『赤と青 ふたつのマンチェスター』(西部謙司・河出書房新社)
マンチェスター=ユナイテッドとマンチェスター=シティ。
マンチェスターにあるふたつのビッグクラブについて
これまでの歴史をふりかえった本だ。
いまや両チームとも外国の資本がはいりこみ、
お金をかけてのはでな選手補強がしばしば話題になっている。
しかし、おおきな大会の最後のところでかてない状態がつづいており、
その解決にむけてどんな方針がとられるかも興味ぶかいところだ。
とはいえ、いくら人気のあるチームについてといって、
ユナイテッドの1878年、シティの1880年という、
創設時からかきおこしたのでは
よほどのサッカーファンでなければついていきにくい。
西部さんは第1章を
「マンチェスター・ユナイテッドは
なぜ香川真司を獲ったのか」にあて、
バルサのパスサッカーに歯がたたなくなっているユナイテッドが、
あたらしい戦術をとりいれようと「間で受ける」プレーが特徴の
香川選手を獲得したことからスタートさせている。
香川真司選手が2012年にドルトムントから
ユナイテッドへ移籍したときは、
世界一の人気クラブだからこそ話題になった。
いまでもまだ香川はスタメンに定着するか、
新監督のモイーズ氏につかわれるかどうかが
とりざたされている。
ユナイテッドといえば、日本人にとって香川なわけで、
香川からはじめるのは西部さんにとって当然の構成だろう。
そして第2章がいまのスター選手たちの特徴と、
チームのプレースタイルの紹介だ。
だれが、どのようにすごいのか、
魅力的な選手たちのプレーを分析したうえで、
ふたつのチームのプレースタイルにふれてある。
どんなちがいがあるかを歴史的にふれ、
いまのチームの方針と課題がおさえられている。
このようにして、香川といまの両チームの状態に
読者をくいつかせたところで、
第3章からいよいよユナイテッドとシティの歴史をひもといていく。
ここまでくると、両クラブが身ぢかな存在にかんじらるようになっている。
ふつうにかけばたいくつな民間クラブの歴史ばなしにすぎないのに、
つまづかないで、すらすらとよみすすめることができた。
両クラブの歴史だけでなく、イギリスサッカーの歴史も
ぼんやりとつかめてくる。
西部さんの構成のうまさにたすけられたというべきだろう。
構成のくふうだけでなく、西部さんの文章はとてもわかりやすい。
ファーガソン前監督の特徴を、
「予め用意したプログラムに従ってチームを作るだけでなく、
チーム作りの過程で起こった変化を活用していく二段構え」
といってみたり、
スコールズのうまさを
「ここまでくると、完全にピッチ上の監督だ。
腕のいいシェフのようなもので、
入荷した旬の素材に合わせてメニューを決められる」
と表現してみたり。
カントナについては、ややこしくて、すごくおかしい。
「彼は普段から『エリック・カントナ』を演じているのだ。
映画の中でのカントナの演技に違和感はなかったが、
少々奇妙ではあった。
だが、それは彼自身がそうなのだ。
自分を演じている人間には、
どこか不自然な印象があるものだ。
カントナの場合は、その不自然で奇妙な男が、
普段我々が目にするカントナの姿なので、
役としてのカントナに違和感がないという
ややこしいことになっている」
といういから、ほんとにややこしい。
スタートが労働者階級のチームだったユナイテッドにたいし、
シティは中産階級の、町のひとたちのチームとしてはじまった。
それがいまや両チームとも「金満クラブ」となり、
「スタンドの大半をセレブと中産階級が占めるに至って」いる。
「赤と青のこれから」として西部さんは
(両クラブにながれる)金によって
「これまでの対立の構図は変化する。
新しい赤と青の時代にファンになった人々は、
新たな歴史を体験していくことになる」
とむすんでいる。
ファーガソン氏のさったマンチェスターが、
香川をいかすことができるか。
ユース出身者の結束力をもたないシティが、
リーグやCLで優勝するための「何か」を手にすることができるか。
この本をよむことで、両チームのこれからがたのしみになった。
購読していた西部さんのメルマガが
しばらくまえにうちきられてしまった。
ネットでよむサッカーの情報では、
わたしの欲求をみたしてくれない。
西部さんならではのサッカー本を、
わたしはつよくもとめていた。
マンチェスターのふたつのチームについて、
とくにおもいいれはなかったけれど、
西部さんの文章にふれたくてかった本書は、
期待どおりにこれまでしらなかった世界を堪能できた。
2013年09月10日
2013年09月09日
「宮崎駿は、なぜ、はじめて自分の映画に泣いたのか?」(『Cut』渋谷陽一氏によるインタビュー)
「宮崎駿は、
なぜ、はじめて自分の映画に泣いたのか?」(『Cut』)
月刊『Cut』の9月号に、
宮崎駿氏へのインタビューがのっている。
きき手は渋谷陽一氏で、
渋谷氏は、「なぜはじめて自分の映画に泣いたのかという疑問と、
なぜ観客とまったく違うシーンで泣いたのかという疑問、
そのふたつの疑問に対する答えはひとつだ」として
これをインタビューのテーマにすえる。
『腰ぬけ愛国談義』では、半藤一利氏への遠慮からか
おさえた発言がおおかった宮崎氏が、
気のおけない渋谷氏にはおもったことを率直にはなしている。
それをひきだす渋谷氏のうまさがひかる。
「アニメーションなんか、子供時代に
1回観りゃいいぐらいのもんであって。
そんなものを毎日毎日、
繰り返し繰り返しビデオで流してるとかね、
テレビでやったら視聴率が上がりましたなんてのは、
自慢でも誇りでもなんでもなくて。
それはただの人生の消費であってね。
それに加担するということは、
実は、戦争に加担してるのと同じぐらい、
今のくだらない世の中にくだらなさを増してることなんですよ」
「子供たちが喜ぶものとか、ためになるものなら
作ったほうがいいんだ、なんていうのは
この文明の本質をまったく理解してない。
そこらへんのところを問わない人たちが評論を書き、
商売をしてるんですよ。
やっぱり全体で見たら、こんなこと
(スマホをいじる動作)やってるバカも含めてね。
もう終わりですよ!バカ!
自分の脳味噌で考えないで、脳味噌の外側に
なんかがあると思ってるんです」
こんなことを、はじめてのインタビューではなせないだろう。
しかし、渋谷氏との会話では、
これぐらいは当然のこととして共通理解できている。
そして渋谷氏は、宮崎氏が映画のどこでないたかについてきりこむ。
渋谷氏は、堀越二郎がドイツにいった場面で
宮崎氏がないたのではないかとかんがえている。
「僕はあのドイツの場面というのは絶対そうだと思うんですけども。
ここからは、否定されること承知で勝手にしゃべりますが、
なぜドイツの場面で泣くかというと・・・」(渋谷)
と、渋谷氏は自分の推測を宮崎氏にはなす。
渋谷氏の推測はおそらくただしく、
宮崎氏からの反論はない。
この以外でも、3万字におよぶインタビューは、
どこをよんでも宮崎氏のあふれるおもいがつたわってきて
すごくたのしい。
「あの歌(『会議は踊る』の「ただ一度だけ」)
を選ばれた宮崎さんの思いというのは、
時代背景、それから歌詞の内容、全部リアルに伝わりますよね」(渋谷)
「それはまあ、渋谷さんだから通じるんですね。
通じない人は何も通じない。
もうほんとに無教養ですからね!歴史的感覚なし!
何もしらない!『ダメだこいつら』って。
いや、自分のスタッフのことを言ってるんですよ?
ほんとに無知蒙昧。覚悟も教養もない!
なんでしょうねえ、この教養のなさは」
「僕の経験で言うと、会議ばっかりやってるスタッフは
ろくでもないスタッフです。
なんか知らないけどね、設定を決めるのに
10人も集まってごそごそ話してるっていう。
ちゃんちゃらおかしい。
そんなのひとりが描きゃあいいんですよ。
大事なことは鈴木さんとふたりでションベンしながらとか、
3階の隅っこで煙草もらいながら話してますよ。
会議でものごとは決まってない。だから会議はやらない」
別のページには、
宮崎駿氏へのインタビュー集の第2弾が
今秋発売されるというおしらせがのっている。
一冊目の『風の帰る場所』から13年。
インタビューはもちろん(たぶん)渋谷陽一氏なので
すごくたのしみだ。
なぜ、はじめて自分の映画に泣いたのか?」(『Cut』)
月刊『Cut』の9月号に、
宮崎駿氏へのインタビューがのっている。
きき手は渋谷陽一氏で、
渋谷氏は、「なぜはじめて自分の映画に泣いたのかという疑問と、
なぜ観客とまったく違うシーンで泣いたのかという疑問、
そのふたつの疑問に対する答えはひとつだ」として
これをインタビューのテーマにすえる。
『腰ぬけ愛国談義』では、半藤一利氏への遠慮からか
おさえた発言がおおかった宮崎氏が、
気のおけない渋谷氏にはおもったことを率直にはなしている。
それをひきだす渋谷氏のうまさがひかる。
「アニメーションなんか、子供時代に
1回観りゃいいぐらいのもんであって。
そんなものを毎日毎日、
繰り返し繰り返しビデオで流してるとかね、
テレビでやったら視聴率が上がりましたなんてのは、
自慢でも誇りでもなんでもなくて。
それはただの人生の消費であってね。
それに加担するということは、
実は、戦争に加担してるのと同じぐらい、
今のくだらない世の中にくだらなさを増してることなんですよ」
「子供たちが喜ぶものとか、ためになるものなら
作ったほうがいいんだ、なんていうのは
この文明の本質をまったく理解してない。
そこらへんのところを問わない人たちが評論を書き、
商売をしてるんですよ。
やっぱり全体で見たら、こんなこと
(スマホをいじる動作)やってるバカも含めてね。
もう終わりですよ!バカ!
自分の脳味噌で考えないで、脳味噌の外側に
なんかがあると思ってるんです」
こんなことを、はじめてのインタビューではなせないだろう。
しかし、渋谷氏との会話では、
これぐらいは当然のこととして共通理解できている。
そして渋谷氏は、宮崎氏が映画のどこでないたかについてきりこむ。
渋谷氏は、堀越二郎がドイツにいった場面で
宮崎氏がないたのではないかとかんがえている。
「僕はあのドイツの場面というのは絶対そうだと思うんですけども。
ここからは、否定されること承知で勝手にしゃべりますが、
なぜドイツの場面で泣くかというと・・・」(渋谷)
と、渋谷氏は自分の推測を宮崎氏にはなす。
渋谷氏の推測はおそらくただしく、
宮崎氏からの反論はない。
この以外でも、3万字におよぶインタビューは、
どこをよんでも宮崎氏のあふれるおもいがつたわってきて
すごくたのしい。
「あの歌(『会議は踊る』の「ただ一度だけ」)
を選ばれた宮崎さんの思いというのは、
時代背景、それから歌詞の内容、全部リアルに伝わりますよね」(渋谷)
「それはまあ、渋谷さんだから通じるんですね。
通じない人は何も通じない。
もうほんとに無教養ですからね!歴史的感覚なし!
何もしらない!『ダメだこいつら』って。
いや、自分のスタッフのことを言ってるんですよ?
ほんとに無知蒙昧。覚悟も教養もない!
なんでしょうねえ、この教養のなさは」
「僕の経験で言うと、会議ばっかりやってるスタッフは
ろくでもないスタッフです。
なんか知らないけどね、設定を決めるのに
10人も集まってごそごそ話してるっていう。
ちゃんちゃらおかしい。
そんなのひとりが描きゃあいいんですよ。
大事なことは鈴木さんとふたりでションベンしながらとか、
3階の隅っこで煙草もらいながら話してますよ。
会議でものごとは決まってない。だから会議はやらない」
別のページには、
宮崎駿氏へのインタビュー集の第2弾が
今秋発売されるというおしらせがのっている。
一冊目の『風の帰る場所』から13年。
インタビューはもちろん(たぶん)渋谷陽一氏なので
すごくたのしみだ。
2013年09月08日
『雑司ケ谷R.I.P.』(樋口毅宏・新潮文庫)「お金を払って読んでくれた人こそ読者です」に共感する
『雑司ケ谷R.I.P.』(樋口毅宏・新潮文庫)
『さらば雑司ケ谷』の続編で、
泰幸会の教祖である泰(たい)が亡くなったところからはじまる。
泰のおいたちは、『ゴッドファーザー PART II』がそのままパクってあり、
どうやってのしあがっていくかがえがかかれている。
それと平行してすすむのが、泰のあとをついだ太郎が
泰幸会をまとめていく過程だ。
マイケルがコルレオーネ・ファミリーをひきつぎ、
敵をしりぞけながら、やがてすべてをうしなったように。
おもしろくよんでいたけど、
世界最強をきめる大会に出場した、石田吉蔵のつよさが
あまりにもめちゃくちゃなのでしらけてしまった。
90歳の老人なのに、
「素手のみで近代兵器を装備した軍隊一個師団の戦力に相当する」
なんていくらなんでもひどい。
「文庫本あとがきにかえて」の
「お金を払って読んでくれた人こそ読者です」
に共感したので、本編よりもこちらを紹介しようとおもう。
新刊書を図書館でかりてよむことに
「どこか腑に落ちないものを感じてい」た樋口氏は、
『雑司ケ谷R.I.P.』の奥付に
「公立図書館のみなさまへ
この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、
貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます」
と記して発売した。
樋口氏の主張は下記のとおりだ。
・自分も図書館をよく利用し、感謝もしている。
・しかし、「図書館=新刊をタダで読める場所」
という認識はおかしくないか。
・図書館へのおねがいとして、自分の本を図書館がかうよりも、
後世にのこす学術書をかいあげてほしい。
・一般の方へのおねがいとして、図書館は「出会いの場」だとおもっており、
自分の本をおもしろいとおもってくれたのなら、
いちどよんだものでも、別の本でもかまわないから、
1、2冊でもいいからかってほしい。
・お金がないひと、生活がくるしいひとはかう必要はありません。
そういう方こそ図書館で済ませてください。
樋口氏が
「最新刊を半年は貸し借りを控えてください」
といわずにおれなかったのは、
「私がいま小説家という職業に就いているから
言っているのではありません。
マンガ、映画、音楽など、作り手に対しての感謝は、
お金を払う行為がいちばんダイレクトで、わかりやすく、
そして堅実な方法なのです」
というかんがえからだ。
樋口氏には、お金をはらって本をよんでくれたひとへの感謝がある。
だから
「私にとって、お金を払って読んでくれた人こそ読者です。
読者よ、ありがとう。
あなたたちのおかげで僕は生活ができています。
これから読者になってくれる皆さん。
どうぞよろしくお願い致します」
というかんがえに共感できる。
樋口氏の主張はとてもわかりやすく、もっともだとおもう。
できればブックオフで、しかも105円の棚でかおうとするわたしには
耳のいたい主張でもある
(この本は、文庫化されるのをまって本屋さんでかった)。
作家の側からこうしたよびかけをしたのは
樋口氏がはじめてなのだそうで、
「なぜ諸先輩方はこれまでこの件に関して
声をあげてこられなかったのか」と
批判もされている。
「腑に落ちない」ことをそのままにしない
樋口氏のたたかう姿勢をたかく評価したい。
本はかうもの、自分がすきな作者であればなおさら、
お金をはらって感謝をつたえるのがあたりまえのことなのだ。
『さらば雑司ケ谷』の続編で、
泰幸会の教祖である泰(たい)が亡くなったところからはじまる。
泰のおいたちは、『ゴッドファーザー PART II』がそのままパクってあり、
どうやってのしあがっていくかがえがかかれている。
それと平行してすすむのが、泰のあとをついだ太郎が
泰幸会をまとめていく過程だ。
マイケルがコルレオーネ・ファミリーをひきつぎ、
敵をしりぞけながら、やがてすべてをうしなったように。
おもしろくよんでいたけど、
世界最強をきめる大会に出場した、石田吉蔵のつよさが
あまりにもめちゃくちゃなのでしらけてしまった。
90歳の老人なのに、
「素手のみで近代兵器を装備した軍隊一個師団の戦力に相当する」
なんていくらなんでもひどい。
「文庫本あとがきにかえて」の
「お金を払って読んでくれた人こそ読者です」
に共感したので、本編よりもこちらを紹介しようとおもう。
新刊書を図書館でかりてよむことに
「どこか腑に落ちないものを感じてい」た樋口氏は、
『雑司ケ谷R.I.P.』の奥付に
「公立図書館のみなさまへ
この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、
貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます」
と記して発売した。
樋口氏の主張は下記のとおりだ。
・自分も図書館をよく利用し、感謝もしている。
・しかし、「図書館=新刊をタダで読める場所」
という認識はおかしくないか。
・図書館へのおねがいとして、自分の本を図書館がかうよりも、
後世にのこす学術書をかいあげてほしい。
・一般の方へのおねがいとして、図書館は「出会いの場」だとおもっており、
自分の本をおもしろいとおもってくれたのなら、
いちどよんだものでも、別の本でもかまわないから、
1、2冊でもいいからかってほしい。
・お金がないひと、生活がくるしいひとはかう必要はありません。
そういう方こそ図書館で済ませてください。
樋口氏が
「最新刊を半年は貸し借りを控えてください」
といわずにおれなかったのは、
「私がいま小説家という職業に就いているから
言っているのではありません。
マンガ、映画、音楽など、作り手に対しての感謝は、
お金を払う行為がいちばんダイレクトで、わかりやすく、
そして堅実な方法なのです」
というかんがえからだ。
樋口氏には、お金をはらって本をよんでくれたひとへの感謝がある。
だから
「私にとって、お金を払って読んでくれた人こそ読者です。
読者よ、ありがとう。
あなたたちのおかげで僕は生活ができています。
これから読者になってくれる皆さん。
どうぞよろしくお願い致します」
というかんがえに共感できる。
樋口氏の主張はとてもわかりやすく、もっともだとおもう。
できればブックオフで、しかも105円の棚でかおうとするわたしには
耳のいたい主張でもある
(この本は、文庫化されるのをまって本屋さんでかった)。
作家の側からこうしたよびかけをしたのは
樋口氏がはじめてなのだそうで、
「なぜ諸先輩方はこれまでこの件に関して
声をあげてこられなかったのか」と
批判もされている。
「腑に落ちない」ことをそのままにしない
樋口氏のたたかう姿勢をたかく評価したい。
本はかうもの、自分がすきな作者であればなおさら、
お金をはらって感謝をつたえるのがあたりまえのことなのだ。
2013年09月07日
宮崎駿さんがおしえてくれたこと
宮崎駿さんの引退記者会見がおこなわれた。
すばらしい作品をつくってくれた表現者としてだけでなく、
宮崎駿さんはわたしにたくさんのことをおしえてくれた。
縄文時代から日本は農業をしていたという照葉樹林文化論。
米や麦を不耕起・無農薬でつくる福岡正信さんの自然農法。
ロバート=ウェストールの作品など、児童文学をよむこと。
環境をまもろうと、ひとりの市民として川のそうじをつづける地道な行動力。
(ナウシカはつくられたけど、まだそれほど名をしられてなかったころ、
知床の森をまもる運動にかけつけた宮崎さんが
一般参加者としてテレビのインタビューにこたえていた)。
アニメーション作品をつくるうえでの仕事論だけでなく、
宮崎さんがはなす人生観にもとても刺激的だった。
わかいころよんだ宮崎さんのインタビューに、
「自分が長生きするために減塩療法もジョギングもやる気はない」
というはなしがでてくる。
「僕は、自分が長生きしたいんじゃないんですよ。
僕は自分が長生きするために減塩療法もジョギングもやる気はないんです。
このまま生きて、死ぬときが来たら死にたいと思ってる。
つまり、自然を大事にするのは人間のためじゃなくて、
自然は損ねちゃいけないものだからです。
自分の中に宗教というよりも、
一種のアニミズムがあるんだなと感ずるんですね」
(カレンバック氏との対談で)
からだにいいことばかりをしようと
ジョギングをしたり玄米をたべていたわたしは
宮跡さんのこの価値観におどろいた。
健康に関する情報がもてはやされ、
なんとかながいきしたいとおおくのひとがのぞんでいるときに、
「死ぬときがきたら死ねばいい」というかんがえ方は
とても新鮮だった。
宮崎さんはしょっちゅうタバコをふかしてるし、
カップヌードルもずるずるやっている
(かとおもえば、マクドナルドのハンバーガーが100円にねさがりしたときに
たくさんかいこんだわかいスタッフを非難してた)。
「自然を損ねない」というかんがえ方は、
人間の煩悩をどうあつかうかという問題につながってくる。
「長生きしたい、貧乏もしたくない、
お腹いっぱい食べたい、その結果、こういう状況にきた。
やり方を間違えたからじゃなく、
文明に本質の中に、
こういう事態を起こす原因があったんだと思うからなんです」(宮崎)
人間の煩悩をおいもとめた結果、
世界中の環境がめちゃくちゃになった。
ながいきをしたいというねがいを当然の欲求として追求すれば
人類はふえすぎた人口問題に直面することになる。
「もし人間が自然界と暮らそうというのであれば、
ちゃんと自然にサイクルがあるように、人間も一定の寿命を受け入れよう。
それは、老衰で眠るがごとく死ねるだけじゃなく、
癌やこれらで死んだりするかもしれないけど、
それも自然のサイクルなんだという考え方を
受け入れられるかどうかという問題になると僕は思ってるんです」(宮崎)
マンガとして連載されたナウシカには、
森のなかで火をつかわずに生きるひとたちが登場する。
自然とひとが共存するためには、
火をつかうようになったことが
そもそものまちがいだったのかもしれない。
火もそうだけど、内燃機関の発明も自然環境にとって致命的だった。
チェーンソーさえなければ、
いくらがんばってノコギリで木をきったところで
世界の森が破壊されることはなかったのに。
イギリスに産業革命がおこらなければ、
なんて、ありえない世界を想像したくなる。
もっとも、それがどれだけくらしにくく、貧乏で、
寿命もみじかい世界かをかんがえると、
わたしにはとてもそれをうけいれられそうにない。
わたしにとっての宮崎さんは、
ながいきのために減塩療法やジョギングをしない、とか
火をつかわない生き方もあった、という
根源的なかんがえ方をおしえてくれたひとだ。
引退インタビューで宮崎さんは
「この世は生きるに値する」を
子どもたちにつたえたかったとはなしている。
『未来少年コナン』で宮崎さんからのそのメッセージをうけとり
(無意識としては『長靴をはいた猫』や『ルパン三世』も)、
以来30年、宮崎さんの作品をたのしんできた。
宮崎さんの仕事に感謝するとともに、
これからの自由な時間をたのしまれることをねがっている。
すばらしい作品をつくってくれた表現者としてだけでなく、
宮崎駿さんはわたしにたくさんのことをおしえてくれた。
縄文時代から日本は農業をしていたという照葉樹林文化論。
米や麦を不耕起・無農薬でつくる福岡正信さんの自然農法。
ロバート=ウェストールの作品など、児童文学をよむこと。
環境をまもろうと、ひとりの市民として川のそうじをつづける地道な行動力。
(ナウシカはつくられたけど、まだそれほど名をしられてなかったころ、
知床の森をまもる運動にかけつけた宮崎さんが
一般参加者としてテレビのインタビューにこたえていた)。
アニメーション作品をつくるうえでの仕事論だけでなく、
宮崎さんがはなす人生観にもとても刺激的だった。
わかいころよんだ宮崎さんのインタビューに、
「自分が長生きするために減塩療法もジョギングもやる気はない」
というはなしがでてくる。
「僕は、自分が長生きしたいんじゃないんですよ。
僕は自分が長生きするために減塩療法もジョギングもやる気はないんです。
このまま生きて、死ぬときが来たら死にたいと思ってる。
つまり、自然を大事にするのは人間のためじゃなくて、
自然は損ねちゃいけないものだからです。
自分の中に宗教というよりも、
一種のアニミズムがあるんだなと感ずるんですね」
(カレンバック氏との対談で)
からだにいいことばかりをしようと
ジョギングをしたり玄米をたべていたわたしは
宮跡さんのこの価値観におどろいた。
健康に関する情報がもてはやされ、
なんとかながいきしたいとおおくのひとがのぞんでいるときに、
「死ぬときがきたら死ねばいい」というかんがえ方は
とても新鮮だった。
宮崎さんはしょっちゅうタバコをふかしてるし、
カップヌードルもずるずるやっている
(かとおもえば、マクドナルドのハンバーガーが100円にねさがりしたときに
たくさんかいこんだわかいスタッフを非難してた)。
「自然を損ねない」というかんがえ方は、
人間の煩悩をどうあつかうかという問題につながってくる。
「長生きしたい、貧乏もしたくない、
お腹いっぱい食べたい、その結果、こういう状況にきた。
やり方を間違えたからじゃなく、
文明に本質の中に、
こういう事態を起こす原因があったんだと思うからなんです」(宮崎)
人間の煩悩をおいもとめた結果、
世界中の環境がめちゃくちゃになった。
ながいきをしたいというねがいを当然の欲求として追求すれば
人類はふえすぎた人口問題に直面することになる。
「もし人間が自然界と暮らそうというのであれば、
ちゃんと自然にサイクルがあるように、人間も一定の寿命を受け入れよう。
それは、老衰で眠るがごとく死ねるだけじゃなく、
癌やこれらで死んだりするかもしれないけど、
それも自然のサイクルなんだという考え方を
受け入れられるかどうかという問題になると僕は思ってるんです」(宮崎)
マンガとして連載されたナウシカには、
森のなかで火をつかわずに生きるひとたちが登場する。
自然とひとが共存するためには、
火をつかうようになったことが
そもそものまちがいだったのかもしれない。
火もそうだけど、内燃機関の発明も自然環境にとって致命的だった。
チェーンソーさえなければ、
いくらがんばってノコギリで木をきったところで
世界の森が破壊されることはなかったのに。
イギリスに産業革命がおこらなければ、
なんて、ありえない世界を想像したくなる。
もっとも、それがどれだけくらしにくく、貧乏で、
寿命もみじかい世界かをかんがえると、
わたしにはとてもそれをうけいれられそうにない。
わたしにとっての宮崎さんは、
ながいきのために減塩療法やジョギングをしない、とか
火をつかわない生き方もあった、という
根源的なかんがえ方をおしえてくれたひとだ。
引退インタビューで宮崎さんは
「この世は生きるに値する」を
子どもたちにつたえたかったとはなしている。
『未来少年コナン』で宮崎さんからのそのメッセージをうけとり
(無意識としては『長靴をはいた猫』や『ルパン三世』も)、
以来30年、宮崎さんの作品をたのしんできた。
宮崎さんの仕事に感謝するとともに、
これからの自由な時間をたのしまれることをねがっている。
2013年09月06日
『上京十年』(益田ミリ・幻冬舎文庫) ブログみたいなエッセイ集
益田ミリの『上京十年』(幻冬舎文庫)をよむ。
映画の『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』がおもしろかったので、
どんなひとなのかしりたくなったのだ。
この本は100編ほどからなるエッセイ集で、
身のまわりのことがサラッとかかれている。
ひとつひとつのはなしがみじかくて、
なんだかブログをよんでるみたいだ。
うまさにおどろくほどではないけれど、
そこらへんのものをサッととりあげて
かんたんに料理してある。
この、サラッと感がすごいといえばすごい。
ブログもこんなふうにかけばいいんだ、
というお手本になるかもしれない。
エステにいった、とか
友だちと食事をしたとかが題材で、
それについてどうかんじたかが、
ごくフツーの感覚でかたられている。
どれだけお金がかかったか、がよくかかれているので、
手のとどかないセレブではなく、
自分たちとおなじ金銭感覚のもちぬしとして、したしみがもてる。
八方美人ではなく、いやなこと、きらいなことが
はっきりかかれているのもいいかんじだ。
これをよむと、題材なんてどこにでもころがっていることがわかる。
要は、材料をなににするかではなく、料理のしかた(みせ方)なのだ。
おなじ境遇にあったとしても、
ほかのひととはすこしちがった角度から益田さんはとらえている。
そのちょっとが、益田さんのうまさなんだけど。
もっとも、有名人だからエッセイでもよんでもらえるわけで、
一般人がブログにエッセイをかいたところで
なにかかんちがいしているとおもわれるだけだろう。
「シゴタノ!」の佐々木正悟さんが、
ブログにテーマがないのはふつうのことだけど、
本にしようとおもったらテーマがいる、
とかかれていた。つまりは、そういうことだ。
この本は「上京してから10年たつ、
36歳の女性がどんなくらしをしているか」
という生活そのものがテーマともいえる。
そうした、どこにでもいるようなひと、
でも無名のひとではなく、わりと有名なイラストレーターの
等身大のくらしは関心がもたれやすい。
くらしている状況じたいがテーマだ。
たとえばわたしが田舎にはいりこんで
晴耕雨読の生活をはじめたとしたら、
中年から農的生活をたのしむオヤジとして
くらしそのものがテーマになる。
田舎ぐらしのなかで、なにをして、なにをたべ、
どんなことをご近所さんとはなしたかに
興味をもつひとがいるのはわかる。
わたしは、これといったテーマをしぼらずに
日記みたいにおもったことをてきとうにかく。
『上京十年』は、身のまわりのことをとりあげるおもしろさに
気づかせてくれた。
映画の『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』がおもしろかったので、
どんなひとなのかしりたくなったのだ。
この本は100編ほどからなるエッセイ集で、
身のまわりのことがサラッとかかれている。
ひとつひとつのはなしがみじかくて、
なんだかブログをよんでるみたいだ。
うまさにおどろくほどではないけれど、
そこらへんのものをサッととりあげて
かんたんに料理してある。
この、サラッと感がすごいといえばすごい。
ブログもこんなふうにかけばいいんだ、
というお手本になるかもしれない。
エステにいった、とか
友だちと食事をしたとかが題材で、
それについてどうかんじたかが、
ごくフツーの感覚でかたられている。
どれだけお金がかかったか、がよくかかれているので、
手のとどかないセレブではなく、
自分たちとおなじ金銭感覚のもちぬしとして、したしみがもてる。
八方美人ではなく、いやなこと、きらいなことが
はっきりかかれているのもいいかんじだ。
これをよむと、題材なんてどこにでもころがっていることがわかる。
要は、材料をなににするかではなく、料理のしかた(みせ方)なのだ。
おなじ境遇にあったとしても、
ほかのひととはすこしちがった角度から益田さんはとらえている。
そのちょっとが、益田さんのうまさなんだけど。
もっとも、有名人だからエッセイでもよんでもらえるわけで、
一般人がブログにエッセイをかいたところで
なにかかんちがいしているとおもわれるだけだろう。
「シゴタノ!」の佐々木正悟さんが、
ブログにテーマがないのはふつうのことだけど、
本にしようとおもったらテーマがいる、
とかかれていた。つまりは、そういうことだ。
この本は「上京してから10年たつ、
36歳の女性がどんなくらしをしているか」
という生活そのものがテーマともいえる。
そうした、どこにでもいるようなひと、
でも無名のひとではなく、わりと有名なイラストレーターの
等身大のくらしは関心がもたれやすい。
くらしている状況じたいがテーマだ。
たとえばわたしが田舎にはいりこんで
晴耕雨読の生活をはじめたとしたら、
中年から農的生活をたのしむオヤジとして
くらしそのものがテーマになる。
田舎ぐらしのなかで、なにをして、なにをたべ、
どんなことをご近所さんとはなしたかに
興味をもつひとがいるのはわかる。
わたしは、これといったテーマをしぼらずに
日記みたいにおもったことをてきとうにかく。
『上京十年』は、身のまわりのことをとりあげるおもしろさに
気づかせてくれた。
2013年09月05日
『風立ちぬ』(宮崎駿監督) すごい映画をみてしまった
『風立ちぬ』(宮崎駿監督)
すごい映画をみてしまった。
ひとりの天才設計師の生涯をえがきながら、
日本の近代史、世界の航空機史という素材が
みごとにいかされている。
そして、二郎と菜穂子のうつくしく、かなしい恋愛。
安心しきって二郎をみあげる菜穂子はとてもしあわせそうだ。
二郎は菜穂子と生きること、
そして菜穂子の死をうけいれることの覚悟をかためる。
日本の近代史として、
むかしのひとの表情やたたずまいが印象的だ。
関東大震災のとき、おきぬをせおった若者のりりしい表情は、
いまの役者さんにはだせないものだし、
「東京は壊滅だ」といいながらぜんぜんあわてていない
二郎の友人も、いかにもむかしの知識人風だ。
蒸気機関車の圧倒的な質量感にくらべ、
つくられはじめて間のない飛行機はいかにもたよりなげにみえる。
ポコポコ音をたてる、
いかにもちからのなさそうなエンジン。
とばなかったカプローニ伯爵の9枚翼飛行機は、
飛行機の開発の歴史をおもわせるし、
ユンカースの大型飛行機はいかにもドイツ的だ。
ひともものも、いまや実写ではあらわせないことがたくみに再現されている。
アニメーションだからやりやすかったというより、
宮崎監督のちからのいれかたがすさまじかったのだろう。
日本という国のまずしさを二郎はいつも口にする。
うつくしい飛行機をつくるのは自分の夢ではあるけれど、
それを実行するのは国をあげての兵器開発にのっかることだ。
お金のかかる飛行機の製作とひきかえに、
貧乏なままおきざりにされている人々がいる。
自分があたりまえにたべているおかしを、
まずしくてかえないたくさんの子どもたち。
そんな日本には、日本なりの飛行機が必要なことを
二郎は意識するようになる。
二郎が飛行機の製作に没頭するようすは、
わかものが自分の仕事に全力をつくし、
夢を実現させていくときの過程がえがかれている。
仕事とは、このように情熱をかたむけることであり、
そうやって仕事をするのが人生なのだ。
二郎は菜穂子にできるだけつきそいながらも仕事をつづける。
菜穂子もまた、そうやって仕事に全力をそそぐ二郎であるからこそ
いっしょになろうとおもった。
のこされた時間があまりないことを覚悟し、
ふたりは黒川夫妻に仲人をたのんでいそぎの結婚式をあげる。
結婚式とは、こうやってふたりの覚悟とねがいをしめす機会なのだ。
すきなひとといっしょになれるしあわせを
全身であらわす菜穂子のなんといううつくしさ。
「けなげだ。いや、めでたい。おめでとう」
と黒川氏はなきながらふたりがむすばれることをいわう。
みじかい結婚生活をおくったのち、
菜穂子はまた山の療養所へもどっていく。
汽車のなかで、菜穂子はもうちからがはいらない。
猫背でうつむいたまま、なにをおもっていただろう。
映画は、9試単座戦闘機の開発に成功し、
すばらしい性能を披露したところまでがえがかれ、
二郎のつくった飛行機がじっさいの戦闘で活躍する場面はでてこない。
映画のおわりでは、さまざまな飛行機の残骸が山とつみあげられている。
新型機の開発から敗戦までの数年で、
いっぺんにふけこんでしまった二郎に
カプローニ伯爵がたずねる。
「力をつくしたかね?」
「はい、おわりはズタズタでしたが」
この作品は宮崎さんの集大成だ。
仕事とは、飛行機とは、生きるとは、そして愛するとは。
これまでの作品は、特定の人物におけるそれぞれの断片をえがいていた。
しかし、この作品はちがう。
大正から昭和という日本の近代化がすすめられた時代を背景に、
二郎の人生をとおして、そのすべてがつめこまれた。
宮崎さんは、だからおもわずないてしまったのだ。
映像があまりにもリアルなので、
アニメーション映画をみているという気がまったくしない。
『風立ちぬ』という作品の世界に、ただひきこまれていた。
ジブリだけでなく、ほかの作品ともくらべることができない。
『風立ちぬ』は、アニメーションにおける最高到達点である。
すごい映画をみてしまった。
すごい映画をみてしまった。
ひとりの天才設計師の生涯をえがきながら、
日本の近代史、世界の航空機史という素材が
みごとにいかされている。
そして、二郎と菜穂子のうつくしく、かなしい恋愛。
安心しきって二郎をみあげる菜穂子はとてもしあわせそうだ。
二郎は菜穂子と生きること、
そして菜穂子の死をうけいれることの覚悟をかためる。
日本の近代史として、
むかしのひとの表情やたたずまいが印象的だ。
関東大震災のとき、おきぬをせおった若者のりりしい表情は、
いまの役者さんにはだせないものだし、
「東京は壊滅だ」といいながらぜんぜんあわてていない
二郎の友人も、いかにもむかしの知識人風だ。
蒸気機関車の圧倒的な質量感にくらべ、
つくられはじめて間のない飛行機はいかにもたよりなげにみえる。
ポコポコ音をたてる、
いかにもちからのなさそうなエンジン。
とばなかったカプローニ伯爵の9枚翼飛行機は、
飛行機の開発の歴史をおもわせるし、
ユンカースの大型飛行機はいかにもドイツ的だ。
ひともものも、いまや実写ではあらわせないことがたくみに再現されている。
アニメーションだからやりやすかったというより、
宮崎監督のちからのいれかたがすさまじかったのだろう。
日本という国のまずしさを二郎はいつも口にする。
うつくしい飛行機をつくるのは自分の夢ではあるけれど、
それを実行するのは国をあげての兵器開発にのっかることだ。
お金のかかる飛行機の製作とひきかえに、
貧乏なままおきざりにされている人々がいる。
自分があたりまえにたべているおかしを、
まずしくてかえないたくさんの子どもたち。
そんな日本には、日本なりの飛行機が必要なことを
二郎は意識するようになる。
二郎が飛行機の製作に没頭するようすは、
わかものが自分の仕事に全力をつくし、
夢を実現させていくときの過程がえがかれている。
仕事とは、このように情熱をかたむけることであり、
そうやって仕事をするのが人生なのだ。
二郎は菜穂子にできるだけつきそいながらも仕事をつづける。
菜穂子もまた、そうやって仕事に全力をそそぐ二郎であるからこそ
いっしょになろうとおもった。
のこされた時間があまりないことを覚悟し、
ふたりは黒川夫妻に仲人をたのんでいそぎの結婚式をあげる。
結婚式とは、こうやってふたりの覚悟とねがいをしめす機会なのだ。
すきなひとといっしょになれるしあわせを
全身であらわす菜穂子のなんといううつくしさ。
「けなげだ。いや、めでたい。おめでとう」
と黒川氏はなきながらふたりがむすばれることをいわう。
みじかい結婚生活をおくったのち、
菜穂子はまた山の療養所へもどっていく。
汽車のなかで、菜穂子はもうちからがはいらない。
猫背でうつむいたまま、なにをおもっていただろう。
映画は、9試単座戦闘機の開発に成功し、
すばらしい性能を披露したところまでがえがかれ、
二郎のつくった飛行機がじっさいの戦闘で活躍する場面はでてこない。
映画のおわりでは、さまざまな飛行機の残骸が山とつみあげられている。
新型機の開発から敗戦までの数年で、
いっぺんにふけこんでしまった二郎に
カプローニ伯爵がたずねる。
「力をつくしたかね?」
「はい、おわりはズタズタでしたが」
この作品は宮崎さんの集大成だ。
仕事とは、飛行機とは、生きるとは、そして愛するとは。
これまでの作品は、特定の人物におけるそれぞれの断片をえがいていた。
しかし、この作品はちがう。
大正から昭和という日本の近代化がすすめられた時代を背景に、
二郎の人生をとおして、そのすべてがつめこまれた。
宮崎さんは、だからおもわずないてしまったのだ。
映像があまりにもリアルなので、
アニメーション映画をみているという気がまったくしない。
『風立ちぬ』という作品の世界に、ただひきこまれていた。
ジブリだけでなく、ほかの作品ともくらべることができない。
『風立ちぬ』は、アニメーションにおける最高到達点である。
すごい映画をみてしまった。
2013年09月04日
家での「野宿」
さむさに目がさめて、おしいれから寝袋をひっぱりだした。
封筒型なので、ふとんにもぐりこむのとかわりなく、
ぜんぜんきゅうくつではない。
寝袋をつかったからといって、
家のなかでねていてはさすがに「野宿」とはよばない。
でも、寝袋にはいるだけでも
おもいがけずあそびごころをくすぐられた。
実用的にもすぐれており、秋の夜にしのびよってくるさむさから
みごとにわたしの睡眠をまもってくれる。
つめたそうな雨のおとをききながら、自分は寝袋にくるまって
ぬくぬくと惰眠をむさぼるという、
ものすごくしあわせな状況を、
寝袋はかんたんに提供してくれた。
ふとんからえられる安心感とはまたちがうような気がする。
もっとも、「野宿野郎」のサイトで「羽田空港での野宿」が報告されており、
屋内でも「野宿」を強弁できなくはないようだ。
わたしはてっきり滑走路わきの野原でねたのかとおもったら
(よくみとめられたものだと感心していた)、
空港の待合室、というかとにかく空港の施設内で
寝袋をひろげた、というものだった。
それはそれで、よく警備のひとからなにもいわれなかったものだ。
わたしは以前、まち時間を楽にすごそうとして
伊丹空港で銀マットをひろげてよこになったことがある。
そのときはすぐに警備員がやってきて「なにをしているのか」
とかたい表情でといつめられたことがある。
待合室でねてなにがわるい、といえそうだけど、
床にねそべったのがよくなかったみたいだ。
とても有能な寝袋も、野外でつかうにはじつはそれほど万能ではない。
水にぬれるとすごくトホホだし、
風とさむさは寝袋にくるまっていてもけっこうシビアだ。
夏はあついし、蚊だってとんでくる。
それでもかとうちあきさんがテントをつかわずに、
寝袋だけでねる「野宿」をだいじにしているのは
そのほうがより自由だからだ。
テントがあると、たしかに風をふせいでくれるし、
さむさも、あるとないとではぜんぜんちがう。
そんなことはわかったことで、それでもあえて
寝袋だけでねようとするのはすばらしい
(ただめんどくさい、というのもありそうだけど)。
なんだかんだいって、テントは家のなかでの野宿と
そうかわらないといいはることができる。
できるだけものにたよらないこと。
寝袋とマットだけが野宿の基本だ。
ときどき空港野宿なんて奇策をうちながら、
それでも寝袋とマットを大切にする
かとうちあきさんと野宿野郎の方針を
わたしはあつく支持する。
封筒型なので、ふとんにもぐりこむのとかわりなく、
ぜんぜんきゅうくつではない。
寝袋をつかったからといって、
家のなかでねていてはさすがに「野宿」とはよばない。
でも、寝袋にはいるだけでも
おもいがけずあそびごころをくすぐられた。
実用的にもすぐれており、秋の夜にしのびよってくるさむさから
みごとにわたしの睡眠をまもってくれる。
つめたそうな雨のおとをききながら、自分は寝袋にくるまって
ぬくぬくと惰眠をむさぼるという、
ものすごくしあわせな状況を、
寝袋はかんたんに提供してくれた。
ふとんからえられる安心感とはまたちがうような気がする。
もっとも、「野宿野郎」のサイトで「羽田空港での野宿」が報告されており、
屋内でも「野宿」を強弁できなくはないようだ。
わたしはてっきり滑走路わきの野原でねたのかとおもったら
(よくみとめられたものだと感心していた)、
空港の待合室、というかとにかく空港の施設内で
寝袋をひろげた、というものだった。
それはそれで、よく警備のひとからなにもいわれなかったものだ。
わたしは以前、まち時間を楽にすごそうとして
伊丹空港で銀マットをひろげてよこになったことがある。
そのときはすぐに警備員がやってきて「なにをしているのか」
とかたい表情でといつめられたことがある。
待合室でねてなにがわるい、といえそうだけど、
床にねそべったのがよくなかったみたいだ。
とても有能な寝袋も、野外でつかうにはじつはそれほど万能ではない。
水にぬれるとすごくトホホだし、
風とさむさは寝袋にくるまっていてもけっこうシビアだ。
夏はあついし、蚊だってとんでくる。
それでもかとうちあきさんがテントをつかわずに、
寝袋だけでねる「野宿」をだいじにしているのは
そのほうがより自由だからだ。
テントがあると、たしかに風をふせいでくれるし、
さむさも、あるとないとではぜんぜんちがう。
そんなことはわかったことで、それでもあえて
寝袋だけでねようとするのはすばらしい
(ただめんどくさい、というのもありそうだけど)。
なんだかんだいって、テントは家のなかでの野宿と
そうかわらないといいはることができる。
できるだけものにたよらないこと。
寝袋とマットだけが野宿の基本だ。
ときどき空港野宿なんて奇策をうちながら、
それでも寝袋とマットを大切にする
かとうちあきさんと野宿野郎の方針を
わたしはあつく支持する。
2013年09月03日
夏やすみがおわる もうなんだか一年がおわったような気がする
夏やすみがおわった。
ほとんどの放課後等デイサービス事業所が
おおきなため息をついているのではないだろうか。
きょねんの夏やすみは営業をはじめてまだ間がなく、
利用者がすくなかったので、
今回がはじめて体験するまともな夏やすみだった。
9時から6時までという、ほかの業種からみればあたりまえの営業時間とはいえ、
エネルギーがあふれた子どもたちに
ながい時間たのしんでもらうのはそう簡単ではない。
おおきな山をやっとこえた安心感で、いまは気がぬけた状態だ。
夏やすみのおわりを象徴するように、このごろは雨の日がつづく。
まだ9月3日なのに、いっきに秋がふかまっような錯覚をもつ。
ほんとうにあの夏の日々がおわったかとおもうと、すごく感慨ぶかい。
夏やすみちゅうの利用者は、平均で11.3人だった。
10人が利用定員のピピは、平均で12人をしたまわらないといけないので、
11.3人という数字はいいところをついたのではないか。
スケジュールでうごける子がふえているので、
おもっていたよりは職員がこまかい指示をださなくても
自分たちですきなようにあそんでいた。
職員は、こまったときにだけ「おてつだい」するという方針だ。
気をつけないと、つい「よけいなお世話」がふえてしまい、
大人にたよる姿勢をそだててしまうことになる。
ずっとピピのたてもののなかですごすのはたいへんなので、
おやつや調理実習のかいものをしたり、
カラオケにもいちどでかけている。
とはいえ、ピピでとにかくあそびたい、という子もおおく、
おでかけにあまりたよらなくても
なんとなく毎日すごせていた。
なんにんかの保護者から、活動のようすをくわしくしりたいといわれている。
ピピでは、記録をかくときに子どもたちから目をはなしたくないので、
毎日の記録をパソコンにうち、それを1ヶ月まとめて手わたすことにしている。
保護者からすればその日の活動をしるのは
送迎のときの「報告」だけということになり、
ものたりなさをかんじておられるようだ。
なかには連絡ノートを希望する方もおられ、
それらにひとつひとつかきこんでいると、
子どもたちから目をはなしたくない、という目的が
意味をもたなくなってしまう。
iPadミニに活動のようすを撮影し、
送迎のときに保護者にみせたところ
とてもよろこんでもらえたとスタッフがはなしている。
それもひとつの方法とはいえ、どの子もおなじように撮影するのは
それはそれで手がかかりそうだ。
ほかの事業所が、こうした保護者の要望にどう対応しているのか
いいとりくみを参考にさせてもらおうとおもう。
また、記録じたいも入力にだいぶ時間がとられることと、
せっかくたくわえたデーターをいかせていないことが課題としてあがってきた。
監査用の記録のつもりはないので、
もっとすくない手間でかんたんにかきこむ方法をとりいれて、
それを最大限にいかしていきたい。
夏やすみがおわったら、という「ごほうび」がまだきまらない。
なにかをかうか、小旅行にでかけるか。
まったくあたらしい体験を、とかいろいろかんがえながら
けっきょくしぼりきれなかった。
休暇は義務とかんがえ、ことしの夏を象徴する
とびきりのごほうびを自分にプレゼントしよう。
ほとんどの放課後等デイサービス事業所が
おおきなため息をついているのではないだろうか。
きょねんの夏やすみは営業をはじめてまだ間がなく、
利用者がすくなかったので、
今回がはじめて体験するまともな夏やすみだった。
9時から6時までという、ほかの業種からみればあたりまえの営業時間とはいえ、
エネルギーがあふれた子どもたちに
ながい時間たのしんでもらうのはそう簡単ではない。
おおきな山をやっとこえた安心感で、いまは気がぬけた状態だ。
夏やすみのおわりを象徴するように、このごろは雨の日がつづく。
まだ9月3日なのに、いっきに秋がふかまっような錯覚をもつ。
ほんとうにあの夏の日々がおわったかとおもうと、すごく感慨ぶかい。
夏やすみちゅうの利用者は、平均で11.3人だった。
10人が利用定員のピピは、平均で12人をしたまわらないといけないので、
11.3人という数字はいいところをついたのではないか。
スケジュールでうごける子がふえているので、
おもっていたよりは職員がこまかい指示をださなくても
自分たちですきなようにあそんでいた。
職員は、こまったときにだけ「おてつだい」するという方針だ。
気をつけないと、つい「よけいなお世話」がふえてしまい、
大人にたよる姿勢をそだててしまうことになる。
ずっとピピのたてもののなかですごすのはたいへんなので、
おやつや調理実習のかいものをしたり、
カラオケにもいちどでかけている。
とはいえ、ピピでとにかくあそびたい、という子もおおく、
おでかけにあまりたよらなくても
なんとなく毎日すごせていた。
なんにんかの保護者から、活動のようすをくわしくしりたいといわれている。
ピピでは、記録をかくときに子どもたちから目をはなしたくないので、
毎日の記録をパソコンにうち、それを1ヶ月まとめて手わたすことにしている。
保護者からすればその日の活動をしるのは
送迎のときの「報告」だけということになり、
ものたりなさをかんじておられるようだ。
なかには連絡ノートを希望する方もおられ、
それらにひとつひとつかきこんでいると、
子どもたちから目をはなしたくない、という目的が
意味をもたなくなってしまう。
iPadミニに活動のようすを撮影し、
送迎のときに保護者にみせたところ
とてもよろこんでもらえたとスタッフがはなしている。
それもひとつの方法とはいえ、どの子もおなじように撮影するのは
それはそれで手がかかりそうだ。
ほかの事業所が、こうした保護者の要望にどう対応しているのか
いいとりくみを参考にさせてもらおうとおもう。
また、記録じたいも入力にだいぶ時間がとられることと、
せっかくたくわえたデーターをいかせていないことが課題としてあがってきた。
監査用の記録のつもりはないので、
もっとすくない手間でかんたんにかきこむ方法をとりいれて、
それを最大限にいかしていきたい。
夏やすみがおわったら、という「ごほうび」がまだきまらない。
なにかをかうか、小旅行にでかけるか。
まったくあたらしい体験を、とかいろいろかんがえながら
けっきょくしぼりきれなかった。
休暇は義務とかんがえ、ことしの夏を象徴する
とびきりのごほうびを自分にプレゼントしよう。
2013年09月02日
ネットゲームをスカイプしながらたのしむむすこ
むすこがプレステとパソコンをもって2階からおりてきた。
台所にあるテレビでゲームをしてもいいかときいてくる。
ひとりでではなく、このごろはネットにつないで
友だちと対戦するのがおもなあそび方だ。
むすこしかいないはずの部屋からはなしごえがきこえるので、
はじめはギョッとすることがおおかった。
どんなしくみではなれた家にすむ友だちと(すげーアナログ的発想!)
おなじ画面をみながらゲームができるのだろう。
パソコンはスカイプ用なのだという。
スカイプなんてわたしはやったこともないし、
まったく関心がない。
テーブルのうえにスマホもあったので、
なににつかうかきいたら、
「データーを整理するため」とおしえてくれたけど、
なんのことかぜんぜんわからなかった。
もう、ぜんぜんわたしとはちがう世界にむすこはすんでいる。
ゲームをするのにパソコンとスマホがあると便利なんて、
いつからこういうあそび方になったのだろう。
しばらくまえにMacAIRの13インチをかったむすこは、
だけどパソコンについてわたしになにもきいてこない。
初期設定もひとりですませている。
パソコンのつかい方が、わたしとまったくかさならないのだろう。
ファイルメーカーやエクセルのことなら
すこしはむすこにおしえることができるのに、
彼はそうしたデーター処理の機械としてではなく、
ネットにつなげて友だちとやりとりするためだけにつかっている。
対象は友だちだけで、フェイスブックには興味がないようだ。
マイクロソフトをはじめ、あらゆる会社で
パソコンのうりあげがおちているそうだ。
事務用品だったパソコンは、やがてネットにつないでなければただの箱、
みたいにインターネット環境が大前提となり、
そしていまではそれがタブレットにかわった。
あっという間にパソコンはつかわれなくなってしまった。
電子書籍と紙の本がそうであるように、それぞれ便利な点がちがうから、
どちらかがなくなることはないだろうけど、
いまやながれは完全にタブレットだ。
スカイプしながらネット対戦があたりまえのむすこたちは、
わたしの世代ではかんがえもしなかった環境で生きている。
ネットでつながっていることを当然のこととして、
家ではぜったいにみせない笑顔でおおさわぎしながら
パソコンにうつる友だちとあそんでいる。
ただただ、すげーなー、とわたしはおもう。
台所にあるテレビでゲームをしてもいいかときいてくる。
ひとりでではなく、このごろはネットにつないで
友だちと対戦するのがおもなあそび方だ。
むすこしかいないはずの部屋からはなしごえがきこえるので、
はじめはギョッとすることがおおかった。
どんなしくみではなれた家にすむ友だちと(すげーアナログ的発想!)
おなじ画面をみながらゲームができるのだろう。
パソコンはスカイプ用なのだという。
スカイプなんてわたしはやったこともないし、
まったく関心がない。
テーブルのうえにスマホもあったので、
なににつかうかきいたら、
「データーを整理するため」とおしえてくれたけど、
なんのことかぜんぜんわからなかった。
もう、ぜんぜんわたしとはちがう世界にむすこはすんでいる。
ゲームをするのにパソコンとスマホがあると便利なんて、
いつからこういうあそび方になったのだろう。
しばらくまえにMacAIRの13インチをかったむすこは、
だけどパソコンについてわたしになにもきいてこない。
初期設定もひとりですませている。
パソコンのつかい方が、わたしとまったくかさならないのだろう。
ファイルメーカーやエクセルのことなら
すこしはむすこにおしえることができるのに、
彼はそうしたデーター処理の機械としてではなく、
ネットにつなげて友だちとやりとりするためだけにつかっている。
対象は友だちだけで、フェイスブックには興味がないようだ。
マイクロソフトをはじめ、あらゆる会社で
パソコンのうりあげがおちているそうだ。
事務用品だったパソコンは、やがてネットにつないでなければただの箱、
みたいにインターネット環境が大前提となり、
そしていまではそれがタブレットにかわった。
あっという間にパソコンはつかわれなくなってしまった。
電子書籍と紙の本がそうであるように、それぞれ便利な点がちがうから、
どちらかがなくなることはないだろうけど、
いまやながれは完全にタブレットだ。
スカイプしながらネット対戦があたりまえのむすこたちは、
わたしの世代ではかんがえもしなかった環境で生きている。
ネットでつながっていることを当然のこととして、
家ではぜったいにみせない笑顔でおおさわぎしながら
パソコンにうつる友だちとあそんでいる。
ただただ、すげーなー、とわたしはおもう。
2013年09月01日
『あたらしい野宿(上)』(かとうちあき) 絵になじめないひとは要注意
『あたらしい野宿(上)』(かとうちあき・亜紀書房)
だいすきなかとうさんの本なのでまよわず注文する。
でもすこしやな予感があった。
表紙の絵になじめなかったから。
予感は、あたらずといえどもとおからずだった。
「コッコさん」の片山健さんみたいな作風だけど、
もちろんだいぶちがう。
挿絵として文章にそえられているというより、
絵の存在がおおきすぎて、本のなかみになかなかはいれない。
かとうさんは絵本がつくりたかったのだろうか。
この本は、くよくよしてばかりの「のじゅくくん」(小学4年生)が
野宿に目ざめていく、というかたちをとっている。
のじゅくくんに説明しながら
・野宿とはなにか
・野宿に必要なもの
・おばけがこわくてもだいじょうぶ
・野宿をする場所
・あつくてもなんとかなる
と、野宿についての基本的な知識をおさえる。
で、これがおもしろいかというと、
これまでのかとうさんの本にかかれていたことが、
くりかえされているだけで、かたすかしをくったかんじだ。
あたらしい野宿のたのしさをおしえてくれるわけではない。
なぜこの本ができあがったのか、
だれにむけてかかれたのか、
よくわからなかった。
もっと「かとうちあき」色を全面にだせばいいのに。
これだったら、旅コミ誌の『野宿野郎』のほうが、
まだかとうさんの存在をかんじることができる。
「寒いのもいやだよ」では、
ネコをつかまえて寝袋にいれて暖をとる、
という方法が紹介してある。
・食べ物でおびき寄せ
・首根っこをつかまえる
・寝袋の中に入れる(ネコがヤダヤダといってる絵あり)
のだという。
オチは「ひっかかれて痛い
ノミとダニで、かゆいかゆい」で、
でもじっさいにおとなしく寝袋にはいってくれるネコが
そういるとはおもえない。
おもしろくかこうとしてすべった印象がつよく、
なんだかしらけてしまった。
ほんとにこんなつまらないことを、かとうさんがかいたのか。
ただひとつよかった章は
「段ボール大研究」で、
箱と箱をつなげてなかにはいる方法が紹介されている。
わたしも、子どものころに段ボールと毛布で「家」をつくったとき、
たったこれだけ設備がどれだけあたたかいかにおどろいたことがある。
かんたんに段ボールハウスがつくれるようになれば、
かなりのさむさにも対応できるだろう。
(上)とあるからには、『あたらしい野宿』の
中巻や下巻があるということなのだろうか。
(上)でもう完結してるのだから冗談かもしれない。
続編がでたとしても、この程度の本だったら、
さすがに「まよわず注文」という気にはならない。
かとうさんファンながら、中身をチェックしたうえで、
「もしよければ」にしよう。
(上)の反省からおおきくばけて、
めちゃくちゃおもしろい続編ができればうれしいけど。
だいすきなかとうさんの本なのでまよわず注文する。
でもすこしやな予感があった。
表紙の絵になじめなかったから。
予感は、あたらずといえどもとおからずだった。
「コッコさん」の片山健さんみたいな作風だけど、
もちろんだいぶちがう。
挿絵として文章にそえられているというより、
絵の存在がおおきすぎて、本のなかみになかなかはいれない。
かとうさんは絵本がつくりたかったのだろうか。
この本は、くよくよしてばかりの「のじゅくくん」(小学4年生)が
野宿に目ざめていく、というかたちをとっている。
のじゅくくんに説明しながら
・野宿とはなにか
・野宿に必要なもの
・おばけがこわくてもだいじょうぶ
・野宿をする場所
・あつくてもなんとかなる
と、野宿についての基本的な知識をおさえる。
で、これがおもしろいかというと、
これまでのかとうさんの本にかかれていたことが、
くりかえされているだけで、かたすかしをくったかんじだ。
あたらしい野宿のたのしさをおしえてくれるわけではない。
なぜこの本ができあがったのか、
だれにむけてかかれたのか、
よくわからなかった。
もっと「かとうちあき」色を全面にだせばいいのに。
これだったら、旅コミ誌の『野宿野郎』のほうが、
まだかとうさんの存在をかんじることができる。
「寒いのもいやだよ」では、
ネコをつかまえて寝袋にいれて暖をとる、
という方法が紹介してある。
・食べ物でおびき寄せ
・首根っこをつかまえる
・寝袋の中に入れる(ネコがヤダヤダといってる絵あり)
のだという。
オチは「ひっかかれて痛い
ノミとダニで、かゆいかゆい」で、
でもじっさいにおとなしく寝袋にはいってくれるネコが
そういるとはおもえない。
おもしろくかこうとしてすべった印象がつよく、
なんだかしらけてしまった。
ほんとにこんなつまらないことを、かとうさんがかいたのか。
ただひとつよかった章は
「段ボール大研究」で、
箱と箱をつなげてなかにはいる方法が紹介されている。
わたしも、子どものころに段ボールと毛布で「家」をつくったとき、
たったこれだけ設備がどれだけあたたかいかにおどろいたことがある。
かんたんに段ボールハウスがつくれるようになれば、
かなりのさむさにも対応できるだろう。
(上)とあるからには、『あたらしい野宿』の
中巻や下巻があるということなのだろうか。
(上)でもう完結してるのだから冗談かもしれない。
続編がでたとしても、この程度の本だったら、
さすがに「まよわず注文」という気にはならない。
かとうさんファンながら、中身をチェックしたうえで、
「もしよければ」にしよう。
(上)の反省からおおきくばけて、
めちゃくちゃおもしろい続編ができればうれしいけど。