ラジオで「子ども電話相談室」をきいていたら、
セミの幼虫はなにをたべているの?、という質問があった。
質問にこたえるなかで回答者の先生は、
「幼虫は土のなかで一生懸命に木の根っこをさがします」
というふうな説明をされていた。
この「一生懸命」に違和感があった。
こういうときの幼虫のうごきを
「一生懸命」という表現でくくっていいのか。
いっぽうで、一生懸命でないとはいいきれない、ともおもう。
一生懸命とはなにか。
わたしはミジンコがうごくようすをみても、
一生懸命まえにすすもうとしている、とはいわない。
これが、ライオンのお母さんがなんどかの失敗をくりかえしながら
獲物をねらい、子どもたちにたべさせようとするのをみたら、
「一生懸命」といいたくなるような気がする。
「一生懸命」には知性が必要なのか。
一生懸命は、情緒にうったえようとしていることばではないか。
生物が生きのびようとして、本能的にからだをうごかすようすを、
人間からみたときに、自分の理解の範囲におさまれば「一生懸命」となる。
ミジンコがすすもうとするのも、ライオンが獲物をかるのも、
どちらも彼らが生きるためにしていることであり、
優劣はないはずなのに、人間の生活様式にちかければ
わたしたちはそこに「けなげさ」をかんじとる、
という説明ではどうだろうか。
セミの幼虫に「一生懸命」さをみた先生は、
昆虫への特殊な愛がそういわせたのであり、
あまり一般的な表現ではない、といえる。
一生懸命ねむる、とか、
一生懸命にセックスをする、とはふつういわないので、
生理的欲求、とくに生々しい欲望とむすびつく場合は
「一生懸命」となじみにくい。
論理的に思考をくみたてることを、
一生懸命かんがえて、とはいわないので、
頭をつかい、戦略的に要求をとおそうとするときにも
につかわしくない。
小学生は「一生懸命」かんがえるけど、
大学の先生が「一生懸命」かんがえるのはなにかへんだから。
一生懸命は、上から目線の、偏見にみちたことばだ。
さきほどあげた、情緒にうったえる、という意味からは、
子ども・動物・不治の病、という
いわゆる「なかせる」題材は、
一生懸命と相性がよさそうだ。
一生懸命ということばをつかいたくなるときには、
論理的に説明しようとするのではなく、
情緒的に、ムードでまるめこもうとする場合がおおいのかもしれない。
「一生懸命」は、かなり用心してつかったほうがいい。
番組での、セミの幼虫についての説明はまださきがあり、
先生は、「土のなかにはモグラなんかもいて、もうたいへんなんです」
ともいわれた。
モグラにたべられてはたしかに「たいへん」だけど、
セミの幼虫は「たいへん」とおもって
モグラからにげようとしてはいないだろう。
「たいへん」とはなにか。
セミの一生には、かんがえさせられることがたくさんある。