ひとはどれだけのものが手もとにあれば
満足してくらせるのか。
旅行のガイドブックに
「あったら便利はなくても平気」
とかいてあり、感心したことがある。
どうしてもふえてしまいがちな旅行の荷物をきめるときに、
このことばをとおしてふるいにかける。
かならずいるものはだれでもわかるので、
まよったら、それは余分な荷物ということになる。
たしかに、「あったら便利」程度のものは、
もっていかなくてもたいしてこまることはない。
旅行中、たしょう不便なことぐらい、なんだというのだ。
家にいるわけじゃないのだから、
すこしぐらいのことは我慢したらいい。
というのは原則であり、
わたしはどうしても荷物がおおくなりがちだ。
わかいころからそうだったし、
中年になってもその傾向はかわらない。
ドライヤーやお化粧をもつ必要はないし、
おしゃれもしないので、
最小限のきがえだけですみそうなものなのに、
いつもカバンがパンパンになる。
場所とおもさの両方で問題なのが
10冊ほどもっていく本の存在で、
2年前の旅行では、まよったあげく650グラムもある
『ジェノサイド』(高野和明)をカバンにいれた。
身がるさをえらぶか、快適さをえらぶかで、
そのひとの旅行のスタイルはある程度きまってくる。
歳をとると、ちいさなカバンひとつで、
というわけにはいかなくなり、
けっきょく家にいるときとおなじような
便利さをもとめてしまう。
わかいころネパールでトレッキングをしたときに、
デイパックにすべてをおさめてあるいたことがある。
寝袋をもっていたけど、カバンにはいらないので
ポカラのゲストハウスにのこしておいた。
なんでそういうことができたのか、
いまとなってはそのいさぎよさを不思議におもう。
欲がなく、ただあるけたらそれでいいとわりきれた
わかいころにしかできないパッキングだ。
大荷物を背をわなくてもこまらなかった教訓をいかして、
すくない荷物を自分のスタイルにすればよかったのに、
それ以降は、いごこちのよさをもとめるようになる。
たいしていらないものまでカバンにつめこんで、
自分の優柔不断さにうんざりするがおおい。
とはいえ、ちいさなカバンだけで
ながい旅行をしているひとのはなしをきいても、
たいしたものだとおもいつつ、
わたしにはできないことがよくわかってきた。
修行じゃないのだから、あったほうがたのしいものは、
すこしぐらいじゃまになってもカバンにいれている。
旅行の非日常性をたのしみながらも、
日常性をもちこむこともまた旅行をおもしろくしてくれるからだ。
「あったら便利はなくても平気だけど、
でもあったほうがたのしい」
というのが中年になってからの荷物をきめる方針になった。