2013年11月30日

人類の生活様式のうつりかわりと、サッカーとのアナロジーは可能か

Jリーグもあと2節となり、優勝をめぐってはげしいあらそいとなってきた。
セレッソ大阪と鹿島アントラーズの試合をみていると、
どちらもひきわけでは優勝の可能性がきえるということで、
試合開始からおたがいにはげしくせめたてる。
前半のうちにアントラーズは大迫、セレッソは柿谷と、
両エースが点をとりあうというみごたえのある試合となった。

試合をみながら、ふとおもいついた。
わたしはいつからこうやって、
Jリーグの試合をみるようになっただろう。
はじめてサッカーをみるようになったのは、
Wカップが日本でおこなわれた2002年にさかのぼる。
つぎの2006年ドイツ大会も日本戦だけをみるミーハーファンだ。
そのあとWカップだけでなく、ほかの代表戦もみるようになり、
やがてJリーグ、そして外国のリーグへと、
サッカーへの関心をひろげていった。

このうつりかわりは、人類の生活様式の変化とくらべることが可能だろうか。
梅棹忠夫さんの『狩猟と遊牧の世界』によると、
人類の生活様式は
1.狩猟・採集
2.遊牧・牧畜
3.農耕
と、3段階にわけることができる。
なんとなくイメージ的には1から3へというながれが
どの社会においてもおこったようにおもってしまうが、
本書によるとけしてそう単純ではない。
第1段階は狩猟・採集ではあるが、
そのあとは1から2へとうごいた社会もあるし、
2をとばして、1から3という社会もあった。
そして、おなじ生活様式のなかにも、原始的なものがあるし、
それが高度に発展していったものもある。

以上のことをふまえたうえで、
いろいろなかたちでおこなわれているサッカーを
1.Wカップ
2.代表戦
3.Jリーグ
4.外国のリーグ
と4つにわけてみる。
このジャンルについて、どういうながれをたどって関心をうつす、
あるいはひろげていくかという法則性があるだろうか。

わたしがたどったWカップから代表戦へ、
といううつりかわりが一般的かというと、
かならずしもそうではない。
代表戦にはほんとど興味をしめさないのに、
プレミアリーグにはすごくくわしい、
というサッカーファンはめずらしくないし、
かとおもえば、代表戦はみるけどJリーグにはぜんぜん関心がない、
というファンもおおい。
Jリーグが2シーズン制をうちだしたのも、
Jリーグ人気がだんだんおちていっている危機感からであり、
代表人気はJリーグへの関心とはかならずしもかさなっていない。
一方、Jリーグの、あるチームの熱心なサポーターでありながら、
代表戦は関係ない、というひとたちもまた、ひとつの層として存在する。
サッカーのたのしみ方は多種多様であり、
なにがきっかけなってサッカーにとりこまれたかにより、
そのあとの遍歴に差がでてくるようだ。
ただ、わたしのようにはじまりがWカップだったミーハーファンについては、
1から4へというながれがわりとおおいのではないか。

もともと冗談でおもいついた生活様式とサッカーのアナロジーであり、
やはりというか、残念ながらというか、
ひとつの方向性をみさだめるの無理がありそうだ。
もしそれを発見できたら、
Jリーグ人気をたかめる画期的なアイデアとして、
Jリーグがたかくかいとってくれるだろう。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月29日

「本気は伝染する」本気がないのはよくないのだろうか

「本気は伝染する」。
きょねん参加したWEB講習会で、
講師の方がいわれたことばだ。
目標にむかって一生懸命にうごいていると、
まわりもそれにひきこまれていく。
その真剣さは、絶対にほかのひとにもつたわるちからをもつ。
すばらしいことばであり、姿勢だ。

しかし、残念なことに
わたしにはこの「本気」がないことをよく自覚しており、
すばらしい講習会ではあったものの、
まったく自分の側の責任においていごこちがわるかった。
本気であることは、自分がきめたことにたいする態度であり、
かならずしもお金のことだけをいっているわけではない。
目標にむかって本気でたちむかうことは、当然な姿勢ともいえる。
その本気さが、わたしにはいつもかけている。

ずっとまえに吉行淳之介さんが編集されていた雑誌に
『面白半分』というのがあり、
雑誌以外の場でも、吉行淳之介さんはよく「面白半分」をかたっていた。
わたしの気分は、どうもこっちのほうにかたむいている。

いいかげんな気もちでつとまる仕事は、そうおおくはないだろう。
わたしがいまやっている障害者支援の仕事も、
本気でなくてはつとまらないし、やってはいけない仕事なので、
わたしの居場所がなくて肩身のせまいおもいをする。
そういう人間がいると、職場にいい影響をあたえない。
「悪貨が良貨を駆逐する」のだ。

本気でないのはわたしの責任であるわけで、
しかし、それでは本気になれば、というのは簡単ではない。
目標の設定や職業の選択とはべつの次元で
そのひとの「こころね」の問題だったりする。
わたしがこころがけるのは、
本気のなさが重大な悪影響をあたえないポジションにいることであり、
悪影響をあたえない範囲においての「お手つだい」ということになる。
やる気がないのに、やる気があるようにふるまっては
おたがいに不幸な事態をまねく。

ひらきなおっていうと、
本気でないのは、本気になれないのは、
絶対によくないことなのだろうか。
極端な例でいうと、地球環境をかんがえれば、
一生懸命にがんばってたくさんの車を世界じゅうにうるよりも、
「まだまし」な生き方かもしれない。
そうしたタイプなのだから、もうしわけないけど、
このスタイルでやらせてください、
というのがわたしのいいぶんだ。

なにをあまえたことを、という意見があるのは当然だろうが、
そういう人間がいるのだから、
その被害をできるだけ最小限におさえる工夫をするしかない。
できればそうした人間のもち味がいかせる場面が
あればありがたいとおもう。

本気でこんなことをいうと、さしさわりがでてくるわけで、
わたしもふだんはできるだけそうしたホンネはくちにしない。
でも、ときどきはチラつかせて、
そうしたしょうがない人間だということを
わかってもらうようにしている。

posted by カルピス at 10:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月28日

岩村暢子氏の「日常から遠ざかる和食」はほんとうか

26日づけの朝日新聞に、岩村暢子氏が
「日常から遠ざかる和食」という記事をよせている。
日本食の「洋風化」「簡素化」がすすみ
いまでは鍋ものに肉や魚ではなく、
ウインナーや冷凍ギョーザをいれるようになっているという。

肉や魚をあまり使わない理由について、
主婦たちは「手が汚れる』」「触るのが気持ち悪い」、切ったり下味をつけたり「手間がかかる」そして「保存がきかない」などと語る。

という発言が紹介されている。
そんなに日本人の感覚がかわったのか、
とおどろきながらよんでいて、
和食は手作りできて当然と思われたために簡素化が進まず、やがて手がかかる面倒な料理となり、親子間での伝承も希薄になってきている。

というところでひっかかった。ほんとうだろうか。
洋食のカレーやシチューのルーみたいな存在が、
和食にとってはだしの素やおでんの素、
うすめてつかう「だしつゆ」だったりするのではないか。
親子丼のレトルトだってどこでもかえる。
そして、「親子間での伝承も希薄になっ」たのは、和食だけだろうか。

岩村暢子氏の記事はスッとよめてしまい、わかったつもりになるが、
かかれている意味をよく確認してみると、
じつはなにいっているのかわからない文章のようにおもえてきた。
無意識なのか、わざとなのか、この記事の内容から
「日常から遠ざかる和食」を指摘するのは無理がある。
なまの肉や魚をつかわなくなっていることは、
食の多様性ともとらえることができ、
かならずしも「日常から遠ざかる和食」を意味しないのではないか。

30年以上まえに、
皮をむくのがめんどくさくて
りんごの消費量がおちた、というのをきいたことがある。
このごろは、温州みかんの皮でさえ
めんどくさいのだそうで、
皮をむかずにたべられるくだものがこのまれているそうだ。
むかしの人間からはしんじられない感覚で、
そうしたうつりかわりは興味ぶかいけれど、
ではそれが日本人の食生活にどんな影響をあたえているのだろう。

近代から現代にかけて、食の歴史は変化の歴史でもあるわけで、
その一瞬、一瞬をきりとって「すこしまえ」とくらべても、
「いまはこうなっている」ということしかいえないはずだ。
ながい文明史のなかで、いまの食生活がどう位置づけされるかを
わたしはしりたい。
岩村氏の記事は、「無形文化財登録」「食材偽装」
「舌でなく、頭で選ぶ時代に」と、
いま話題のキーワードをちらばせて読者をひきよせる。
しかし、そのおとしどころを「日常から遠ざかる和食」にもとめたのは、
わたしには理解できなかった。

posted by カルピス at 10:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月27日

大宮と広島のサポーターによるフェアプレー 世界でも一流の応援文化

大宮と広島のサポータに、Jリーグがチェアマン特別賞を表彰するという。
これは、5月6日におこなわれた試合で、
両チームのサポータがとったフェアプレーが賞賛されたものだ。

この試合で、広島のゴールキーパー増田選手が、
大宮のフォワード富山選手と接触し、
増田選手が救急車ではこばれるという事態になった。
大宮サポーターは増田選手の名前をよびつづけてはげまし、
試合後に、広島の選手たちは大宮サポーターのまえにいき、
お礼の挨拶をしている。
あとでつたえられた情報によると、
必要な指示が耳にはいらずに、
治療にさしさわりがでることを心配した大宮サポーターは、
増田選手をはげますコールをおくるだけでなく、
意識的に声援をとりやめてしずかにみまもるという、
おどろくべき配慮をみせたという。

こうした応援ができるサポーターは、
じつは世界的にもあまり例のない存在のようで、
日本独自のサッカー文化として世界に自慢できる宝ともいえる。

別の試合で、柏レイソルのファンがブログにあげていた記事は、
ベガルタ仙台のサポーターへの感謝をつづっていた。
ACLのアルシャハブ戦で、日本の代表チームとしてたたかう
レイソルをはげます横断幕がはられたのだ。

「違うチームなのに日本代表として応援する。
そしてレイソルの選手もそれをみて挨拶にいっている。
決して当たり前のことではありません。
ましては、世界のトップリーグではありえません」

3つ目の例として、ザッケローニ代表監督のコメントと、
それについての記事を紹介する。

Wカップアジア最終予選でのオーストラリアとの試合、
1-1でひきわけた日本代表は、ブラジル大会出場をきめた。
チェーザレ=ポレンギ氏は、
ザッケローニ監督が以下のような表現で
サポーターに感謝したことをつたえている。

「グラウンドを一周してサポーターにあいさつをした時、
チームのトレーニングスタッフに、
私たちのサポーターの皆さんの顔をよく見るようにと言った。
彼らの幸せな思いや、この雰囲気は本当に独特のものだ」

チェーザレ=ポレンギ氏によると、

「世界の大半の国の代表チームと比べてみてほしい。
多くのチームは空席の目立つスタジアムで試合をし、
サポーターは応援するクラブごとに分かれている。
サッカーの名の下に彼らの国を団結させるべき存在である代表チームには、
あまり注意が払われていない」

「世界の人々の多くはまだ、サムライブルーの毎回の試合が
楽しい『祭り』となることを知らない。
こういった魔法のような夜のことを理解できる者は
まだ少なすぎるということなのだろう」

「だが、アルベルト・ザッケローニはそのことをよく分かっている。
年齢を重ね、 数多くのタイトルを獲得してきた老将も、
火曜日の夜には見るからに感激に浸っている様子だった。
いつも通り簡潔で誠実なものだった彼の言葉は、
日本のサッカー文化に捧げる心からの賛辞だ」

日本らしいサッカーとは、
どんなスタイルをさすのかについて
さまざまな意見がとりざたされている。
日本サポーターの応援は、その一歩さきをいき、
日本ならではのうつくしいスタイルをきずいてくれた。
一流の応援文化を世界にほこりたい。

posted by カルピス at 13:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月26日

「自然音痴」やったことがないことはできない

星野博美さんの『迷子の自由』をよんでいたら、
『自然音痴』というはなしがのっていた。
自然の草花とえんどおい環境でそだった星野さんは、
ほうれん草と小松菜のちがいがわからず、
けやきをイチョウとよんでしまうそうだ。

わたしは、花や木の名前にはうといものの、
畑で野菜をつくることに興味があり、
中学生のころから土いじりにはなれていた。

大学での授業で実習があり(農学部だったので)、
そこでカマをつかっての草かりを指示されたことがある。
カマで草かりなんて、ごくあたりまえの
日常動作でしかないとおもっていたら、
おどろいたことに、ほとんどの学生はカマがつかえなかった。
手首のうごかしかたがわるいようで、
草がまったくきれない。
こうした動作のコツは、ことばでは説明しにくく、
わたしにはカマのつかい方をおしえることができなかった。
どうやら自分ではごくあたりまえにやってきたことが、
彼らのなかでは特殊な能力にあたるみたいだ。
カマをつかえもしないのに、
なんで彼らは農学部をえらんだのだろう、ともおもった。

農業の研修をうけていたべつの機会に、
クワで畑のうねをととのえていたことがあり、
そのときにもクワをあつかえないひとがいた。
水分をおおくふくむ土だったので、すぐクワにドロがついてしまう。
ちょっとしたちからのいれかげんで、
そのドロ団子をクワからおとせるのに、
そのひとはいくらやってもうまくいかず、
クワが団子状になるたびに手をつかってドロをおとしていた。
あきれるというよりも、クワをつかうということは、
こんなにもむつかしいことだったのかと感心したものだ。

環境がかわれば、そこで必要な能力もかわる。
山ではタイヤにチェーンをつけられないとやってられないのに、
都会にすむひとにとってそれは、
たかいアウトドアのスキルにみえるのとおなじだ。

などという理屈がこねたかったのではなく、
わたしはただおどろいたのだ。
自分にとってあたりまえのことが、
ひとによってはぜんぜんできない。
自分がなにを得意にするかということは、
あんがい自分にはみえにくいのだろう。
たしかに、自分のことは自分がいちばんわからない。

もうひとついえるのは、やったことがないということは
ものすごいことなのだ。
徹底的にできない。
たべるものが心配だったらコメや野菜をつくったらいい、
とおもっていたけど、そうかんたんにはいかないだろう。
いくらその気があっても、カマやクワがつかえなければ
畑しごとはできない。
宮ア駿監督が、いまのアニメーターは
おもたいものをもつといった、基本的なうごきがかけない、
となげいていたのは、こういうことなのだ。
これまで継承されてきた身体能力が、
どこかでものすごい断絶があり、
あたりまえとおもっていた動作ができなくなっている。

すきなことをして生きるほうがいいのか、
得意なことをして生きるほうがいいのか。
わたしがすすんだほうがいいのは、
カマやクワをつかう仕事だとおもえてきた。
そしてそれは、もう30年以上まえにわかっていたことだった。

posted by カルピス at 19:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月25日

『自由であり続けるために20代で捨てるべき50のこと』(四角大輔)20代でなくてもまにあうか

『自由であり続けるために20代で捨てるべき50のこと』
(四角大輔・サンクチュアリ出版)

自由に生きたいとおもっていた若者が、
会社につとめているうちに、なんとなく常識的なおとなになってしまう。
世間にしばられずに、自分らしく生きようとしたはずなのに。
そうならないために大切なのは、
「20代のうちにその人が、
どれだけ自分にとって不要なものを捨てられたか?
もしくは捨てられなかったか?がカギをにぎっている」
というのが本書の趣旨である。
ここにあげられた50のことをわたしはすてられるだろうか。

・物とお金
・ワークスタイル
・メンテナンス
・人間関係
・ライフスタイル

と、ジャンルごとに10の「捨てる」ものがしめされている。

1章の「物とお金」には、

・今使わないモノを捨てる
・”ストック”という概念を捨てる
・出し惜しみ癖を捨てる

などがあり、それぞれにおもいあたることばかりだ。
というか、なんでもすてればだいたいまちがいないともよめる
(さすがに「ただしい習慣を捨てる」などとはかいてないけど)。

・バランス感覚を捨てる
・人脈を捨てる

などは、ふつうの仕事術の本にはない発想であり、
「◯◯でなければ」という
固定されたかんがえ方になるのをさけているようだ。

耳のいたいのは
・むやみな自由願望を捨てる
で、
「なんの準備もせずに会社をやめれば、きっと後悔する。(中略)
今いる場所で、どこに言っても通用するマナーと、
あらゆる職種で活かせるベーシックスキルを身につけることに専念しよう」

と非常に常識的なこころがまえがかいてある。
そんなことをいわれると、はたして自分は?と
自由になるのをためらってしまいそうだ。
もっとも、これは20代のひとによびかけたものであり、
一般常識のない20代のわかものが、
いやなことがあったからといって会社をやめても
たしかになかなかうまくはいかないだろう。

では、50代のおじさんがこの本をよんだことで、
どれだけの自由を手にいれらえるだろう。
もうておくれなのか、まだまにあうのか。

わたしがかんじているのは、
わかいころはこわいものしらずのところがあり、
さきのことを心配しないので、
会社をやめることにあまりためらいがない。
50にもなってくると、こんどはさきがもうあまりながくないので、
やりたいことをいまのうちに、という気もちになってくる。
安定した老後も大切だけど、
「やりのこした感」をひきづって生きるのも残念だし。
というわけで、わかいころと、中年にさしかかったときに、
「このままではいけない」というおもいが頭をかすめるようだ。
子そだてもだいたいおわり、
親の老後さえクリアーすれば、あとは自分の人生となる。

その点では、50のおじさんも、
20代の若本とおなじスタート台にたっているともいえる。
20代よりもゆたかな人生経験をつんだ人間として、
わかいころよりも、むしろ50になってからのほうが
実行しやすいかもしれない。
やってみなくては、失敗してみなければわからないことが人生にはあり、
おじさんたちの経験値はあんがいたかい。
問題は、けっきょくのところ、すてられるかどうかだ。
自分の成功体験も、いごこちのいい生活もすてて、
自分ならではの再スタートをきれるかどうか。

もちろんわたしはそのつもりだ。
「人生はトータルだ」とオシムさんはいった。
いいこともあれば、わるいこともある。
だいじなのは、さいごにわらって人生をおえることであり、
最終章にむけて、わるくないうごきだしをみせている。

posted by カルピス at 11:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月24日

『旅のうねうね』(グレゴリー青山) 「旅茶人」という概念の発見

グレゴリー青山さんの『旅のうねうね』に
「旅茶人」という概念がでてくる。
とかくとなんだかむつかしそうだけど、
むつかしそうにかいただけで
「旅茶人」はグレゴリーさんがつくった言葉だ。
茶人のようにしぶくていい旅をしているひとのことで、
その土地でなければできないことを、
自分にあったやり方でたのしむ。

グレゴリーさんがあった「旅茶人」として、
演歌がすきな台湾人のおじさんをとりあげている。
このひとは、日本を何回もかたずねており、
すきな演歌の舞台となっている場所で
すきな演歌をうたうのがたのしみなのだそうだ。
もうひとり紹介されている「旅茶人」は、
グレゴリーさんが旅人としてデビューしたてのころ、
中国から日本にむけた船のなかでであった日本人の女性だ。
みかけは地味なそのひとは、中国でかったのだといって、
いかにも中国の田舎から上海などの都会に観光にでてきた
おのぼりさんの女の子がきていそうな服をみせてくれたのだという。
あまりにもださくてかっこわるかったので、
だれも彼女が日本人だとは気づかなかったそうだ。
グレゴリーさんは、うえが人民服でしたがジーンズという、
自分ではちょっとひねったつもりの服装で町をあるいており、
あとからおもえばそれは、外国人旅行者がかんちがいして、
中国のひとを不愉快にさせるような
気のきかない格好でしかなかった。
その女性が、いかにもできそうな旅行者風ではなく、
なんとなくいつもボーっとしてるのに、
当時のグレゴリーさんではあしもとにもおよばない
ディープな旅をしていたことにショックをうけたそうだ。
旅なれたバックパッカーをきどりたかった当時のグレゴリーさんは、
「まけた」、とうちひしがれている。
旅にかちまけなんかあるわけないけど、
この気もちはよくわかる。
いい旅をもとめながら、自分がやっていることがいかにもうすっぺらで、
いやな汁をいっぱいたらしていたことをしったときのはずかしさ。

わたしのであった「旅茶人」は・・・
とかこうとしたら、意外におもいつかない。
いいかんじで旅行しているひとはたくさんいるけど、
その土地でなければできないことを、
自分なりのやり方でたのしんでいる旅人、
という定義にてらしあわせるとなかなかでてこない。
一般的に、欧米の旅行者は自分のスタイルを
旅さきにまで強引にもちこもうとするので
(朝ごはんはコーヒーとトーストでなければ、とか)、
旅茶人にはあんがいむかない。
ここやはやりワビサビをたしなむアジア人の独壇場だろう。
わたしとしては、ネパールはポカラのゲストハウスでであった
日本人旅行者を推薦したい。

まだ10代の男性で、コンビニではたらいて旅費をつくったという。
なんにんかでいっしょに夕ごはんをたべ、宿にかえるとちゅう、
彼はいきなり『ありがとう』のうたをうたいはじめた。
当時としてもかなりふるいドラマの主題歌で、
まだわかい彼がなぜそのうたをしっているのか不思議だった。
ずいぶんひさしぶりだったのに、きいたわたしは
すぐにそれが『ありがとう』だとわかった。
「水前寺清子さん」の、「清子さん」にアクセントをおいた独特のしゃべりかたで、
気分がいいときは、なぜかこのうたをうたいたくなるのだとはなしてくれた。
旅さきのあちこちで、1970年代というむかしにはやった
ドラマの主題歌をうたう10代の男性。
「旅茶人」とよぶにはちょっと無理があるけど、
なつかしくてついとりあげてしまった。

いっしょに旅をしたことはないけど、
野宿野郎のかとうちあきさんは立派な旅茶人である。
かとうさんの野宿愛は筋金いりだ。
高校生のころから野宿がだいすきになり、
まわりのひとだけでなく、いまではぜんぜん関係のないひとまでまきこんで、
集団での野宿を主催するようになった。
ひとりでも、グループでも、
かとうさんは野宿でしあわせにひたる。

有名なリーグから背をむけ、有名でない国の、
ちいさな町でおこなわれているサッカーを紹介している
宇都宮徹壱さんも旅茶人的な旅行といえる。
仕事とはいえ、観光には縁のない、
辺境の町をたずねるほうがすき、というのだから、
業のようなものかもしれない。

お金にはむすびつかないだろう。
でも、ふたりともすごくたのしそうだ。

posted by カルピス at 21:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月23日

『風立ちぬ』を語る(岡田斗司夫) 人間「宮ア駿」から宮崎作品をよむ

『風立ちぬ』を語る(岡田斗司夫・光文社新書)

本書のタイトルは、第1章のタイトルをそのままもってきたもので、
全体についていえば宮ア駿論である。
宮ア駿監督作品は、すでにさまざまな角度から語られ、評論本も多数ありますが、作品だけでなく人間「宮ア駿」を中心に据えて語ると、まったく新しい風景が見えてきます。(岡田)

岡田氏は『風立ちぬ』を宮ア駿監督の最高傑作ととらえている。
しかしそれは、一般的にいわれている主人公たちの
うつくしくてかなしい恋愛についてではないし、
『音と映像』がすぐれているからでもない。
岡田氏は、堀越二郎をうつくしいものにしか関心のない
非人情的な人物ととらえている。
悪人というわけではない。ひとのこころがわからないのだ。
だから里見菜穂子がサナトリウムへはいっても
おみまいにいくでもないし、手紙にかくことは
自分が開発中の飛行機のことでしかない。
そして、そんな堀越二郎は宮ア駿氏そのものでもある。

この本は、宮ア駿氏は演出について天才でありながら、
人間的にはエコロジストでもこころやさしい人格者でもなく、
自分がうつくしいとおもうことにしか興味のない、
二郎のような人間であることをときあかしている。
『風立ちぬ』はこれまでの宮ア作品とはちがい、
宮ア駿氏の人間性と作家性がつよくでた作品となっており、
だからこそみるべき点のおおい作品となっているという指摘だ。

「これは僕の持論なのですが、物語に感動するのは、
その人の罪悪感が解消されるからなんですよ。(中略)
『風立ちぬ』を見て感動しなかった女性は、
罪悪感ではなくて『男は身勝手でいいかもしれないけど、
いい加減にしろ』と感情を刺激されているし、
感動する女性は『あんなふうに生きろ』といわれたみたいな気がして、
罪悪感が刺激されるのでしょう」(岡田)

2章では、宮ア駿氏の演出がどのようにすごいかについて、
『カリオストロの城』のオープニングを例にあげて分析している。
カジノをおそって大量の札束にうもれながら、
そのお札がニセモノであることをしったルパンと次元は、
偽札づくりでしられるカリオストロ公国をつぎの「獲物」にきめる。
そのカリオストロ公国までの旅のようすが、
そのままオープニングの映像というこったつくりだ。
岡田氏はこのオープニングが
いかに「手抜き」であるかを分析してみせる。
数枚のとめた絵をくりかえしみせているだけだったり、
うごいているのはほんの一部なのに、
効果的につかわれているので、
どれだけ省力化されているかに気づかない。
かとおもうと、こんどはこまかいうごきのあるコマをもってきて
全体としてはメリハリのあるうつくしい映像となっている。
「手抜き」はスタッフの力量と製作スケジュールのためであり、
それでも退屈せずにみせる宮ア氏の卓越した演出力を
「よみとる目」のない一般的な視聴者におしえてくれる。

宮ア氏のすごさを説明しながら、
それをよみとる目をもった岡田氏の鑑賞力についても
ただの「もとデブ」ではないことが
さりげなくしめされているというべきだろう。
これだけのアニメをみる目と、
映画の文法にくわしいわたしなのだから、
この本の内容もたしかなものですよ、というアピールだ。

宮ア駿氏につぶされて新人監督がそだたないジブリについて、
けっきょくかせげるのは宮ア駿氏しかいないという
「まるで、核しか兵器がない北朝鮮みたいなスタジオ」
というたとえがおもしろい。
だから宮ア駿氏のむすこである吾郎氏が
『ゲド戦記』をやることになったし
(吾郎氏は駿氏に批判されるのになれている)、
『借りぐらしのアリエッティ』は
「自分たちがどんな作品を作っても、
それは宮ア駿の威を借りた『借りぐらし』でしかない」
というジブリのスタッフの、旅だちへの決意表明となる。

宮崎家の家族会議とか、駿氏と吾郎氏との関係など、
ほんとうだろうか、という部分もある。
評論は、それでいいのだろう。
岡田氏が本書のなかにかいているように、
なにかのインタビューで宮ア氏がかたったからといって、
それがそのままほんとうのことかどうかわわからない。
これは岡田氏の宮ア駿論であり、
これまでの本にはない視点からの指摘は興味ぶかく、
また、映画のみかたということについても
おおくの点で参考になった。

posted by カルピス at 17:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月22日

久保田早紀の『異邦人』にのけぞる

カミュの『異邦人』を検索していたら、
久保田早紀の『異邦人』がひっかかった。
もちろんなんどもきいたことがありながら、
インパクトのつよさにそのたびにおどろいてしまう。
このうたと、なにかの記憶がいっしょになってなつかしいのではない。
曲がただ独立して、きいているものにせまってくる。

このうたは特別だ。
これだけ独特で、印象にのこるうたがあるだろうか。
メロディーと歌詞が一体化しており、
きいているだけで異国の町がうかんでくる。
そこに久保田早紀の声が、またピッタリはまる。

中東のバザールにさまよう旅人をわたしはイメージする。
このうたからなにをおもいうかべるかはそれぞれとしても、
ひとのこころをゆすぶる、なにかがこのうたにはある。
この特別なちからをもったうたが、
どのようにしてポロッと突然にうまれたのかをいつも不思議におもう。

樋口毅宏さんは『さらば雑司ヶ谷』で
小沢健二をとりあげるのではなく、
久保田早紀にするべきだった。
彼女の、このうたこそが突出した存在なのだ。

ユーチューブではシルクロードを背景に
このうたがながれた。
あまりにもベタだけど、このうたについては、まあしょうがないか。
とはいえ、もし現地でこのうたをまじめにきいていたら、
すこしこまったひとかもしれない。
スタバでMac Book Airをひらくようなものか。

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2013年11月21日

『転がる香港に苔は生えない』(星野博美) 返還前後の香港をめぐる労作

『転がる香港に苔は生えない』(星野博美・情報センター出版局)

10年前の1986年に、星野さんは1年間限定の交換留学生として
香港でくらしている。
香港に強烈な影響をうけながらも、
留学生という保障された環境だったことから、
星野さんにとって不完全燃焼なおもいがのこっていた。
「香港にどう落とし前をつけるのか」の
星野さんの回答が本書である。
中国に返還されるまえの香港で1年間くらし、
返還まえと返還後のようすを
ひとびととのくらしのなかで記録したもので、
星野さんでなければこの本はかけなかっただろう。

1987年に、わたしも香港をたずねたことがある。
香港をスタート地点にえらび、
そこから中国の雲南省、いったん香港にもどって、
こんどはタイにとぶというコースでうごいた。
格安航空券は香港とバンコクで、というのが
当時のバックパッカーでは「常識」だったのだ。
それまでジャッキー=チェンの映画(しかも『酔拳』)でしか
香港についてのイメージをもっておらず、
じっさいにみた香港が日本とかわりのない
近代社会だったことにおどろいたものだ。
そうかとおもえば、電車にのって都心をはなれると
田園風景がひろがっている。

本書のなかにもでてくる重慶マンションには
たくさんのゲストハウスがはいっていて、
わたしもそのひとつに香港滞在中お世話になった。
めちゃくちゃいりくんだふしぎなビルで、
1階でエレベーターをまっていると
インド系やアフリカ系、もちろんアジア系もふくめて
いろんな国のひとがエレベーターにのりおりしている。
バックパッカーの初心者としては、
やばそうなにおいをプンプンかがせてもらい、
いかにも本格的な旅行をしている気分があじわえた。

重慶マンションのいかがわしさや、香港の田舎をたずねたといっても、
しょせんは旅行者のみた、ほんの表面だけの香港にすぎない。
この本をよまなければ、香港がどんな社会であり、
そこでどんな生活がいとなまれているかを
わたしはまったくしらなかっただろう。
返還をまえに、外国にわたってその国のパスポートをとろうとするひと。
香港に密行し、そこで大陸(中国)からお嫁さんをむかえるひと。
香港のひとが大陸からきたひとをさげすむようす。
しらなかった香港の社会について、
星野さんは自分の価値観とたたかわせながら
こまかなところまでつたえてくれる。

この本は、いったいどんなジャンルに属しているだろう。
旅行記ではないし、エッセイでもない。
滞在型ルポルタージュといったほうがいいだろうか。
ずっとよみひたりくなるほどおもしろいけど、
ではいったいこの本のどこにひかれるのか、
よんでいてもわからない。
作者といっしょに香港をふらふらとめぐっているかんじだ。
なにかをときあかしすではないけれど、
これだけ香港と、香港にすむひとのことを
ふかくつたえた本はないのではないか。
写真が2ページで、地図が1ページ、あとは
活字だけという構成で、ものすごくよみごたえがある。
582ページというこの本が、2000年の4月に発行されてから、
1年半のうちに6刷もされているのは、それだけ内容が評価されたのだろう。

深刻なはなしばかりがのっているのではない。
頑固な星野さんがひきおこす「衝突」も、この本の魅力だ。

星野さんは広東語の語学学校にかようという名目で香港のビザをとる。
じっさい香港で生活し、地元のひとたちのなかでくらすためには、
英語だけではぜんぜんだめで、どうしても広東語が必要なのだそうだ。
星野さんのクラスメートはキリスト教の布教を目的に
教会からおくられてきたひとがおおく、
語学学校のテキストに、こまかく反論している描写がすごくおかしい。
もっとも、
「外国語のテキストは、その地域の価値観を知る手っ取り早い入門書」
なのだそうで、香港の世相を反映したかなり独特な例文になっている。

「そんな風に子供を殴ったら死んでしまいます」
「彼は真面目なので
 助ける価値があります。
 彼は怠け者なので、助ける価値はありません」
「婚姻関係が破裂したら、我慢するより離婚したほうがいいのです」

これらについて、いくら「例文」であるといっても
神父さんやシスターである生徒たちは納得しない。

「私、反対します。
 結婚は、神聖な契約です。神が、証人です」
「あなたがたは本当に子供を死ぬほど殴るのですか?」
「彼は怠け者だから助ける価値はない。私は反対します。
 すべての人には助ける価値がある。
 神はすべての人をお助けになる。
 そのお手伝いをするのが、我々の仕事です」

星野さんもだんだん彼らの価値観ががうつっていき、

先生 「星野、ここにたくさんのお金があります。
    あなたなら何に投資しますか」
星野 「私にたくさんのお金があるのは不可能です」
先生 「例えばですよ! 何に投資するのが一番安全ですか?」
星野 「一番安全なのは、金のないことです。
    金がなければ、考える必要がない。心は平安です」

教会関係者もかわっているけれど、星野さんもそうとう個性的だ。

どこの国でくらした記録でもいい。
この本のように、地元のひとたちのなかに
どっぷりひたった生活は、
それだけでわたしにとってとても興味ぶかい。
そして、星野さんは、事実をただ紹介するだけではなく、
自分がどうかんがえるかを大切にしている。
香港のひとだからといって、すべてをみとめるわけではないし、
自分についてもとてもきびしい。
そんな星野さんのかいた本だから、
このぶあつくてよみごたえのある本が
6刷もの信頼をあつめているのだろう。
骨太の星野さんの本が、もっとよみたくなってくる。

posted by カルピス at 22:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月20日

国際親善試合日本対ベルギー Wカップがたのしみになる攻撃のサッカー

国際親善試合日本対ベルギー。

結果からいえば、3-2と日本がみごとな逆転勝利をおさめた。
まえの試合のオランダ戦で2点を先行されたときは、
このさき(このシリーズが)どうなるかとくらくなっていたのに、
おわってみれば、これからの日本代表に希望がもてる
ねがってもない形となった。
どこがよかったのだろう。

ザッケローニ監督は、この試合も遠藤をスタメンからはずし、
山口螢をいれてくる。
サイドバックも長友・内田のかわりに
たかさのある酒井宏樹と酒井高徳がはいった。
中2日という間隔で、選手たちのコンディションをかんがえると、
「常連」でないのは不思議ではないが、
それにしてもザッケローニ監督の
柔軟な選手起用が目をひいた2試合となった。
遠藤を後半からつかうというのも、
ひとつの回答かもしれない。
「4年まえの遠藤ならおいついていた」なんて、
遠藤の年齢的なおとろえを指摘する声をよくきくけど、
そんなことをいってもしかたがないわけで、
こうして時間をかぎって起用するというのは
体力的にも、相手にとって意外性のあるパスセンスをとっても、
有効な方法におもえた。
後半8分に本田の得点をアシストしたのは、
かわってはいったばかりの遠藤だ。

香川もたのもしかった。
ひろい局面にからんできて、しっかりボールをキープし、
ゴールを貪欲にねらう。
あんなにこまかくうごきまわれたら、
相手はさぞやりにくかったろう。

後半17分に、長谷部→柿谷→岡崎と、
こまかいパスで相手を完全にくずして3点目。
あとはこのままかちきれるかが焦点となる。
25分くらいから日本のパスがつながらなくなり、
セカンドボールはひろえないしと、バタバタした展開になる。
よくいわれる「我慢の時間帯」だ。
やがてコーナーキックからたかさをいかして2点目をいれられる。
ベルギーの長身の選手にだれもつききれなかった。
会場はベルギーのサポーターでうまり、
日本がボールをさげるとすぐにブーイングがおこる。
完全にアウェーの雰囲気のなかで、
なんとかアディショナルタイムの4分をしのぎきり、
FIFAランク5位というベルギーを相手に
かちきることができた。

ホームのベルギーにたいし、日本は気もちでまけていなかった。
つよいチームを相手にしても、ビビらないでせめつづける風格をかんじた。
なによりもこのスタイルでWカップをたたかうのだと、
方向性をはっきりうちだせた試合となった。
Wカップの舞台で、強豪国を相手に、せめかつ日本をたのしみにしている。

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2013年11月19日

スマホがなければ東京でもかなりつらいネット事情

10日ほどまえに、東京でくらす姉の義母がなくなった。
葬式は失礼させてもらったので、
週末をつかっておくやみにでかける。
荷物にいれたのは

・MacBook Air11インチ
・キンドルペーパーホワイト
・本3冊

結果的には、パソコンはブログをアップしただけ。
キンドルはいちどもひらかなかった。
旅行とキンドルの相性のよさを期待していたわりには
紙の本ばかりよんでいた。
でもまあ、もっているだけで安心感がある。

食事や休憩をした店でネットにつなごうとしても、
フリーWi-Fiのところはなかった。
ソフトバンクやauのシールがはってある店はおおいけれど、
その会社の製品をつかってなければお金がかかる。
2年まえに旅行したタイ・カンボジア・ベトナムでは、
Wi-Fiがどこでもつかえてすごく便利だった。
東京、というか日本は基本的にフリーWi-Fi環境をととのえるのではなく、
個人が携帯会社と契約してスマホをつかうという方向なのだろう。
いまやパソコンよりもスマホでなんでもすませてしまうから、
フリーWi-Fiがなくてもぜんぜんこまらないみたいだ。
パソコンをつかいたいひとはテザリングすればつながるわけで、
スマホをもっているのが前提になっているのだけに、
スマホがなければすごく不自由だ。

20年まえにパソコンがつかわれはじめたときは
まだネットにつながれておらず、ひとくくりにいってしまうと
「事務器」としての存在だった。
パソコンをつかうとは、そのままエクセルやワードで
仕事をすることを意味していた時代だ。
やがてネットが一般的になってくると、
ネットにつながれていないパソコンは「ただの箱」、みたいになっていく。
そしてスマホの出現によって、
また「事務器」にもどったかんじだ。
パソコンなんて、いまはだれがつかっているのだろう。

姉の家はWi-Fiがあるのに、パスワードがわからないので
わたしのマックがつかえない。
ほったらかしになっているふるいノートパソコンをたちあげて
(これはWi-Fiが設定ずみ)なんとかネットにつないだ。
存在感がまるでなくなってしまい、
パソコンとしても不本意なのではないか。
ちょっとネットにつなぐにはスマホでじゅうぶんだし、
長文をうつときにはキーボードをタブレットにつなげればいい。
パソコンは、これからどういう道をたどるのだろうか。

立川駅にある本屋さんにはいる。
そんなにおおきな店ではなかったが、
わたしがすきなサッカー記者の本がおいてあったので、
3冊かいもとめる。
1冊はサッカーがすきな甥へのプレゼント用だ。
こんなふうに本を店でかえると
アマゾンにたよらなくてもすむのに。
今月の『本の雑誌』は、本屋さんがどんどんなくなっていくことについて
特集がくまれていた。
郊外型の店に客がながれ、イオンなどの大型店に書店がはいり、
町にはブックオフができ、そしてアマゾンのサービスがはじまる。
町の本屋さんは「むしられっぱなし」の歴史なのだと
永江朗さんがかいておられた。
わたしがすむ町もほぼおなじ経緯をたどっている。
本屋さんがすきなわたしとしては
なんとか本屋さんにつづけてもらいたいので、
アマゾンをつかわずにおれたらそれにこしたことはない。
ブックオフをよく利用しておいてなんだけど、
ブックオフだけの町はさみしすぎる。

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2013年11月18日

『ゴールのあとの祭り』(西部謙司) こんな本がよみたかった

『ゴールのあとの祭り』(西部謙司・ベースボール=マガジン社)

西部さんのかいたこういう本がよみたかった。

『週刊サッカーマガジン』に連載されたもののなかから、
比較的あたらしいものを100回分えらんだものだという。
その時期にあった試合や、サッカーに関するこぼれ話について
西部さんが自由自在に料理する。
この本をよむことで戦術理解が格段にふかまるという
直線的なメリットはないかもしれない。
しかし、Jリーグ・日本代表・ヨーロッパサッカー・
すこしまえのスーパースターについてなど、
ひろい範囲にわたる100のはなしをよんでいるうちに、
サッカーの魅力にどっぷりとつかっているはずだ。
そして、まえよりももっとサッカーをたのしめるようになる。

いつもながら西部さんの文章は、適度にちからがぬけていてオシャレだ。
1話が3ページという量もちょうどよかったのではないか。
サッカーと関係ないところで、おもわず「うまい!」と
線をなんぼんもひきながらの読書となった。
西部さんならではの表現で、核心をついている。
文章的にうならされた箇所をいくつか紹介する。

・スペインのデルボスケ監督は
 Wカップで優勝しながらも、ほとんどとりざたされることがなかった。

 「何もしない方がいいのなら、何もしなのが正解だ」

 あんがいこれはむつかしいことではないのか。
 よかれとおもってついよけいなことをしてしまいがちだ。

・2011年にカタールでおこなわれたアジアカップでは、
 デザートつきの豪華な食事がメディアセンターでだされたそうだ。

 「メディア対策の第一は、胃袋をつかむことだ。
 そんなことか、と思われる方も多いだろうが、
 そんなことなのだ」

・ナポリのサポーターはとても情熱的なのだそうで

 「あの人たちが魚河岸に乗り込んできたら、
 全部セリに勝ちそうである。とにかくイキがいいのだ」

・アルゼンチン代表の試合ではメッシがかがやかないことについて、

 「バルサとアルゼンチンでメッシの輝きが違うのは、
 まさにアルゼンチンがバルサではないからだ」

・バルセロナのグアルディオラ監督(当時)が
 どんどん戦術的にあたらしい手をうってくることについて、

 「打倒バルサを掲げて追いかけているチームからすると、
 もう背中も見えないぐらい引き離された気分かもしれないので」

・2-0というリードが危険だといわれることについて、

 「日本では『2-0は危険です』と、よく解説者がコメントしているが、
 2-0は一番戦いやすい点差ではないかと思う。
 イタリア人なら『もう終わった』と考えるスコアだ。
 2-0で試合をコントロールできないのなら、
 3-0でも4-0でも危険だろう。
 要は、捨て身でこられると弱いのだと思う」

・ブラジルにいいようにもてあそばれた試合について、

 「ブラジリアのエスタディオ・ナシオナルは円形の巨大なスタジアムで、
 ピッチがスタンドに丸く囲まれている。
 スタンドの高さが全部同じ。
 巨大な鍋に入れられた気分だ。
 鍋底では、日本代表がほどよく料理されていた」
 
 「ブラジルとの差が縮まっていなかったのも事実だ。(中略)
 近づいたと思えば、近づいたぶん差に気づかされる。
 いろいろ悔しい敗戦でありました」

おもしろさやうまさばかりを今回は紹介したけれど、
大震災でJリーグが成長したことや、
「1日で一番楽しい時間」をもった体験が
どれだけ大切かなど、すてきなはなしがいくつものっている。
サッカーについてわかりやすくかきながら、
文章もまたすぐれているライターとして、
西部謙司さんは貴重な存在ではないか。
サッカーがすきになり、文章もたのしめるというおすすめの一冊だ。

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2013年11月17日

『風景は記憶の順にできていく』(椎名誠) 風景の変化は案外しぶとい

『風景は記憶の順にできていく』(椎名誠・集英社新書)

椎名誠さんが、人生において原点となっている
いくつかの町を再訪するという企画だ。
ながい時間をおいてふたたびたずねたとき、
「その風景がどのくらい変わっているか、
それを見ていたわが記憶や心の思いは
この間どう変化してきたか」。

うまれそだった町・仕事にかよった町・映画をつくった町など、
日本各地にちらばる12の町を椎名さんがたずねる。
自分のすむ町をみればわかるとおり、
日本の町のおおくは昭和から平成にかけておおきくすがたをかえている。
そのかわりかたにおどろく旅になるのかとおもってよんでいると、
じっさいは町や自然はあんがいかわらずにいるけれど、
すむひとの高齢化による変化のほうがおおきかった。

たとえば、『ガクの冒険』をとった四万十川を10年ぶりにおとずれると、
川はかわっていなくても、
高齢化によって、しっているひとがだれもいなくなっている。

「風景の変化は案外しぶといけれど、
それを眺め、モノを考える人間の命は、
まるでもう一年ごとの折り紙細工のようにはかなく頼りなく、
結局は、ただの偶然で生かされているのにすぎない」

かわっていくようでかわらない風景と、
かわらないようでかわっていくすむひと。
ひさしぶりにおとずれた椎名さんが
その変化をどうかんじたかという個人的な記録にすぎないのに、
いずれの再訪についても興味ぶかくよめた。
よむ側のわたしもそれだけ歳をとり、
変化についてのはかなさについて
わりきるようになっているのかもしれない。

歌舞伎町のように、すっかりかわった町もあるけれど、
ここなどは、かわるのが大前提みたいな町なので、
その変化は意外ではない。
かわったのはけっきょく自分と、
自分をとりまく環境の方なのだ。

1カ所だけわたしもしっている場所がある。
「武蔵野」の章でとりあげられている
一橋学園駅ちかくの「大勝軒」で、
別の本で椎名さんが紹介していたのよみ、いってみたくなった。
6つ玉の超おおもりラーメンがしられる店で、
椎名誠さんは「チョモランマラーメン」と
その勇姿をいいあらわしている。
椎名さんによると、かえ玉の数は5つだったり4つだったり
年代によってかわってくる。
わたしがそのおおもりラーメンに挑戦したのは20年以上まえで、
玉の数はわからないけれど、ものすごく迫力があった。
メンが器から山のかたちでもりあがり、
もうひとつスープのはいったおわんがあわせてはこばれてくる。

あまりにも量がおおいと、胃袋は「たべもの」としてうけとめないようで、
わたしはそのラーメンをみたとたん完全に食欲がきえてしまった。
こんな量がたべれるわけがない。
ラーメンを注文したときに「おおもりですね」と
確認されたうえであえてえらんだのだから、
のこすにしてもある程度はかたちをつくろうとたべはじめる。
でも、胃はおどろいたままで、おいしいとおもうだけの余裕がない。
けっきょく1/3もたべられず、すごくかっこわるかった。
ご主人に「おさわがせしました」とあやまって店をでる。

ここなんかは、いちどたずねただけの場所なので
記憶にはのこっているけど、たとえ再訪しても
たいした感情がわいてくることはないだろう。
椎名さんが本書にとりあげた12の町や島は、
ある期間、その場所を拠点として
あそびや仕事にちからをそそいでおり、
おとずれるときのおもいいれがそれぞれつよい。
おおくのひとが、おおかれすくなかれ
そうしたなつかしい場所をもっているはずで、
そろそろ人生をしめくくらなければならない年齢になると
だれもがこうした再訪にでかけたくなるのかもしれない。

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2013年11月16日

『居酒屋サッカー論』(清水英斗) 感想戦でサッカーをたのしむ

『居酒屋サッカー論』(清水英斗・池田書店)

清水さんの記事のいくつかをネットでよんだことがあり、
意外な視点からのわかりやすい分析に感心していた。
その清水さんの本が、書店のサッカーコーナーにあったので
まよわずかってみる。

この本でまず評価したいのは、
試合をふりかえる「感想戦」の機会をつくろうと
提案されていることだ。
ヨーロッパでは、カフェやパブの常連客が
つぎの試合までの一週間をかけて
プレーについての感想やかんじたことを
すきなようにはなしあう文化があるという。
それだけサッカーが生活に根づいているわけで、
日本でもそれを居酒屋でたのしもうという提案だ。
日本では、たしかにカフェよりも居酒屋のほうがピッタリくる。

この本は、WEBサイトの『cakes』に連載された原稿と、
4つの対談で構成されている。 
対談相手はオシムさんの通訳として活躍された千田さん・
ちょんまげ隊長のツンさん・野球を専門にするライター菊田さん、
それに女子大生2人といった雑多な人選で、
いかにも居酒屋っぽくていいかんじだ。

居酒屋で試合をふりかえるといっても、
なにについて論じるか、
試合のみかたがわかってないと、
ただうれしいとかくやしいとかのはなしにおわってしまう。
この本は、とてもわかりやすくプレーの意味を解説してくれるので、
わたしのような素人でも理づめで納得できた。
一般論ではなく、清水さんがどうかんがえるかについて
はっきりとうちだされているところに好感がもてる。

「遠藤の限界がみえてきたのでは」
「日本はセットプレーによわい」
「3バックはつかいものにならない」
といった、ちまたでまことしやかにいわれている俗説について、
清水氏は具体的なプレーをあげて
そうでないことをときあかしてくれる。
なぜ本田がいるときにセットプレーからの失点がすくなかったのか、
遠藤選手がいきるのはどんな状況か。

Wカップアジア最終予選のヨルダン戦で、
カウンターから2点目をうしなった場面について、
清水さんは直前の吉田選手のミスだけでなく、
合計7つの関所がやぶられた結果だと指摘している。
「も〜吉田のやつ!」と吉田選手だけのせいにしがちなわたしにとって、
清水さんのこの緻密な観察力は驚異的であり、
納得できる説得力をもっている。
こうした視点から試合をみれたら、
かった・まけた、という見かたでは味わえない
サッカーのたのしみがますというものだ。

以前、西部謙司さんが2ステージ制への移行にからめ、
「リーグ戦の8割はつまらないのが普通」
とかいておられた。
つまらないからだめだ、といっているのではなく、
つまらなくても試合をみにくるひとたちで
サッカーはささえられている、という文脈のなかで
かたられたことばだ。
清水さんの本には、つまらない試合をおもしろくみるための視点が
いくつも提供されているし、
居酒屋で感想戦をおこなえば、
つまらない試合をたのしくふりかえられそうだ。

わたしがNHK-BSでみるJリーグの試合のほとんどは
じゅうぶんたのしめるので、
西部さんの採点のからさが意外だった。
わたしが試合に熱中できる背景には、
実況のアナウンサーと解説者のたすけがあるのだろう。
へたな解説はストレスであるのは、他局の放送をみればあきらかで、
その点からもサッカーをたのしむには
ある程度の技術が必要なことがわかる。

サッカーではよく「ボールのないところで試合はきまる」
といわれている。
素人はついボールにからむプレーばかりに注目しがちなのを
いさめたものだ。
しかし、ではボールのないところの「どこ」に注目すればいいのかが
じつはわたしにはわからない。
この本は、そんなレベルのファンにたいし、
試合をたのしめるみかたをおしえてくれる。

よんでいるうちに、
代表チームのしあがりが不安になってきた。
この本の副題にもあるように
「ザックジャパンはW杯で勝てるのか?」。
今年にはいってから調子をおとしている代表チームについて、
どうとらえ、なにをしていけばいいのか。
清水さんは、ザッケローニ監督と選手との関係に
信頼感がなくなってきつつあることを心配している。
チームがひとつにまとまらなくなって、
それぞれの選手が自分でおもったことをやりだしている。
この状態を、ふたたび統一感のあるチームにもどせるだろうか。

いっぽうで清水さんは、
コンフェデ杯の日本ーイタリア戦では、
会場のブラジル人たちのあつい声援におどろいたという。

「結果としては敗戦したが、第三国の彼らの心を
ここまで動かしたことを誇りに思う。
このようなチームが、しかもイタリアを相手に
それを実現するチームが、
いったい世界にいくつあるのだろうか。(中略)
海外に出てこれほど熱く他国から応援される代表チームというのは
聞いたことがないし、考えられないし、信じられない」

そんなおもわぬちからが、日本代表にはあるのだ。
代表チームが日本らしいサッカーを成熟させていき、
これこそが日本の代表であると、
ほこらしくおもえるチームになることをねがっている。

posted by カルピス at 08:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月15日

サービス管理責任者研修 ひとへの支援計画という、根源的なむつかしさ

きのう・きょうと、2日間の研修に参加する。
サービス管理責任者の資格をえるための研修だ。
介護サービスは、適切な支援がおこなわれるよう、
サービスごとに管理者をおくことがきめられている。
出席さえすれば資格をえられるので、のんきにかまえていたら
(1日目のおおくはキンドルにお世話になった)、
だんだんわたしの本気度をためされるような内容になってきて、
くるしい2日間となる。

きょうは、グループ内での自己紹介からはいった。
自分の長所を、ということなので、
わたしは「あんまりふかくかんがえないことです」とはなした。
ある女性は
「きめたことはやりぬく」をあげ、
べつの女性は
「よ〜くかんがえてから行動にうつすので、
あまり失敗をしない」ということをあげていた。
どちらもわたしにはないかんがえであり、
ひとによって長所ととらえることは
さまざまであることを実感する。
「まちがったほうがおもしろいというかんがえ方もありますよ」
と「失敗しない」女性とはなしてみたい気がした。

サービス管理責任者(通称:サビ管)のおもなやくわりに、
支援計画をたてることがあげられる。
本人の要望をできるだけ尊重しながら、家族の意向もふまえ、
実現可能な計画をたてることはけしてかんたんではない。
そもそも、自分で自分の計画をたてるならまだしも、
だれだってひとがたてた計画なんかにしたがいたくはない。
糖尿病がわるくならないようにたべる量に気をつけましょう、とか
タバコの本数をへらしましょう、なんてことをいわれれば
わたしだったら絶対にうっとうしい。
障害をもっているからといって、
すきなものを制限されるのはたまらないだろう。
支援計画には、そういった根源的なむつかしさをかかえている。
支援計画をたてるからには、
自分だったらイヤにかんじることを
利用者におしつけてはならない。

というわけで、利用者が自分で計画をたてられたら、
それにこしたことはないとおもう。
身体障害者の場合は、そうしたちからのあるひともおられるので、
「自分はこういう生活をおくりたい。
あなたの事業所はそのための支援を約束できますか?」
という契約になれば、事業所は真剣に計画をたて、
実現にむけたうごきをとるだろう。
知的障害をもつひとの場合、
本人が計画をたてるのがむつかしければ、
第三者がその役をになう。
ほんとうは、いまのサービスも
そういうかんがえ方にたって提供されているはずなのに、
まだまだ家族や事業所の都合が本人の希望より優先されている。

研修では7〜8人のグループにわかれて演習にとりくむ。
演習であり、正解はないわけだから、
のびのびとりくめたらいいけれど、
たいていの場合どうしても細部の「ただしさ」にこだわっていく。
ひとりでかってに計画をたてるのとちがい、
グループではなしあっての立案は、
おたがいの力量をさぐりながらの作業となり
わたしにとってかなりのストレスだった。
わたしが支援計画についてよくわかってないのが原因でもあり、
ひとり的をはずしてほかのメンバーにひかれてしまった。

できた計画を、それぞれのグループが発表する。
あるグループは、
「お酒をたのしくのみましょう」という支援目標をあげていた。
そういうたのしい計画なら、わたしだってとりくんでみたくなるだろう。
利用者に我慢や制限をもとめるだけの、おもしろみのない支援計画ではなく、
生きててよかった、とおもってもらえる計画をたてていきたい。

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2013年11月14日

なんとうつくしい梅棹忠夫さんの文章 

倉下忠憲さんのブログに
梅棹忠夫さんの文章が引用されていた。
「無限がもたらす万能感との別れ」という題の記事で、
カードをつかうことに抵抗したくなる気もちを分析したものだ。
わたしたちにはいつも、無限の世界とのつながりを心のささえにしているようなところがあるらしい。カードは、その幻想を壊してしまうのである。無限にゆたかであるはずの、わたしたちの知識や思想を、貧弱な物量の形にかえて、われわれの目のまえにつきつけてしまうのである。カードをつかうには、有限性に対する恐怖にうちかつだけの、精神の強度が必要である

本文の内容とはなれてしまうけれど、
わたしはこの文章のうつくしさに、
いまさらながらしびれてしまった。
これまでに、なんどもよんできたにちがいないのに、
その一部をこうしてしめされると、
日本語の、ひとつの完成したすがたにおもえてくる。
やさしいことばのくみあわせが独特のリズムをつくりだし、
主張する内容が、これ以上はないというほど、
わかりやすくいいあらわされている。

わたしは手動の英文タイプライターをもっている。
いまのわかいひとは、ふるい映画のなかでしか
みたことがないのではないか。
パチパチとキーをたたくと、キーにつながった
活字が紙に文字を印刷していく。
梅棹さんの『知的生産の技術』に影響をうけ、
わたしはこれで、ブラインドタッチを練習したのだ。
梅棹さんの本にであうことで、
知的生産は没個性的な「技術」であること、
タイプライターをつかって生産性をたかめること、
漢字のもつ問題点などを、わたしはしることができた。

タイプライターをつかい、ローマ字で日本語をかいた経験は、
わたしの文章力をきたえてれた、とかきたいところだけど、
そこまでいかないうちにワープロをかい、やがてパソコンにうつった。
しかし、タイプライターでおぼえたブラインドタッチは、
そのあとずっとわたしをたすけてくれることになる。
なんの苦もなくタイピングできることが、
その後の知的生産において、どれだけ便利だったことか。
パソコンのつかい方についても、
わたしはまったくこまらなかった。
梅棹さんが『知的生産の技術』のなかで紹介していたファイリングシステムは、
そのままパソコンにいかせるかんがえ方だ。
ファイルをフォルダーにいれて分類することは、
梅棹さんの読者にとって、
まったくあたりまえのことでしかない。

もし梅棹さんにであっていなかったら、と
ときどきかんがえる。
ワープロやパソコンといった
機械で日本語をかくことをわたしは否定し、
漢字をだきるだけおおくつかおうとする
ガチガチのナショナリストにそだっていたにちがいない。
こざね法をしらなければ、
頭のなかでアイデアをいじくりまわすだけで、
論点のさだまらない文章をかいていただろう。
『わたしの生きがい論』をよまなかったら、
すきな仕事をしてなにがわるい、というモーレツ社員になり、
いまとはべつの道をあゆんでいたような気がする。
梅棹さんの著作が、わたしの人生において
どれだけおおきな意味をもっているのか、はかりしれない。
梅棹さんとのであいを、いまさらながら感謝している。

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2013年11月13日

16歳の誕生日に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

16歳になるむすこの誕生日に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をわたす。
プレゼントとしてモンベルのフリースをわたしてたけど、
夕ごはんのあときゅうにおもいついて、
村上春樹版の『ライ麦』をすすめてみた。
「ぜひよんでみて」ではなく、「もしよかったら」という
わたし方だ。
2日後に、よみおわった本をかえしにきた。
いつもながらはやい。
この2日間は、パソコンゲームをおやすみして
よみつづけてくれたみたいだ。

ホールデンとおなじ16歳のときに『ライ麦』とであえたむすこ。
よんだむすこも、手わたしたわたしも
しあわせというべきだろう。
わたしがこの本をよんだときは、もう20代だったし、
訳はもちろん野崎孝さんによるものだ。
これはわかいうちによんでおかないと、
歳をとってからではどうしようもない本だ、
という感想をもったようにおもう。
自分の子に『ライ麦』をわたし、それをよんでくれる父親というのは、
そんなにおおくはないだろう。
めちゃくちゃ親孝行のむすこといえるかもしれない。

『ライ麦』をおもいついたきっかけは、
このまえよんだ角田光代さんの『私たちには物語がある』に
すてきな感想があったことだ。
『ライ麦』は読者の年齢をえらぶのではなく、
よむ側とともにホールデンは成長している、
と角田さんはかんじている。

このまえむすこに本をすすめたのは
今年の2月の『卵をめぐる祖父の戦争』以来だ。
ちょうど高校受験のときだったので、
よみだしたらやめられない「おもしろ本」をわたすタイミングとしては微妙だった。
レニングラードの冬のさむさを、
すぐそばにあるようにかんじたことをおぼえている(ウソです)。

もうこんなふうに本をすすめることはないだろう、
とあのときはおもっていたけど、
16歳の誕生日に『ライ麦』というのは、
これはまた特別で必然のであいといえるだろう。
わるくない体験となることをねがっている。

むすこに『ライ麦』の感想きくと、
「おもしろかった」のだそうだ。
親に本をわたされることが、
負担ではないかとたずねてみた。
「そんなことはない」というので
調子にのって、アーヴィングもすすめてみたくなった。
『ホテル・ニューハンプシャー』がいいだろうか、
若者には『熊を放つ』だろうか。
『未亡人の一年』は、さすがに親としてためらってしまう。

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2013年11月12日

このみにあうブログがあんがいすくないからブログをかく

わたしの敬愛する倉下忠憲さんが、
「11月と言えば自分の好きなブログを告白する月らしいです」
という記事をかかれている。
おどらにゃソンソンともりあげて、
「ブログ」を活気づけようというもよおしなのだろう。
今年で3回目となる「告白」のなかで、
倉下さんが「好きなブログ」として
わたしのブログを紹介してくれた。

とりあげてもらえたことがとてもうれしくて、
お礼のコメントをかいたあと、
なぜわたしはこんなによろこんだのだろうと
かんがえてしまった。

わたしがブログをかくのは、なによりも「たのしいから」であり、
もうひとつはおもしろいブログをよみたいからだ。
自分がよみたいとおもえるブログをかいているつもりであり、
自分がおもしろいとおもってかくことが、
ほかのひとにとっても興味のある記事になればとおもう。

とはいえ、「たのしいから」とはいっても、
なんのよりどころもないブログであり、
はたしてよんでいるひとはどうおもっているのかと
ときには反応をしりたくなってくる。
こんなものをかいても自己満足にすぎず、
よんだとしても、だれもなんともおもってくれないのではないか。
そんな気がしているなかで、
倉下さんが評価してくれたことは
自分がかくブログをいいといってくれるひとがいる、
という直接の反応だった。
わかってくれるひとが、現実にいたのだ。
訪問者やベージビューがふえるよりも、
こういうかたちでとりあげられることのほうが、ずっとはげみになる。

倉下さんに紹介してもらえたのがうれしかったのは、
もちろんそれが倉下さんだったからだ。
どうでもいいひと、たとえばページビューの数をきそう「ブロガー」から
もしほめられたとしても、きっとうれしくない。
こうやって、身ぢかな反応にであえるのが
ブログのたのしさなのだろう。

倉下さんは「みなさんも、自分のすきなブログを開示してみたら」、
と提案されている。
すきなブログを話題にすることで、
自分がおもしろいとおもえるブログが、ふえてくれればありがたい。
わたしがよみたいのは、意外性があって、
やわらかな思考が展開されており、
そしてユーモアのある文章だ。
できればひんぱんに更新されるブログであってほしい。
そんなに熱心にさがしているわけではないので、
なかなかこれらの条件にかなうブログにであえない。
けっきょくわたしのすきなブログは倉下さん佐々木(正悟)さん、
それにほぼ日の糸井さんということになる。
ありそうでないのが、自分のこのみにあうブログだ。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

さくらももこさんがおしえてくれた、ほんとうは奥のふかいグータラの真理

やすみの日はあんがいリズムがくずれやすいもので、
あれもこれもというおもわくにはんして
けっきょくなにもしなかったといういちにちになりやすい。
もちろん、それがゆっくりくつろぐことで、
みたされた時間となればいいけれど、
それもまたあんがいむつかしかったりする。
ひとことでいえば「グータラ」にすごしてしまった、
というとりとめもない反省におわってしまうのだ。

いぜんよんださくらももこさんのエッセイに、
このグータラについて、
とても適切にあらわしたものがあった。
エッセイというと、どうでもいいようなことを、
とかくおおげさにさわぎたてる文章がおおく、
よんでいる側はしらけてしまうことがよくある。
さくらももこさんのものは、
グータラのここちよさをしらしめるとともに、
ただしくグータラすることが、いかにむつかしいかという、
わすれがちな事実に目をむけさせてくれる
つつしみぶかいものだった。
それはたしかこんな内容だったとおもう。

さくらももこさんは、グータラすごすことがだいすきで、
すきなだけに、いごこちよくグータラすごすためには
いくつかのポイントがあると指摘している。
おなかがすいていてはおちついてグータラできないので、
満腹すぎず、空腹すぎない状態をたもつ必要がある。
スカートなんぞをはいていては、
なんにんかでグータラするときに
よけいな神経をつかわなくてはならないので
とうぜんズボンをはくことになる。
ハナクソをほじりたくなることもあるので、
事前に鼻のあなをきれいにしておかなければならないし、
つかれはてていてはねむってしまうので、
げんきすぎず、つかれすぎずという
コンディションに気をくばる必要がある。
電話がかかってきてももちろん気がちるし、
まわりがやかましすぎてもだめだ。
たのしくグータラするのはなかなか大変なのだ。
そして、なによりも大切なことは、
あんまりグータラしすぎると、
グータラがたのしくなくなってしまうという大逆転がおこる。
完璧なグータラは、グータラのここちよさを
おびやかす存在となってしまうおそろしさ。

さくらももこさんの、このグータラについてのはなしは、
日常生活のなかでごくあたりまえにおきていながら、
なんとなくわすれてしまいがちな現象を
くっきりととりだしてみせたところがとても新鮮だ。
そして、どんなすぐれた寓話よりも教訓的でもある。
たとえば、旅行の準備などで、いごこちよくすごそうと
あれもこれももっていけば、
あまりの重装備になって
かえっていごこちがわるくなる。
しかし、そうした「すぎたるはおよばざるがごとし」的な、
「余計なお世話」めいたはなしをすこしこえたところに、
このさくらももこさんのグータラはある。
ひとつのことをきわめようとすることは、
それ全体をだいなしにしてしまうという
構造的な矛盾をかかえているのだ。

わたしはこのエッセイをよんで以来、
グータラするのに細心の注意をはらうようになった。
というか、ただしいグータラをほぼあきらめ、
グータラしなくてもグータラを意識できる状況に身をおくよう
こころがけている。
グータラのおくにかくされていた真理が、
わたしがグータラにまみれるのをふせいでくれている。

posted by カルピス at 14:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする