2013年12月31日

関心をもち、情報にふれることの大切さ

29日の朝日新聞に「20代はいま」という
世論調査の結果がのっていた。
それによると、わかい世代ほど自民党にたいして
「変革」のイメージをだいているという。
わかいひとたちが、どんな行動をとり、なにをかんがえているのか、
いろいろな変化をしらされるたびに、おどろくことがおおく、
わたしにとって彼らとはほとんど共通の基盤がないような気がしてくる。
この、自民党へのイメージも、ずいぶんと社会がかわったことを
いまさらながらおもいしらされる。
もちろんイメージなので、それがただしいとか
まちがっているとかのはなしではないし、
政権をはなれた時期もあったのだから、
「変革」をイメージするひとがいることはわかる。
ただ、とおくまできたなー、というのが率直なわたしの感想だ。

特定秘密保護法や靖国神社参拝は、
あのひとならやりかねないので意外性はなかった。
そうした政治家・政党をえらんだ側の責任でしかない。
それよりも、こうしたうごきについて「当然」とか「理解できる」という
うけとめ方をするひとが、すくなからずいることにおどろいてしまった。
まあ、それだからえらばれたわけだけど。
新聞をよんでいると、特定秘密保護法や靖国神社参拝について
反対の意見がほとんどなのに、
じっさいにはおおくのひとがそれらに抵抗がないのは
どういうことだろう。
いかにただしいことを新聞がうったえても、
世論をかえるちからはなく、ただ状況をつたえることしかできない。
なにが「ただしい」かは、そのひとがおかれている立場と利益の反映であり、
いまおきていることが、日本の現実そのままなのだ。
こんなことをなげくほうがナイーブすぎるのかもしれない。
そして、新聞やテレビによる情報を、
いま、どれだけのひとがもとめているかも気になってくる。

12月3日の朝日新聞島根版に、
日中戦争での加害体験がかかれた
「残してきた風景-私たちが湖北省で犯したこと」
の出版記念会がつたえられている。
「山陰中国帰還者連絡会」の会長である難波靖直さんが、
92歳という年齢でありながら、
いまなお自分の犯した罪についてあきらかにしていく。
難波さんのような方を、ほんとうに勇気のあるひとというのだろう。

わかいころの読書で影響をうけたひとに
ジャーナリストの本多勝一さんがいる。
本多さんの著作をむさぼりよんだ時期があり、
『殺される側の論理』『中国の旅』など、おおくの本から
世界観がかわるようなショックをうけた。
事実をしらないことがいちばんこわい。
ある行為をすることで、だれが得をするのかをかんがえてみたほうがいいと、
本多勝一さんは著書のなかでのべている。
事実をしらないことで、だれが得をするのか。
わたしにできるのは、日中戦争にかぎらず、
あらゆる事件や紛争がおこった(おこっている)事実について、
関心をもち情報にふれることだ。
そのうえで自分で判断する。
2013年は、これからの社会のゆきさきについて、
気のおもくなることのおおいいちねんだった。

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2013年12月30日

天皇杯準決勝、広島-東京はPK戦へ。 西川の活躍で広島が奇跡の逆転勝利

天皇杯準決勝、サンフレッチェ広島は、PK戦のすえ、
FC東京をやぶった。
90分で決着がつかず延長戦へ。
それでもきまらずにPK戦へともつれこむ。
主人公は広島のゴールキーパー、西川だった。

   1 2 3 4 5 6 7
東京 ◯ ◯ ◯ ✕  ✕ ◯  ✕
広島 ✕  ◯ ✕ ◯ ◯ ◯ ◯

3人ずつけった時点で1-3と、広島の決勝進出に赤ランプが点滅する。
東京の4人目がきめれば、その時点で広島の敗退がきまる。
絶体絶命かとおもわれた広島を、ここから西川が奇跡の逆転にみちびいた。

東京の4人目三田を西川がとめる。
しかし、まだ広島の危機がさったわけではなく、
広島の4人目がはずせば敗退がきまる状況にかわりはない。
この場面でキーパーの西川がみずからキッカーとして登場する。
西川はキーバー同士の心理的なかけひきから、
ゴールのまんなかにおちついてきめる。
つづく東京の5人目(長谷川)もふたたび西川がとめ、
ながれを自分たちにひきもどした。
広島の5人目塩谷がおちついてきめ、PK戦はふりだしとなった。
ここからはサドンデス方式なので、ひとりずつのキックで決着がつく。

6人目をどちらもゆずらずきめたのち、
東京の7人目、石川を西川がとめた。
その裏、広島はルーキーの野津田がゴールのまんなかにきめ、
ほとんど東京側にかたむいていた勝利を
広島が奇跡的にたぐりよせた。

一週間前におこなわれた準々決勝の甲府戦もPK戦にもつれこんでいる。
このときホームだった広島は
サポーターがゴール裏に「大移動」して大宮にプレッシャーをかけている。
西川は「みんなが動いているのが見えたし、
雰囲気が力になった。あの時点で“勝ったな”という感じでした」
と試合後にかたっている。

今回のFC東京戦は、国立が会場だったため、
実質的には完全に東京のホーム試合の状況で、
広島にとれば大宮戦とはまったく逆の立場にたたされていた。
それでも甲府戦とおなじ結果をのこした
西川の精神的なつよさをたたえたい。
サッカーの試合が、ひとりの活躍できまることはありえないとはいえ、
このPK戦については、完全に西川の独壇場だった。

この試合の結果、元日におこなわれる天皇杯の決勝戦は、
広島と横浜F・マリノスという、
リーグ戦1位と2位による直接対決にきまった。
横浜は、まさかの連敗で優勝をとりにがしており、
天皇杯にかけるおもいは格別なものがあるだろう。
おおくのひとがのぞんだであろう、たのしみなカードとなった。

また、天皇杯の優勝チームにあたえられる
アジアチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権が、
リーグ戦で1〜3位という条件をみたしているチームになったため、
4位のセレッソ大阪がくりあげで出場権をえることがきまった。
西川の活躍は、セレッソ大阪にとってもおおきかったといえる。

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2013年12月29日

動物は生きるのをやめたりしない。死ぬまで生きる

ゆうべおそく目がさめたとき、ふとんの中のチャコをみると
なんだか様子がおかしい。
片手をのばしてよこたわったまま、ぜんぜんうごかない。
まるで死んでるみたいじゃないか、と
いやな予感が頭をかすめ、あわててお腹に耳をやる。
呼吸によるうごきがすこしつたわってくるけど、
すごくあさく、もうすぐとまるんじゃないかという、こころもとなさだ。
夕べは自分であるいてトイレにいったし、
自分からわたしのふとんにはいってきた。
それが、こんなにきゅうにうごかなくなるなんて。
チャコは今夜死ぬつもりなんだということを、
なんとなくかんじとる。
その予感から、わたしのふとんでねてくれたのだろう。
補液で脱水症状をおさえ、かろうじて生きながらえてきたが、
とうとうその限界がやってきた。
死は、こんなふうに急激に容態をかえ、あっけなくいのちをうばう。
いったん峠をこえてしまうと、もうもとにはもどらない。
もうしばらくは大丈夫だろうと、安心していたのに、
こんな形で死がやってくるなんて。

2週間ちかく病院にかよい、
いっときはすこしげんきをとりもどし、
まえみたいな声やうごきをみせてくれた。
そのおかげで、おわかれをする時間をもてたし、
気もちの整理もついた。
とうとう最期のときがやってきたのかと、
覚悟をきめてチャコのおなかに手をおく。

家族にどうきりだそうか。
病院の先生にも、お世話になったあいさつにいかなくては。
さきばしっていろいろかんがえていると、
しばらくしてからチャコはさっとおきだし、
あるいてトイレにむかった。
死にそうだったのではなく、
ただふつうにねていただけだったみたいだ。
わたしひとりが早合点し、もりあがっていただけで、
拍子ぬけしてしまった。
ありがたいことに、チャコはまだもうすこし生きててくれそうだ。

基本的に動物は、生きるのをやめようとはしない。
いのちがつきるまで、とにかく生きようとする。
わたしがさきばしってチャコの死をうけいれたのは、
死を美化してかんがえやすい人間の身がってなとらえ方だ。
チャコが死ぬまで生きることをみまもり、
チャコがいっしょにいてくれることに感謝しよう。

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2013年12月28日

人間の3倍の自由時間をたのしむネコの生涯

よく、ネコみたいに自由・気ままに生きたいといいがちだし、
ひるねをしながらおおきなアクビをしたり、
優雅にからだをのばしているネコをみるとうらやましくなる。
はたして、ネコはどこまで自由な時間にめぐまれているのだろう。

日本ペットフード教会が2012年に発表したデーターによると、
ネコの平均寿命は14.45歳ということで、
はじめの1年に18歳、それ以降は1年を4歳として計算すると、
人間でいえば{18歳+(13.45×4)}=71.8歳になる。

14.45年の人生のうち、彼らはどれくらい
ゴロゴロと優雅にすごしているのか。
はれた日・雨の日・さむい日・あつい日と、
ネコたちのすごし方はお天気や気温におおきな影響をうける。
それをざっと平均していちにちの睡眠時間を14時間、
食事やトイレ、社交に2時間は必要なので、
それ以外のいちにち6時間がネコたちの自由時間だ。
よって、ネコの優雅な余暇時間は(生涯ゴロゴロ時間)
6時間×365日×14.45年=31645.5時間となる。

人間は健康寿命が70年でありながら、
おおくの時間を学校や職場にとられるし、
そのほかにも雑用をかかえているので、
純粋にゴロゴロできるのは
平日でいちにちあたり1時間、休日は4時間くらいだろう。
年に120日の休日として計算すると、
純粋な自由時間が一年に720時間、
70年の生涯で50400時間だ。
人間はネコの約4.9倍ながいきなので、
ネコの寿命になおすと10286時間になる。
ネコの1/3程度の自由時間というわけで、
ネコがあれだけ優雅にときをすごせる背景には、
人間の3倍もの時間をゴロゴロにあてているという
圧倒的な実績がある。
彼らのゴロゴロがここちよくみえるのは、
経験値の差がものをいっているのだ。

ちなみに、「家の外にでるネコ」の平均寿命は12.33歳、
「家の外に出ないネコ」は15.74歳という差になってあらわれている。
外にでかけて自由を満喫しているようにみえるネコは、
それだけなわばりあらそいや
発情期のトラブルにまきこまれるリスクをかかえており、
自由の代償がやく3.4歳の平均寿命というわけだ。
人間におきかえると16.7歳だからけっこうな差といってよい。
ネコたちは、どちらのゴロゴロ生活にしあわせをかんじるのだろうか。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月27日

9連休は「セルフ・パブリッシング」と旅行の計画を

カレンダーにたすけられて、
なんだかすぐに今年の最終日をむかえた気がする。
25日に終業式という学校がほとんどだったので、
冬やすみにはいったかとおもうと、たった2日でもう仕事おさめだ。
また、毎日13人くらいでにぎわった夏やすみとはぜんぜんちがい
冬やすみは意外なほど利用者がすくなかった。
さむさのせいか、休憩室でゴロゴロする子がおおく、
きょうも11人がわりあいにまったりとすごしている。
営業的にはうりあげがへってくるしくなるが、
子どもたちが家族といっしょにすごせるのなら、
それにこしたことはない。

年末年始の9連休になにをするかというと、
読書と運動のほかに、ぜひ自分での本づくりにとりくんでみたい。
注文していた倉下忠憲さんの
KDPではじめるセルフ・パブリッシング』が先日とどいた。
自分で電子書籍をつくり、アマゾンでうることを目的とした本だ。
わたしは倉下さんの本がすきで、ぜんぶよんでいるわりには
たんなる消費的な読書におわることがおおく、
じっさいの知的生産にあまりいかしてこなかった。
しかし、この『KDPではじめるセルフ・パブリッシング』は、
よんだだけでは絶対に意味がないたぐいの本だ。
本のつくり方についてかかれた本をかったのだから、
じっさいに本をつくらなければ、なんのための購入か。
すこしまえまでは、自分で本をつくり、アマゾンでそれをうるなんて、
まったく夢みたいなはなしだったのに、
それがいまではかんたんにできるという。
もちろん、ほとんどうれないだろうし、もうかりもしないだろうが、
そんなことは想定内だ。
自分でかんたんに本をつくれるという状況をたのしみたい。

もうひとつは旅行の計画をかためたい。
2月に2週間ほど、どこかへでかけようとおもっており、
それがまだ自分のなかでもはっきりしていない。
最初はスリランカだったけど、そのうちラオスもいいかも、
みたいに気もちがさだまらなくなった。
12月20日から米子空港にスカイマーク便がはいり、
成田や神戸と格安料金でむすばれている。
以前は米子からインチョンへでて、それからアジアへ、
というのがいちばん便利だとおもっていたけど、
9800円で成田へいけるとなるとはなしはちがってくる。

しかし、制約がはずれ、なんでもできるようなると
こんどは選択肢がおおすぎてまよいがでてきた。
成田からスリランカへとんでもいいし、
神戸にでて、関空からバンコク、
そして陸路でラオスというのもおもしろそうだ。
そんなフラフラした気もちのところへ、
ハノイから北部への自転車旅行の番組をみたりすると、
カンボジアを自転車で、というのもよさそうにおもえる
(ベトナムは坂がおおくてくるしそうだ)。
けっきょくおれはなにがしたいのかと、
自分のことながらあまりの優柔不断ぶりにうんざりしてくる。
まあ、あれもこれもやりたいのはいいことなのだから、
とにかくどこかへでかければ、それがつぎにつながるだろう。

というわけで、わたしの9連休は
計画と実践の両方にいそがしくなりそうだ。
9連休は無限につづく長期休暇でないことをキモにめいじ、
みのりのおおい年末年始としたい。

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2013年12月26日

『いつも旅のなか』(角田光代) 旅が年齢とつりあわなくなること

『いつも旅のなか』(角田光代/アクセス・パブリッシング)

ラオスを旅行中、角田さんは「なんかつまんない」とおもいはじめる。
安宿にとまり、屋台で食事をし、自分の足でくまなく町をあるきと、
以前とおなじことをやってもたのしくない。
町ともしたしくなれず、なんとなく調子がでない。

そんなときに、角田さんはわかい日本人カップルにであう。
彼らは旅行中にしりあい、意気投合して
いっしょにうごくようになった旅行者だった。
ふたりの関係がわかったとき、角田さんは「つまんない」とかんじる。
この「つまんない」は旅行中にかんじていた「つまんない」とよくにていた。
そして角田さんは理解した。

「以前までの旅の仕方が、私にはもう釣り合わないのだと」

このときの角田さんはまだ32歳で、まだわかいともいえるだけに、
まさか自分がかわったから「つまんない」なんて、
しんじられなかったのだろう。

「旅にも年齢がある。その年齢にふさわしい旅があり、
その年齢でしかできない旅がある。
このことに気づかないと、どことなく手触りの遠い旅しかできない。(中略)
自分の年齢の重ね具合と、最大限に楽しめる旅具合を、
目下調整中、といったところか」

経験や経済力とは関係なく、
角田さんは年齢だけに焦点をあてている。
一般的にいって、歳をとればお金に余裕ができる一方、
体力はだんだんとおとろえていく。
でも、どんなにわかいころの体力をたもっていたとしても、
20代前半にふさわしい旅は、
20代前半にしかできないというのがこわいところだ。
わたしの旅デビューは26歳のときで、
なんの経験もないから効率のわるいうごきしかできなかった。
そもそもうまくやろうなんていう余裕がないので、
目にはいるもの、自分の身におこったことを、
からだひとつでうけとめていたようにおもう。
それしかできなかったわけで、
たしかにわかく、無知で、そのぶん印象にのこる旅行となっている。
水シャワーなんてあたりまえだし、
やすさから、個室より当然ドミトリーをえらんでいた。
旅とはそういうものだとおもっていたのだ。
そうおもえるのがわかさなのだろう。

年齢によって旅のおもしろさがちがってくるのは
あたりまえといえば、あたりまえのはなしだ。
ふつうは歳をとるとお金のかかった格好をし、
いいホテルをえらんだりとスタイルをかえる。
角田さんは以前とおなじようなこぎたない服装で、
デイパックをせおって旅をしていたのに、
旅との温度差をかんじたことが、よほどショックだったのだろう。

仕事や恋愛に年齢がからんでくるように、
旅にもまた、年齢があった。
よく、歳のことなんかかんがえないほうがいい、
というひともいるけれど、
わたしは角田さんの「発見」に賛成だ。
歳相応ということをはずすとまわりからみて「いたい」し、
本人もけっきょくは「つまんない」おもいをする。
旅に年齢があるのだから、ほかのことにも
それなりの年齢があるとおもったほうがいいだろう。
すべてに年齢がある。
だから歳をごまかして生きるべきではない。

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2013年12月25日

あるくのがすきなひとは世界をかえる

職場のスタッフに、あるくのがだいすきなひと(30代・女性)がはいってきた。
2キロ弱の通勤はもちろんあるいているし、
やすみの日にすることも「散歩」とはなしてくれる。
運転免許をもっているし、自動車も家にあるのに、
とにかくなにかにつけあるこうとする。
天気がいい日には、とおまわりして出勤するらしい。
背筋をのばし、手と足をおおきくふる独特のフォームで、
とおくからみかけてもすぐこのひとだとわかる。
散歩や通勤ではなく、どこかの国の特別な運動をみてるみたいだ。
ウィスキーのボトルにのっている、
ジョニー=ウォーカーさんみたい、といえば
イメージしてもらえるだろうか。

まえの職場ではどうしてたのかたずねると、
5キロ以上のみちのりを、はれた日は自転車で、
雨の日はあるいていたというから筋金いりだ。
通勤に1時間以上かけてあるくひとは、
都会とちがってわたしのすむちいさな町では、かなりめずらしい。
はなしていると、すごくひかえめなひとで、
つよい主張があってあるいているわけではなく、
ただ「気もちがいいから」、というだけのようだ。
仕事をしていても、なにをするにも一生懸命で、
邪悪なこころをまったくかんじさせない。
よくこんなひとが生きのびていたものだと、
なにかにつけ感心する。

あるくのがすき、ということは、
そしてそれをつらぬけるつよさは
ほかのいろんな面にもいいかたちであらわれる。
無欲で、自分をつよく主張したり、ひけらかすことがない。
パソコンとかスマホにはまったく興味がないそうで、
ながい時間をあるくときもアイポッドさえつかわない。
ものにとらわれることがなく、
なにかをつよくほしいとはおもわないのだそうだ。
旅行のときにもすくない荷物だけですむというし、
じっさい職場にもちいさなカバンだけしかもってこない。
断捨離の大家みたいな生き方なのに、
断捨離はきいたことがある程度、という。

まわりに配慮しながらも、わたしはわたし、
というスタイルを、とても自然にとおしているので、
ほかのスタッフともうまくやっている。
友だちからはかわってるといわれそうだけど、
まわりがひいてしまうタイプではない。
こうかいていて、神さまみたいなすごいひとと
いっしょにいさせてもらってるような気がしてくる。
ほんとうに、どうしたらこういうひとがそだったのだろう。
大昔に絶滅したはずの、気だかい精神をみているようで
ほんとうに不思議なひとだ。謎といっていい。

彼女の影響で、けさはわたしもあるいて出勤した。
車のおおいとおりや、トンネルをさけ、
ひと山こえるコースをえらんだら、
かなりのはやあるきで25分かかった。
夕方になると、トレーニングをしたときのような
ここちよいつかれがでてきた。
お腹のなかがまっ黒のわたしには、
彼女のようなさわやかな生き方はできないけれど、
適度な運動がここちよいことはわかる。
わたしに彼女の真似ができるのは、あるくことぐらいだ。

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2013年12月24日

『フットボール百景』(宇都宮徹壱)サッカーの辺境に光をあてながら「わたしたちにはサッカーがある」

『フットボール百景』(宇都宮徹壱・東邦出版)

『週刊サッカーダイジェスト』に隔週で連載中のコラム
「蹴球百景」を本にまとめたもの。
2008年から2013年までにかかれた120本の記事から、
100本がえらばれているので、ほんとうに「百景」だ。
写真とコラムがセットになっており、
どの写真も、スポーツニュースではみられない「サッカー」であり、
ついつぎのページをめくりたくなる。

構成は、いちねんを総括したページが各年のはじめにあり、
その年になにがあったかをざっとふりかえったうえで、
各コラムがつづいている。
たとえば2008年は北京オリンピックがあり、
男子が3戦全敗でグループリーグ敗退、
女子は4位におわっている。
結果はパッとしないが、男子はのちの代表メンバーとなる
本田・香川・長友・岡崎が頭角をあらわしたし、
女子は4位におわったくやしさが、
3年後のWカップ優勝への推進力となった。

サッカーのカレンダーに停滞はなく、
いつもはげしくうごいているので、
いちねんという一定のスパンで総括しておくことが
おおきなながれを理解するためにどうしても必要だ。
いっけん停滞をかんじさせる地味な成績も、
のちにおおきくばけるターニングポイントだったりする。

宇都宮さんは、これまでも意識的にサッカー辺境の地をたずねているし、
代表チームよりJFL、プレミアリーグよりフェロー諸島、
香川や長友よりも、きいたこともないようなリーグに所属する日本人プレーヤーと、
ほとんど注目されない土地で、
サッカーがどのように愛されているかをつたえてくれる。
そうした記事をかいても、なかなかうれないことはわかっていながら、
少数派に目をむけずにはおれない、因果な性格のようだ。
この本でも、目のみえないプレーヤーによるブラインドサッカーや、
足を切断したひとによる「アンプティサッカー」など、
これまであまりしられてこなかったサッカーが紹介されており、
宇都宮さんならではの視点がひかる。

サポーターが、対戦クラブのマスコットの首をひっこぬき、
その写真をネット上にアップした事件があったという。

「問題を起こした側のクラブは公式に謝罪、
事件に関わったサポーターは
無期限の観戦禁止などの厳しい処分を下した」

この件について
「こんなことで厳罰が下るのはおかしい」という意見や
「ユーモア論」もでてきて、収拾がつかない状況になる。

宇都宮さんは、

「われわれサッカーファンは、
一般人からみて『たかが』と思われるようなことに命を賭け、夢を託している。
サッカーファン同士で『たかが』と罵り合うのは不毛以外の何ものでもない」

と、きびしい目をむける。

宇都宮さんはいつも正論をのべる。
サッカーがすきでたまらないからこそ、
サッカーがへんな方向にねじまげられるのをみとめない。
わたしは宇都宮さんのこのまじめさがだいすきだ。

2011年に大震災がおきたとき、
サッカーのある日常がいかにありがたいかを
おおくのサッカーファンが身にしみてかんじることとなった。
サッカーをすることで、ひいきのチームを応援することで、
どれだけわたしたちはちからをあたえられてきただろう。
わたしたちにはサッカーがあるし、
サッカーはそれだけのちからをもっている。
それが宇都宮さんのサッカーにたいするかわらぬ姿勢だ。
「たかが」サッカーであることを承知したうえで、
サッカーをまもり、発展させ、
おおくのひとがしあわせになることを
宇都宮さんはねがってやまない。
宇都宮さんのようなファンがいるおかげで、
わたしもまたサッカーの魅力にとらわれ、
サッカーのある日常をたのしめるようになった。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月23日

WEB本の雑誌「作家の読書道」に酒井順子さん登場

WEB本の雑誌に「作家の読書道」というコンテンツがある。
人気作家へ本についてインタビューする企画で、
おさないときの読書体験や小中高時代によんだ本、すきな作家、
どんな日常生活をおくっているかなどをききだしている。
インタビューする瀧井朝世さんはものすごく本をよんでいるひとで、
相手が名前をあげるすべての本に適切な反応をしめす。
よんだことのない作家へのインタビューでも、
その読書体験をきくのは興味ぶかいもので、
わたしがたのしみにしているコンテンツだ。

第144回の「読書道」には酒井順子さんが登場した。
このまえ酒井さんのかかれた『ユーミンの罪』をよんだばかりだし、
『負け犬の遠吠え』以来、わたしはかなり熱心なファンを自称している。
はたして酒井さんはどんな本に影響をうけてきたのか。

酒井さんは小学校から高校まで女子校にかよっており、
この体験が酒井さんの作風につよい影響をあたえている。
そして、女子校そだちでありながら、おうちにはお兄さんがおり、
男についてへんな幻想をもたなかったこともおおきかったのではないか。
そうした環境のもとに、酒井さんはぬくぬくと独特な視点をそだてていった。

小学校4年生のころから内向化がはじまったと酒井さんははなす。

「エロ本の立ち読みとかをして親に心配をかけていたのもこの時期ですね。
文房具屋さんの前にある雑誌のラックにある本とか、
空き地に捨てられているエロ本とかを見ているような子供でした」

このインタビューで酒井さんは「エロ本」と2回発言している。
酒井さんが「エロ本」というのと、
たとえば山田詠美さんが「エロ本」といのでは、
うける印象がかなりちがってくる。
酒井さんは無理して「エロ本」を連呼しているのではなく、
へんに誤解されないよう、事実をそのままつたえようとする。

「つい手がのびる本」についての質問には、

「エロ本はつい手を出してしまいますね。
緊縛の歴史、みたいなものとか...(笑)。
何に関し ても"縛り"があるものが好きなのかなという気がします。
性癖なんでしょうね、系統だっている気がします。
車よりも鉄道が好きというのも、必ず時刻表に 従って、
線路の上だけで移動しなければならないという縛りがあるからです。
服だったら制服が好きだし。三島由紀夫が好きなのも、
彼が制服好きだからだと思 います」

なにもエロ本なんてわざわざいわなくていいのに、
しばりについての性癖を、エロ本からはじめるのがすごい。
読者がもっている酒井順子像と、本人の意識とに
よほどギャップがあって、それをただそうとしてるのだろうか。
ではなくて、酒井さんはほんとにエロ本がすきで、
それはべつだんかくすべきことではないから、
そのまま話題にしているだけにすぎないのだとおもう。
ここらへんは「負け犬」だから「負け犬」といったまで、
というのとおなじ感覚だ。

このインタビューで、なにかとくべつな読書体験が
あきらかになったわけではない。
でも、酒井さんのうけこたえをよんでいると、たしたりひいたりせずに、
そのままの自分をさらしてしまう風格がかんじられる。

紙のほうの『本の雑誌1月号』に、
入江敦彦氏が「”イズム”なき時代のオピニオンリーダー」
という記事をよせている。
酒井さんがあたらしいオピニオンリーダーという指摘だ。

「ブレない姿勢。自分の目で見て事象を判断する知性。
時代に左右されない分析能力。それらに基づく見解と、
そのストレートな表現。はったりのなさ」

入江氏は、落合恵子さんと酒井順子さんに共通項をみいだし、
ふたりのちがいは酒井さんが「イズム」を拒絶していること、としている。
「負け犬」が社会におこした影響をかんがえると、
そんな見方もできるのだろう。
酒井さんは絶対に否定するだろうけど。

posted by カルピス at 16:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月22日

『考える生き方』(finalvent)「からっぽ」はわたしもすきだけど、もうひとつものたりない

『考える生き方』(finalvent・ダイヤモンド社)

「シゴタノ!」の倉下忠憲さんが、
メルマガですすめておられた本だ。
55歳になったfinalvent氏が、自分の人生をふりかえる。

「自分の人生はなんだったんだろうかと思うようになった。
なんだったか?
からっぽだった」

と、かなりしょぼいでだしだ。

「自分の人生はからっぽになるだろうというのは、
20代のころうすうす気がついていた。
30代になって、たぶんそうなるんだろうという
確信のようなものが芽生えた。
40代になって、ああ、からっぽだという実感があった」

本文でもずっと自分のからっぽさを強調しつづけている。
大学院を中退し、仕事についてもながくつづかず、
大学院に復学し、でもまたとちゅうでやめ、と
「からっぽ」についてちょっと自信のあるわたしは、
なんだか自分のことのようにおもえてくる。
もちろん、よんできた本や大学でまなんだことなどは、
どれもわたしよりずっと上等で、
上等なだけにかかえるなやみもふかい。

ただ、からっぽといったって、
「ふつう」に就職して、定年までつとめていないだけで、
ずっと仕事をしてきたわけだし、
36歳のとき10歳とししたの女性と結婚し、
4人の子どもにめぐまれと、
それはそれで一局の人生だったようにみえる。

実務力のあるインテリが、一流企業にはつとめなかったけど、
はたらくこと・家族とともに生きることをつうじて
自分に誠実にむきあってきた記録であり、りっぱな人生だとおもう。
ただ、よんでいてつよいインパクトがあったかというと、
あんがいそういうわけではなく、
意外とあっさりよんでしまった。
難病をかかえるという、たいへんな経験をされてもいるが、
なにかきらめくことをやりとげたわけではない。
そこらへんが著者のいう「からっぽ」ということなのだろう。
「からっぽ」でも、頭のいいひとは
こんなふうにするっと生きれるのかと、
あらゆる面においてたかい能力をもたないわたしからすると、
うらやましいようなはなしだ。

これだけの知識人でも、「年をとることで、一番つからったのは」
ハゲることだった、というところが意外といえば意外か。

「なぜ世界が存在するのか」よりも、
容姿の問題のほうがずっと哲学的な難問」

なのだそうだ。
たしかにそうしたとらえかたもできるかもしれない。
でもまあ、それにしても平和で平凡ななやみだ。
からっぽを強調するfinalvent氏らしいかもしれないが、
よんでいて、もうひとつものたりなかった。

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2013年12月21日

「世界自転車探検部」筒井道隆ベトナム自転車の旅 すばらしい筒井さんのこぎっぷり

NHK-BS「世界自転車探検部」をみる。
筒井道隆さんがベトナムのハノイを出発し、
北部の「天国の門」とよばれる峠にむけて700キロをはしる。
わたしは自転車と旅行がすきなので、
この番組は「旅もの」のなかでもたのしみなシリーズだ。
今回の筒井道隆さんのはしりは、ロードレースの選手をみているようで
(じっさいにレースにもでられているという)めちゃくちゃいいかんじだった。

自転車というのりものは、それなりの自転車にまたがって
ヘルメットとサングラスをつけると、
どんなひとでもそれなりにきまってしまう。
でも、あたりまえながら、はしりはごまかせない。
筒井さんは、自転車をじょうずにゆらしながら
延々とつづく坂道をかけあがっていく。
ハアハアと息をあげながらも、
ここちよい運動をたのしんでいる余裕がある。
自転車のうごきとふくらはぎの筋肉が、
筒井さんの実力をものがたる。

「旅もの」企画のおもしろさは、土地のひとの日常生活に、
おとずれる側の非日常性がどうからまるか、にある。
毎日のくらしのなかにいれてもらうのだから、
それなりの「人格」がなければ、自然な雰囲気をつたえられない。
筒井さんの人柄は、ベトナムのひとたちからスッとうけいれられ、
うけいれる側のくらしが、
いかにも地に足のついたすてきなものにみえてくる。
こうやって、よくはたらいて、家族と笑顔ですごすことが
生きるということなんだ、なんて納得したりする。
リゾート地やうつくしい自然を紹介する番組もいいけれど、
わたしがすきなのは今回のようにおとずれるさきの日常性を
じょうずにひきだしている企画だ。
あくまでもおじゃまさせてもらっているわけで、
土足でむこうのくらしにふみこんではならない。
それでいて恐縮しすぎない筒井さんの自然なふるまいが気もちよかった。

筒井さんがたちよる少数民族の村で、
土地の料理や酒をふるまわれ、おまつりにであい、
むかしからつたわる衣装をみせてもらう。
道ばたでハチミツをとっているひとたちは、
仲間といっしょにはたらいていることがとてもたのしそうだ。
おそろいの作業服ではなく、それぞれが自分にあった格好で、
仕事とあそびがいっしょになったみたいにいい顔をしている。
こうした日常性が、みている側にはたまらない。
その輪のなかにいれてももらったときに、
まったく違和感なしにとけこめるのが筒井のふところのふかさだ。
ムリやり感激したりほめちぎったりはせず、
口にする感想がとても自然だ。
こんなひとが自分の町にくれば、
なんとか自分たちのやり方で歓迎したいと、だれもがおもうのだろう。

筒井さんは、あのいかにものりこんできた自転車にまたがって、
どこまでもいってしまえそうだ。
筒井さんと自転車との一体感がすばらしかった。

posted by カルピス at 16:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月20日

『アグルーカの行方』(角幡唯介)装備一覧表が気になる探検記

『アグルーカの行方』(角幡唯介・集英社)

2人の日本人、角幡唯介さんと荻田泰永さんが
北極圏をソリをひいてあるいた記録だ。
1845年にイギリスのフランクリン隊は、
ヨーロッパとアジアをむすぶ北西回路の発見を目的とした探検にでかけ、
129人全員死亡という悲惨な結果をのこしている。
この探検隊とおなじ季節におなじコースをたどることで、
フランクリン隊にいったいなにがおきたのかを、
追体験しようというこころみだ。

当時としてもありえない大規模な犠牲をうんだフランクリン隊が、
この北極圏でなにをみたのかを角幡さんはしりたかったという。
地理的な空白をうめるわけでも、
はじめてのコースにいどむわけでもない2人の探検を
どう評価したらいいのか、わたしにはわからない。
現代文明の装備をもってしても、
冬の北極圏を徒歩ですすむのは
おおくの危険がともなうきわめて困難な活動であり、
2人は乱氷帯になやまされ、シロクマの出現におびえ、
食料不足からうえにくるしむこととなる。
フランクリン隊になにがおこったかにせまるには、
徒歩というスタイルがもっともふさわしい方法だったのだろう。

こういう探検や冒険の本をよむと、
いったいどんな装備でのぞんだのかがわたしは気になる。
角幡さんたちは、100キロをこえる荷物をソリにのせたというけど、
はげしい労働をしながら60日を2人がすごすのに、
100キロという荷物はかなりすくない量といってよい。
おもいとソリがうごかないので、
もっていくものをギリギリまでしぼったのだろうけど、
ではなにをどれだけもっていったのかがしりたいところだ。
食料と燃料だけでもそうとうな量になるはずで、
ほかにも記録の機材とか、テント・寝袋など、
どんなかんがえでなにをえらんだのかおしえてほしかった。

たとえば、植村直己さんが北極圏を探検したときは、
冬用の羽毛の寝袋を2つかさねてつかっている。
化繊のものではさむくてたえきれないとかいてあった。
しかし、その後化学繊維の改良がすすめられたようで、
角幡さんがつかったのは

「氷点下四十度まで使える、たたんでもビア樽みたいに巨大な
化学繊維の素材のものだった」

「羽毛は濡れてしまうと、それまでの温もりは何だったのかと思うぐらい
保温力が低下するが、
化学繊維は濡れてもそこまで寒くならない。
極地探検のように長期にわたる旅で
羽毛より化学繊維の寝袋の方が信頼が置けるのは、そのためだ」

と、植村さんのころとはまるでちがったとらえ方がされている。

食料についての記述も興味ぶかい。
おもいソリをひくのは、いちじるしく体力を消耗するので、
2人はいちにちに5000キロカロリーをとりつづける必要があった。

朝ごはんは
「韓国製の即席ラーメンに、高カロリーのペミカンを百グラム、
それにサラミやソーセージなどの加工肉を少々、
あとは乾物などを加えたもの」
とあり、これだけで計算上1300〜1400キロカロリーになるのだそうだ。

典型的な夕食は
「アルファ米やパスタをカレーやシチューで味付けし、
それにペミカン、ソーセージ、乾物、バター、チーズなどを加え(中略)
ひとり分で直径20センチ、深さ10センチほどの鍋がいっぱい」
という料理で、これだけで2700キロカロリーになるという。

いちにちに5000キロカロリーという膨大なエネルギーをとっても
はげしい活動を保障するにはじゅうぶんでなく、
2人はしだいにやせていき、慢性的なうえになやまされることになる。

「今、ケンタッキーに行ったら、
すいません、150ピースください、
とか言っちゃうだろうな」

さむさと疲労と、おなかをすかせることに我慢できないわたしには、
よんでいるだけで、さむさと疲労とうえを追体験できた。
探検としての意義をおさえながら、
400ページをおもしろくよませる構成と筆力を評価したい。

posted by カルピス at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月19日

『自閉症という謎に迫る』 TEEACH側の反論がたのしみ

『自閉症という謎に迫る』
(監修:金沢大学子どものこころの発達研究センター・小学館新書)

自閉症についてかかれた本はおおく、
よんでもよく理解できないこともあって、ほとんどかわななくなった。
しかしこの本は、サブタイトルに「研究最前線報告」とあり、
本屋さんでざっと目をとおすと、
自閉症といえば常識ともなっているTEEACHや構造化のことが
否定的にあつかわれているようだ。
いまの「権威」にたいして異議もうしたてをしている
刺激的な内容なのかもしれない。
この本にたいし、TEEACHをすすめる側のひとたちが
どんな反応をしめすのかも興味ぶかいので、よんでみる気になった。

いまおこなわれている自閉症への支援では、
ほんとうの意味で理解がふかまったとはいえないにしろ、
TEEACHによるかんがえ方が一般的になっている。
それをこの本は、
「効果が実証されていない」と
はっきりと否定したみかたをうちだしている。

「ここで問題になるのは自閉症に関する療育技術に
ほとんど効果は実証されてないことだ。
ノースカロライナ発祥のTEEACHは、
手順表・単刀直入の指示・予定・メモ・生活環境の構造化など
濃密な自閉症サポートがなされ、
確かに総体として効果を上げている。
が、それを違う文化に部分移植するのは問題だ。
日本で大流行のTEEACHの技法の一つ視覚的構造化自体には、
本家ですら効果が実証されていない」

さらに

「ロバースに始まる応用行動分析(ABA)は
アメリカ厚生省が唯一公認している技法だが、
長期予後は確認されていない。(中略)
これらの他にもフロアタイム、ソーシャルストーリー、
SSTなどがもてはやされているが、どれも検証された効果はない」

とつづく。
ではどんな方法が効果的かというと、

「アメリカで効果が実証されつつあるのは、
親子の相互作用を自然に充実する技法、
社交を中心とする小集団活動だ」

とある。
そういわれると、それがほんとうかどうか
研究者でもない人間にはなかなかたしかめにくい。
自分がこれまでつちかってきた「カン」にたよって
「そうなのか」とすなおに納得するか、
「そんなわけはない」と反発するか。
わたしは「しんじられない」というおもいをもった。

自閉症の障害特性のために、
社会で生きにくさをかんじている本人や家族にとって、
たとえばTEEACHによる支援は
おおきな成果をあげてきたとわたしはとらえているし、
もっとひろく、一般的なものにしていくとりくみが必要だとおもっている。
そうしたこれまでの「成果」について、
この本はあまりにもかんたんにきりすており、
これまでの実践にたいするリスペクトの精神がかけている。

この本は

「『自閉症』に対して、精神医学、遺伝学、脳科学、心理学、社会学という
異種多分野からのアプローチで、
自閉症にまつわる謎に迫ろうとするものである」

と「はじめに」でのべられており、
自閉症にはどんな支援が効果的かについてかかれたものではないことは理解できる。
それにしてもよみにくく、おもしろみがなかった。
それぞれの専門の分野について、しろうとにもわかるように
かく側はもっとつたわる工夫をしてほしいものだ。

第1章の「自閉症は治るのか」には、

「本人や家族は困って病院や相談所を訪れるので、
治そうとする試みがどうしても必要です」

という文章が登場する。(P69)
本文の趣旨がどうあれ、なんて奇妙な文章だろう。
第1章を担当している棟居俊夫氏は、
おおかれすくなかれ、このようにわかりにくい記述がおおく、
ていねいによもうという気もちをうばっていく。
つたない文章だから内容がまちがっている、
といいきれるだけの専門性はわたしにないけれど、
このわかりにくさはそうとうなものではないか。

わたしには、本書が目的とした「自閉症という謎」に
内容がどれだけせまっているか、まったく理解できず、
これまでのとりくみを無神経に否定されたような不快感がのこった。

posted by カルピス at 19:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月18日

チャコを病院へ

ネコのチャコを病院へつれていく。
きょうで4日連続だ。
それまでも症状はあったものの、
1週間まえからきゅうにうごけなくなる。
腎不全と糖尿病と、それだけではなくて
これだけきゅうに容態がすすむのは、
なにかほかに原因があったのだろう、といわれている。

ほんのすこしまえまでげんきで、
ごはんもたべすぎるぐらいたべてたのに、
いまではすっかりちがう姿となったチャコをまえに、
わたしはとほうにくれる。
おもいもかけぬ「みとり」の段階に、
あまりにもきゅうにはいってしまった。
げんきだったころのチャコをなにかにつけておもいだし、
こんなにかわってしまったことがしんじられない。
夜ひざのうえにチャコをかかえてからだをなでる。
いったい日本じゅう、世界じゅうで、どれだけのひとが
こうして家族をみとっているのだろう。

いつもながら、いのちにかかわる病気やケガを目のまえにすると、
大切なのはお金やものではないことをおもいしらされる。
毎日の平凡な日常生活こそ、なによりもわたしには必要だったのだ。
日常生活は「いま」のつみかさねだ。
いまのチャコ、いまの家族、いまの自分。
かつての「いま」を大切にしなかったと、
いま後悔してもどうにもならない。
まったくかわらない、おなじことの連続におもえる生活の、
たわいのないやりとりこそがしあわせなのだ。

チャコになにがおこったのか、
ほんとうのところはわからない。
なにかわるいものをたべたのかもしれないし、
それまでひそんでいた症状がきゅうにあらわれたのかもしれない。
もっとはやくチャコの変化に気づいていたら、
と自分をせめる。
そのいっぽうで、こうしたこともふくめての
ネコたちとの生活とおもっている。

ピピもチャコも、自由に外にでかける生活をおくっている。
外にでたいというネコたちの要求はあまりにもつよい。
獣医さんへネコたちをつれていくたびに
「外にはださないほうがいい」といわるけれど、
緊急時をのぞいて「ではいり自由」のままだ。
彼らの自由をうばってしまうのは、あまりにももうしわけない。

家にとじこめればケガや病気はふせげるだろうが、
ネコたちの自由をおもうとふんぎりがつかない。
ケンカからケガをしたり、病気をもらってくるリスク、
つまり寿命がみじかくなるリスクをうけいれて、
まいにちをネコらしくすごしてもらったほうが、
彼らはしあわせではないだろうか。
でもそれは、わたしのよわさであり、
きれいごとであり、たてまえであるともいえ、
その代償は、今回のようにずいぶんくるしいものだ。

深刻ぶった顔をせず、チャコの状況をうけいれるよう
自分にいいきかす。
このリスクをわたしは承知し、
そのうえで日常をいっしょに生きようときめたはずだ。

でも、そんなたてまえをとなえてみたところで、
胸のざわつきはおさまらない。

posted by カルピス at 13:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月17日

『フツーの子の思春期』(岩宮恵子)「ふつう」とはちょっとちがう「フツー」の子

『フツーの子の思春期』(岩宮恵子・岩波書店)

いまどき(死語か?)の子どもたちは
以前の「ふつう」の子とはいろんなところがちょっとちがう。
そのちがいをあらわしたのが「フツー」であり、
フツーなのだけど、こちらがもっている
これまでの常識がつうじない子が「ふつう」にいる。
なにをたずねても「別に〜」「びみょ〜」「フツー」
という返事がかえってくるだけで、つかみどころがない。
「フツー」と「ふつう」は、どんなところがちがうのか、
いまの「フツーの子」はどんな思春期をおくっているのかを
この本はていねいにときあかしている。

思春期の子にとってのジャニーズとか、
中高年女性が『冬のソナタ』にはまるのはなぜか、
という章もあり、いずれも興味ぶかい内容だけど、
わたしがいちばん関心をひかれたのは
最終章でとりあげらえている、
心理療法において、発達障害をどうとらえるかという
岩宮さんのとまどいだ。

障害をもった子への支援を仕事としているわたしにとって、
発達障害は日常的に耳にすることばであるし、
職場にくる子どもたちも発達障害とよばれる子がおおい。
こだわりがあったり、社会性がそだってなかったり、
コミュニケーションがとりにくかったりすると、
すぐに「発達障害」と名前をつけてしまい
ひとつのジャンルにおしこむと、
それでもうわかったような気になっている。
その気になれば、ちょっとかわったひとは
みんな発達障害におもえてくるし、
いぜんかかわった個性的なひとのなかにも
「発達障害」という概念をもちこむと
納得できるひとがおおい。
発達障害というレッテルはりは、
あまりにもつよいちからもっているので、
とりあつかいにはじゅうぶんな配慮が必要なのだ。

「学校現場で会う人たちのなかに、
特に軽度発達障害の傾向ありとして見ることができる人が
非常に多いことがわかってきた。(中略)
でもそれは、自分の内面で悩みを抱えたり、
葛藤に苦しんだりするような意識のもち方とは違う意識が
若い世代に芽生えてきているがゆえの問題として
捉えることができる場合もあるのでは」(岩宮)

「近代の意識から考えるとあまりに不自然なので
『障害』としか思えないような意識が存在している可能性につても
考えていく必要があるように思うのだ。
でもそれが、近代の意識とは違うからといって、
必ずしも新しい意識とは言えないのではないかという気もする。(中略)
新しいというより、実は『超古い』んじゃないのか」(岩宮)

いまどっとふえてきた発達障害の子を「ニュータイプ」としてではなく、
「超古い」のかもしれない、というみかたをすると、
障害というよりも「意識のちがい」の範囲内のようにとらえられる。

「意識のあり方が、以前とは変わっている子が増えてきていると
考えたほうが適切なのではないか」

という岩宮さんの提案が、いまの段階では
発達障害についての適切な距離感におもえる。

posted by カルピス at 19:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

いよいよ「天声人語」に鷹の爪登場

けさの天声人語(朝日新聞の1面にある看板コラム)は、
「きのう、東京の日本橋にある島根県のアンテナショップ
『島根館』に行った」
というかきだしとなっている。へーとおもいながらよんでいると、
なんと、鷹の爪の自虐カレンダーがとりあげられていた。
来年のはうりきれていたので、見本をながめたのだそうだ。
表紙の「2200年は、島根に誘致!」が紹介されているほか、
以前のカレンダーから「島根って、鳥取のどの辺?ってきかれた」
「本社どころか、支社も少ない」など、
自虐カレンダーとはなにかがわかる例があげられている。
コラムのむすびは
「自分で自分を笑う。心に余裕のある大人でないと
できることではない。
自慢よりずっと上等である」
となっており、自虐ネタについて人語氏は肯定的だ。

ほんとうは、この記事は鷹の爪についてひとこともふれられていない。
あくまで「47番目に有名な」島根県ならではの、
戦略的な自虐ネタを紹介した記事だ。
鷹の爪の世界征服や、このごろほぼ主役となりつつある吉田くんについて
ふれてほしかったけど、朝日新聞の顔ともいえる人語氏としては
そこまでふみこむわけにはいかなかったのだろう。

わたしとしては、天声人語をとくべつな存在として
あがめているわけではないが、
その圧倒的な影響力をじゅうぶん承知しており、
けさのこの記事は感慨ぶかかった。
世界征服の第一歩という表現も、
あながちおおげさではない大事件かもしれない。

天声人語といえば、よくもわるくも天下の大朝日の看板コラムであり、
かたすぎてとちゅうでなげだすこともときどきある。
「◯月◯日の天声人語は、
けっきょくなにがいいたかったのでしょう」
など、質問コーナーをにぎやかしているし、
名文の例として、毎日の天声人語をそのまま
かきうつしているひともおおいという。
すき・きらいがわかれる、というか、
あまりにも権威がありすぎて、
天声人語ファンのひとに鷹の爪の説明をしても、
おそらくじゅうぶんな理解をえるのはむつかしいとおもう。
今回の記事を自虐カレンダーの紹介にとどめたのは
いたしかたのない適切な判断なのだろう。

「鷹の爪の吉田くんが・・・」と、
一字一句をまじめにうつしていくのも、
なかなかシュールですてがたい光景であり、
島根県にしか提供できない世界だ。
そしてその光景は、すでに天声人語の世界を逸脱している。

posted by カルピス at 22:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月15日

よみごたえのある『本の雑誌1月号』2013年度のベスト10

『本の雑誌1月号』は2013年度のベスト10が特集されている。
全体のベスト10にくわえ、SFとミステリーのベスト10、
それに、50人のライターによる「私のベスト3」と、
よみごたえのある特大号だ。
『おすすめ文庫王国』はかたすかしだったけど、
この1月号は本ずきのあつい気もちがつたわってくる。
何冊もの本をよんでみたいという気にさせてくれた。

社内での検討会で、

「本を評価するのに、ベスト1とか
本屋大賞とかいろいろあるんですけど、
そういうのは全部、しょぼいんですよ。
最高の本に捧げられるのは、無人島本なんです」

と担当者のひとりがきゅうにかたりだし、
その無人島本がきまったといわれると、
よまないわけにいかない。

べつの本を

「もう最初の数ページを読んだだけで
涙がでるほど嬉しかった。
これだこれだと。
お姉さんと妹、お姉さんの旦那とその部下の四人がカフェをつくって、
という話なんですけど」

と紹介されると、これもまたよんでみたくなる。
ことしの座談会は、各ジャンルに目くばりがきいているし、
自分がえらんだ本のどこがおもしろいのかについて、
説得力のある説明がくわえられている。

ベスト10のなかにわたしがよんだ本は1冊もなく、
本がすきというわりには
一般常識的な範囲さえおさえていないことを自覚する。
仕事に時間をとられすぎなのだろう。

宮田珠己さんが紹介する
『みんなの空想地図』(今和泉隆行・白水社)におどろいた。
これは、著者が空想する「中村市」についての架空の地図の本だ。
著者の今和泉さんは、

「バスの車体のデザインやら、コンビニのロゴに至るまで
あらゆるものを自作しており、
そんなに情熱注いで現実世界に復帰できるのか」

と宮田さんが心配するほどむこうの世界に「いっちゃってる」ひとで、
「会社員をしようとIT企業に就職しますがその会社を退職し、
いよいよ私は説明のつかない人になってしまいました」
という「わからなさ」に魅力をかんじる。
こういう「なんのためになるのか」ぜんぜんわからない本がかかれ、
出版されたことをよろこびたい。

「おじさん三人組、ダ・ヴィンチ編集部に行く!」
というシリーズ企画もいいかんじだ。
書評誌の本家として、ライバル社のホームにのりこもうというのだから、
「敵」ではなく、本と出版をささえる仲間という意識があるのだろう。
「ダ・ヴィンチ」の対象は
「まだそんなに本にははまっていない、より一般人な人」
なので、「本の雑誌」とはすみわけができているのかもしれない。

わたしの2013年ベスト5は

・『ぼくのメジャースプーン』(辻村深月)
・『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行)
・『転がる香港に苔は生えない』(星野博美)
・『学問』(山田詠美)
・『卵をめぐる祖父の戦争』(デビッド=ベニオフ)

辻村深月さんと星野博美さんの本にであえたことが
記憶にのこる年となった。

posted by カルピス at 14:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月14日

お経をたのしくきく工夫より、きいて意味のわかるお経のほうがいい

きょねんなくなった義母の一周忌のため、
配偶者の実家へでかける。
いつもながら「ありがたいお経」は
きいていても意味がわからない。
お寺の行事は、とりとめのないことを
頭のなかでひねくりまわしてすごすくるしい時間だ。

『ブータン仏教からみた日本仏教』(今枝由郎・NHKブックス)をよみ、
自分たちのことばにお経を翻訳していないのは日本だけ、
ということをしった。
どんなおしえであるのか、わかったうえでありがたがるのではなく、
ただお経の雰囲気によっているだけなのだ。
「日本だけ」ということは、かならずしもわるいことではないが、
この場合、意味もわからずありがたがってきいているのは
あきらかにこっけいである。
「日本だけ」になにか特別な理由があるのだろうか。

きょうの法事では、はじめにお寺さんが
「ひとの一生はながいようでみじかく・・・」
みたいなことを多少かたぐるしいけれど、
きいてわかることばではなされる。
そうそう、これでいい。やればできるのだ。
でも、そのあとは「これからが本番」みたいなかんじで、
外国語によるお経(つまりふつうのお経)となった。
きいていても意味がわからないので
ただ我慢しながらひたすらおわるのをまつ。

なくなった義母の生前をしのぶのに、
ほんとうのところ、そう時間はかからない。
のこりの膨大な時間をどうすごすか。
きょうの法事にこられたひとばかりでなく、
日本中でおこなわれている葬儀や法事でお経をきいているひとたちは、
いったいなにをおもっているのだろう。
意味がわからない言葉をずっときいているときに、
どうすごすのが正解なのか。

明石家さんまさんが、修行中にそうじをしているとき、
師匠から「そうじはおもしろいか?」
とたずねられたはなしが「ほぼ日」で紹介されていた。
さんまさんが「おもしろくない」とこたえると、
師匠は「そうじはおもしろくないにきまっている。
それをどうやっておもしろくしようかと、かんがえるとおもしろくなる」
みたいなことをいわれたのだそうだ。
お経をきくことがおもしろいわけがない。
おもしろくするにはどんな工夫が有効だろうか。

葬儀や法事から頭をきりかえて想像をはたらかせたり、
おわったあとに自分への「ごほうび」を設定するのは
だれでもおもいつくだろう。
でも、お経そのものに興味がもてれば、
そんなくるしまぎれの工夫は必要ではない。
きいていて意味がわかるお経、
というのがいちばんの解決策なのではないか。

きょうの法事は二部構成で、15分の休憩をはさんで
後半がはじまった。
お経の意味をさぐる努力は放棄して、
なにかひとつのテーマをかんがえようとおもっていたら、
それからの時間は小冊子をいっしょによむ、というやり方になった。
本をひらいても、外国語であることにかわりはないので、
きいていても、よんでみても意味はわからない。
お経とはそういうものだ、ときめつけるのは乱暴な意見である。
なぜいつまでもこのスタイルがかわらないかを
ユーザーであるわたしたちはかんがえたほうがいいし、
お寺もまたお経の権威にあぐらをかくべきでもない。

きいても意味のわからないひとたちにお経をよむお寺さんと、
それを無条件にありがたがるわたしたち。
「王様ははだか」なのではないか。

posted by カルピス at 21:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月13日

『好きなのにはワケがある 宮アアニメと思春期のこころ』(岩宮恵子)

『好きなのにはワケがある』(岩宮恵子・ちくまプリマー新書)

岩宮さんが序章でとりあげているのは『海のトリトン』だ。
『トリトン』の最終回をみおわったあとで、
岩宮さんは強烈な喪失感をあじわう。
もっとも、「喪失感」と気づいたのは高校生になってからで、
まだ12歳だった当時の岩宮さんは

「理屈はまったくわからないけれど、
その最終回を見てから、寝ても覚めても
トリトンのことしか考えられない日々を送るようになった」

という。
このときに自分の身におこった「喪失感」について、
宮ア駿監督作品をテキストに、
思春期という特別な時期から説明したのがこの本だ。

岩宮さんのもとにやってくる子どもたちのおおくが
宮ア駿監督のアニメのはなしをするという。
作品への感想だけでなく、ハクやヤックルへのおもいもつよく、
あんなふうにいってほしい、とか、
あんな存在が身のまわりにいたら、とか
子どもたちはねがっているそうだ。
いったい宮アアニメの、なにが彼らをひきつけるのだろう。

『魔女の宅急便』と思春期はいかにも関係ありそうだけど、
『ハウル』は岩宮さんの手をかりなければ、
表現されている意味をわたしはまったく理解できなかっただろう。
『千と千尋』についての説明も素直に納得できるもので、
こんなみかたもできるのかと、臨床心理士ならではの分析がとてもおもしろかった。
岩宮さんにいわれてみると、『千と千尋』にでてくる人物のおおくが、
思春期をくぐりぬけるのにたいへんなおもいをしていることがわかる。
そして、わたしたちの身のまわりにいる子どもたちも、
おなじように思春期にとまどっているという視点をもちこむと
その行動に合点がいくことがおおい。

「カオナシはなんとなく人がたくさんいる場所には
ふらふらと近づいていくのですが、
自分から一歩踏み出すようなことはまったくできません」

「誰からも嫌われているオクサレサマを見ていると、
学校でときどき見かける、
とてつもなく破壊的な行動をいつもとってしまう
子どものイメージと重なってきます。
学校のルールをいっさい守らず、ありとあらゆる秩序を乱し、
周囲の生徒たちを巻き込んで、投げやりですさんだ雰囲気を作る。(中略)
学校の先生たちも、オクサレサマとどう関わったらいいのか、
どうしたら鎮まってくれるのか、ものすごく考えています」

『好きなのにはワケがある』という本書のタイトルは、
「すきなものはしょうがないだろう」という
一種のひらきなおりかとおもっていたけど、そうではなかった。
そのアニメがすきでたまらないということは、
それなりのワケがあるのだ。

岩宮さんの『トリトン』にあたるのが、
わたしにとっては『未来少年コナン』だった。
もうすぐ大学がはじまるという18歳の春、
再放送で毎日放映されたコナンにわたしはうちのめされた。
最終回がおわったときに呆然となったのは
岩宮さんの『トリトン』とおなじで、
はげしくこころをゆさぶられながらも、
なにが自分の身におこったのかまったくわからなかった。
毎日放送されていたからよかったものの、
これがもし週に1どの放送だったら
わたしはまちきれずになにか問題をおこしたのではないか。
それほど『コナン』をわたしはつよくもとめていた。
『コナン』は、コナンがラナをおもうものがたりだ。
あとで宮崎さんへのインタビューをよみ、
わたしはコナンのように、あいてをつよくおもえるひとになりたい、
というねがいをもっていることがわかった。
なりたいけどなれない。
そのギャップがわたしをいらだたせたのだとおもう。

「『なぜ、あの作品があんなにすきだったのか』を
改めて考えることは、
大人になった自分の原点を見つめ直すことにもなるのです。
そして思春期に、わけもわからず異界をさまよった経験は、
社会のなかでどうやって生きていくのかという
世間知とはまったく違うレベルで、
自分の存在を支えてくれるエネルギーとなります。(中略)
そう。なにかがすごく好きになったとき、
そこには生きていくために必要な、
とっても深いワケが隠されているのです」(岩宮)

『コナン』よりずっとさかのぼる10歳のころ、
わたしは『ルパン三世』の世界にしびれてしまった。
すきだ、というだけでは説明のつかないこころのたかまりを、
わたしははじめて体験した。
このときすでに、わたしのなかになにかのタネがまかれており、
数年後、おなじ宮崎駿作品である『コナン』と『トトロ』に
つよく反応したのは当然のことだったのだろう。
10歳のころにうえつけられた『ルパン』へのあこがれが、
どれだけ決定的なものだったかを、いまさらながらにおもう。

posted by カルピス at 22:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月12日

老化はまあ、それはそれってことで。

ジムのランニングマシーンではしっているとき、
アゴにたるみがあるのに気づいた。
正面にカガミがあって、フォームをチェックするだけでなく、
からだの変化も目にはいりやすいよう「配慮」されているのだ。
アゴのたるみは、よほどふとっていないかぎり、
わかいひとにはみられない。
わかりやすく残酷な老化の目やすだ。
わたしはひとのアゴをよく観察しており、
たるんでいるひとをみかけると
「いやじゃないのかな」なんて失礼なことをおもったり、
自分がそうならないように、あわてて首をそらして
(効果があるかどうかはしらない)、
アゴがたるまないよう「予防」してきた。

このごろ『首のたるみが気になるの』
(ノーラ=エフロン)という本の宣伝をよく目にする。
アゴも首のつづきみたいなものだから、
この本もきっと首にあらわれた老化のきざしをあつかったものなのだろう。
やはり、女性はアゴ(そして首)のたるみにつよい関心があるのだ。

とうとう自分のアゴもたるんできたことに気づいたわたしが
なにをおもったかというと、
「ま、しょうがないか」という意外な達観だった。
歳をとったのだから、アゴがたるむくらいあたりまえだ、
というまさかのひらきなおり。
整形までいかなくても、なにか効果的なマッサージや刺激をあたえ、
しのびよってくる「たるみ」にジタバタするタイプかとおもっていたのに、
ほとんど抵抗なく状況をうけいれられた。

きっと、肥満についてもおなじことがおこるのだろう。
男性でも女性でも、わたしはふとったひとをみると
「なんとかしたらいいのに」と、
余計なお世話ながらいつもおもってきた。
だけど、やがて自分がふとったときは
「ま、中年なんだから、これはこれってことで」と
きわめておんびんにすませるような気がする。
当事者になるまではあくまで他人ごととして
きびしい視線をそそぐくせに、いざ自分がそうなると、
同類としてすぐに正常な範囲としてとらえなおすあたり、
あんがいいやな性格の人間なのかもしれない。
「なかったこと」「みなかったこと」にするのは
以前からわたしの得意技だったけれど
(「ま、いいか」もそうだ)、
まさかからだの変化にも適用できるようになるとは
わたしもおとなになったものだ。

アゴのたるみをすんなりうけいれられた心境の変化について、
そうわるい気はしなかった。

posted by カルピス at 12:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする