2013年09月05日

『風立ちぬ』(宮崎駿監督) すごい映画をみてしまった

『風立ちぬ』(宮崎駿監督)

すごい映画をみてしまった。
ひとりの天才設計師の生涯をえがきながら、
日本の近代史、世界の航空機史という素材が
みごとにいかされている。
そして、二郎と菜穂子のうつくしく、かなしい恋愛。
安心しきって二郎をみあげる菜穂子はとてもしあわせそうだ。
二郎は菜穂子と生きること、
そして菜穂子の死をうけいれることの覚悟をかためる。

日本の近代史として、
むかしのひとの表情やたたずまいが印象的だ。
関東大震災のとき、おきぬをせおった若者のりりしい表情は、
いまの役者さんにはだせないものだし、
「東京は壊滅だ」といいながらぜんぜんあわてていない
二郎の友人も、いかにもむかしの知識人風だ。
蒸気機関車の圧倒的な質量感にくらべ、
つくられはじめて間のない飛行機はいかにもたよりなげにみえる。
ポコポコ音をたてる、
いかにもちからのなさそうなエンジン。
とばなかったカプローニ伯爵の9枚翼飛行機は、
飛行機の開発の歴史をおもわせるし、
ユンカースの大型飛行機はいかにもドイツ的だ。
ひともものも、いまや実写ではあらわせないことがたくみに再現されている。
アニメーションだからやりやすかったというより、
宮崎監督のちからのいれかたがすさまじかったのだろう。

日本という国のまずしさを二郎はいつも口にする。
うつくしい飛行機をつくるのは自分の夢ではあるけれど、
それを実行するのは国をあげての兵器開発にのっかることだ。
お金のかかる飛行機の製作とひきかえに、
貧乏なままおきざりにされている人々がいる。
自分があたりまえにたべているおかしを、
まずしくてかえないたくさんの子どもたち。
そんな日本には、日本なりの飛行機が必要なことを
二郎は意識するようになる。

二郎が飛行機の製作に没頭するようすは、
わかものが自分の仕事に全力をつくし、
夢を実現させていくときの過程がえがかれている。
仕事とは、このように情熱をかたむけることであり、
そうやって仕事をするのが人生なのだ。
二郎は菜穂子にできるだけつきそいながらも仕事をつづける。
菜穂子もまた、そうやって仕事に全力をそそぐ二郎であるからこそ
いっしょになろうとおもった。

のこされた時間があまりないことを覚悟し、
ふたりは黒川夫妻に仲人をたのんでいそぎの結婚式をあげる。
結婚式とは、こうやってふたりの覚悟とねがいをしめす機会なのだ。
すきなひとといっしょになれるしあわせを
全身であらわす菜穂子のなんといううつくしさ。
「けなげだ。いや、めでたい。おめでとう」
と黒川氏はなきながらふたりがむすばれることをいわう。

みじかい結婚生活をおくったのち、
菜穂子はまた山の療養所へもどっていく。
汽車のなかで、菜穂子はもうちからがはいらない。
猫背でうつむいたまま、なにをおもっていただろう。

映画は、9試単座戦闘機の開発に成功し、
すばらしい性能を披露したところまでがえがかれ、
二郎のつくった飛行機がじっさいの戦闘で活躍する場面はでてこない。
映画のおわりでは、さまざまな飛行機の残骸が山とつみあげられている。
新型機の開発から敗戦までの数年で、
いっぺんにふけこんでしまった二郎に
カプローニ伯爵がたずねる。

「力をつくしたかね?」
「はい、おわりはズタズタでしたが」

この作品は宮崎さんの集大成だ。
仕事とは、飛行機とは、生きるとは、そして愛するとは。
これまでの作品は、特定の人物におけるそれぞれの断片をえがいていた。
しかし、この作品はちがう。
大正から昭和という日本の近代化がすすめられた時代を背景に、
二郎の人生をとおして、そのすべてがつめこまれた。
宮崎さんは、だからおもわずないてしまったのだ。

映像があまりにもリアルなので、
アニメーション映画をみているという気がまったくしない。
『風立ちぬ』という作品の世界に、ただひきこまれていた。
ジブリだけでなく、ほかの作品ともくらべることができない。
『風立ちぬ』は、アニメーションにおける最高到達点である。
すごい映画をみてしまった。

posted by カルピス at 23:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする