2013年08月02日

オーラがどうしたというのだ

朝日新聞紙上で、元メジャーリーガーの松井秀喜さんが
「語る」という連載をはじめた。
メジャーリーグでのおもいでをかたったもので、
8月1日にのった3回目の記事は、
とくにヤンキースについてのおもいでが中心だ。

「03年のメンバーは、みんなオーラを感じた。(中略)
(ジータは)7年間一緒にプレーして、
最後までオーラはきえなかった。
ユニホームを着てグランドに出ると、
他の選手には無いオーラを放つ」

あの松井選手にしてそうなのか。
わたしはこの「オーラ」というやつがきらいで、
なんでそんなにオーラがありがたがられるのか
不思議におもっている。
芸能人やスポーツ選手などにあうと、
「すごいオーラをかんじました」、と
ほんとうにうれしそうにいうひとがおおい。
オーラはそんなにえらいものなのか。

あっち側の世界のひとのかがやきを、
「オーラがすごかった」とありがたそうに
いうひとの気がしれない。
芸能人同士がおたがいのオーラについてはなしたり、
(まちをあるくときなどに)
あのひとはオーラを自在にけしさることができる、なんて
まことしやかにいうのをきいていると、
「はいはい、どうぞごかってに」と
興ざめしてしまう。

意地のわるいいい方をすれば、
だれもオーラなんかみたことがないはずなのに、
共通の体験として認識されているのはおかしくないか。
「鳥肌がたった」もきらいだけど、
これはじっさいに「鳥肌」になるわけで、
視覚的な変化がわかりやすい。
でも、オーラはちがう。
オーラをみた、というひとは、
それを絵にかいてわたしにみせてほしいとおもう。

芸能界にくらいわたしが
もしかりにAKB48のだれかにであったとしても、
わかくてきれいな子、ぐらいにしかおもわないはずだ。
オーラをつくりだすのは、本人ではなくて、
まわりのひと、というのがわたしの仮説である。
うけてがかってにオーラをかんじてしまうだけなのではないのか。
そこらへんは色気とにていて、
だれもにうけいれられる色気はないし、
どんなに色気をただよわせていても、
うけとる側がそれをかぎつけなければならない。
ただ、オーラは色気とちがってエネルギーのむきが一方通行で、
つよいオーラをみとめたからといって、
あたらしいなにかがうまれるわけではない。
「すごいオーラだった」とただおどろくしかないのが、
オーラと、オーラをみたひととの関係である。

オーラがよくかたられるようになったのは、
そんなにふるいことではなく、
「鳥肌」もおなじころからよく耳にするようになった気がする。
相手の特別さをありがたがるというよりも、
それをかんじとった自分の感性によろこんでいて
へきえきさせられる。

野球一筋に何十年もやってきたひとは、
体格や身のこなしが一般人とちがうところもでるかもしれない。
でもそれは林業一筋30年のひとだっておなじはずで、
生活がつくりだす「ひととなり」なわけだから、
そうした特殊性がつくりだす「ちがい」を
むやみに評価する必要はない。

オーラはほんとうに存在するエネルギーなのだろう。
でも、そんなにおおさわぎしてもちあげないで、
半分あっちの世界のものとして、
もうすこしそっとしておいたほうが、
オーラとしてもただしいかがやきをはなつとわたしはおもう。

posted by カルピス at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする