2013年08月06日

「みどりの月」(角田光代)の、マリコその後みたいな「かかとのしたの空」

「みどりの月」(角田光代)にでていたマリコのその後をしりたいと、
先日のブログにかいた。
マリコとは、自分ではかたづけやそうじをしようとせずに
「やりたいひとがやればいい」
といいはなつようなたまらない女性だ。
「みどりの月」ではまわりの人間もまきこんでいき、
ぐちゃぐちゃな生活をおくっていた。
この小説では、外国で歌をうたう仕事をする、
といいだしたところではなしがおわる。

身のまわりのこともできないひとが、
口さきだけ調子のいいことをいって
外国のしらない町でどうすごすのだろうか。
あんがい外国のひとはそうしたいいかげんさに寛容で、
マリコはすんなりうけいれられるかもしれない。
文学的なふかさではなく、
そういうタイプの人間のいきつく先をしりたいとおもった。
作品集『みどりの月』には、2つの中編がおさめられており、
はじめの作品「みどりの月」をよんだ感想をブログをかいた。
あとになって、もうひとつの作品「かかとのしたの空」が、
よみようによっては「みどりの月」
その後のものがたりといえることに気づいた。

「私」とキヨハルはタイのサムイ島で日本人の女性とであう。
女はふたりが島をはなれる日にいっしょについてきて、
それ以降、おいていこうとしても、
いつのまにかまたふたりのまえにあらわれる。
じゅうぶんなお金をもっていないようで、
「私」とキヨハルがとまるホテルにははいらずに、
バスターミナルでねとまりしている。
歌をうたう仕事をしていたこと、
かたひざをたててたばこをすうこと、
なによりもひとのはなしをきかず、
自分の都合のいいはなしばかりするずうずうしさが
マリコをおもわせる。

「私たちだってついてこられたら迷惑なの」と「私」がいっても、
「ついてくるとか言われてもねー、
私べつについてってるわけじゃないしねー。
偶然方向が一緒だからしかたないと思うんだけどなあ」(中略)
「じゃああなたはどこにいくの、それ教えてよ」
「なんであんたに行き先を教えなきゃなんないのよ」
とふてぶてしい。
女は悪魔からにげているのだという。

個人的なおもいいれのある地名がでてきてなつかしかった。
ハジャイ・スンガイ=コーロク・コタ=バル・クアラ=トレンガヌ。
かってわたしが旅行した場所とずいぶんかさなっている。
けっして観光にむかない土地ではないはずなのに、
小説に登場する町は没個性的で、
どこへいってもなにもかわらない気がしてくる。

観光旅行やわかもののバックパック旅行とはちがい、
「私」とキヨハルの旅行には新鮮なときめきというものがない。
マリコをおもわせる女にも、
いわゆる旅行のよろこびはかんじられない。
3人とも、日本にかえってもしょうがないから、
ただ惰性で移動をつづけているだけのようにみえる。
「旅行」としてとらえると、3人のしていることに魅力はない。
タイやマレーシアという土地柄が、
3人の逃避行をより安易なものにし、
たどりつく先のないことをいっそうきわだたせる。
3人はいったいなにをしているのか。

娼婦街にかようようになったキヨハルをおいて、
「私」はひとりでインドネシアの島にわたる。
そこの市場で、いちどはわかれたマリコ似の女に、
またであってしまった。
「女がなぜここにいるのかという疑問より先に、
自分が本当にこの女の姿を捜してしたことに気づいた」
「私」は、キヨハルやマリコ似の女を、
さがしながらにげている。(p242)

マリコ似の女性は、外国ではそうスイスイすごせなかったみたいだ。
だからといってこの女性が
つまらないおもいばかりしているわけではない。
やりたいことはひとがどうおもおうとやってしまうので、
日本から外国へと場所がかわっても、
マリコにとって本質的な変化はなかった。
お金がすくなくなった分、日本にいたときよりも
すこしはたいへんかも、といった程度の変化だ。
いっぽう、「みどりの月」にでていたキタザワとサトシについては
なにもふれられていない。
べつの小説なのだから当然とはいえ、
マリコほどのつよさのなかった2人には、
ここまでついてくることができなかった、
と都合よくわたしは解釈している。
男たちのうすっぺらさより、
女たちの生きていこうとするちからが
つよいにきまっている。

posted by カルピス at 23:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする