ジン・トニックがほしいうちはまだ夏、という
わたしにとって重要なことわざがある。
夏のおとずれとともに
ジン・トニックをからだがもとめるようになり、
この酒をのみながらねむりにつくのが夏の夜のお約束だ。
いちじはジンとライムをきらさないことが
かいものの目的にもなっている。
それが、秋のけはいがこゆくなると、
まるでつきものがおちたみたいに
みごとにジン・トニックへの欲求がきえる。
あんなにこの酒をほしがっていたは、
べつのひとみたいにおもえる。
別のいい方をすれば、
立秋だ、8月がおわった、なんていっても、
また、「朝晩のすずしさがちがってきましたね」なんていっても
ジン・トニックがおいしいうちは、
ほんとうの夏はまだおわっていない。
9月のあつさは「残暑」ではなく、まだ夏のうちなのであり、
台風がすぎ、虫の声がきこえるようになって、
ある日とつぜんに秋がやってくる。
秋はだんだんとはやってこない。
いちにちをさかいにして、空の雲やあたりの空気を
はっきりと「きのう」とはちがったものにかえて
季節が秋になってことをしらしめる。
そして、ほんとうに夏がおわったことを、
ジン・トニックによってわたしのからだにおしえてくれる。
その意味で、今年の夏のおわりは9月18日だった。
9月19日は30℃ちかくまで気温があがり、
まだまだひざしがつよかったけど、
この日が今年の秋のはじまりであり、
夏がまえの日の夜に、すでにおわっていたことが
わたしにはよくわかった。
おなじように、冬のおわりは
干し柿がほしくなくなったときといえる。
冬のあいだ、おやつやデザートとして
あんなにからだがもとめていた干し柿なのに、
ある日をさかいにプッツリとたべなくなる日がやってくる。
わたしにとっての冬は、
干し柿をたべたい時期と完全にイコールとなっている。
あるひとにとっての人生のおわりは
☓☓がほしくなくなったとき、
というのがあるだろうか。
それまでものすごく執着していたものに対し、
ある時期からさっぱりもとめなくなる。
きっとそれはおだやかな最期なのだろう。
それだけのエネルギーがなくなった、というよりも、
からだが自然に生物としての寿命を察知したのだ。
それが100歳や90歳という大往生でなくても、
そのひとにとって自然な最期といえるのではないか。
そのときをむかえるのが、こわいような、たのしみのような。