2013年10月31日

頭のなかでカチッとなる瞬間はくるのか

よしもとばななさんの『アルゼンチンババア』では、
それまで仕事一筋にいきてきた男性が、
奥さんの死をさかいに「アルゼンチンババア」
とよばれる女性にいれこんで、
その家でくらすようになる。
町はずれにある彼女の家には、
あれはてた、でもどこかいごこちのようさそうな庭があり、
男性はそれをみたときに、
自分がここでくらすようになることを、
ピンとさっしたのだ。

うろおぼえだけど、アーヴィングのなにかの本にも、
頭のなかで「カチッと」なる瞬間がでてきた。
なんということのない体験をしたことがきっかけだったり、
ほかのひとにとってはどうでもいいような
「なにか」をみたことで、その後の生き方がかわってしまう。

前後との関係がなくおとずれる、
そうした劇的な変化がわたしはだいすきで、
本のなかによくでてくるその瞬間を
まちつづけて生きてきたような気がする。
それまでになにかをコツコツとつづけてきたことも、
カチッと頭のなかでなった瞬間に、
人生がちがうステージにうつる。
登場人物は、体験したことのない変化が
これからおとずれることをかんじている。
頭とからだが、もうあたらしいスタートを準備しているのだ。
これはもう運命のようなもので、
説明のつかないちからがおよんでいる。
それをみる瞬間までだれにもわからない。

わたしには、すくなくともこれまでのところは、
その「瞬間」がこなかった。
わたしはその音をききのがしてしまったのだろうか。
『アルゼンチンババア』のように、
なにかの節目とともに、その瞬間はおとずれるのかもしれない。
子どもが家をでていったり、配偶者が仕事をやめたときなど、
家族関係にうごきがあるときなどがあやしそうだ。
もっとも、天気予報とちがい、もうそろそろきそうだ、という予感は
その瞬間のおとずれをやすっぽくしてしまう。

いっぽうで、竹中直人の『119』は
「波なんかこないぞ〜!」ではじまる。
いくらまっていても、いい波なんてこない、
というのもまた日々かんじることだ。
人生はかわるようでかわらない。
かわるときにはしんじられないくらい
あっけなく日常がこわれてしまうのに。
「波なんかこないぞ〜」は、
わたしにむかってさけばれたような気がした。

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2013年10月30日

許容範囲のせまさは、ちから不足なのかもしれない

ブログをかくときは、できるだけその対象を
肯定的な表現でつたえたい。
批判的な視点が必要だとはいえ、
批判ばかりになるようだったら
なにもわざわざそれについてかくことはなく、
べつのものにかえよう、というのが基本的なかんが方だ。

村上宣寛氏の『野宿大全』について、
おしゃれなレビューがかかれていた。
わたしはいぜん、村上氏の『野宿完全マニュアル』をよんだことがあり、
ずいぶん尊大なひとだなーと、あまりいい感想をもたなかった。
『野宿大全』をわたしはよんでいないけれど、
カレー臭氏のレビューは、
わたしがかんじていた村上氏へのうさんくささを
じょうずに表現されており、おそらくそのとおりの内容なのだろう。
批判的な感想は、こういうふうにかけばいいのかというお手本になった。

『野宿大全』のことがかきたかったわけではなく、
ミニコミ誌『野宿野郎』のなかで
かとうちあきさんがこの村上氏に
インタビューしていることにふれたかった。
そのときのかとうさんが
「うるさいオヤジだ」というスタンスではなく、
あくまでも「はなしをうかがう」
という態度をくずさなかったことに
わたしはとても感心した。
村上氏のよさをひきだすのに成功しており、
へんなおやじではなく、
もしかしたら親切なおじさんかも、
とおもってしまいそうになる。
インタビューをさせてもらっているのだから、
相手をたてるのは当然の配慮とはいえ、
かとうさんの対応はいいかんじだった。

角田光代さんの『今、何してる?』に、
おもしろそうな本が紹介してあったので、
図書館で数冊をかりてみた(「図書館日和」というアプリがおすすめ。
目ざす本が身ぢかな図書館にあるかどうかおしえてくれる)。
でも、角田さんがなぜその本を評価するのか、
わたしにはわからない本もある。
このみのちがいというよりも、
相手のよさをひきだそうとする角田さんの視線が
とても謙虚であることをかんじた。

そうしたことについて、わたしは許容範囲がすごくせまい。
ひとのファインプレーをみとめ、ほめるのがすきなつもりなのに、
なにか自分にあわないものをかんじると、
サッとみきりをつけてしまう。
いいものはいいけど、いやなものは、ただもういやなのだ。
気にいらない文章だととちゅうでよむのをやめてしまうし、
ラジオをきいていても、番組の担当者のはなし方が「あわない」とおもうと、
それからは、そのひとの声をきいただけで番組をかえてしまう。
そうした許容範囲のせまさは、まわりまわって
自分のたのしみをへらしてしまうとおもいつつ、
生理的にダメなものはしょうがないと、ひらきなおってしまう。

いい仕事をしているひとは、
まわりのひとをまきこんだり、うけいれたりしながら、
自分のやりたいことをひろげている。
ひととのつながりは、もちろんめんどくさいことがあるだろうけど、
いやなことを、いちいちいやだといっていては仕事にならない。
そして、そういうひとは、
「仕事だから」無理してやっているのではなく、
そうしたほうがけっきょく自分にとっておもしろいから、
というのが理由にみえる。
わたしの許容範囲のせまさは、自分の可能性を
ずいぶんせまくしているのだろう。
いやなひとはたくさんいるけど、
いい仕事をしているひともまたすくなくない。
ひとのよさをくみとれないのは、
わたしのちから不足かもしれないのだ。

posted by カルピス at 21:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月29日

『銭湯の女神』(星野博美)パンクな星野さんの生き方

『銭湯の女神』(星野博美・文芸春秋)

星野博美さんのエッセイ集『銭湯の女神』に、
「私がテーブルを買う時」というはなしがのっている。
星野さんはみかん箱をテーブルがわりにつかっているのだそうで、
アパートにあそびにきた友だちから
「あなたは意識して根を下ろさないようにしてるのね」
といわれたのだそうだ。
ご自分の分析によると、旅のおおい生活が
日常を侵食したのではなか、という。
「万一の場合には簡単に移動できるようにしておきたい。
一度旅の中で刷りこまれてしまった防衛本能から、
なかなか抜け出すことができずにいる」
ということだ。

テーブルをもたないだけでなく、
かいおきということが星野さんはできない。
「食料品はいうまでもなく、
シャンプーや歯磨き粉、石鹸にいたるまで、
割高でも一番小さくて量の少ないものしか買うことができない。(中略)
私はいつの間にか、長い時間を想定するという
習慣を失ってしまったらしい」

旅ですりこまれたからといっても、
ここまでものをもちたくないという心理がそだつものだろうか。
そして、これは断捨離とおなじ精神なのだろうか。
わたしはまったく逆で、ものがなければ安心できない。
お金よりも、実物のほうに説得力がある。
冬ごもりの準備というイメージがすきで、
倉庫がマキでいっぱいになっているとか、
米が10俵たくわえられた、とか、
しばらくこれでこまらない、というシチュエーションによわい。
わたしの場合は、『ロビンソン漂流記』の影響がたぶんつよい。
あの本のなかにある、小麦がどれだけとれるようになったとか、
牧場のヤギが順調にふえている、という記述に
おさない胸をおどらせたものだ。

いうまでもなく、星野さんはお金がないわけではない。
フリーランスだからでもなく、
結婚してないからでもなく、
女だからでもなく、
「日常が旅に侵食されている」
というのがただ一つの理由だなのだそうだ。

「旅に浸食された日常生活にはある種の寒々しさがある。
そんな人間に、テーブルを買う日は来るのだろうか」

「多くの人が当然のように送っている日常生活を
自分は送ることができない。それが、時々こたえる」

そのまえにある文章には、
「本当に、今までただの一度も、
ちゃぶ台やテーブルを買おうと思ったことがなかった」
とかいておきながら、
本音としては「それが、時々こたえる」わけで、
星野さんのこころは盤石ではない。
旅によってすりこまれた価値観なのだから、
またいつかべつの刺激をうけて心境がかわるかもしれないという
期待がそこにはある。

本におさめられているほかのはなしをよむと、
レシピにかいてある料理の時間をまもれない、とか、
カップヌードルの3分がまてずに1分でたべてしまうとか、
星野さんのスタイルがすこしかわっているのがわかる。
星野さんには、まわりとちがうことがしたいという心理があるのだろうか。
奇をてらう、という意味ではなくて、
自分が大事だとおもうことは、スジをとおそうという気もちがつよいひとだ。

銭湯がすきだけど、温泉ではくつろげないという
屈折した心境もかいている。
「温泉を楽しむのことは、(家に)風呂を持つ人たちだけの特権」
という理屈は、いわれなければ気づかなかった。
それにしても、かなりかわったひとだ。

内容のすべてに納得できるわけではなく、
あちこちで心理的な抵抗をかんじながら、
でも星野さんの「パンクな」生き方をこのましくおもう。
星野さんは『転がる香港に苔は生えない』という作品で
大宅壮一ノンフィクション賞をうけている。
スジのとおった星野さんがノンフェクションをかくと、
どんな本になるのか、よんでみたくなった。

posted by カルピス at 12:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月28日

エバーノートをプレミアムに

気になる新聞記事をきりとって、
台紙にはるところまではマメにやるのに、
そのさきのスキャンができずにずいぶんためこんでしまった。
スキャンがめんどくさいというのと、
きりぬきをぜんぶエバーノートにおくりこむと、
1ヶ月の上限である60MBにすぐたっしてしまうということから、
中途半端なつかい方になっていた。
最近やっとエバーノートをプレミアム登録にして、
上限を気にせずつかえるようになった。

スキャンのめんどくささは、スキャナーを机の下にしまわないで、
いつもパソコンにつなぐということで解決できた。
1.机にのせて
2.パソコンつなぐ
という、わずかな手間だけど、
それがあるとないとでは、わたしのうごきがまるでちがう。
スキャンにむかう心理的なバリアがなくなり、
あき時間にサッと手がうごくようになった。

上限を気にせずつかえる気らくさが、
プレミアムにしてみるとよくわかった。
あつかえるデーター量が17倍にもなり、
OCR機能により、テキストデータも検索してくれる。
年4000円なのだから、もっとはやくプレミアムにすればよかった。

もっとも、わたしは新聞のきりぬきや、
ほかにもPDF書類をおおくあつかうから
1月に60MBではすぐにたりなくなったけど、
webクリックやテキストでメモをとるぐらいだったら、
無料アカウントでもじゅうぶんなひとがおおいだろう。
朝日新聞は、web版もだしているので、
新聞をきりとるなんてことをせずに
デジタルデータをとりこめばいいようなものだけど、
とちゅうでサービスがかわり、
エバーノートであつかえなくなるとこまるので、
あいかわらず記事をきりとって、スキャンしている。
朝日新聞にweb版をエバーノートにとりこむことについてたずねたら、
「ずっと保障されるものではありません」と
いじわるないい方をされたので、信用しないことにしたのだ。

エバーノートをつかいはじめてから2年半ほどになり、
1700のノートがたまった。
わたしはいまだにタグをうまくいかせることができず、
分類もいいかげんなので、ノートブックをわけている意味があまりなく、
ただためこんだだけ、という状況だ。
それでもすべての情報がここにはいっている、
という安心感はありがたく、
あるフォルダーをひらいてみると、
おもいがけないファイルや、
みおぼえのないファイルがはいっていたりして、
自分がためこんだノートとは、とてもおもえない。

これまでのノートをみてみると、
資料としてとっておいたものよりも、
自分でメモしたデーターのほうをよくつかうことがわかる。
おなじノートとはいえ、資料とアイデアでは
つかい方がちがっていて当然なわけで、
資料をくみあわせながらアイデアをだす、という
つかい方をもっとふかめていきたい。
デジタルになりながら、わたしの頭にあるのは
いぜんとして京大カード的なつかい方だ。

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月27日

『中央公論』11月号の特集は「英語の憂鬱」

『中央公論』11月号の特集は「英語の憂鬱」だ。

・斎藤兆史氏と鳥飼玖美子氏の対談
 「明治以来の憧れと敗北のDNA」
・「英語公用語化」がもたらしたもの
 ユニクロ・楽天の現役社員に聞く
・小学校英語教育 問題はここだ!

などいくつかの記事をよむと、
小学生からおとなまで、日本中のすみからすみまで、
英語学習がうまくいってない現状がかたられており、
このままではいけないことがわかる。

ではどうすればいいか、というのを
これまで日本は延々とやってきたわけで、
それでもどうしてもうまくいかなかったのが50年の歴史だ。
英語学習の教材やテキストがたくさんでまわっており、
ありとあらゆる方法が提案され、ためされてきたのに、
おおくのひとがどうしてもつかえるようにならない。
グローバル化でこれからは英語が絶対に必要といわれながらも、
おおきな変化はおきていないようにおもう。
先日の新聞には、小学校の3年生から英語の授業をはじめるという
文部省の方針をつたえていた(いまは5年生から)。

もっとも、はやくはじめればいいかというと、
特集記事によればおしえる側の質がとわれてくるそうで、
小学校英語教育についての覆面座談会では

「せっかく(ネイティブの発音になれて)”tree”と言えるようになっても、
担任の先生につられてあっという間に
(カタカナ英語の)「ツリー」になってしまう」

という例が紹介されている。
この座談会がよってたつかんがえ方は、

「間違っている英語を聞かされた子どもの英語力が
向上するはずがありません」

というものだ。
しかし、なにが「間違っている」かを
そうかんたんにきめられないことに
日本における英語のむつかしさがあるのではないか。
どんな英語をめざすのかという着陸地点は、
異文化交流・留学さき・職場・外交など、
つかう場面と目的によってちがっており、
ある面では日本人英語として「ツリー」でいいだろうし、
外交では「tree」でないとはずかしいかもしれない。
ネイティブの英語をありがたがるのではなく、
反対に、ネイティブがあゆみよろうとする方向性が
グロービッシュやベーシックイングリッシュの
基本的なかんがえ方にある。
ほんとうに、学校ではどういう英語をおしえるべきなのだろう。

もうひとつは、よくいわれるように、
必要ないから身につかないという単純な事実だ。
英語がわからなくてもあたらしい情報をしることができるし、
仕事でもほとんどのひとは英語なんて関係ない(すくなくともこれまでは)。
英語なしでもこまらないのは
それだけ日本および日本語のちからがつよいからであり、
しあわせな歴史だったともいえる。
独立国が、自分の国のことばだけでやりくりしようとして
なにがわるいのか。
以前のブログに、英語学習とダイエットはおなじだ、
とかいたことがある。
ふとっていても、ものすごくこまらなければ
ダイエットは成功しない。

あるべき姿からかんがえると、
英語が影響力をつよめるのは
日本人にかぎらず、おおくのひとにとって平等ではない。
英語を母語にするひとが、とくをするにきまってるのだ。
わたしは以前、梅棹忠夫さんの影響から、
エスペラント語を勉強してことがある。
入門編のテキストをやっただけなので、
たいしたことはいえないけど、
日本人にとって英語を勉強するより、はるかにかんたんだった。
英語を勉強するときの屈折した心理がなく、
すみからすみまで気もちよかった。
不規則な動詞の変化がないし、発音も日本語のものでほぼ対応できる。
国内では母語、国外ではエスペラント語という
ふたつの言葉だけで、世界中のひとびとと交流できるのが、
国際補助語としてのエスペラント語の魅力だ。

まったく、日本にとっての英語は
「英語の憂鬱」というしかないのだろう。
問題が複雑すぎて、たとえ小学年生から
英語の授業がはじまるようになっても、
なにかがおおきくかわるとはおもえない。
そして、日本人のおおくが英語をつかえるようになるのは、
それだけ日本の状況がむつかしくなったときであり、
日本人にとってしあわせではないかもしれない。
このままぬくぬくと、英語なんかつかわずにくらしたいと、
おおくのひとがおもっているし、
もうそれではやっていけないほど、
グローバル化がすすんでいるというのが、
英語教育をすすめたい側の認識だ。
両者の議論はなかなかかみあわない。

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2013年10月26日

浜田真理子コンサート「しんみりパンクをやってます」

浜田真理子コンサート(10/26・島根県民会館)

すこしまえの『本の雑誌』に
浜田真理子が子どものころの本のおもいでについてかいていた。
『本の雑誌』なのだからもちろんそういう文がのるのはわかるけど、
それにしてもなんの説明もなく、いきなり「浜田真理子」だったので、
なんでかなー、と不思議におもっていた。
しばらくしてからこんどは『web本の雑誌』に、
デビューにまつわる彼女の連載がはじまった。
とてもかわった文章で、彼女にしかかけない。
これだけ自分の気もちを自分のことばであらわせるなんて、
ただものではない。

というわけで、わたしにとっての浜田真理子は、
音楽よりも文章がさきというであいだった。
『純愛』という彼女の曲の、
「そんな中途半端な愛なんて、
どうぞもっておかえりください」
という歌詞にあるとおり、
腹のすわった生き方をしてきたことをしる。
こういう女性がわたしはすきだ。
コンサートにいってみたくなった。

500席ほどの会場が満員で、
はじめはしずかすぎ、かたすぎた雰囲気が、
彼女の歌とおしゃべりでだんだんほぐれてくる。
突然ききおぼえのあるイントロがはじまった。
RCサクセッションの『スローバラード』だ。
彼女の声でRCの曲をきいてみたい、ともっていたら、
ほんとうにうたってくれたのでおどろいてしまった。
清志郎の『スローバラード』もいいけど、
浜田真理子のもまたすばらしい。

それにしてもよくのびる気もちのいい声だ。
どんな曲も自由自在にアレンジしていまい、
じっと耳をかたむけることになる。
ジャズなんかのお店でうたってくれたら、
たのしい時間をすごせそうだ。
きょうのおしゃべりで彼女がいうには
「わたしの音楽のジャンルは、パンクだとおもっています」
ということだ。
以前「スターリン」の遠藤さんとおしゃべりしたことがあるそうで、
そのときには「浜田真理子です。しんみりパンクをやってます」
という自己紹介になったというのがおかしかった。

2時間ほどのコンサートを、ずっとたのしむことができた。
これまで彼女と彼女のうたをしらなかったのはもったいなかった。
いいヤツだなー、となんどもおもった。
浜田マリコ菌に感染したのかもしれない。

こうなると、気になってくるのは
浜田真理子と鷹の爪団の関係だ。
これだけ島根の知名度をたかめた実績がありながら、
まだ両者の接点について、なんの情報もない。
次作の映画での共演を期待している。

posted by カルピス at 20:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月25日

『さがしもの』(角田光代)旅と本について角田さんがかけばこんなおもしろい本になる

『さがしもの』(角田光代・新潮文庫)

本にまつわるはなしをあつめた短篇集だ。
象徴的なのが『旅する本』で、古本屋にうった本が、
どこまでもついてくる、というはなし。
卒業旅行でおとずれたネパール、仕事でたちよったアイルランドで、
「私」は高校生のときに古本屋にうった本をみつけてしまう。
おなじ題名の別の本ではなく、高校生だった「私」がらくがきをした、
「その」本だ。
旅さきでよみかえしてみると、まるでおもいちがいしていたことに気づく。

「主人公の友達の妹だと思っていた女性は
彼の恋人だったし、
彼らはホテルを泊まり歩いているとなぜか思いこんでいたが、
実際は、安アパートを借りて住んでいた」

3ど目を、アイルランドでよんだときも、
その本はまた意味をかえていた。

「そして私は、薄暗いパブの片隅で気づく。
かわっているのは本ではなくて、
私自身なのだと」

べつの短編『だれか』では、
タイのサムイ島で片岡義男の本をみつけ、
マラリアの熱にうかされながらなんどもよみかえす。
どんなひとがこの本をここにもちこんだのだろう。
想像しているうちに、
「突然私の頭のなかで、そのだれかがはっきりとした輪郭を持つ」
部屋のなかにちらかしたコンビニ弁当の空箱など、
すごくリアルにひとりの男性が南の島に旅だつまでをおもいえがく。

わたしも以前ポカラの古本屋さんにお世話になったことがあり、
個人的ななつかしさもあってたのしくよめた。
ポカラもカトマンズも、日本人旅行者がおおいことを反映して、
何軒かの店に日本語の本がコーナーがつくられていた。
かうときはそれなりの値段がしたけど、
よみおえて、もういちどその店にもっていくと、
かったときの値段の半額でひきとる、
というシステムだった。

旅さきのゲストハウスや古本屋さんでみかける本は
あまりわたしのこのみと一致しない。
本はおもい荷物となってしまうものだから、
自分にとって大切なものを慎重にえらびそうなものなのに、
ちょっとヒマをつぶせたらいいや、
という目的でえらばれた本がおおいような気がする。
ヒマつぶし用の本だから、古本屋にうったともいえるけど。
とにかく、日本語の本は貴重だったので、
手にできたときはありがたくよんだ。
司馬遼太郎と赤川次郎のおもしろさをしったのは、
旅行さきのゲストハウスだ。
ヘルマン=ヘッセの『荒野のおおかみ』をよんだときは、
運命的なであいだとおもいこんだ。
これはわたしのためにかかれた本であり、
なんでこのひとはわたしのことがこんなにわかるのかとおどろく
はじめての体験だった。

片岡義男をサムイ島にもちこんだ男について、
こまかな点まで想像してひとつのストーリーをつくってしまうのは、
本をえらぶには、それなりの理由があったはず、と
角田さんがかんがえるからだろう。
また、旅と本とはとても親和性がたかい。
よむ場所と気分がおたがいに影響をあたえあい、
旅行での読書ならではの特別な体験となる。

この本は、旅ずきの角田さんと、本ずきの角田さんが、
本と旅をテーマにかくという、とびきりの短篇集となった。
よみおえたあとで、「このはなしはよかった」「これもまたいい」と、
いくつものはなしに、わたしはおもわずメモをのこした。
旅と本を角田光代が題材にすれば、
こういうすてきな本ができあがる。

旅さきでよむ本について。旅をする本について。
旅はからまないけど、本についてのはなし。
どれもそれぞれに、角田光代ならでは短編があつめられている。

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2013年10月24日

クルム伊達選手の問題提議。ため息をどうとらえるか

日曜日の朝日新聞に、スポーツ観戦における
「ため息論争」がとりあげられていた。
9月におこなわれた大会で、
クルム伊達選手がダブルフォルトしたときに、
場内から「あー」という声がひろがり、
伊達選手は「もうため息ばっかり!」と
いらだちをあらわしたのだという。
試合後の記者会見で、伊達選手は
「海外では『oh』という声がおお」く、
「『oh』と『あー』では受け止め方が違う」とはなしている。
「oh」と「あー」の微妙なちがいがわたしにはわからないが、
失敗したときに場内がため息でみたされたら、
選手としてはいい気はしないだろうし、
そのいらいらは集中力をさまたげることは容易に想像できる。

サッカーでは、とくにどちらかのチームがホームのときは
ものすごい声(というか地ひびき)がわきおこり、
会場全体からの大声援でホームの選手たちを鼓舞する。
いいプレーがでれば拍手喝采だけれど、
へたなことをすると大ブーイングをあびる。
そもそも、ホームとアウェイがあること事態が、
テニスとちがいすぎて参考にはならない。
ゴルフでは、スイングの動作にはいると、
観客は静寂をまもるのがエチケットになっているし、
将棋の観戦でも、静寂は当然もとめられるマナーだ。
競技によって観客にもとめられる応援がちがってくるとしかいえない。

ため息というのは、自然にもれてしまうから問題なわけで、
それが集中をとぎれさすとは
ほとんどの観客がしらなかったのではないか。
クルム伊達選手の抗議は、ため息が選手にあたえる影響を、
選手の立場から指摘したのであり、正統な主張だとわたしはおもう。
朝日新聞の記事にはやくみつる氏の
「プロ選手として、ファンのおかげで巨万の富を得手いるわけだから、
言ってはいけないし、その資格はない」
というコメントが紹介されている。
プロならそれぐらい我慢しろ、というかんがえ方だ。
そんなことをいっていたら、
選手はなにもいえなくなってしまうわけで、
やく氏の意見にはまったく賛成できない。

観客の応援はどうあるべきか。
選手が集中をとぎれさせないために、
観客にはどんな態度がもとめられるのか。
クルム伊達選手の抗議をきっかけに、
テニスにおける理想的な応援が考慮されているようで、
つぎの大会では激励の拍手や
「ファイト!」という声援がめだったという。
こんなふうに、いろいろな問題について
すこしずつ認識がふかまっていけばよく、
今回の伊達選手の発言は、
変化をもとめるよいこころみだったとおもう。

わたしは日常においてふかいため息をよくついており、
自分ではなに気ないため息のつもりでも、
まわりにいるひとにとっては
重大な不満・いらだち・おちこみの表現として
うけとめられてしまう。
だれかといっしょのときには、
ため息をつくにもその場なりの配慮が必要みたいだ。
深刻にうけとめてしまうほうがわるい、
という主張は通用しないだろう。
かんがえてみると、ため息にもいろいろあり、
たとえばチャーリー=ブラウンのため息なんて
だれも相手にしていない。
ただ彼がひっそりと肩をおとすだけだ。
いっぽう、一生懸命に応援するからこそもれる、
こころのそこからのため息は
選手をはげしくいらだたせる。
一生懸命だからいいというものではないのであり、
ため息のもつ意外なちからをかんがえさせられる事件だった。

posted by カルピス at 19:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月23日

『今、何してる?』(角田光代)角田さんはなぜ旅にでるのか

『今、何してる?』(角田光代・朝日新聞社)

「どうしても旅慣れることができない」

「慣れない旅に出る理由」というエッセイのかきだしだ。
これまでにたくさんの旅行者をかいてきた角田さんが
こんなことをいいだしても、とてもしんじられないけど、
角田さんの旅の、ある一面をあらわしたことばなのだろう。
角田さんの小説にでてくる登場人物のおおくが、
あまりお金をもたず、アジアの国々をあてもなくさまよっている。
いくら小説の登場人物は作者と同一ではない、といっても、
角田さんもまた、おなじようなスタイルで旅行をしてきたひとだとおもう。

角田さんにおける「旅慣れなさ」とは、
「いったいなんだって私はこんなところにいるのだろう?」
とついおもってしまうことなのだという。
このエッセイでは、モンゴルを旅行しているときに
大粒の雨がふりだし、びしょぬれになってビルの軒先に非難する。
角田さんは例によって「なんだってわたしは・・・」とため息をつく。

そんなときに、黒い野良犬がきゅうにとびだし、
車にひかれてしまったのだそうだ。
おおきな外傷はないものの、すわりこんだままその場からうごかない。
このままでは、べつの車にほんとうにひかれてしまう。

「どうしよう、と思ったその瞬間、
どこからか四人のちいさな子どもたちが走り出てきた。
行き交う車にクラクションを鳴らされながらも犬に近づき、
四人で犬を抱き上げて、路地へとつれていく。
ビルの陰に犬をそっとおろすと、
子どもたちはまたどこかへと走り去っていった。(中略)
いったい私は何を見たのか。(中略)
神さまのつかいだったのではないかと本気で考えた。(中略)
こういうなんでもない、しかし奇跡にも似た瞬間をこの目で見るために、
私は慣れない難儀な旅を、この先もずっと続けていくのだろう」

わたしはいったいなにをもとめて旅行にでるのだろう。
わかいころの旅行に理由なんてとくになく、
ただいってみたいから。いかずにはおれなかった。
以来、なんどかの旅行にでかけながら、
わたしも角田さんがいっているのとおなじ意味において、
いつまでも旅なれない。
ささいなことにビビり、不安になり、
うまくいかないとずいぶんガッカリしてしまう。
旅行にでると、わたしはじつは旅行がすきではないのかも、
とおもえたりする。
目のまえの景色よりも、
どうでもいいようなことを頭のなかでいじくりまわしている。
それでもわたしは、日本にいるときよりも
ずいぶんと素直になる自分をしっている。
土地のひととはなすときなど、妙にあかるくふるまったりして、
わたしはこんなおりこーちゃんだったのか、と
びっくりしたりする。
わたしは、外国にいるときの自分のほうが気にいっている。
それもわたしが旅行にいきたがるひとつの理由だろう。

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2013年10月22日

『アル中病棟(失踪日記2)』(吾妻ひでお)ぬかづけのキュウリはもとにもどらない

『アル中病棟(失踪日記2)』(吾妻ひでお・イースト・プレス)

前作の『失踪日記』の後半1/3くらいに
「アル中病棟」というはなしが何話かのっている。
アル中になり、入院して1ヶ月、というところで
そのはなしはおわっており、
なんとなく気になっていた「その後」について
この本はこまかくつたえている。

『失踪日記』は「ぜんぶ実話です(笑)」という体験記だったし、
この『アル中病棟』はルポものといえる。
アル中病院での体験を、
ほかのひとに正確につたわるようにこまかく紹介している。
基本的に「みなさんもいつ入院するかわからないので、
参考のために」というのが作者のたち位置だ。
断酒会やAAという自助グループについても説明がこまかく、
ほんとうに「いつ入院しても」、
すくなくとも気もちのうえでの準備は
こまらないようになっているのでご安心ください。

「アル中病棟」というと、いったん入院すれば、
もう本人の意思ではでられないような病院をかんがえていたけど、
緊急時の数週間をすぎれば、
あとは契約によって治療をうける身となり、
いつでも退院する権利がある。
自由なようだけど、そこがアル中治療のむつかしいところでもある。
本人に酒をやめるつもりがなければ、
まわりがどうかかわってもまたもとにもどってしまう。
外出や外泊をしたときでも、酒をのまないようでないと、
退院してからの断酒がつづくわけがない。
病院や関係機関がずっと監視するわけにいかないので、
酒をやめるかどうかをきめるには、
最終的にはあなたですよ、という姿勢は、
かんがえてみれば当然なのだ。
いったんアル中の症状がでると、あとは酒をやめるしかない。

酒によわいわたしでも、ついついのみすぎてしまうことがある。
酒はさみしがりやで、すこしのむと
さらにまたほしくなってくるので、
ふつかよいでくるしむことがわかっていながら、
なんどでもおなじことをくりかえし後悔する。
アル中になるほど酒がすきな患者たちが、
これからの人生を酒なしですごすことが
どれだけむつかしいことか。

「ぬかづけのキュウリが生のキュウリにもどることはない」
というこわいたとえがでてくる。
アル中にしても糖尿病にしても、
ある一線をこえてしまうと、ひとのからだはもう
逆方向に回復することはなく、
あとはその病気といっしょうつきあっていくしかない。
こわいなー、とおもいながら寝酒をすする。
大丈夫なんだろうな、おれの脳みそと肝臓は。

この本のすくいは看護婦さんがみんな美人にえがかれていることで、
クセのつよい患者たちにかこまれていても、
こんな看護婦さんにお世話してもらえるなら
入院もそんなにわるくないかも、とおもえてくる。
よんでいるとわかるように、
病棟には病棟の社会があり、
そこなりのルールで日常生活がいとなまれている。
いったんその社会にくみこまれれば、
それなりに自分をまもり、回復にみちびいてくれる組織だ。
たいへんなのは、やはり退院してからだろう。
この本でも、退院がきまった吾妻さんによろこびの表情はない。
家へむかうバスからおり、あたりをみわたす吾妻さんは
「不安だなー 大丈夫なのか? 俺・・・」
と途方にくれている。

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2013年10月21日

倉下忠憲さんの電子書籍『赤魔術師の白魔法レベルぐらいまでは』キンドルにぴったりの自作出版

倉下忠憲さんの電子書籍
『赤魔術師の白魔法レベルぐらいまでは』
を注文する。
(WRMエッセイ集)となっているので、なんのことかとおもったら、
「Weekly R-style Mailmagazine」のエッセイをまとめた本、ということだ。

わたしはもともと倉下さんの(実践をともなわない)熱心な読者で、
どれくらい熱心かというと、エイプリルフールの冗談にひっかかかって、
ありもしない本まで検索したぐらいだ。
この本も、「自作の電子書籍が発売になりました」というおしらせをみて、
すぐアマゾンで注文した。
キンドル購入価格が99円となっている。
なにかのまちがいかとおもったけど、ほんとうに99円だった。
「自作の」というのは、ソフトをつかって
文字どおり自分でつくった本ということだったのだ。
編集にあたり、誤字脱字は修正したものの、
文体にはなるべく手を加えないようにしたという。
完成度をたかめようとせず、3年前の自分がなにをおもったかを
そのまま読者にさしだすというのがいい覚悟だ。

それにしても99円だ。
出版社をとおさないのでこんな値段をつけることができるわけで、
これからこういう本がどんどんでてくるのだという近未来(というか現実)を
サラッとしめしてくれた。
99円という価格、エッセイというかるいジャンルが
「自作」・「アマゾン」にぴったりで、
これだったら気がるにポチッできる。
購入をきめ、クリックすると、すぐによめてしまうのが
ものすごく快感だった。
99円でかった本を、キンドル・ペーパーホワイトでよむと、
電子書籍がどうのこうの、という議論はもうどうでもよくて、
デジタル化の本質はこういうことにあるのがよくわかる。
「数撃ちゃ当たる」かもしれないので、
自分でもやってみたくなった。

内容は、

「合計12本のエッセイが楽しめます。
一つあたりは、1500字程度なので、
ちょっとした隙間時間に一本読む、
なんて読み方が合っているかもしれません」

という倉下さんの提案どおりに、
ちょっとよんですこしかんがえる、というのに
ちょうどいい分量になっている。

「『応援』の持つエネルギー」
についてのはなしがよかった。

「自分が協力できることはなんだろうか」とおもったときに
倉下さんはエネルギーがわくのをかんじたそうで、
ソーシャルメディアのもつ相互的な関係性は、
このエネルギーをいかすものではないか、
ということがかかれている。
応援すること、応援してもらうこと。
「応援してもらえるありがたさ」と
「応援できる存在があるありがたさ」。

99円でこんなにたのしませてもらえるなんて、
自作出版のカジュアルさが、いい形でしめされた一冊だ。

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2013年10月20日

古本屋さんめぐりのおもいで

『本の雑誌』11月号の特集は、
「帰ってきたぜ、神保町!」だ。
「本の雑誌社」が笹塚から神保町にひっこして1年たち、
あらためての特集になっている。
「二階以上にある古本屋さんを畏れて巡る」や
「私の偏愛古本屋」という記事がいいかんじだ。
以前から「本の雑誌」における古本屋さんの話題はおおい。
何軒もの古本屋さんをめぐるという、
都会ならではのたのしみがうらやましい。

わたしのすむ町で古本屋さんにいくというと、
いまでは市内に3店あるブックオフへ、ということになってしまった。
わたしが学生だったころにはブックオフはなく、
いわゆる古本屋さんが市内に2、3軒あった。
「いわゆる」とか、「2、3軒」というあいまいなかきかたなのは、
やってるかどうかわからないような店や、
ひらいたけどすぐにつぶれてしまった店もあり、
はっきりとかぞえられないからだ。

30代前半とおもわれるわかいひとがはじめた古本屋があった。
あまりよく整理されてなくて、
いかにもおおあわてで本をかきあつめたようなかんじだ。
あまり本ずきでないひとが
ひっこしの荷物としてだしたような本や、
ただふるいだけで賞味期限のすぎているような本がおおかった。
ゆっくりできることと、わかい店主とすこしおしゃべりするのがたのしくて
月に1回くらいのぞいていた。
ひるまえにいくと、オムライスなどの出前の皿がおいてあり、
こうやってずっと本をながめていられる生活もあるのかと
店主の人生にすこしあこがれたりもした。
けっきょくその店は1年くらいでなくなってしまい、
古本屋経営についてはなしをきくまでにはいたらなかった。

もう1軒の店は、郷土資料や初版ものもあつかっている
しっかりした古本屋さんだった。
本が定期的に補充されており、
店をのぞくたびに本棚のようすがすこしずつかわっている。
100円程度の本もあつかっていて、
五木寛之さんの本は、ほとんどこの店でかったようにおぼえている。
ご主人はいかにも古本についての知識がありそうで、
ときおりおとずれる常連客としずかにはなされている。
「開高健(けん)の本ありますか?」とお客がたずねたことがあり、
やんわりと「かいこうたけし」と訂正された。
奥の机に店主がすわり、そのまわりには雑多に本がつみあげられていて、と、
この店のたたずまいがわたしにとっての古本屋さんだ。
あとで大阪や東京の古本屋さんをたずねるようになると、
わりとおおくの店がおなじような雰囲気をもっており、
古本屋のひとつの典型であることをしった。
椎名誠さんの『さらば国分寺書店オババ』にあるように、
ひとむかしまえは、クセのある古本屋さんにきたえられて
いちにんまえの読書人になったのだろう。

大学生のころ、おなじクラブの先輩にたのんで
大阪の古本屋さんめぐりにつれていってもらったことがある。
そのひとも本がすきで、学生なのでお金もなく、
定期的に十数軒の古本屋さんをまわっており、
効率よくめぐるコースができあがっていた。
古本ずきなひとは、みんなおなじようなことをしてるはずだ。

わたしがすきだったのは、高田馬場駅から早稲田大学にむかっての
早稲田どおりにならぶ古本屋さんめぐりだ。
とおりを往復して両側の店をみてまわると、カバンがいっぱいになる。
ある店に、文学全集の『戦争と平和』(トルストイ)が、
1巻と2巻はあるのに3巻目がなく、
ちかくの店をさがしていたらまさにその3巻目がみつかったときは
ものすごくうれしかった。
ぶあついその全集が、1巻たった100円だったのだ。

古本屋さんめぐりはある種の病気みたいなもので、
もうすでにもっている本でも
愛着があるものにたいしてはとおりすぎることができず
ついかってしまうことがある。
たぶんよまないであろう本もなぜかレジにはこぶ。
「本の雑誌」の特集で、
むかしながらのいわゆる古本屋さんめぐりをなつかしくおもった。

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2013年10月19日

代表チームのあり方は、どんな形がのぞましいか

ちょっとふるい記事(東アジア杯)で、西部謙司さんが
「『アピール』の違和感」についてふれている。
代表はアピールして入るもんじゃない。むしろ「来てください」なのだから、日本代表にはいれるよう、ザッケローニ監督に「アピール」、というみだしはおかしい。
という指摘だ。
ほんとうにそうで、選手たちは
所属するチームのために試合をしているのであり、
それをいくらザッケローニ氏が視察におとずれたからといって、
過剰な意識をあおろうとするマスコミがどうかしている。
選手のなかには代表になるのを目標にがんばっているひともいるだろうが、
代表チームにはいるのが最終的な目標、というのはへんなはなしだ。
あくまでもそれは結果にともなうものであり、
つねに代表監督の目を意識しているかのような報道は、
選手たちに失礼である。

なぜ代表チームが特別あつかいされるかというと、
その国の総力をあげたサッカーチームだからであり、
よわい代表チームではまったく意味がない。
サッカー協会は監督に権力を集中させ、
すきにやれるよう環境をととのえるかわりに結果をもとめる。
セルビアとベラルーシに、いずれも完封まけしてしまった日本代表は、
いまむつかしい立場にたたされている。
Wカップブラジル大会にむけて、
おちついてチームづくりに集中するためには、
くすぶりつつある雑音をけしさりたいところだ。

裏代表。政府でいうとシャドウキャビネット(影の内閣)みたいに、
第二代表をかならず用意する、という制度はありだろうか。
代表チームの2軍ではなく、まったくべつの組織によって編成され、
代表チームの存在をおびやかす存在だ。

そのためには、与党にたいする野党があるように、
日本サッカー協会とはべつの組織が必要で、
これはかんがえてみると、
オシムさんがボスニアをひとつにまとめるのに苦労されていることの
逆をいくことになる。
まあ、ボスニアの場合は民族による分裂であり、
日本についてはおかしな対立がうまれる心配はないだろう。
ボクシングや格闘技において、
いくつもの団体があるのはいまや当然のこととして認識されている。
ボスニアのように、複数民族によってなりたっている国が
ひとつのまとまりをもつのはむつかしいかもしれないが、
めざしているサッカースタイルによって
国内にいくつかの協会があるのは、あんがい自然ななりゆきではないか。
複数の団体から選抜チームをつくるのではなく、
あくまでもひとつの団体から代表をだすという制度だ。
外国でプレーする選手はどうなる?とか
いくつかの問題があるにしても、
つよいチームが代表、という原則がまもられる。
そのうち、やっぱり統一チームを代表にいだきたい、
というおもいが共通のねがいになれば、
それはそれで、いかに日本選抜というチームがありがたいかについて
あらためておもいしることになる。
世界的にみて、複数のサッカー協会が存在し、
うまく機能している国はないのだろうか。

posted by カルピス at 13:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月18日

『ベタ辞典』ほんとうはおそろしいベタの世界(これもじつはベタ)

『ベタ辞典』(だいわ文庫)

新聞で紹介されていた『ベタ辞典』を注文する。
すこしよんでみると、おそろしい本ということに気づいた。
わたしが日常的につかっていることばは
全部ベタだったのだ。
ちょっとひねったこと、気のきいたことをいっているつもりでも、
それがぜんぶベタだったとは。
たとえば、と例をしめそうとしても、
全部あてはまってしまうのだからこまってしまう。
わたしなんかは「こまったな」ぐらいですむけど、
脚本家なんかがよむと、ほんとに具合がわるいだろう。

・週末は家族サービスなんだよ
・社会勉強だから
・あるところにはあるもんだよなぁ
・奥さんすいません、旦那ちょっとお借りします
・目元がそっくりだろ
・田中は愛妻弁当か?

それぞれとくにズキッとくるわけではないのに、
さらっとこの本のなかに紹介されていると、
それがあまりにも自分の思考・発想の
一部になっていることばであるかがわかる。
ジワジワと自分のベタさをおもいしらされて、
なんて表現もぜんぶベタだ。

「とにかく今すぐ使えるベタ語」
「教科書にはのっていなかったベタ語」など、
ベタ語を9つに分類し、
それぞれのことばの意味を解説してあるのはもちろん、
辞典なので、類義語や派生語、それに用例がのっている。

この本のつかい方としては、
この辞典全部に目をとおしたうえで、
のっていることばをつかわないようにする、
というのをおもいつく。
それだけでもけっこう手あかのついた表現を
さける目やすになりそうだ。
というのも、じつはベタな発想であり、
この本をみているとベタからのがれることが
どれだけたいへんなことなのかをおもいしる。
わたしがベタなのか、ベタなのがわたしなのか。
かんがえればかんがえるほど、
ベタとは奥のふかい世界だったのだ。

「くしゃみをしたあとで、
「だれかがうわさしている」。
おでかけの日に雨がふると
「だれが雨男(女)だ?」。
はれたらはれたで、
「オレの日頃のおこないがいいから」。

なんて、うんざりするぐらいベタな表現をきくと、
平気な顔をしていまだにこんなことをいうひとがいるのにあきれるけど、
わたしたちの社会はこうしたベタ語によって
なりたっているのだからじつは当然なのだ。
どんなひとも、ベタの魔手からのがれることはできないと
おもいしるべきである。
ちなみに、このふたつはあまりにもベタ語すぎて
紹介するまでもないせいか、とりあげられていない。
ジャンルにかぎらずあらゆる表現者は
ベタかベタでないかをわすれたほうがいいだろう。
ベタのうらをかいたようでいて、
それがまたどんぴしゃのベタだった、なんていうことになると
とりかえしがつかない。
ベタからのがれようとしているうちは、
まだまだベタなのだとわきまえて、
ベタの海でおぼれるくらいのひらきなおりが必要だ。
あなたもわたしも全部ベタなのだから(これもベタだけど)。

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2013年10月17日

『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行)2 全力をあげた取材ならではのすがすがしさ

『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行・本の雑誌社)

ソマリランドについて読者が関心をもつのは、
おなじソマリ人でありながら、
なぜソマリランドだけが武器を手ばなし、
平和な国をきずくことができたかだろう。

ソマリランドは長老たちのはなしあいによって
武装解除ができたということになっている。
しかし、長老たちがはなしあったからといって、
どこの国でも武装解除ができるわけではない。
なぜソマリランドだけがそれに成功できたかを、
高野さんはソマリ社会特有の、氏族制度にもとめている。
氏族とは、日本でいえば源氏や平家、または
徳川家や豊臣家のようなものなのだそうで、
ソマリ社会は民族ではなく、
おなじ氏族であるということを基準にむすびついている。
旧宗主国のイギリスは、間接統治によって
このしくみをのこしてのにひきかえ、
南部ソマリをおさめていたイタリアは
氏族制度をこわし、社会をかえてしまったので、
内戦をやめるための有効な手だてをうしなった。

ただ、その氏族の勢力分布を、ただソマリ語で羅列したところで
おおくの読者にとってたいくつなだけだ。
高野さんはそれぞれの氏族に戦国武将の名をわりふって、
日本人の読者が氏族制度という概念をイメージできるように工夫している。
本書のなかにしばしばでてくる「ラピュタ」や「リアル北斗」という表現も、
ふつうの感覚ではあまりにもありえないソマリ世界を
イメージとしてとらえるためのものだ
(宮崎駿ファンからすると、『天空の城ラピュタ』のあつかいは
あまりたのしいものではない)。

物価がやすく、安全で、サービスも迅速という、
おおくのアフリカ諸国にはない特色の国なのだから、
よんでいるうちにソマリランドへいってみたくなる。
ただ、だんだんとわかってくるのは
ソマリ人が非情にアグレッシブで、自分に関係ないことにたいしては
まったく関心をしめさず、ひとなつっこいところがないという特徴だ。
なにをするにもいくらもらえるか、をかんがえ、
自分に関係のない氏族なら、
よわいものからいくらしぼりとってもいいという社会。
わたしからみても、いっしょにいてたのしいひとたちではなさそうだし、
高野さんにしても、日本人からみるとあまりにも異質なソマリ人気質に
苦手意識をもつ。

きのうのブログに
「よみおえたあとのすがすがしさ」とかいたのは、
高野さんは2どにわたる取材で
はじめはあまりにも異質におもわれたソマリ社会に
完全にうけいれられるようになったからだ。
ご自身もまたソマリ人気質を身につけられ、
「『ソマリ』が私のアイデンティティみたいになってきた」

「彼らは本当に親しい間柄では契約を行なわない。
ワイヤッブが私にそうしたように、『お任せ』なのだ」

高野さんはおおくのソマリ人と「お任せ」の関係になる。
ワイヤッブ氏から「今月は苦しい。ちょっと助けてくれ」
というメールをうけると、「二つ返事」で送金する。
モガディショにいけば、取材でしりあった友人が
ぜんぶ面倒をみてくれる。
「彼らもカネは一切要求してこない」
2012年には2回「帰省」し、たくさんのおみやげをもって
友人知人をたずねている。

「カネはかかるし荷物は多いしで、決してラクではないのだが、
それは帰省のときに誰もが経験することだろう」

高野さんが2012年にソマリランドをたずねたとき、
ちょうど日本の衆議院選挙がおこなわれており、
「新党乱立で国民が混乱」というニュースがながれたという。
ソマリランドでは憲法で「政党は三つまで」とさだめられており、

「ソマリランドのほうがやはりシステム的には日本より上だ」

という感想をもつ。

「何より私がソマリランドの政治を評価するのは、
彼らはいつも自分たちで考えて
自分たちに合うシステムを作っていることだ。(中略)
国連や先進国のお仕着せではなく、安直な真似でもない。(中略)
西欧民主主義を超えたものがたしかにそこにある」(高野)

高野さんは、これまでの取材でかんじた興味・関心から、
ソマリランドとプントランドの国境地域の探検を
つぎの目標にあげている。
ソマリランドについてえた、膨大な知識と経験を、
「ソマリ専門家」としていかすつもりはなく、
あくまでも辺境作家としてソマリにかかわっていく、
という意思表明だ。
この距離感がまた高野さんらしくてすがすがしい。
高野さんならではの取材力をいかして、
本書のように完成度のたかい作品ができあがることを
たのしみにしている。

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2013年10月16日

『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行) web版だけでよんだ気になってはいけない

『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行・本の雑誌社)

わたしは「web本の雑誌」で、
この本にかかれているうちのいくらかはすでによんでおり、
あらためて本をかうまでもないだろうと、
これまでほったらかしてきた。
もし、おなじようなかんがえから、
この本を手にしておられない方がおられたら、
それはおおきなまちがいだ。
ネットでのためしよみと、本をとおしてよむのとでは
ぜんぜんおもしろさがちがう。

ものすごくおもしろかった。
これだけ独創的で中身がこゆく、
よんだあとにすがすがしい気もちにさせてくれる本はそうないだろう。
この本は高野さんの集大成であり、
高野さんでなければかけなかった。
高野さんの辺境への偏愛・語学力・カート
(覚醒作用のある植物)などへの好奇心・ゆるさ。
それらがぜんぶ相互に影響をあたえあい、
まわりまわってさいごにはいい目をだしている。
旅行記ではなく、第一級のルポでもある。
もともと高野さんの本は、探検記というよりも
ルポルタージュの要素がつよかった。
情報の空白地をたずね、そこの社会をえがこうとしている。
そうしたこれまでの経験が、本書ではみごとにいかさた。

ソマリア。
この国の名前にポジティブなイメージをもつひとは
あまりいないだろう。
失敗国家であり、町にでるには武装した民兵を何人もやとわなければ
すぐにころされたり拉致されるおそろしい国。
そんななかに、10年以上も平和を維持している国があるという。
民主主義で、町をゆくひとはだれも武器をもっておらず、
自国の貨幣が流通し、両替商がお金をむきだしにしているほど治安がいいという。
高野さんとしたら、いってみないわけにいかないが、
はじめはどうやっていけばいいのか、
ビザはどこでとればいいのかさえわからなかった。
そんな、まったく情報のない国を2回にわたってたずね、
しだいにソマリランドだけが平和をきずけた謎をときほぐしていく。
それを可能にしたのが高野さんならではの経験であり、
たかい取材力だ。
そこでえた情報を、おもしろく料理する。
今年のベスト1はこの本にきまった。

posted by カルピス at 13:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月15日

「70代の体力5歳若返る」老人になったらスポーツがたのしそう

きのうの朝日新聞に、「70代の体力5歳若返る」
という記事がのっていた。
70代だけでなく、65歳以上は、

「調査を始めた1998年度以降、
『握力』『上体起こし』『6分間歩行距離』など
ほとんどのの項目で、右肩上がりに記録がのびている」

ということだ。
調査をうらづけるように、

「高齢者層はスポーツクラブへの所属率が高く、女性では65歳以上、
男性も75歳以上で40%を上回った」

西宮市のフィットネスクラブでは1600人の会員のうち、
6割が60代以上というからすごい浸透率だ。
わたしがよくいく体育館でも、
水中体操やあるき方教室など、
いろいろな教室がもよおされている。
トレーニングでよくいっしょになる70代の男性は、
フルマラソンをふくむ長距離レースに出場されており、
毎回みっちりとからだをうごかしておられる。
70歳になってもあんなハードなトレーニングができるんだ、
とおどろいてみているし、自分もまたあんなふうな
70代でいたいというモデルになる存在だ。
そういうひとは特別なエリートだとおもっていたのに、
全国的には70代でのスポーツクラブがよいは
あたりまえだったのだ。

いっぽうで、わたしのまわりにいるわかいひとたちは、
運動をこころがけているひとがほとんどいない。
わかいころは健康なんて当然という意識だろうから、
わざわざからだをうごかそうなんておもわないみたいだ。
ジムでもトレーニングがながつづきしているのは
中高年のひとがおおく、ダイエット目的におもわれる
20〜30代の女性はすぐこなくなる。
あるていどわかいうちは、運動をするひとと、しないひとの2極化がすすみ、
やがてなんらかの不調をきっかけにおおくのひとが
健康を意識するようになって運動に目ざめる、
というすじがきを推測できる。
中年になると、話題にのぼるのは健康のことばっかりと、
はなしにはきいていたけど、
まさか自分がそのうちのひとりになるとはおもわなかった。

それにしても高齢者の半数ちかくが
なんらかのスポーツクラブにぞくしているというのにはおどろいた。
わたしがすむ町には、民間のクラブはほとんどないので、
運動をしたいひとは個人でとりくむしかないのかとおもっていた。
さがせばあんがい身ぢかなところに
運動のあつまりがあるのかもしれない。

健康づくりとしての運動とはべつに、
アスリートとしての高齢者がふえているとわたしはおもう。
きっかけは健康づくりにあったとしても、
ゆっくりからだをうごかしているだけでは満足できなくなり、
そのうちレースをめざす・・・というながれだ。
クラブにはいって仲間ができれば自然とそうなっていくだろう。
まったく運動をしないわかものと、アスリートの高齢者。
そのわかものだって、心配しなくても
そのうちからだをうごかすようになるだろう。
健康でなければたのしい老後はないということを、
みんなそのうちわかってくる。

囲碁将棋やゲートボールだけでなく、
いまでは競技スポーツまで選択肢にはいるのだから、
老後のすごし方はずいぶん豊富になった。
競技スポーツといっても、わかいころとはちがい
ようするに「あそび」なのであり、
参加する老人たちは、クラブでであうひととの
つきあいをたのしんでいる。
男性の老人は、女性にくらべてつきあいがへたで、
といわれてきたけれど、スポーツというきりくちなら
気らくにたのしめるのだろう。
わたしはわかいころからほそぼそと運動をつづけてきたので、
高齢者グループのなかではいい顔ができるのではないかと期待している。
これまではみるだけだったサッカーも、
高齢者になってからのデビューができそうだ。
うえをめざすことのない、平和なスポーツをこれからはたのしみたい。

posted by カルピス at 11:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月14日

『やすむ元気もたない勇気』(片倉もとこ・祥伝社)ふたたび

『やすむ元気もたない勇気』(片倉もとこ)が気になって、
もういちどめくってみる。

遊牧民の少女たちとマキをあつめにでかけたとき、
彼女たちには「常備しておく」とか
「独占する」という発想がないことに片倉さんは気づく。

「なくなればとりにいくだけ。
いつも、できるだけ身軽でいます」

冬にそなえてマキや灯油を備蓄したくなるわたしとはまるでちがう。
なにかにそなえることをしないのは、四季がないことや、
移動すれば手にはいるという環境のちがいだろうか。
「もたない」ことの自由さは、
もつことの不自由さのうらがえしで、
遊牧民として生きるには、つねに身がるでなければならなかった。

遊牧民の思想は日本人とかけはなれているかというと、

「案外通底しているようなところがあります。
日本人もイスラーム世界の人々も、
西洋近代文明にみられるような
人間と自然を対峙させるような間隔や価値観はもっていません。
できるだけ自然によりそって、調和して生きたいと
おもっている人が多いようです」

片倉さんは寿命をむかえるときに、

「わたしの小さな生を、やっと全うできるときには、
『みとられる』などという事態にならないよう、
そっと、ひとりで、できれば砂漠の砂に埋もれて、
できれば秋の枯葉に埋もれて、自然の静寂のなかに、
ひっそり消えていきたい、と切に願っています。
できるだけだれにも知れずに」

という。
病院で、チューブにつながれて死にたくはないけれど、
だれかに手をつないでいてほしい、
ひとのぬくもりをかんじながら命をおえたいと、
わたしはおもってきた。
片倉さんのつよさにおどろきながら、
自然のなかでひとりでむかえる死は
あんがいさみしいものではなく、
みたされた死なのかもしれない、とおもえてきた。

「アラビアでは、労働よりも、遊びよりも、らーはの時間が
人間の人生にとって最初にくる、なくてはならない、
かけがえのないものであるとする。(中略)
人生において、『らーは』の時間を多くもつことが、
理屈抜きの幸福につながっていきます」

片倉さんはこの「らーは」を「ゆとろぎ」と訳す。
「ゆとり」と「くつろぎ」をたして、
そこから「りくつ」をひいたのが「ゆとろぎ」だ。

「ゆとろぎ」のなかみは、
・学ぶこと、イルム(知識)を得ること
・寝ること、ごろんとすること
・ぼんやりすること
・瞑想にふけること
・家族、友人とともにいること
・仲間たちとおしゃべりすること
・お客をもてなすこと
・神に祈りをささげること
・旅にでること
・死ぬこと、神にめされること
・詩歌、物語をつくって、声にだすこと
・香りを楽しむこと
これらはどれも、同じ価値をもつものと考えられています。(片倉)

ごろんとすること、ぼんやりすることは、
わたしもだいすきだ。旅にもでたい。
スケジュール管理やタスクなどの本に
「よみもの」としてはひかれながら、
最終的にやるか・やらないかという一線をこえられないのは、
「ゆとろぎすと」としてのわたしの本性があらがうのだろう。
効率よく仕事にとりくむという価値観は、
ひとつのかんがえ方でしかなく、
ぼんやり生きることに意味をみとめる文化もあるのだ。
朝から夜まで職場ではたらく、という生き方に
わたしはそろそろなじめなくなってきた。
それもまあしかたないな、とこの本をよむと安心する。

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2013年10月13日

日本にとってのセルビアは、Wカップの門番(清水英斗氏)日本のスタイルが通用するのか

親善試合日本対セルビア。
Wカップまであと8ヶ月とせまったいま、
中堅以上の国にかちきれないよわさが不安視されている。

この対戦をまえに、清水英斗氏が
「セルビア戦で見極めたい3つのポイント」という記事をよせている。
そのなかで清水氏は
2010年におこなわれたセルビア戦をおもいおこす。
この試合は南アフリカWカップの直前におこなわれ、
2軍とも3軍ともいわれた主力ではないメンバーを相手に、
日本は0-3でやぶれた。
アジアでのたたかい方がつうじず、
「日本は引いた相手をぶち破る打開力に欠け、
バランスを失った状態からカウンターの一発に沈んでしまう」(清水氏)
と、まるでいまの代表チームについていわれているみたいだ。

「今の戦い方では、(Wカップに)正面玄関からは入れませんよ。
どうぞ裏口にお回りください」

という烙印がおされた試合と清水氏は位置づけている。
日本にとってセルビアは、Wカップの門番のようだ、という指摘だ。

今回のセルビア戦も、日本代表はくしくもおなじような状況にある。
アジアレベルではつうじても、中堅以上の国にはかちきれない。

「ザックジャパンがこの試合から受け取るのは、
『このまま貫いて良し』という保証書か、それとも
『戦術やメンバーを考え直すべき』という失格の烙印か」(清水氏)

日本代表は、このままのチームづくりをつづけて大丈夫なのか。
清水氏がみきわめたいというポイントとして
「コンビネーション」「カウンターへの対処」
「サイドチェンジへの対抗」の3つをあげている。

試合をみおわったあとの感想は、
清水氏の懸念が現実となったということにつきる。
せめながらも決定機をいかせず、0-2と結果もついてこない。
ペナルティーエリアにちかづくとせめあぐね、
まえにパスをおくれない。
コンビネーションをいかしてくずしきるまでいたらず、
後半ロスタイムにカウンターをくい、
人数をかけてプレッシャーをくわえても、
サイドチェンジされてスペースをつかれた。

セルビア選手たちのうまさとつよさが印象にのこる。
ゴリゴリとからだをつかってきて軸がぶれない。
ボールを相手にわたさないようにサッとからだをいれてくる。
かんがえてやっているのではなく、
完全に日常動作となった自然なうごきだ。
機械みたいに自分の仕事を淡々とやりとげている。
これがセルビアのサッカーのつよみであり、
そんなチームでもWカップ予選にかちのこれないのが
ヨーロッパサッカーの水準であることをおもいしる。

試合後のインタビューで、ザッケローニ監督は
「ポジティブな内容だった」と評価し、
セルビアのミハイロビッチ監督も
「日本が内容ではうわまわっていた」とコメントしている。
ほんとうだろうか。
わたしとしてはコンフェデレーションズカップから
おなじような試合をみつづけているようで欲求不満がたかまっている。
いいところまでいってるのに、かちきれない。
いまの状態で、Wカップ本大会でのグループリーグ通過が可能なのか。

といっても、わたしがねがっているのは、
3年前の軌道修正をくりかえすことではない。
コンビネーションをいかしてゴールまえにせめこむという
いまのサッカーをつづけることだ。
カウンターをあびるリスクをおかしてでも、もっとせめこんでほしい。
ブラジルやウルグアイみたいな強豪が相手では
そう簡単にかてないにしても、
これまでつみあげてきたスタイルが
どこまで通用するかを、Wカップの場でみたい。
さいわいザッケローニ監督は、これまでの3年間
(南アフリカ以前をふくめるともっとか)をなげだして
守備的に変更するつもりはないようだ。
いまのコンセプトをまもり、それを微修正しながら
のこりの期間をすごしてほしい。
2014年のWカップは、日本的なサッカーが、
世界でどこまで通用するかをみきわめる大会である。

posted by カルピス at 10:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月12日

3年目のほぼ日手帳がとどく 「去年の12月」をどういかすか

ほぼ日から手帳がとどく。
3年つづけてカズンにした。
A5はかなりおおきいけれど、
オリジナルでは週間予定がたてられないし
(そんなにいかしてるわけではないけど)、
メモするスペースがひろいほうがいいので。
業務日誌的な日記はファイルメーカーで記録しているので、
ほぼ日手帳にもとめるのは予定の把握と、
これ1冊あればなんでもかきこめる、という安心感だ。

すこしまえまでは、ファイルメーカーにつけている日誌と
おなじようなことをほぼ日手帳にもかいていて、
内容のすみわけができていなかった。
2年目のとちゅうから、ようやくほぼ日手帳の「なんでもあり」
という特性をいかすようになってきた。

1日1ページがわりふられているその日のページには、
何時におきたか・おもいついたメモ・本や新聞に紹介されていた本の題名・
夕ごはんのメニュー(自分が担当したとき)を記録する。
そして今年からは、なにをかんじたかという
こころのうごきもかくようになった。
特別なことをはじめたのではなく、
日記としてのごくふつうのつかい方だ。

梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』に、
日記は業務日誌でよい、こころの記録ではない、
ということがかかれていたので、
つい無味乾燥な記録というスタイルにひかれてきた。
たんたんとその日の事実がかきこんであれば、
たしかに日記にもとめるおもなやくわりをはたしており、
それはそれで大切な情報だ。
しかし「こころのうごき」をかくことは
またべつの機能をはたしてくれる。
ネガティブな内容だったり、ただのウサばらしだったりと、
とてもブログにはかけないようなことでもかく。
かくだけでスッキリすることがやってみてわかった。
おもっているだけでなく、アウトプットするのが大事みたいで、
いかりとかイライラというマイナスの感情をコントロールできる。
もちろん感情のはけぐちとしてだけではなく、
たのしかったこと・やりたいことなど、
おもったことはなんでもかいており、
気もちの整理だけにつかっているわけではない。
スケジュール管理と日記をおなじ1冊であつかえるのが
ほぼ日手帳のつかいやすさのひとつだ。

年間インデックスには、実行したトレーニングの記録をかく。
ながい期間が一覧できるので、
これからもちゃんとつづけなくては、という気にさせてくれる。
その下のあいた欄には、みにいった映画のタイトルをかくようになった。
月に1〜3回ほどしか映画にいかないので、
これだけのスペースでも用がたりるのだ。

「去年の12月」(かったときには「今年」)は、
あたらしくほぼ日をはじめた人のために
用意されているのだろうか。
2日で1ページという構成になっていて、
ふつうにつかえばいらない場所なので、
よみたい本の名前をかきいれていたけど、ながくつづかなかった。
ほぼ日手帳は、どこにでもかけ、どうにでもつかえるので、
自分できめたルールをわすれると
わけがわからないことになってしまう。
「去年の12月」のページを来年はうまくいかしたい。

posted by カルピス at 16:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする