分が代表監督にえらばれないことを、
実力がともなわないから、とか
結果はあとからついてくる、とか
ほんとうにそう達観できればいいけれど、
Wカップ出場を、到達すべき最高の目標として位置づけたりすると
あまりにもそれにふりまわされてしまいがちだ。
このごろのメディアは、代表選出について
度をこしてやかましくなっており、
選手たちをあおりつづけている。
しかし、サッカー選手としてのしあわせは、
Wカップに出場することだけではないとおもう。
サッカーは野球よりもはるかに現役でいられる年数がかぎられており、
ひとりの選手のピーク中に
Wカップ開催は3回あるかないか、というところだろう。
4年にいちどのこの大会にからむには、
運もまた必要になってくる。
Wカップを中心にサッカーをかんがえてしまうと、
自分できめられることはそうおおくはない。
主体的な立場にない状況では、
自由な思考がうばわれてしまいがちだ。
きのうおこなわれた柏レイソル対鹿島アントラーズ戦には、
ザッケローニ監督が視察におとずれていた。
レイソルの工藤とアントラーズの大迫という
ふたりのフォワードが注目されていたが、
この試合ではふたりとも得点をあげることができなかった。
とくに大迫は決定的なチャンスをなんどもはずしてしまい、
反対の意味で代表監督に印象づけてしまったかもしれない。
きめるべきときにきめられなかったのは残念だろうが、
それを代表選出と関連づけるといっきょにつまらなくなる。
選手には、目のまえの試合に集中してもらいたい。
ザッケローニ監督の視察がどう予定されていても、
へんな色気をださずに自分の特徴をいかしたプレーをする。
代表チームにあまりたかい価値をおかないほうが、
選手としても応援するほうにしても
健全な距離感でサッカーをたのしめる。
代表だけが、Wカップだけがサッカーではない。