ほんとうのことをいうと、ブログにかく記事のほとんどは
ひとことで内容を説明できることがおおい。
それを、かく側の満足のためになんだかんだと
よけいな説明をくりかえしているだけともいえる。
今回の記事がまさしくそうだ。
「小保方さんのかわいさにおどろいてしまった」
これにつきる。
だれがなんといおうと、
「STAP細胞」の新発見がもてはやされたのは、
その内容の斬新さにおどろいたことよりも
小保方さんのかわいさに世間がもうびっくりしてしまったのだ。
あとはつけたしのようなもので、
研究にとりくむ一途な姿勢とか、
キャラクターデザインをたのしむユニークさとか、
割烹着にみる古風な面とか、
デートのときにも研究のことをかんがえていたとかは、
小保方さんのかわいさにおどろいた取材側が、
記事の体裁をつくろうためにあわててかきあつめた「話題」にすぎない。
本来なら、発見の内容をわかりやすく解説すればいいだけのはなしなのに、
小保方さんの「かわいさ」にはふれないで、外側をひっかこうとする。
これらの記事がいいたいのはそんなことではなくて、
「小保方さんはかわいい」でしかないわけで、
「かわいい」とストレートにはかかれていないけれど、
その気もちが行間からあふれでている不思議な記事だ。
わたしは小保方さんのひととなりをぜんぜんしらないし、
声もきいたことがないけれど、
彼女がものすごくかわいいことはわかる。
そのうえに研究者であり、そして世紀の大発見だ。
メディアがさわがないわけがない。
でも、きっと小保方さんはこれまでずっと
「かわいい」といわれつづけてきただろうから、
そうした世間の反応への対応はなれたものだろう。
なにしろ科学者なのだ。
科学的に、シンプルな方程式によって、さらっと処理されるにちがいない。
女性の容姿についてかくのは、
あまりにもデリケートな部分であり、
なぜ女ばかりにそんなことをかくのか、男はどうなんだ、
みたいな正論にどうしてもたちうちできないし、
女性から支持をえる発言とはなりにくい。
でもまあ、小保方さんぐらい議論の余地のない
圧倒的な「かわいさ」のまえには、
男だろうと女だろうと、
「こんなすてきなひとがたいへんな発見をした」と
素直におどろくしかないのではないか。
小保方さんの写真がウェブ上にでたときから、
こりゃおおさわぎになるだろうなーとおもっていたら、
ほんとうにそうなった。
これぐらい予想がはずれたことはないけれど、
予想がはずれるわけのない、あまりにもゆるぎないかわいさだったのだ。
科学雑誌「ネイチャー」に論文を投稿したさいに、
「『あなたは、過去何百年にわたる細胞生物学の歴史を愚弄(ぐろう)している』
というふうに返事をいただきました」
というエピソードが、いまとなっては新発見を評価する、最高の宣伝コピーだ。
小保方さんのかわいさについては、
これからなにか決定的なコピーがうまれるだろうか。
「カワイイ」しかないとわたしはおもうけど。
2014年01月31日
2014年01月30日
そうじであつまるゴミの量は、つねに一定であるという法則
何年かまえからわたしの家事分担として、毎朝ゆかそうじをしている。
棒ぞうきんでゆかをふき、そのあとほうきでごみをあつめる、
という単純なやりかたを毎日くりかえしており、
そのたびにおどろくほどのゴミがあつまる。
うちには2匹のネコがいるので、
ペットがいるとさすがによごれるものだと、感心していた。
ロボット型のそうじ機は、ペットのいる家庭を
ターゲットにしているときいたことがある。
ペットのいる家はどこもこうしたゴミになやまされているのだそうだ。
それが、数週間まえにチャコがいなくなったにもかかわらず、
あいかわらずおなじ量のゴミが毎朝あつまってくる。
ネコがうみだすゴミだとおもっていたのに、
1匹がいなくなったからといって、
ゴミが半分になるわけではないようだ。
しかし、こんどは母が入院し、さらに家族の人数がへった。
4人と2匹だったのが、3人と1匹になったのに、
ゴミの量はあいかわらずかわらない。
ときどきそうじをさぼったときは、
2日分のゴミになるかというと、そうでもないようだ。
あいかわらずあつまるゴミの量は一定である。
すこしまえなら家にすむ妖精のしわざかとおもうところだけど、
さすがにそれは検討の対象からはずしてもいいような気がする。
いったいゴミの量は、なにによってきまってくるのだろうか。
ここにきて、どうもゴミの量は家族の人数には関係せず、
つねに一定の量があつまる、という法則があることにわたしは気づいた。
すんでいるひとや動物がごみを生みだすのではなく、
そうじがごみをつくりだしているのだ。
むかしのヒゲソリのCMで、通勤ちゅうの男性サラリーマンに、
ヒゲソリ器をためしてもらう、というのがあった。
家でヒゲをそったばかりなのに、そうとはおもえないほど
たくさんのヒゲがそれ、男性が感心する、というやつだ。
わたしがそうじとゴミの関係についてかんじるのは、だいたいこれにちかい。
そうじをすればゴミがでるのだ。
この法則は、ほかの場面でも適応できないだろうか。
ゴミの量は、ひとの人数によってきまるのではなく、
ゴミをあつめるかどうかに左右されるので、
市町村のごみ処理態勢は、人口にかかわらず
つねに一定規模が必要なのではないか。
もちろん大都会と限界集落をくらべてもしかたがないけれど、
ある規模までは、この法則が有効なはずだ。
都市計画をたてるときに、ゴミ処理施設は
つねに一定規模を確保する必要がある。
もしかしたら、そうじはしてもしなくてもかわらないのではないか。
だれもすまない家でも、
そうじをしたら一定量のゴミがでるかもしれない。
やればやるだけあつまってくるのがゴミの本質であり、
そうじによってその本質をかえることはできない。
そうじとゴミの関係について、
ちょっとちからずくだけどかいてみた。
これこそがブログのだいごみかもしれない。
棒ぞうきんでゆかをふき、そのあとほうきでごみをあつめる、
という単純なやりかたを毎日くりかえしており、
そのたびにおどろくほどのゴミがあつまる。
うちには2匹のネコがいるので、
ペットがいるとさすがによごれるものだと、感心していた。
ロボット型のそうじ機は、ペットのいる家庭を
ターゲットにしているときいたことがある。
ペットのいる家はどこもこうしたゴミになやまされているのだそうだ。
それが、数週間まえにチャコがいなくなったにもかかわらず、
あいかわらずおなじ量のゴミが毎朝あつまってくる。
ネコがうみだすゴミだとおもっていたのに、
1匹がいなくなったからといって、
ゴミが半分になるわけではないようだ。
しかし、こんどは母が入院し、さらに家族の人数がへった。
4人と2匹だったのが、3人と1匹になったのに、
ゴミの量はあいかわらずかわらない。
ときどきそうじをさぼったときは、
2日分のゴミになるかというと、そうでもないようだ。
あいかわらずあつまるゴミの量は一定である。
すこしまえなら家にすむ妖精のしわざかとおもうところだけど、
さすがにそれは検討の対象からはずしてもいいような気がする。
いったいゴミの量は、なにによってきまってくるのだろうか。
ここにきて、どうもゴミの量は家族の人数には関係せず、
つねに一定の量があつまる、という法則があることにわたしは気づいた。
すんでいるひとや動物がごみを生みだすのではなく、
そうじがごみをつくりだしているのだ。
むかしのヒゲソリのCMで、通勤ちゅうの男性サラリーマンに、
ヒゲソリ器をためしてもらう、というのがあった。
家でヒゲをそったばかりなのに、そうとはおもえないほど
たくさんのヒゲがそれ、男性が感心する、というやつだ。
わたしがそうじとゴミの関係についてかんじるのは、だいたいこれにちかい。
そうじをすればゴミがでるのだ。
この法則は、ほかの場面でも適応できないだろうか。
ゴミの量は、ひとの人数によってきまるのではなく、
ゴミをあつめるかどうかに左右されるので、
市町村のごみ処理態勢は、人口にかかわらず
つねに一定規模が必要なのではないか。
もちろん大都会と限界集落をくらべてもしかたがないけれど、
ある規模までは、この法則が有効なはずだ。
都市計画をたてるときに、ゴミ処理施設は
つねに一定規模を確保する必要がある。
もしかしたら、そうじはしてもしなくてもかわらないのではないか。
だれもすまない家でも、
そうじをしたら一定量のゴミがでるかもしれない。
やればやるだけあつまってくるのがゴミの本質であり、
そうじによってその本質をかえることはできない。
そうじとゴミの関係について、
ちょっとちからずくだけどかいてみた。
これこそがブログのだいごみかもしれない。
2014年01月29日
『炭水化物が人類を滅ぼす』(夏井睦)穀物栽培は、人類にとって悪魔だったかもしれない
『炭水化物が人類を滅ぼす』(夏井睦・光文社新書)
『傷はぜったい消毒するな』の作者による
糖質制限についての本だ。
「◯◯するな」みたいな断定的なタイトルはすきではないし、
本書にしても短絡的なきめつけのにおいがする。
こういうタイトルの本は、たいていはさけてとおるけど、
人類がなにをたべて進化してきたかについて、
わたしは以前から興味があった。
ながい人類の歴史のなかで、いまのように穀物をたべるようになったのは、
ごく最近のことでしかない。
それなのに、「欧米型食生活」とか
「ふくるからつたわる日本食」みたいないいかたが、
既成事実として幅をきかせている。
ほんとうのところ、人類はなにをたべてきたのだろう。
結論からいうと、この本はすごくおもしろかった。
炭水化物をとらない食事にしたところ、
著者は半年で11キロもやせたのだそうだ。
あまりにも絶大なダイエット効果があるので、
同性にはよんでほしくない、女性のためにかいた、
と冗談めかしてかいてある。
断定的ないいかたはすきではないけれど、
この作者の場合は芸の域にたっしており
いやみがない。
きびしい糖質制限でなくても、
夕ごはんだけ炭水化物をやめた食事にするだけでも効果があるといい、
ダイエットはともかく、二日よいもなくなるというからためしてみたくなる。
肉はすぐに消化されるのにくらべ、
炭水化物は胃にながくとどまるのだそうで、
ごはんやラーメンをたべなければ二日よいをしないのは、
論理的にもあきらかだという。
そういった、週刊誌の三面記事みたいなかるい話題でひきつけておいて、
やがて糖質制限がもたらす意味や、
人類が穀物をたべるようになってからの変化、
また、炭水化物は本当に人間のからだに必要なのかという、
これまであまりにも当然とおもってきた事実へのきりこみがはじまる。
穀物生産は、人類にとってパンドラの箱をあけたのかもしれないのだ。
糖質制限は、糖尿病についても効果があるという。
血糖値をあげるのは糖質だけなので、
炭水化物をとらなければ糖尿病にもならないし、
なっていたとしても、治療法として有効ということだ。
しかし、糖尿病学会など、いまのしくみでお金をえている側は、
当然ながら糖質制限に反対する。
糖尿病というと、まずカロリーをおさえる食事療法で、
それでだめなら内服薬にすすみ、そしてインシュリンへ、
というのが標準的な治療法になっている。
糖質制限という治療法では薬もインシュリンもうれないし、
自分たちのありがたみがないので、
既存の権威がだまっていない、という構造的な障害が指摘されている。
つぎに、糖質、つまり炭水化物を、地球の水や食糧という、
資源の面からみたらどんなことがいえるだろう。
人類は、乾燥した大平原に地下から水をくみあげて小麦をそだてている。
その水はけして無尽蔵ではないし、塩害も深刻になってきている。
また、食糧がたりないといいながらも、
畑でそだてたトウモロコシなどを、牛や豚に飼料としてあたえている。
こうした非効率が、いつまでゆるされるだろうか、という問題が、
これから現実になってくるというのだ。
人間の脳に穀物があたえた影響も興味ぶかい。
「おそらく動物にとって、食とは『楽しみ』とは無縁のもの」
という指摘から、動物と人類との「食」のちがいに気づかされる。
ペリカンやオットセイが魚をまるのみにしているとき、
おそらく「おいしい」とはおもっていないだろう。
彼らにとっての食は、純粋にエネルギーをえるための活動だ。
しかし、人類は「食」に「楽しみ」という価値をみいだすようになった。
これは、脳がおおきくなったことで、「おいしい」「たのしい」に
価値をおくようになったことと関係があるのだろう。
人類は脳の進化により、ある時点で
動物とは決定的にべつの道をあゆむことになった。
さとうや穀物のあまさを、快楽としてうけとめるようになった人類が、
それまでの数百万年というながい歴史をすて、
たかだか1万数千年というわずかな間にここまで変化したのは、
脳の発達による必然というべきだろう。
人類にとって、穀物生産とはなんであったか。
「私たちは、穀物のおかげで豊かで健康的に暮らしていると信じてきた。
だからこそ、多くの民族や文化では、穀物を神の座にまつりあげた。
だがその神は、絶対服従と奉仕を要求する貪欲な神だった」
「穀物という神は、確かに1万年前の人類を飢えから救い、
腹を満たしてくれた。
その意味では神そのものだった。
しかしそれは現代社会に、肥満と糖尿病、睡眠障害と抑うつ、
アルツハイマー病、歯周病、アトピー性皮膚炎を含む
さまざまな皮膚疾患などをもたらした。
現代人が悩む多くのものは、大量の穀物と砂糖の摂取が原因だった。
人類が神だと思って招き入れたのは、実は悪魔だったのである」
糖質制限が人類のすすむべき道、というかんがえ方は、
地下水利用による穀物の大量生産が、
そろそろ限界という状況を前提としている。
もしほんとうに水が危機的な状況にあるのであれば、
穀物にたよらない食生活をかんがえなくてはならない。
しかし、著者が案としてあげた、豆やハエでたんぱく質を確保するのは、
計算上は可能でも、現実的にはうけいれられないだろう。
いちど穀物のあまさにひかれた脳が、
それなしに我慢できるとはおもえない。
発達してしまった人類の脳は、
あまさという食の快楽をもとめつづけるのではないか。
穀物栽培という生産革命が、人口をふやし、脳の活動を活発にしたのとひきかえに、
さまざまな問題もひきつれてきた、という視点がとてもおもしろかった。
穀物が人類にとって悪魔だったなんて、
これまでだれも指摘しなかった位置づけではないか。
わたしのすきなたべものは、
おにぎり・スパゲッティ・さつまいも・パン・うどんと、
ほぼすべてが炭水化物であり、肉にひかれることはあまりない。
著者がすすめる野菜いためとやき魚という夕ごはんでは、
とても満足できないだろう。
穀物という悪魔にすでにからめとられてしまい、
もうどうにも身うごきがとれない状態だ。
『傷はぜったい消毒するな』の作者による
糖質制限についての本だ。
「◯◯するな」みたいな断定的なタイトルはすきではないし、
本書にしても短絡的なきめつけのにおいがする。
こういうタイトルの本は、たいていはさけてとおるけど、
人類がなにをたべて進化してきたかについて、
わたしは以前から興味があった。
ながい人類の歴史のなかで、いまのように穀物をたべるようになったのは、
ごく最近のことでしかない。
それなのに、「欧米型食生活」とか
「ふくるからつたわる日本食」みたいないいかたが、
既成事実として幅をきかせている。
ほんとうのところ、人類はなにをたべてきたのだろう。
結論からいうと、この本はすごくおもしろかった。
炭水化物をとらない食事にしたところ、
著者は半年で11キロもやせたのだそうだ。
あまりにも絶大なダイエット効果があるので、
同性にはよんでほしくない、女性のためにかいた、
と冗談めかしてかいてある。
断定的ないいかたはすきではないけれど、
この作者の場合は芸の域にたっしており
いやみがない。
きびしい糖質制限でなくても、
夕ごはんだけ炭水化物をやめた食事にするだけでも効果があるといい、
ダイエットはともかく、二日よいもなくなるというからためしてみたくなる。
肉はすぐに消化されるのにくらべ、
炭水化物は胃にながくとどまるのだそうで、
ごはんやラーメンをたべなければ二日よいをしないのは、
論理的にもあきらかだという。
そういった、週刊誌の三面記事みたいなかるい話題でひきつけておいて、
やがて糖質制限がもたらす意味や、
人類が穀物をたべるようになってからの変化、
また、炭水化物は本当に人間のからだに必要なのかという、
これまであまりにも当然とおもってきた事実へのきりこみがはじまる。
穀物生産は、人類にとってパンドラの箱をあけたのかもしれないのだ。
糖質制限は、糖尿病についても効果があるという。
血糖値をあげるのは糖質だけなので、
炭水化物をとらなければ糖尿病にもならないし、
なっていたとしても、治療法として有効ということだ。
しかし、糖尿病学会など、いまのしくみでお金をえている側は、
当然ながら糖質制限に反対する。
糖尿病というと、まずカロリーをおさえる食事療法で、
それでだめなら内服薬にすすみ、そしてインシュリンへ、
というのが標準的な治療法になっている。
糖質制限という治療法では薬もインシュリンもうれないし、
自分たちのありがたみがないので、
既存の権威がだまっていない、という構造的な障害が指摘されている。
つぎに、糖質、つまり炭水化物を、地球の水や食糧という、
資源の面からみたらどんなことがいえるだろう。
人類は、乾燥した大平原に地下から水をくみあげて小麦をそだてている。
その水はけして無尽蔵ではないし、塩害も深刻になってきている。
また、食糧がたりないといいながらも、
畑でそだてたトウモロコシなどを、牛や豚に飼料としてあたえている。
こうした非効率が、いつまでゆるされるだろうか、という問題が、
これから現実になってくるというのだ。
人間の脳に穀物があたえた影響も興味ぶかい。
「おそらく動物にとって、食とは『楽しみ』とは無縁のもの」
という指摘から、動物と人類との「食」のちがいに気づかされる。
ペリカンやオットセイが魚をまるのみにしているとき、
おそらく「おいしい」とはおもっていないだろう。
彼らにとっての食は、純粋にエネルギーをえるための活動だ。
しかし、人類は「食」に「楽しみ」という価値をみいだすようになった。
これは、脳がおおきくなったことで、「おいしい」「たのしい」に
価値をおくようになったことと関係があるのだろう。
人類は脳の進化により、ある時点で
動物とは決定的にべつの道をあゆむことになった。
さとうや穀物のあまさを、快楽としてうけとめるようになった人類が、
それまでの数百万年というながい歴史をすて、
たかだか1万数千年というわずかな間にここまで変化したのは、
脳の発達による必然というべきだろう。
人類にとって、穀物生産とはなんであったか。
「私たちは、穀物のおかげで豊かで健康的に暮らしていると信じてきた。
だからこそ、多くの民族や文化では、穀物を神の座にまつりあげた。
だがその神は、絶対服従と奉仕を要求する貪欲な神だった」
「穀物という神は、確かに1万年前の人類を飢えから救い、
腹を満たしてくれた。
その意味では神そのものだった。
しかしそれは現代社会に、肥満と糖尿病、睡眠障害と抑うつ、
アルツハイマー病、歯周病、アトピー性皮膚炎を含む
さまざまな皮膚疾患などをもたらした。
現代人が悩む多くのものは、大量の穀物と砂糖の摂取が原因だった。
人類が神だと思って招き入れたのは、実は悪魔だったのである」
糖質制限が人類のすすむべき道、というかんがえ方は、
地下水利用による穀物の大量生産が、
そろそろ限界という状況を前提としている。
もしほんとうに水が危機的な状況にあるのであれば、
穀物にたよらない食生活をかんがえなくてはならない。
しかし、著者が案としてあげた、豆やハエでたんぱく質を確保するのは、
計算上は可能でも、現実的にはうけいれられないだろう。
いちど穀物のあまさにひかれた脳が、
それなしに我慢できるとはおもえない。
発達してしまった人類の脳は、
あまさという食の快楽をもとめつづけるのではないか。
穀物栽培という生産革命が、人口をふやし、脳の活動を活発にしたのとひきかえに、
さまざまな問題もひきつれてきた、という視点がとてもおもしろかった。
穀物が人類にとって悪魔だったなんて、
これまでだれも指摘しなかった位置づけではないか。
わたしのすきなたべものは、
おにぎり・スパゲッティ・さつまいも・パン・うどんと、
ほぼすべてが炭水化物であり、肉にひかれることはあまりない。
著者がすすめる野菜いためとやき魚という夕ごはんでは、
とても満足できないだろう。
穀物という悪魔にすでにからめとられてしまい、
もうどうにも身うごきがとれない状態だ。
2014年01月28日
『戸越銀座でつかまえて』(星野博美)ネコたちにささえられていた星野さんの自由
『戸越銀座でつかまえて』(星野博美・朝日新聞出版)
星野さんの本はどれも、自由であることを大切にし、
自由をまもるためのたたかいがかいてある。
この本は、なぜそんな生き方をするようになったか、というはなしであるとともに、
ネコの死がきっかけで、精神的にまいってしまった星野さんが、
実家のある戸越銀座にもどって、ふたたび生活をたてなおすものがたりでもある。
「自分は多分、彼女たちがさほど重視しない
『自由』というやつを守るために、
それなりに必死でやってきた。
そのこと自体は後悔していない。(中略)
では自分が手にしたものは何かあるのだろうか。
あるとしたら、それは他のものすべてを捨てるほど
価値があるものだったのか」
中年期にさしかかるころになると、
星野さんは自由についてふたたびかんがえるようになる。
自信をなくてもいたのだろう。
そんな時期と、かっていたネコの死がかさなり、
星野さんは社会生活になじめなくなるほど精神的に不安定になる。
一般的にペットの死からおもいえがくおちこみよりも、
星野さんがうけたダメージははるかにふかく致命的だ。
「他人と社会的生活を営めない不安定な自分を、
唯一支えてくれたのが猫たちの存在だった。
そんな彼らが次々と消えてゆき、
精神状態の堤防が崩壊した」
星野さんは、ゆきがよわっていき、入院し、家でみとるまでをおもいだす。
ゆきが入院すると、トイレ・ネコ砂・水のはいった容器など、
すべてがあるのにゆきだけがいない。
このことが、どれだけ不安なのかを星野さんはしる。
「私が家を留守にしたことは何度もある。
昔は1ヶ月も平気で留守にし、
そのことを何とも思わなかった。
そのつど、ゆきは、こんな不安を味わっていたのだ」
「野良猫出身の彼らが、様々な危険に遭いながら
必死で生き延びようとする姿が、
知らず知らずのうちに自分に影響を与えたような気がする。
野良猫が生きる過酷さに比べたら、
自分がフリーとしていきる不安定さなど大したことではない」
「私は写真を見せながらゆきに語り続けた。(中略)
語りかけているうちに、当時のことがみるみる脳裏によみがえった。
私はこの時代を思い出す時、『不安だった』『貧しかった』『必死だった』と、
そんなことばかり思っていた。
でもそれは違う。
私はもしかしたら、とても幸せだった」
ゆきをうしなった星野さんのかなしみは、あまりにもいたいたしい。
わたしは、ついこのまえ死んでしまったチャコのことを
どうしてもおもいだしてしまう。
星野さんは、ゆきのためになにができるかをかんがえる。
「タオルを濡らして顔やお尻をきれいに拭き、
ブラシをかけて爪を切った。
口とお尻には綿を詰め、うまく隠した。(中略)
するとゆきは毛並みがふわふわして本当にかわいくなった。
不思議なことに、足は硬直し始めていたが、
なぜか体はいつまでたっても柔らかいままだった。
私は丸二日、ゆきの遺体を抱いて眠った」
星野さんは、ゆきを冷凍庫にいれることまでおもいつく。
ネコについて星野さんがかく文章は特別だ。
ネコと星野さんは完全に一体であり、客観的な存在ではない。
「不安定な自分を唯一支えてくれるもの」、
というのは比喩ではなく、まったくの現実だったのだろう。
このエッセイをよむと、星野さんは戸越銀座でくらすうちに、
世間のおばさん的なつよさを身につけたようにみえる。
それまでの中央線沿線でのアパートぐらしとちがい、
戸越銀座のひとたちのくらしは、いかにも地に足がついている。
いまの星野さんは、ネコだけが唯一のささえではなくなってきている。
そんな星野さんが、自由をどう定義するようになったかは、
これからの作品であきらかにしてくれるだろう。
星野さんの本はどれも、自由であることを大切にし、
自由をまもるためのたたかいがかいてある。
この本は、なぜそんな生き方をするようになったか、というはなしであるとともに、
ネコの死がきっかけで、精神的にまいってしまった星野さんが、
実家のある戸越銀座にもどって、ふたたび生活をたてなおすものがたりでもある。
「自分は多分、彼女たちがさほど重視しない
『自由』というやつを守るために、
それなりに必死でやってきた。
そのこと自体は後悔していない。(中略)
では自分が手にしたものは何かあるのだろうか。
あるとしたら、それは他のものすべてを捨てるほど
価値があるものだったのか」
中年期にさしかかるころになると、
星野さんは自由についてふたたびかんがえるようになる。
自信をなくてもいたのだろう。
そんな時期と、かっていたネコの死がかさなり、
星野さんは社会生活になじめなくなるほど精神的に不安定になる。
一般的にペットの死からおもいえがくおちこみよりも、
星野さんがうけたダメージははるかにふかく致命的だ。
「他人と社会的生活を営めない不安定な自分を、
唯一支えてくれたのが猫たちの存在だった。
そんな彼らが次々と消えてゆき、
精神状態の堤防が崩壊した」
星野さんは、ゆきがよわっていき、入院し、家でみとるまでをおもいだす。
ゆきが入院すると、トイレ・ネコ砂・水のはいった容器など、
すべてがあるのにゆきだけがいない。
このことが、どれだけ不安なのかを星野さんはしる。
「私が家を留守にしたことは何度もある。
昔は1ヶ月も平気で留守にし、
そのことを何とも思わなかった。
そのつど、ゆきは、こんな不安を味わっていたのだ」
「野良猫出身の彼らが、様々な危険に遭いながら
必死で生き延びようとする姿が、
知らず知らずのうちに自分に影響を与えたような気がする。
野良猫が生きる過酷さに比べたら、
自分がフリーとしていきる不安定さなど大したことではない」
「私は写真を見せながらゆきに語り続けた。(中略)
語りかけているうちに、当時のことがみるみる脳裏によみがえった。
私はこの時代を思い出す時、『不安だった』『貧しかった』『必死だった』と、
そんなことばかり思っていた。
でもそれは違う。
私はもしかしたら、とても幸せだった」
ゆきをうしなった星野さんのかなしみは、あまりにもいたいたしい。
わたしは、ついこのまえ死んでしまったチャコのことを
どうしてもおもいだしてしまう。
星野さんは、ゆきのためになにができるかをかんがえる。
「タオルを濡らして顔やお尻をきれいに拭き、
ブラシをかけて爪を切った。
口とお尻には綿を詰め、うまく隠した。(中略)
するとゆきは毛並みがふわふわして本当にかわいくなった。
不思議なことに、足は硬直し始めていたが、
なぜか体はいつまでたっても柔らかいままだった。
私は丸二日、ゆきの遺体を抱いて眠った」
星野さんは、ゆきを冷凍庫にいれることまでおもいつく。
ネコについて星野さんがかく文章は特別だ。
ネコと星野さんは完全に一体であり、客観的な存在ではない。
「不安定な自分を唯一支えてくれるもの」、
というのは比喩ではなく、まったくの現実だったのだろう。
このエッセイをよむと、星野さんは戸越銀座でくらすうちに、
世間のおばさん的なつよさを身につけたようにみえる。
それまでの中央線沿線でのアパートぐらしとちがい、
戸越銀座のひとたちのくらしは、いかにも地に足がついている。
いまの星野さんは、ネコだけが唯一のささえではなくなってきている。
そんな星野さんが、自由をどう定義するようになったかは、
これからの作品であきらかにしてくれるだろう。
2014年01月27日
トレーニングルームでの奇行をどうとらえるか
星野博美さんのエッセイ『戸越銀座でつかまえて』をよんでいたら、
健康センターでのトレーニング風景がでてきた。
区立の施設なので利用料が400円とやすく、
民間のスポーツクラブとはちがう客層がやってくる。
「運動をしている人を見ているとおもしろい。
その人が職業や社会的立場や日常の人間関係から解き放たれ、
素の姿になっているようにおもえる」
「人目を気にせずでんぐり返しを続けているおじさんがいるかと思えば、
ものすごく重いダンベルを大声をあげながら持ち上げ、
そのたびにこちらをちらりと見て『俺ってすごい?』
と同意を求めるおじさんがいる」
星野さんによると、みていておもしろいのは、圧倒的に男性だという。
これはトレーニングセンターだけではなく、銭湯でもいえることらしく、
「きっと男の人は、ふだん社会や家庭で背負っているものが大きすぎて、
そこから外れた時の開放感が大きいのだろう」
というのが星野さんの分析だけど、これはどうだろうか。
ひごろの束縛から開放されて、つい素がでるというよりも、
いつもやっていることをトレーニングセンターにも
そのままもちこんでいるとみたほうが正解ではないのか。
もっとも、都会のストレスは地方都市とはけたちがいだろうから、
開放感というとらえ方が理解できないわけではない。
わたしがよくいくジムにもかわったおじさんがいる。
自分がつかうはるかまえからバーベルをセットして、
自分用に「確保」しようとする。
シャカシャカといそがしくうごきまわり、
トレーニングというよりあやしい一連の儀式にみえるので
なんとなく部屋全体がおちつかない雰囲気になってしまう。
映画の『ポリスアカデミー』にでてくる迷惑おじさんにそっくりなので、
そのまま「迷惑おじさん」とわたしはよんで、
そのひとがくる時間をはずすようになった。
このひとは、トレーニングセンターという非日常の場によって
精神を開放されたからこんなうごきをとるわけではなく、
ほかの場面でもおなじやり方をとおしているような気がする。
器具の確保というルール違反は注意することができるけど、
職場や家庭という社会生活では、
どうやってひととの関係をつくっているのだろう。
あとの常連さんは、それぞれ自分の流儀にそって
粛々とトレーニングをすすめられており、
トレーニングルームでとくに不自然なうごきはみえない。
それでは女性の奇行が目につくかというと、そういうわけでもないので、
都会と地方都市では、やはりストレスにずいぶんちがいがあるのかもしれない。
わたしがいくジムは、そもそも利用者がすくなくて、
トレーニングルームをひとりで2時間専用利用という日もあるし、
プールでも1コースをひとりじめというのがあたりまえだ。
そんなところでは、あまり自己主張しようとがんばらなくても、
平和に、おだやかにくらしていくことができる。
また、都会ではまわりがしらないひとばかりであり、
つい「旅の恥はかきすて」という意識になりやすく、
いっぽう、いなかではどこへいってもしりあいばかり、という事情によって
極端な行為にブレーキがかかっているのかもしれない。
人口密度がたかくなれば、なにがしら無理がしょうじるので、
どうにかしてそれを調整する必要がある。
都会のひとは、ふつうならするはずのない不自然なうごきで
バランスをとっているともかんがえられる。
そもそも、星野さんが例にあげた
「でんぐり返しの連続おじさん」や
「ダンベルのマッチョおじさん」は、
わたしにはそんなにめずらしいうごきにおもえない。
職場や公共の場でそれをやられたらこまるけど、
トレーニングルームならゆるされる範囲ではないか。
トレーニングルームは、そういうことをするための場所なのだから。
星野さんは奇行に目がゆき、わたしはルール違反のほうが気になる。
どちらも、ほかのひとには全然問題ないのかもしれない。
トレーニングルームの流儀はなかなかむつかしい。
星野さんもわたしも、そしてほかのひとたちだって、
みんなおおかれすくなかれ、すこしずつかわっている、というのが
客観的な事実ではないだろうか。
健康センターでのトレーニング風景がでてきた。
区立の施設なので利用料が400円とやすく、
民間のスポーツクラブとはちがう客層がやってくる。
「運動をしている人を見ているとおもしろい。
その人が職業や社会的立場や日常の人間関係から解き放たれ、
素の姿になっているようにおもえる」
「人目を気にせずでんぐり返しを続けているおじさんがいるかと思えば、
ものすごく重いダンベルを大声をあげながら持ち上げ、
そのたびにこちらをちらりと見て『俺ってすごい?』
と同意を求めるおじさんがいる」
星野さんによると、みていておもしろいのは、圧倒的に男性だという。
これはトレーニングセンターだけではなく、銭湯でもいえることらしく、
「きっと男の人は、ふだん社会や家庭で背負っているものが大きすぎて、
そこから外れた時の開放感が大きいのだろう」
というのが星野さんの分析だけど、これはどうだろうか。
ひごろの束縛から開放されて、つい素がでるというよりも、
いつもやっていることをトレーニングセンターにも
そのままもちこんでいるとみたほうが正解ではないのか。
もっとも、都会のストレスは地方都市とはけたちがいだろうから、
開放感というとらえ方が理解できないわけではない。
わたしがよくいくジムにもかわったおじさんがいる。
自分がつかうはるかまえからバーベルをセットして、
自分用に「確保」しようとする。
シャカシャカといそがしくうごきまわり、
トレーニングというよりあやしい一連の儀式にみえるので
なんとなく部屋全体がおちつかない雰囲気になってしまう。
映画の『ポリスアカデミー』にでてくる迷惑おじさんにそっくりなので、
そのまま「迷惑おじさん」とわたしはよんで、
そのひとがくる時間をはずすようになった。
このひとは、トレーニングセンターという非日常の場によって
精神を開放されたからこんなうごきをとるわけではなく、
ほかの場面でもおなじやり方をとおしているような気がする。
器具の確保というルール違反は注意することができるけど、
職場や家庭という社会生活では、
どうやってひととの関係をつくっているのだろう。
あとの常連さんは、それぞれ自分の流儀にそって
粛々とトレーニングをすすめられており、
トレーニングルームでとくに不自然なうごきはみえない。
それでは女性の奇行が目につくかというと、そういうわけでもないので、
都会と地方都市では、やはりストレスにずいぶんちがいがあるのかもしれない。
わたしがいくジムは、そもそも利用者がすくなくて、
トレーニングルームをひとりで2時間専用利用という日もあるし、
プールでも1コースをひとりじめというのがあたりまえだ。
そんなところでは、あまり自己主張しようとがんばらなくても、
平和に、おだやかにくらしていくことができる。
また、都会ではまわりがしらないひとばかりであり、
つい「旅の恥はかきすて」という意識になりやすく、
いっぽう、いなかではどこへいってもしりあいばかり、という事情によって
極端な行為にブレーキがかかっているのかもしれない。
人口密度がたかくなれば、なにがしら無理がしょうじるので、
どうにかしてそれを調整する必要がある。
都会のひとは、ふつうならするはずのない不自然なうごきで
バランスをとっているともかんがえられる。
そもそも、星野さんが例にあげた
「でんぐり返しの連続おじさん」や
「ダンベルのマッチョおじさん」は、
わたしにはそんなにめずらしいうごきにおもえない。
職場や公共の場でそれをやられたらこまるけど、
トレーニングルームならゆるされる範囲ではないか。
トレーニングルームは、そういうことをするための場所なのだから。
星野さんは奇行に目がゆき、わたしはルール違反のほうが気になる。
どちらも、ほかのひとには全然問題ないのかもしれない。
トレーニングルームの流儀はなかなかむつかしい。
星野さんもわたしも、そしてほかのひとたちだって、
みんなおおかれすくなかれ、すこしずつかわっている、というのが
客観的な事実ではないだろうか。
2014年01月26日
『テルマエ・ロマエ』のローマ文明におもいをはせる
『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ・エンターブレイン)
ヤマザキマリさんの『男性論』をよんだら、
自然ななりゆきとして『テルマエ・ロマエ』へながれたくなった。
これまで1巻しかよんでなかったので、2〜5巻をかってくる。
「浴場の中で心安らげるかどうかは
共に浸かっている人間の様子に
かかる部分が大きい・・・
湯に対して全身全霊を捧げる平たい顔族は
一緒に風呂に入るには
最高の人種ではないか?」
ごぞんじのように、単行本の『テルマエ・ロマエ』はマンガの1話ごとに、
そのはなしにまつわるみじかいエッセイがはさまれており、
絵と文の両方をたのしむことができる。
先日よんだ『男性論』の感想に、ヤマザキさんの文章がすばらしいとかいたけれど、
単行本についているエッセイ「ローマ&風呂、わが愛」を注意ぶかくよんでいたら、
ヤマザキさんのローマと風呂への愛が
ただならぬものであることに気づいていたはずだ。
ローマの浴場と日本のお風呂文化をくっつけただけの、
奇をてらったマンガときめつけていたことがはずかしい。
過去にしても未来にしても、みたことがない世界を絵にするのは
どれだけたいへんなことだろうか。
2巻のエッセイに
「日本のお風呂の浴槽は『洗う為』に入るのではなく
『寛ぐ為』にはいる」
という指摘があり、ふかく納得したのだった。
イタリア人のおばさんに、
「フロに入るって、日本人にとってはつまり”ゼン”なのね」
といわれたはなしが紹介されており、
日本のお風呂がきわめて精神的な行為であることをおしえられる。
『テルマエ・ロマエ』にでてくるローマの浴場を
わたしはどこかでみたことがあるような気がする。
記憶をさぐっていたら、モロッコのハマムとおなじだ、
ということをおもいだした。
わたしはいぜんモロッコとアルジェリアのハマムへいったことがあり、
そこの雰囲気がローマの浴場とよくにているのだ。
お湯につかるのではなく、湯船はお湯をためておくところで、
お客たちはそのまわりでからだをあらったり、ねっころがったりしていた。
お金を追加すれば、アカすりとマッサージをしてもらえる。
全裸ではなく、パンツ一丁が基本で、
そなえつけのガウンをはおるところもあった。
マグリブだけにかぎらず、イスラム圏ではハマムとよばれる浴場が
ひろくしたしまれている。
ウィキペディアでは、ハマムが「ローマ文明の継承」として紹介されていた。
梅棹さんの本をひっぱりだすと、
ローマ文明は、地中海全域にひろがっていた、という記述にであった。
「ローマ帝国というと、わたしたちはすぐに
イタリア半島中部にある都市ローマを中心にする国家とおもいがちである。
たしかに、ローマはローマ帝国の首都であり、中心であったことはまちがいないが、
ローマ帝国そのものは、イタリア半島などに極限されるものではなく、
広大な地中海の全域にひろがるものであった。(中略)
ローマ帝国は全地中海を支配して、
その各地に都市を建設した。これがローマ帝国の実態であったのだ。
紀元前二世紀のカルタゴの滅亡は、
地中海におけるローマの覇権の確立を意味するものであった。(中略)
わたしたちは、ローマの文明はまぎれもなく
地中海文明そのものであったことをわすれるわけにはゆかない」
(梅棹忠夫著作集第4巻「地中海文明論」)
『テルマエ・ロマエ』にも、ハドリアヌス皇帝が
エジプトへ遠征したときのはなしがのっている。
史実にそいながらも、ゆたかな想像力によってえがかれてこのマンガは、
わたしの好奇心を刺激する。
かつてのローマ文明が、スペインからマグリブをふくめた、
ひろく地中海世界全体にひろがっていったようすをおもいえがく。
わたしがはいったモロッコのハマムが、
ローマ文明によってもたらされていたなんて。
平な顔族もあなどりがたいけれど、
ローマ帝国だってなかなかやる。
ヤマザキマリさんの『男性論』をよんだら、
自然ななりゆきとして『テルマエ・ロマエ』へながれたくなった。
これまで1巻しかよんでなかったので、2〜5巻をかってくる。
「浴場の中で心安らげるかどうかは
共に浸かっている人間の様子に
かかる部分が大きい・・・
湯に対して全身全霊を捧げる平たい顔族は
一緒に風呂に入るには
最高の人種ではないか?」
ごぞんじのように、単行本の『テルマエ・ロマエ』はマンガの1話ごとに、
そのはなしにまつわるみじかいエッセイがはさまれており、
絵と文の両方をたのしむことができる。
先日よんだ『男性論』の感想に、ヤマザキさんの文章がすばらしいとかいたけれど、
単行本についているエッセイ「ローマ&風呂、わが愛」を注意ぶかくよんでいたら、
ヤマザキさんのローマと風呂への愛が
ただならぬものであることに気づいていたはずだ。
ローマの浴場と日本のお風呂文化をくっつけただけの、
奇をてらったマンガときめつけていたことがはずかしい。
過去にしても未来にしても、みたことがない世界を絵にするのは
どれだけたいへんなことだろうか。
2巻のエッセイに
「日本のお風呂の浴槽は『洗う為』に入るのではなく
『寛ぐ為』にはいる」
という指摘があり、ふかく納得したのだった。
イタリア人のおばさんに、
「フロに入るって、日本人にとってはつまり”ゼン”なのね」
といわれたはなしが紹介されており、
日本のお風呂がきわめて精神的な行為であることをおしえられる。
『テルマエ・ロマエ』にでてくるローマの浴場を
わたしはどこかでみたことがあるような気がする。
記憶をさぐっていたら、モロッコのハマムとおなじだ、
ということをおもいだした。
わたしはいぜんモロッコとアルジェリアのハマムへいったことがあり、
そこの雰囲気がローマの浴場とよくにているのだ。
お湯につかるのではなく、湯船はお湯をためておくところで、
お客たちはそのまわりでからだをあらったり、ねっころがったりしていた。
お金を追加すれば、アカすりとマッサージをしてもらえる。
全裸ではなく、パンツ一丁が基本で、
そなえつけのガウンをはおるところもあった。
マグリブだけにかぎらず、イスラム圏ではハマムとよばれる浴場が
ひろくしたしまれている。
ウィキペディアでは、ハマムが「ローマ文明の継承」として紹介されていた。
梅棹さんの本をひっぱりだすと、
ローマ文明は、地中海全域にひろがっていた、という記述にであった。
「ローマ帝国というと、わたしたちはすぐに
イタリア半島中部にある都市ローマを中心にする国家とおもいがちである。
たしかに、ローマはローマ帝国の首都であり、中心であったことはまちがいないが、
ローマ帝国そのものは、イタリア半島などに極限されるものではなく、
広大な地中海の全域にひろがるものであった。(中略)
ローマ帝国は全地中海を支配して、
その各地に都市を建設した。これがローマ帝国の実態であったのだ。
紀元前二世紀のカルタゴの滅亡は、
地中海におけるローマの覇権の確立を意味するものであった。(中略)
わたしたちは、ローマの文明はまぎれもなく
地中海文明そのものであったことをわすれるわけにはゆかない」
(梅棹忠夫著作集第4巻「地中海文明論」)
『テルマエ・ロマエ』にも、ハドリアヌス皇帝が
エジプトへ遠征したときのはなしがのっている。
史実にそいながらも、ゆたかな想像力によってえがかれてこのマンガは、
わたしの好奇心を刺激する。
かつてのローマ文明が、スペインからマグリブをふくめた、
ひろく地中海世界全体にひろがっていったようすをおもいえがく。
わたしがはいったモロッコのハマムが、
ローマ文明によってもたらされていたなんて。
平な顔族もあなどりがたいけれど、
ローマ帝国だってなかなかやる。
2014年01月25日
「暖房ゼロ生活」 さむさを排除すべき敵ではなく、共存する環境としてとらえる
きのうの朝日新聞に稲垣えみ子さんが
「やみつき『暖房ゼロ生活』」という記事をよせている。
節電をきっかけにはじめた「暖房ゼロ生活」が、
3ど目の冬をむかえているのだそうだ。
稲垣さんは、子どものころからさむさによわく、
エアコンをぜいたくにつかって冬をのりこえており、
今の生活が自分でもしんじられないという。
秘密兵器は湯たんぽで、これをふともものうえにおき、
おおきなひざかけをけるとじゅうぶんあたたかいそうだ。
ねるときにももちろん湯たんぽをつかう。
はく息がしろいほどさむい部屋でも、
「自分が温かければ案外どうってことない」といわれる。
わたしもこの冬から湯たんぽ生活をはじめた。
おおい日は3回もお湯をいれかえてあたためてもらっている。
パソコンにむかっていすにすわっていると、
あしもとがひえてたまらなくなるけれど、
湯たんぽを寝袋にいれて、下半身をすっぽりもぐりこませると、
それだけですごくあたたかくすごせることがわかった。
さむさは足元からやってくるので、そこをあたためてさえおけば、
上半身の暖房はそんなに重要ではない。
不便なのは、いちど寝袋におさまってしまうと、
手帳や本をとりにいったり、ピピがあそびにさそってくれたときに
いちいちおおげさなしきりなおしが必要なことで、
稲垣さんはひざかけをどけるだけだから、まだ身がるなのだろう。
稲垣さんは、「暖房ゼロ生活」をはじめてから
苦手だったさむさが気にならなくなったそうだ。
お湯をわかすことだけで、すこしはあたたかくなるし、
湯でカンをした日本酒のうまさにしあわせをあじわう。
「暖房に頼っていたころ、
寒さは全面的に排除すべき敵であった。(中略)
私たちは経済成長とともに
『ある』幸せを求めてきた。
金がある。電気がある。暖房がある。ああ幸せ!
それに慣れると『ない』ことを恐れるようになる。
でも実は、『ない』中にも小さな幸せは
無限に隠れているのだ。
そう気づいたとき、恐れは去り、
何とも言えぬ自由な気持ちがわき上がってくる」
排除すべき敵ではなく、共存しなくてはならない環境というとらえ方が
すてきだとおもった。
野宿野郎のかとうちあきさんも、
野宿をすすめながらいつもこの自由についてかたっている。
あつさもさむさも、洗濯できないことも、蚊になやまされることも、
ぜんぶ敵ではなく共存すべき環境としてとらえ、
そのなかにしあわせ・自由があるとわたしたちをさそってくれる。
稲垣さんの記事のタイトルをもういちどくりかえすと、
「やみつき『暖房ゼロ生活』」であり、
「暖房ゼロ」に「やみつき」になったというのがすごい。
やみつきなのだから、暖房にたよる生活よりも
暖房ゼロのほうがこのましいわけで、
そのたのしさ・自由をもう手ばなせなくなっているのだ。
わたしたちは、暖房のおかげで快適な環境を手にいれたとおもっていたら、
それはかえってささやかなしあわせをみうしなう、
おもしろみのない生活だったのかもしれない。
わたしは湯たんぽ+寝袋でぬくもるのがせいぜいで、
とても「暖房ゼロ生活」にきりだす勇気はない。
よほどいくじのない人間で、さむさのまえではすべての意欲がきえて
なにもできなくなってしまう。
すこし譲歩して、まきストーブくらいなら、
その不便さをたのしめるような気がする。
冬をまえに、まきを大量に準備して、という冬ごもりも得意そうだ。
まきストーブと湯たんぽで、暖房費ゼロ生活を「やみつき」にするのが
農的生活にからめて、4番目くらいにえがいているわたしの夢だ。
「やみつき『暖房ゼロ生活』」という記事をよせている。
節電をきっかけにはじめた「暖房ゼロ生活」が、
3ど目の冬をむかえているのだそうだ。
稲垣さんは、子どものころからさむさによわく、
エアコンをぜいたくにつかって冬をのりこえており、
今の生活が自分でもしんじられないという。
秘密兵器は湯たんぽで、これをふともものうえにおき、
おおきなひざかけをけるとじゅうぶんあたたかいそうだ。
ねるときにももちろん湯たんぽをつかう。
はく息がしろいほどさむい部屋でも、
「自分が温かければ案外どうってことない」といわれる。
わたしもこの冬から湯たんぽ生活をはじめた。
おおい日は3回もお湯をいれかえてあたためてもらっている。
パソコンにむかっていすにすわっていると、
あしもとがひえてたまらなくなるけれど、
湯たんぽを寝袋にいれて、下半身をすっぽりもぐりこませると、
それだけですごくあたたかくすごせることがわかった。
さむさは足元からやってくるので、そこをあたためてさえおけば、
上半身の暖房はそんなに重要ではない。
不便なのは、いちど寝袋におさまってしまうと、
手帳や本をとりにいったり、ピピがあそびにさそってくれたときに
いちいちおおげさなしきりなおしが必要なことで、
稲垣さんはひざかけをどけるだけだから、まだ身がるなのだろう。
稲垣さんは、「暖房ゼロ生活」をはじめてから
苦手だったさむさが気にならなくなったそうだ。
お湯をわかすことだけで、すこしはあたたかくなるし、
湯でカンをした日本酒のうまさにしあわせをあじわう。
「暖房に頼っていたころ、
寒さは全面的に排除すべき敵であった。(中略)
私たちは経済成長とともに
『ある』幸せを求めてきた。
金がある。電気がある。暖房がある。ああ幸せ!
それに慣れると『ない』ことを恐れるようになる。
でも実は、『ない』中にも小さな幸せは
無限に隠れているのだ。
そう気づいたとき、恐れは去り、
何とも言えぬ自由な気持ちがわき上がってくる」
排除すべき敵ではなく、共存しなくてはならない環境というとらえ方が
すてきだとおもった。
野宿野郎のかとうちあきさんも、
野宿をすすめながらいつもこの自由についてかたっている。
あつさもさむさも、洗濯できないことも、蚊になやまされることも、
ぜんぶ敵ではなく共存すべき環境としてとらえ、
そのなかにしあわせ・自由があるとわたしたちをさそってくれる。
稲垣さんの記事のタイトルをもういちどくりかえすと、
「やみつき『暖房ゼロ生活』」であり、
「暖房ゼロ」に「やみつき」になったというのがすごい。
やみつきなのだから、暖房にたよる生活よりも
暖房ゼロのほうがこのましいわけで、
そのたのしさ・自由をもう手ばなせなくなっているのだ。
わたしたちは、暖房のおかげで快適な環境を手にいれたとおもっていたら、
それはかえってささやかなしあわせをみうしなう、
おもしろみのない生活だったのかもしれない。
わたしは湯たんぽ+寝袋でぬくもるのがせいぜいで、
とても「暖房ゼロ生活」にきりだす勇気はない。
よほどいくじのない人間で、さむさのまえではすべての意欲がきえて
なにもできなくなってしまう。
すこし譲歩して、まきストーブくらいなら、
その不便さをたのしめるような気がする。
冬をまえに、まきを大量に準備して、という冬ごもりも得意そうだ。
まきストーブと湯たんぽで、暖房費ゼロ生活を「やみつき」にするのが
農的生活にからめて、4番目くらいにえがいているわたしの夢だ。
2014年01月24日
市立図書館企画、「閉架書庫探検」に参加する
市立図書館にでかける。
図書館では、「図書館探検〜書庫の本を選ぼう!〜」
という企画を定期的にひらいておられ、今回がその4回目だ。
ひごろは公開されていない閉架書庫を案内します、という内容で、
図書館内におしらせのポスターがはってあったし、
サイトにも情報がのっている。だれでも参加できる「探検」なのだ。
きょうは、集合場所の図書館いりぐちに13名があつまった。
はじめに職員の方からかんたんな説明がある。
市立図書館は本館と分館の3カ所が市内にあり、
あわせて42万冊の本を所有されているそうだ。
本館でいうと、公開されているのは11万6000冊で、
のこりの16万冊は書庫にあるというから
そっちのほうがおおいわけだ。
いつもだとパソコンで検索した本を
職員の方に書庫からもってきてもらうというやり方で
かりることができる。
できるけど、書庫にもはいりこんでえらびたいと
まえからおもっていたし、
書庫がどんなところで、どんなふうに保管されているのか興味があった。
図書館の側にたてば、ほんとうは書庫にひとをいれたくないとおもう。
いろんなひとがかってに本をぬきだして、また棚にもどすうちに、
分類番号とちがう場所にまぎれてしまったらたいへんだ。
じっさい、この企画を平日にしかひらかないのは、
あんまりたくさんのひとにきてもらったらこまるし、
子どもがはいるとややこしいから、ということらしい。
それにもかかわらず、こういうサービスを市民のために提供してくれる
図書館の方針をありがたいとおもう。
県立図書館も、にたような企画をたてておられるそうだけど、
こっちはただ見学するだけで、かりることはできない。
閉架書庫にはいってみると、本棚に本がならんでいるのは
公開されている図書館といっしょなわけだけど、
とにかく空間を有効につかい、できるだけたくさんの本をつめこもうという決意がうかがえる。
すでに閉架書庫もいっぱいの状態なのだ。
「ここがいっぱいになったらどうするんですか?」とたずねると、
館外書庫といって、べつの場所に本を保管する場所を用意しているのだそうだ。
本がへることはないわけで、本ずきのひとが保管する場所にこまるように、
図書館としてもふえつづける本への対応はなやましいところだろう。
いますでに8冊の本をかりていたので、
きょうは2冊をえらんでかしだしの手つづきをした。
閉架書庫から自分でえらぶ、というコンセプトがまもられており、
利用者の好奇心をくすぐるすばらしいサービスだ。
「図書館探検」というおさそいのコピーもよかった。
探検といわれるとたしかにそんなかんじで、
ふるい本や、まえにかりたことのある本などがきっちりと
ならべられている風景は、本ずきにとってたまらないわくわく感がある。
本の分類など、職員の方にも気がるに質問できたし、
ひごろできないことを体験できるのは、ただそれだけですてきだった。
閉架書庫専門の職員になり、
かしだしカウンターからのリクエストにこたえて
書庫と往復する仕事がわたしにむいていそうな気がした。
図書館では、「図書館探検〜書庫の本を選ぼう!〜」
という企画を定期的にひらいておられ、今回がその4回目だ。
ひごろは公開されていない閉架書庫を案内します、という内容で、
図書館内におしらせのポスターがはってあったし、
サイトにも情報がのっている。だれでも参加できる「探検」なのだ。
きょうは、集合場所の図書館いりぐちに13名があつまった。
はじめに職員の方からかんたんな説明がある。
市立図書館は本館と分館の3カ所が市内にあり、
あわせて42万冊の本を所有されているそうだ。
本館でいうと、公開されているのは11万6000冊で、
のこりの16万冊は書庫にあるというから
そっちのほうがおおいわけだ。
いつもだとパソコンで検索した本を
職員の方に書庫からもってきてもらうというやり方で
かりることができる。
できるけど、書庫にもはいりこんでえらびたいと
まえからおもっていたし、
書庫がどんなところで、どんなふうに保管されているのか興味があった。
図書館の側にたてば、ほんとうは書庫にひとをいれたくないとおもう。
いろんなひとがかってに本をぬきだして、また棚にもどすうちに、
分類番号とちがう場所にまぎれてしまったらたいへんだ。
じっさい、この企画を平日にしかひらかないのは、
あんまりたくさんのひとにきてもらったらこまるし、
子どもがはいるとややこしいから、ということらしい。
それにもかかわらず、こういうサービスを市民のために提供してくれる
図書館の方針をありがたいとおもう。
県立図書館も、にたような企画をたてておられるそうだけど、
こっちはただ見学するだけで、かりることはできない。
閉架書庫にはいってみると、本棚に本がならんでいるのは
公開されている図書館といっしょなわけだけど、
とにかく空間を有効につかい、できるだけたくさんの本をつめこもうという決意がうかがえる。
すでに閉架書庫もいっぱいの状態なのだ。
「ここがいっぱいになったらどうするんですか?」とたずねると、
館外書庫といって、べつの場所に本を保管する場所を用意しているのだそうだ。
本がへることはないわけで、本ずきのひとが保管する場所にこまるように、
図書館としてもふえつづける本への対応はなやましいところだろう。
いますでに8冊の本をかりていたので、
きょうは2冊をえらんでかしだしの手つづきをした。
閉架書庫から自分でえらぶ、というコンセプトがまもられており、
利用者の好奇心をくすぐるすばらしいサービスだ。
「図書館探検」というおさそいのコピーもよかった。
探検といわれるとたしかにそんなかんじで、
ふるい本や、まえにかりたことのある本などがきっちりと
ならべられている風景は、本ずきにとってたまらないわくわく感がある。
本の分類など、職員の方にも気がるに質問できたし、
ひごろできないことを体験できるのは、ただそれだけですてきだった。
閉架書庫専門の職員になり、
かしだしカウンターからのリクエストにこたえて
書庫と往復する仕事がわたしにむいていそうな気がした。
2014年01月23日
アルツハイマー病予防と美意識との調整
先日のテレビ番組で、アルツハイマー病をとりあげていた。
認知症の7割をアルツハイマー病がしめており、
日本では30年後に1000万人にたっするともいわれる。
日ごろから短期記憶に自信のないわたしとしては、まったくひとごとではない。
発症する25年まえからアルツハイマー病の原因物質といわれるアミロイドβが蓄積されるといい、
これにより記憶をつかさどる海馬の萎縮がはじまる。
なんだかもう自分の脳にもずいぶんとこの物質がたまってきている気がしてきた。
まったくひとごとではない。
対応策として、2つのかんがえ方がこころみられている。
ひとつは、阻害物質であるアミロイドβやタウが
脳のなかでふえないようにする薬の開発であり、
もうひとつは海馬そのものをつよくして、
阻害物質による影響をおさえようとするものだ。
これには、頭をつかいながら運動するのが効果的なのだそうで、
たとえばあるきながら100ひく7の計算をする、などが
アルツハイマー病予防の健康教室でおこなわれていた。
複雑なステップをふんだり、2人まえのひとがいったことをおぼえるしりとりなど、
わたしにはできそうにない運動プログラムだ。
あのなかにまじってぎこちなくからだをうごかし、
頭のなかがまっしろになっている自分を想像してくらくなる。
もっとも、わたしはわかいころから、この手の記憶はきわめてよわかった。
ある数字をよみあげられたのち、どれだけおぼえられたかという「ゲーム」では、
まったくなさけない結果しかのこせない。
認知症の検査で、よく3つの名前(たとえば「ネコ」「電車」「さくら」)
をおぼえておき、つぎに100ひく7の計算をやったあとで、
「さてさっきあげた3つの名前は?」なんて、みているだけでひやあせがでる。
まえからできなかったから、安心していいのか、
事態はもっと深刻なのか、おそろしくてとてもしらべる気になれない。
番組では、運動プログラムに参加したひとが、
1年後にいちじるしい改善がみられたという結果をつたえている。
たしかに、あれだけきびしいトレーニングをつめば
頭にわるいわけがなく、参加したひとも満足そうだった。
でも、記憶の低下をおそれることがあまりにも生活の中心になると、
それはまたそれでたのしくない状況にもおもえてくる。
きのうは「ためしてガッテン」で大腸がんをとりあげており、
早期発見のための検診をすすめていた。
検便など、からだに負担のすくない方法でも、
回数をふやすことで確実性がたかまるらしく、
年に4回やれば発見率◯%、とかいっている。
もちろん健康はだいじだけれど、
頭のなかにずっと「がん」がいすわっているのもまたたいへんそうだ。
アルツハイマー病を予防する運動プログラムにのめりこんだり、
がんへの心配から検診をうけつづけるのは、わたしの美意識が抵抗する。
アルツハイマー病はこわい。がんもこわい。
それらを自分全体のどこらへんに位置づけて、つきあっていけばいいのか。
美意識なんていってるうちは、まだまだ危機感がたりないのだろう。
わたしは数年まえから健康診断をうけていない。
まえの職場にいたときも、胃カメラや肺のレントゲン、
それに大腸がんの検査はことわってきた。
年にいちど、血液検査をしているので、
それでわかる範囲でいいや、とおもっている。
どんなかたちでアルツハイマー病とがん、
そして死をうけいれることになるのだろう。
認知症の7割をアルツハイマー病がしめており、
日本では30年後に1000万人にたっするともいわれる。
日ごろから短期記憶に自信のないわたしとしては、まったくひとごとではない。
発症する25年まえからアルツハイマー病の原因物質といわれるアミロイドβが蓄積されるといい、
これにより記憶をつかさどる海馬の萎縮がはじまる。
なんだかもう自分の脳にもずいぶんとこの物質がたまってきている気がしてきた。
まったくひとごとではない。
対応策として、2つのかんがえ方がこころみられている。
ひとつは、阻害物質であるアミロイドβやタウが
脳のなかでふえないようにする薬の開発であり、
もうひとつは海馬そのものをつよくして、
阻害物質による影響をおさえようとするものだ。
これには、頭をつかいながら運動するのが効果的なのだそうで、
たとえばあるきながら100ひく7の計算をする、などが
アルツハイマー病予防の健康教室でおこなわれていた。
複雑なステップをふんだり、2人まえのひとがいったことをおぼえるしりとりなど、
わたしにはできそうにない運動プログラムだ。
あのなかにまじってぎこちなくからだをうごかし、
頭のなかがまっしろになっている自分を想像してくらくなる。
もっとも、わたしはわかいころから、この手の記憶はきわめてよわかった。
ある数字をよみあげられたのち、どれだけおぼえられたかという「ゲーム」では、
まったくなさけない結果しかのこせない。
認知症の検査で、よく3つの名前(たとえば「ネコ」「電車」「さくら」)
をおぼえておき、つぎに100ひく7の計算をやったあとで、
「さてさっきあげた3つの名前は?」なんて、みているだけでひやあせがでる。
まえからできなかったから、安心していいのか、
事態はもっと深刻なのか、おそろしくてとてもしらべる気になれない。
番組では、運動プログラムに参加したひとが、
1年後にいちじるしい改善がみられたという結果をつたえている。
たしかに、あれだけきびしいトレーニングをつめば
頭にわるいわけがなく、参加したひとも満足そうだった。
でも、記憶の低下をおそれることがあまりにも生活の中心になると、
それはまたそれでたのしくない状況にもおもえてくる。
きのうは「ためしてガッテン」で大腸がんをとりあげており、
早期発見のための検診をすすめていた。
検便など、からだに負担のすくない方法でも、
回数をふやすことで確実性がたかまるらしく、
年に4回やれば発見率◯%、とかいっている。
もちろん健康はだいじだけれど、
頭のなかにずっと「がん」がいすわっているのもまたたいへんそうだ。
アルツハイマー病を予防する運動プログラムにのめりこんだり、
がんへの心配から検診をうけつづけるのは、わたしの美意識が抵抗する。
アルツハイマー病はこわい。がんもこわい。
それらを自分全体のどこらへんに位置づけて、つきあっていけばいいのか。
美意識なんていってるうちは、まだまだ危機感がたりないのだろう。
わたしは数年まえから健康診断をうけていない。
まえの職場にいたときも、胃カメラや肺のレントゲン、
それに大腸がんの検査はことわってきた。
年にいちど、血液検査をしているので、
それでわかる範囲でいいや、とおもっている。
どんなかたちでアルツハイマー病とがん、
そして死をうけいれることになるのだろう。
2014年01月22日
「イニエスタは勝手に育った」 天才はそだてられない。勝手にそだつ
21日の朝日新聞に
「イニエスタは勝手に育った」という記事がのった。
スペインのサッカーがなぜつよいかについて特集した
「王者の源泉」というシリーズの1回目だ。
イニエスタの祖父ルハンさんが、
イニエスタがちいさかったころをふりかえる。
『私はサッカーボールが丸いってこともしらなかったぐらい、
サッカーに関心がない。
アンドレス(イニエスタ)にはだれも教えていないよ』
「イニエスタ少年は放課後に友達とボールを蹴っていた。
自宅でも中庭の壁に向かって蹴った。
飽きもせず、朝から晩まで。
でも、それだけだという」
イニエスタがはじめて所属したクラブのバロ監督もいう。
『育てたわけではない。
サッカーに集中し、誘惑に負けないように見守るだけだった』
ずっとむかし、宮ア駿さんがまだトトロをつくっていたころ、
ディズニーについてかたっている。
ディズニーが後継者の育成に失敗したといわれていることについて、
「でもちがうのだ。ディズニーは学校を造って、
アニメーターの養成をくり返したし、
移民局にまで人を送って人材の発掘に努めたのである。
人材のためには金を惜しまなかった。
それでも、後継者は育たなかった。(中略)
新人とは、関係のない所で、ポコっと生まれるものなのだ。
ディズニーとその良きスタッフのオールドナインだって、
カリフォルニアの砂漠にポコっと生まれたではないか」
そういう宮崎さんだって、養成されたというよりは、
ポコっと生まれた印象をうける。
ジブリも、新人の養成にちからをいれながらも、
第2の宮ア駿や高畑勲はうまれていない。
天才は、そだてられないのだ。
生まれるのをまつしかない。
これは、育成機関が必要ないということではない。
「スペインサッカーの強さは育成の強さ」
ともいわれているそうだ。
「協会などの育成部門の仕事は底辺を広げ、
そうした(イニエスタのような)選手が生まれてくる土壌をつくり、
すくい上げることだ」
天才はかってにそだつけれど、そのためには土が必要だ。
どこかにポコっと生まれた天才を、
そのままかれさせてしまわないための土。
ただ、栄養ゆたかである必要はないかもしれない。
あたりまえに土がある、という環境が大切なのだろう。
「イニエスタは勝手に育った」。
まったくうまいタイトルだとおもう。
天才はそだてられない。かってにそだつ。
「イニエスタは勝手に育った」という記事がのった。
スペインのサッカーがなぜつよいかについて特集した
「王者の源泉」というシリーズの1回目だ。
イニエスタの祖父ルハンさんが、
イニエスタがちいさかったころをふりかえる。
『私はサッカーボールが丸いってこともしらなかったぐらい、
サッカーに関心がない。
アンドレス(イニエスタ)にはだれも教えていないよ』
「イニエスタ少年は放課後に友達とボールを蹴っていた。
自宅でも中庭の壁に向かって蹴った。
飽きもせず、朝から晩まで。
でも、それだけだという」
イニエスタがはじめて所属したクラブのバロ監督もいう。
『育てたわけではない。
サッカーに集中し、誘惑に負けないように見守るだけだった』
ずっとむかし、宮ア駿さんがまだトトロをつくっていたころ、
ディズニーについてかたっている。
ディズニーが後継者の育成に失敗したといわれていることについて、
「でもちがうのだ。ディズニーは学校を造って、
アニメーターの養成をくり返したし、
移民局にまで人を送って人材の発掘に努めたのである。
人材のためには金を惜しまなかった。
それでも、後継者は育たなかった。(中略)
新人とは、関係のない所で、ポコっと生まれるものなのだ。
ディズニーとその良きスタッフのオールドナインだって、
カリフォルニアの砂漠にポコっと生まれたではないか」
そういう宮崎さんだって、養成されたというよりは、
ポコっと生まれた印象をうける。
ジブリも、新人の養成にちからをいれながらも、
第2の宮ア駿や高畑勲はうまれていない。
天才は、そだてられないのだ。
生まれるのをまつしかない。
これは、育成機関が必要ないということではない。
「スペインサッカーの強さは育成の強さ」
ともいわれているそうだ。
「協会などの育成部門の仕事は底辺を広げ、
そうした(イニエスタのような)選手が生まれてくる土壌をつくり、
すくい上げることだ」
天才はかってにそだつけれど、そのためには土が必要だ。
どこかにポコっと生まれた天才を、
そのままかれさせてしまわないための土。
ただ、栄養ゆたかである必要はないかもしれない。
あたりまえに土がある、という環境が大切なのだろう。
「イニエスタは勝手に育った」。
まったくうまいタイトルだとおもう。
天才はそだてられない。かってにそだつ。
2014年01月21日
幻のラオス旅行
たのしみにしていたラオス旅行にいけなくなった。
家族が入院したためで、
微妙な時期に2週間るすをするのは、さすがにゆるされそうにない。
のがした魚はおおきい、のたとえがあるように、
いけなかった旅行はたのしいにきまっているので、
いったいどんな旅行になるはずだったかをかいておきたい。
そもそも2週間の旅行が職場からみとめられるのは
かなりありがたい環境といえるだろう。
労働者が有給休暇をつかってなにがわるい、といのは正論ではあっても、
現実にはそれがなんの摩擦もなしに実行できるわけではない。
それを、わたしが旅行の希望を職場につたえると、
あっさりと「いいですよ」といってもらえた。
また、配偶者も、こちらはあきらめたようないい方で
「どうぞ」ということだ。
このふたつの了解をえることで、
わたしの旅行は実質的になんの障害もなくうごきだした。
もうすこしで、つりあげた魚がアミにはいるところだったのだ。
旅行さきをラオスにしたことに、とくに理由はない。
はじめはスリランカのつもりだったけど、
なんとなくラオスにかえる。
タイからラオスにはいれば、まだいったことのない
イサーンとよばれるタイの東北部もみられるし、というくらいか。
わかいころの旅行で、わたしは中国のシーサンパンナをたずねたことがある。
雲南省の昆明からバスにのって2泊3日で
シーサンパンナの中心地である景洪につく。
ここを拠点に、あとはどこへいっても少数民族のすむ村で、
船で川をくだればラオスとの国境だし、
バスでちょっと南へむかうとミャンマーとの国境だ。
この「川」とは中国では瀾滄江とよばれるメコン川のことで、
その当時からこの川くだりは旅行者のあいだで人気があった。
船で下流の村へむかうとき、
まるで『地獄の黙示録』のシーンみたいな風景を味わえるのだ。
いまおもえば、あのときにラオスとの国境ちかくへいっていたわけで、
今回のラオスゆきは、そのわかいころの旅行の、地理的なつづきであり、
センチメンタルージャーニーということもできる。
以前、雲南省をバスで移動しているとき、休憩所でうどんをたべたときに、
あたりまえにパクチーがはいっていた。
そのなつかしいかおりに、ここはタイのちかくであることをおもいだす。
今回はその逆で、タイからラオスはいって、
ここがシーサンパンナのちかくであると、確認することになるだろう。
もっていく荷物についていうと、こんどの旅行は
はじめてキンドルにたよるものになるはずだった。
旅行には、いつも10冊ほど文庫本をもっていくので、
荷物を用意するときにいつもできるだけかるく、とおもいつつ、
さいごには逆上ぎみにおもい本もまぎれこませた。
今回は、パソコンだって11インチのMacAIRだし、
読書が200グラムのキンドル・ペーパーホワイトなので、
ずいぶんスマートなパッキングになっていただろうに。
2月のラオスゆきはあきらめるとして、
ちかいうちにべつの旅行を計画しよう。
2月をえらんだのは、やすみがとりやすかったことと、
ラオスとタイが乾季にあたり、
あつさになやまされずに旅行できる季節だからだ。
時期をずらせば、いきさきもかえたほうがいいかもしれない。
そんなことはどうでもよくおもえるかもしれない。
これからわたしの旅行欲がどういう反応をみせるか、
頭と、家族の健康と相談しながら
おいしいごほうびを用意したい。
幻におわった今回の旅行にかかった費用は、
航空チケットのキャンセル料が2万4000円、
すでにかっていた大阪までのバスチケット5100円、
合計4万9100円となった。
いい夢をみさせてもらった代金として
妥当な金額とおもうしかない。
家族が入院したためで、
微妙な時期に2週間るすをするのは、さすがにゆるされそうにない。
のがした魚はおおきい、のたとえがあるように、
いけなかった旅行はたのしいにきまっているので、
いったいどんな旅行になるはずだったかをかいておきたい。
そもそも2週間の旅行が職場からみとめられるのは
かなりありがたい環境といえるだろう。
労働者が有給休暇をつかってなにがわるい、といのは正論ではあっても、
現実にはそれがなんの摩擦もなしに実行できるわけではない。
それを、わたしが旅行の希望を職場につたえると、
あっさりと「いいですよ」といってもらえた。
また、配偶者も、こちらはあきらめたようないい方で
「どうぞ」ということだ。
このふたつの了解をえることで、
わたしの旅行は実質的になんの障害もなくうごきだした。
もうすこしで、つりあげた魚がアミにはいるところだったのだ。
旅行さきをラオスにしたことに、とくに理由はない。
はじめはスリランカのつもりだったけど、
なんとなくラオスにかえる。
タイからラオスにはいれば、まだいったことのない
イサーンとよばれるタイの東北部もみられるし、というくらいか。
わかいころの旅行で、わたしは中国のシーサンパンナをたずねたことがある。
雲南省の昆明からバスにのって2泊3日で
シーサンパンナの中心地である景洪につく。
ここを拠点に、あとはどこへいっても少数民族のすむ村で、
船で川をくだればラオスとの国境だし、
バスでちょっと南へむかうとミャンマーとの国境だ。
この「川」とは中国では瀾滄江とよばれるメコン川のことで、
その当時からこの川くだりは旅行者のあいだで人気があった。
船で下流の村へむかうとき、
まるで『地獄の黙示録』のシーンみたいな風景を味わえるのだ。
いまおもえば、あのときにラオスとの国境ちかくへいっていたわけで、
今回のラオスゆきは、そのわかいころの旅行の、地理的なつづきであり、
センチメンタルージャーニーということもできる。
以前、雲南省をバスで移動しているとき、休憩所でうどんをたべたときに、
あたりまえにパクチーがはいっていた。
そのなつかしいかおりに、ここはタイのちかくであることをおもいだす。
今回はその逆で、タイからラオスはいって、
ここがシーサンパンナのちかくであると、確認することになるだろう。
もっていく荷物についていうと、こんどの旅行は
はじめてキンドルにたよるものになるはずだった。
旅行には、いつも10冊ほど文庫本をもっていくので、
荷物を用意するときにいつもできるだけかるく、とおもいつつ、
さいごには逆上ぎみにおもい本もまぎれこませた。
今回は、パソコンだって11インチのMacAIRだし、
読書が200グラムのキンドル・ペーパーホワイトなので、
ずいぶんスマートなパッキングになっていただろうに。
2月のラオスゆきはあきらめるとして、
ちかいうちにべつの旅行を計画しよう。
2月をえらんだのは、やすみがとりやすかったことと、
ラオスとタイが乾季にあたり、
あつさになやまされずに旅行できる季節だからだ。
時期をずらせば、いきさきもかえたほうがいいかもしれない。
そんなことはどうでもよくおもえるかもしれない。
これからわたしの旅行欲がどういう反応をみせるか、
頭と、家族の健康と相談しながら
おいしいごほうびを用意したい。
幻におわった今回の旅行にかかった費用は、
航空チケットのキャンセル料が2万4000円、
すでにかっていた大阪までのバスチケット5100円、
合計4万9100円となった。
いい夢をみさせてもらった代金として
妥当な金額とおもうしかない。
2014年01月20日
『男性論』(ヤマザキマリ) 古代ローマ文明の魅力からみる比較文化論
『男性論』(ヤマザキマリ・文春新書)
ヤマザキマリというより、マンガ『テルマエ・ロマエ』の原作者
といったほうがとおりがいいかもしれない。
わたしはこの作品を、ローマ時代の浴場と
いまの日本のお風呂事情をからめるという、
奇抜なアイデアだけでなりたっているときめつけ、
あまり評価していなかったけれど、
この本をよむと、ヤマザキさんが古代ローマ文明と、
ルネサンス時代のイタリアについての、ふかい理解者であることがわかる。
その知識と理解にうらづけされた作品だったから、
『テルマエ・ロマエ』はあんなに人気をあつめたのだ。
「生きる喜びを味わうことに貪欲で、
好奇心がひじょうに強く、失敗もへっちゃら、
活力がむんむんとみなぎっている熱い男たち」
がヤマザキさんはだいすきで、
そんな男たちがおおぜいうまれたのが古代ローマだ。
この本は「日本にもルネサンスを」、というねがいのもとに
ヤマザキさんの理想の男性についてかかれており、
女性論・人間論としてもたのしくよめた。
ヤマザキさんが熱っぽくかたるハドリアヌスとかプリニウス、
ラファエロのひととなりに、だんだんよむほうも感情移入してきて、
ということは正直いってほとんどなく、
わたしがおもしろかったのは、
ヤマサキさんの観察によるイタリア人論であり、
ヤマザキさんと、夫のペッピーノ氏との関係であり、
それらとの比較からみちびきだされる日本人と日本社会の特徴だ。
また、17歳のときに高校を中退して
イタリアへ留学したヤマザキさんもきわめて興味ぶかい観察対象であり、
『テルマエ・ロマエ』が発表されたおかげで、
ヤマザキさんの存在をしることができてほんとうによかった。
ヤマザキさんの夫のペッピーノ氏は、
イタリア人らしく、夫婦がかたりあう時間を大切にし、
しめきりをまえにヤマザキさんがどんなにいそがしくはたらいていても、
食事をふくめて家事のいっさいを手つだわない。
そんな配偶者の態度に、ヤマザキさんが反論しないのが不思議だけど、
論理的にかんがえれば、マンガの連載という
日本社会のしくみがおかしいのであり、
ヤマザキさんとしても妥協しなければならないのだろう。
「人生にお金は必要だけれど、
お金のために自分を犠牲にしてはもったいないと考えている。
夫婦の時間や食事を囲んだ語らいこそが、
人生を楽しむことだと信じてうたがっていません」
イタリア人からみれば、たとえば、わたしと配偶者という一組の夫婦は
どれだけ奇妙なカップルにうつるのだろうか。
日本におけるコミュニケーション障害についてもふれてある。
そもそもイタリアで、コミュニケーション障害などといっても
おそらく理解してもらえないという。
はなしてなんぼ、のひとたちであり、
なぜコミュニケーションできないかを説明しないとゆるしてもらえない。
日本人の対外的なコミュニケーション能力のひくさは、
もちろん政治家をふくめてのことであり、
いまの日韓、日中のひえきった関係は、
ながらく日本的な文脈においてのみ
会話を成立させてきたツケであることに気づく。
彼らのコミュニケーションは、日本人以外に通用しないことが、
このところたてつづけにおきている外交問題であきらかになった。
ヤマザキさんは、だから欧米のスタイルがいちばん、
といっているのではない。
日本のよさもじゅうぶんにみとめたうえで、
ボーダーをこえ、もっと「外」へでる大切さをうったえている。
自分だけ、日本だけをかんがえるのではなく、
「他人の感覚を自分のものにできるひとは単純にかっこいいから」。
女性論もおもしろく、
「女子力」をいかそうとする日本女性の「媚」が
ほかの国の女性にはできないこと、
かたりあえない「お人形さん」的な日本女性では退屈であること、
「成熟の美」がなおざりにされ、
人為的な「美魔女」がもちあげられる不思議さについて
ヤマザキさんはくびをかしげている。
もちろんそれは、そうした女性をもとめる男性側の責任でもある。
イタリアでは「お人形さん」は相手にされないので、存在しない。
わかいころに日本をはなれ、
ひところは日本語をわすれかけていた、といいながら
この本につづられている文章のたくみさにはおどろかされた。
すばらしいリズムによるわかりやすい文章。
でありながら「ヤマザキマリ」という
人間の魅力もじゅうぶんにつたわってきて、
たくさんの「うまい!」というおどろきの線をひきながらよんだ。
ヤマザキさんのマンガだけでなく、
本のつづきもよみたくなるすばらしいデビュー作だ。
ヤマザキマリというより、マンガ『テルマエ・ロマエ』の原作者
といったほうがとおりがいいかもしれない。
わたしはこの作品を、ローマ時代の浴場と
いまの日本のお風呂事情をからめるという、
奇抜なアイデアだけでなりたっているときめつけ、
あまり評価していなかったけれど、
この本をよむと、ヤマザキさんが古代ローマ文明と、
ルネサンス時代のイタリアについての、ふかい理解者であることがわかる。
その知識と理解にうらづけされた作品だったから、
『テルマエ・ロマエ』はあんなに人気をあつめたのだ。
「生きる喜びを味わうことに貪欲で、
好奇心がひじょうに強く、失敗もへっちゃら、
活力がむんむんとみなぎっている熱い男たち」
がヤマザキさんはだいすきで、
そんな男たちがおおぜいうまれたのが古代ローマだ。
この本は「日本にもルネサンスを」、というねがいのもとに
ヤマザキさんの理想の男性についてかかれており、
女性論・人間論としてもたのしくよめた。
ヤマザキさんが熱っぽくかたるハドリアヌスとかプリニウス、
ラファエロのひととなりに、だんだんよむほうも感情移入してきて、
ということは正直いってほとんどなく、
わたしがおもしろかったのは、
ヤマサキさんの観察によるイタリア人論であり、
ヤマザキさんと、夫のペッピーノ氏との関係であり、
それらとの比較からみちびきだされる日本人と日本社会の特徴だ。
また、17歳のときに高校を中退して
イタリアへ留学したヤマザキさんもきわめて興味ぶかい観察対象であり、
『テルマエ・ロマエ』が発表されたおかげで、
ヤマザキさんの存在をしることができてほんとうによかった。
ヤマザキさんの夫のペッピーノ氏は、
イタリア人らしく、夫婦がかたりあう時間を大切にし、
しめきりをまえにヤマザキさんがどんなにいそがしくはたらいていても、
食事をふくめて家事のいっさいを手つだわない。
そんな配偶者の態度に、ヤマザキさんが反論しないのが不思議だけど、
論理的にかんがえれば、マンガの連載という
日本社会のしくみがおかしいのであり、
ヤマザキさんとしても妥協しなければならないのだろう。
「人生にお金は必要だけれど、
お金のために自分を犠牲にしてはもったいないと考えている。
夫婦の時間や食事を囲んだ語らいこそが、
人生を楽しむことだと信じてうたがっていません」
イタリア人からみれば、たとえば、わたしと配偶者という一組の夫婦は
どれだけ奇妙なカップルにうつるのだろうか。
日本におけるコミュニケーション障害についてもふれてある。
そもそもイタリアで、コミュニケーション障害などといっても
おそらく理解してもらえないという。
はなしてなんぼ、のひとたちであり、
なぜコミュニケーションできないかを説明しないとゆるしてもらえない。
日本人の対外的なコミュニケーション能力のひくさは、
もちろん政治家をふくめてのことであり、
いまの日韓、日中のひえきった関係は、
ながらく日本的な文脈においてのみ
会話を成立させてきたツケであることに気づく。
彼らのコミュニケーションは、日本人以外に通用しないことが、
このところたてつづけにおきている外交問題であきらかになった。
ヤマザキさんは、だから欧米のスタイルがいちばん、
といっているのではない。
日本のよさもじゅうぶんにみとめたうえで、
ボーダーをこえ、もっと「外」へでる大切さをうったえている。
自分だけ、日本だけをかんがえるのではなく、
「他人の感覚を自分のものにできるひとは単純にかっこいいから」。
女性論もおもしろく、
「女子力」をいかそうとする日本女性の「媚」が
ほかの国の女性にはできないこと、
かたりあえない「お人形さん」的な日本女性では退屈であること、
「成熟の美」がなおざりにされ、
人為的な「美魔女」がもちあげられる不思議さについて
ヤマザキさんはくびをかしげている。
もちろんそれは、そうした女性をもとめる男性側の責任でもある。
イタリアでは「お人形さん」は相手にされないので、存在しない。
わかいころに日本をはなれ、
ひところは日本語をわすれかけていた、といいながら
この本につづられている文章のたくみさにはおどろかされた。
すばらしいリズムによるわかりやすい文章。
でありながら「ヤマザキマリ」という
人間の魅力もじゅうぶんにつたわってきて、
たくさんの「うまい!」というおどろきの線をひきながらよんだ。
ヤマザキさんのマンガだけでなく、
本のつづきもよみたくなるすばらしいデビュー作だ。
2014年01月19日
祝 KDPでやっと本をつくる
KDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)
をつかって、やっと本をつくった。
年末年始のやすみでやるつもりだったのに、
なかなかキンドルへのアップロードまでたどりつかなかった。
参考にしたのは、倉下忠憲さんの
『KDPではじめるセルフ・パブリッシング』(C&R研究所)だ。
倉下さんは、
「テキストファイルの下ごしらえをしてから
レビュー状態に持っていくまでにかかった時間は45分ほど」
とかいておられるが、わたしはアップするだけで半日以上かかっている。
「EPUB3:簡単電子書籍作成」のソフトをつかい、
テキストと表紙を送信するのだけど、
これがなかなかうけいれてもらえない。
エンコーディングに問題があるようで、
なんどやっても「小見出しをつけてください」がでるだけだ。
キンドルのページにうつっても、
カタカナとローマ字でふりがなを入力するのがうまくいかない。
もうすこしでくじけそうになったけど、
もうすこしだけ、といろいろためしてみたら、なんとかできた。
内容は、これまでブログにかいてきた、
むすことのかかわりについての記事を22本あつめたものだ。
本のタイトルは、記事のひとつからとって
「むすこの誕生日に『ライ麦』をわたす」にした。
あたらしくつけたしたのは、「はじめに」だけで、
あとは誤字脱字をさらっとチェックしたぐらいの
「なんちゃって」出版だ。値段は1ドル。
こんなものがうれるとはおもえないけど、
それでも自分で本をつくったという事実がとにかくうれしい。
完全に自己満足でしかないけれど、
とにかくこの「出版」ははじめての体験であり、
これによってえられるよろこびは、また格別なものがある。
わたしのためにキンドルがKDPをつくり、
倉下さんがつかい方の手ほどきをしてくれたような気がする。
ブログにかくのはすきでも、本をつくるなんて
かんがえたことのなかったものにとって、
KDPはまったくあたらしい方向性をうみだしてくれた。
今回はじめて本をつくったといっても、
倉下さんの本でいうと全体の3分の1ほどを消化しただけで、
76ページにある
「しかし、ちょっと待ってください。
この『本』ってうれるんでしょうか」
にあるように、ここからまたべつの段階がまっている。
ほんとうの問題はこれからなのだろう。
どう企画をたて、どううれる本にしたてていくか。
このままでは、本をつくったというだけでしかない。
それに、フェイスブックやツイッターをつかった「宣伝」が
わたしはにがてだ。
でもまあ、それはこれからさきのはなしで、
きょうはささやかなしあわせにひたろう。
これでわたしも「作家」のひとりになれたのだ。
今夜のお酒はかくべつな味にちがいない。
これまで倉下さんの本を何冊もよみながら、
実践がともなわない消費的な読書におわっていた。
うしろめたさのぬけないダメな読者だったけど、
今回の本だけは、じっさいに自分で本をつくってみないと
ぜんぜん意味がなかったのでひと安心だ。
倉下さんの本にたすけられ、なんとかぶじに
「出版」までこぎつけたことをよろこんでいる。
をつかって、やっと本をつくった。
年末年始のやすみでやるつもりだったのに、
なかなかキンドルへのアップロードまでたどりつかなかった。
参考にしたのは、倉下忠憲さんの
『KDPではじめるセルフ・パブリッシング』(C&R研究所)だ。
倉下さんは、
「テキストファイルの下ごしらえをしてから
レビュー状態に持っていくまでにかかった時間は45分ほど」
とかいておられるが、わたしはアップするだけで半日以上かかっている。
「EPUB3:簡単電子書籍作成」のソフトをつかい、
テキストと表紙を送信するのだけど、
これがなかなかうけいれてもらえない。
エンコーディングに問題があるようで、
なんどやっても「小見出しをつけてください」がでるだけだ。
キンドルのページにうつっても、
カタカナとローマ字でふりがなを入力するのがうまくいかない。
もうすこしでくじけそうになったけど、
もうすこしだけ、といろいろためしてみたら、なんとかできた。
内容は、これまでブログにかいてきた、
むすことのかかわりについての記事を22本あつめたものだ。
本のタイトルは、記事のひとつからとって
「むすこの誕生日に『ライ麦』をわたす」にした。
あたらしくつけたしたのは、「はじめに」だけで、
あとは誤字脱字をさらっとチェックしたぐらいの
「なんちゃって」出版だ。値段は1ドル。
こんなものがうれるとはおもえないけど、
それでも自分で本をつくったという事実がとにかくうれしい。
完全に自己満足でしかないけれど、
とにかくこの「出版」ははじめての体験であり、
これによってえられるよろこびは、また格別なものがある。
わたしのためにキンドルがKDPをつくり、
倉下さんがつかい方の手ほどきをしてくれたような気がする。
ブログにかくのはすきでも、本をつくるなんて
かんがえたことのなかったものにとって、
KDPはまったくあたらしい方向性をうみだしてくれた。
今回はじめて本をつくったといっても、
倉下さんの本でいうと全体の3分の1ほどを消化しただけで、
76ページにある
「しかし、ちょっと待ってください。
この『本』ってうれるんでしょうか」
にあるように、ここからまたべつの段階がまっている。
ほんとうの問題はこれからなのだろう。
どう企画をたて、どううれる本にしたてていくか。
このままでは、本をつくったというだけでしかない。
それに、フェイスブックやツイッターをつかった「宣伝」が
わたしはにがてだ。
でもまあ、それはこれからさきのはなしで、
きょうはささやかなしあわせにひたろう。
これでわたしも「作家」のひとりになれたのだ。
今夜のお酒はかくべつな味にちがいない。
これまで倉下さんの本を何冊もよみながら、
実践がともなわない消費的な読書におわっていた。
うしろめたさのぬけないダメな読者だったけど、
今回の本だけは、じっさいに自分で本をつくってみないと
ぜんぜん意味がなかったのでひと安心だ。
倉下さんの本にたすけられ、なんとかぶじに
「出版」までこぎつけたことをよろこんでいる。
2014年01月18日
西部謙司さんによるWカップ分析「日本代表に見る夢」
『サッカー批評66号』の特集は「Wカップに夢はあるか?」。
西部謙司さんの記事「日本代表に見る夢」がよかったので紹介する。
「うん、なかなかいいんじゃないの。
同じグループに入った4カ国の人々がそう言っているなら、
それは疑いなく少しもよくない組み合わせである」(西部)
日本のサッカー関係者のおおくが、
「きびしいことにかわりはないが、そんなにわるくないグループ」
というみかたをしている。
ほかの国も、きっとそうおもっている。
だからこの西部さんのかきだしは的を射ており、とても効果的だ。
「『3強1弱の死のグループ』よりマシだが、
4強ないし4弱というのも同じくらい難しい組み合わせ」(西部)
なのだそうだ。
ただ、対戦の順番はいいという。
・グループのなかでいちばんつよいコロンビアと
3戦目にあたる
・うまくいけば、コロンビアはかつ必要がない状況になっていて、
メンバーをおとしてくるかもしれない
・ギリシャとの2戦目も、ひいてまもるとくずしにくいギリシャが、
1戦目のコロンビア戦でまけていれば、せめてこざるをえない
「普通に攻めてくるならさほど難しい相手ではない」(西部)
日本がグループリーグにかちのこるという意味だけでなく、
これまでのやり方をかえずにすむという点でわるくないグループなのだ。
・コートジボワールとは、互いに相手の長所を潰しながら
いかに自分たちのペースに引きこむかという主導権の奪い合い
・ギリシャは基本的に日本が攻めてギリシャが守る形
・コロンビアは相当な難敵だが、この試合で最悪勝ち点3が必要なら
攻めるしかない(西部)
というわけで、「これまでの強化プランを変えずにいけそうだ」と、
期待できる。
西部さんは
「今大会の使命は日本のサッカーを表現したうえで、
ベスト16以上の結果をだすこと」
としている。
この「使命」も、おおくのひとが同意するところだろう。
前回の南アフリカ大会では、直前に戦術を変更し、
ベスト16という結果をえたものの、
「やりのこし感」のある大会となった。
だから、こんどこそというおもいが、選手とファンの両方にある。
西部さんは、いまの日本代表をこう整理している。
・ポゼッションして攻めるのとカウンターを防ぐのが得意
・カウンターアタックも悪くない
・相手にボールを持たれて自陣でのプレーが増えると
ミスで自滅する
・ポゼッションできる場合でも
極端に引かれてしまうと点がとれなくなる
(しかし、改善できないわけではない)
なので、「問題は相手にボールを持たれてしまうケース」だ。
そのときにどうまもるか。
きょねんの11月におこなわれたオランダ・ベルギー遠征では、
この「まもり」の課題がうまくいった。
「前線からハメ込む守備で多少のメドが立ちつつある。
ここが良くなれば、日本は強豪相手でも勝てる可能性が残る。
あとは時の運だ。夢も希望もある」(西部)
あとは時の運なのだ。
なげやりみたいだけど、ここまでくるのにどれだけの紆余曲折をへたことか。
戦術をかえる選択はもはやなく、これまでのサッカーを、
Wカップでためすという最高の舞台がととのった。
「夢と希望」の両方をもちながら、
6月の本大会にのぞめることをよろこびたい。
西部謙司さんの記事「日本代表に見る夢」がよかったので紹介する。
「うん、なかなかいいんじゃないの。
同じグループに入った4カ国の人々がそう言っているなら、
それは疑いなく少しもよくない組み合わせである」(西部)
日本のサッカー関係者のおおくが、
「きびしいことにかわりはないが、そんなにわるくないグループ」
というみかたをしている。
ほかの国も、きっとそうおもっている。
だからこの西部さんのかきだしは的を射ており、とても効果的だ。
「『3強1弱の死のグループ』よりマシだが、
4強ないし4弱というのも同じくらい難しい組み合わせ」(西部)
なのだそうだ。
ただ、対戦の順番はいいという。
・グループのなかでいちばんつよいコロンビアと
3戦目にあたる
・うまくいけば、コロンビアはかつ必要がない状況になっていて、
メンバーをおとしてくるかもしれない
・ギリシャとの2戦目も、ひいてまもるとくずしにくいギリシャが、
1戦目のコロンビア戦でまけていれば、せめてこざるをえない
「普通に攻めてくるならさほど難しい相手ではない」(西部)
日本がグループリーグにかちのこるという意味だけでなく、
これまでのやり方をかえずにすむという点でわるくないグループなのだ。
・コートジボワールとは、互いに相手の長所を潰しながら
いかに自分たちのペースに引きこむかという主導権の奪い合い
・ギリシャは基本的に日本が攻めてギリシャが守る形
・コロンビアは相当な難敵だが、この試合で最悪勝ち点3が必要なら
攻めるしかない(西部)
というわけで、「これまでの強化プランを変えずにいけそうだ」と、
期待できる。
西部さんは
「今大会の使命は日本のサッカーを表現したうえで、
ベスト16以上の結果をだすこと」
としている。
この「使命」も、おおくのひとが同意するところだろう。
前回の南アフリカ大会では、直前に戦術を変更し、
ベスト16という結果をえたものの、
「やりのこし感」のある大会となった。
だから、こんどこそというおもいが、選手とファンの両方にある。
西部さんは、いまの日本代表をこう整理している。
・ポゼッションして攻めるのとカウンターを防ぐのが得意
・カウンターアタックも悪くない
・相手にボールを持たれて自陣でのプレーが増えると
ミスで自滅する
・ポゼッションできる場合でも
極端に引かれてしまうと点がとれなくなる
(しかし、改善できないわけではない)
なので、「問題は相手にボールを持たれてしまうケース」だ。
そのときにどうまもるか。
きょねんの11月におこなわれたオランダ・ベルギー遠征では、
この「まもり」の課題がうまくいった。
「前線からハメ込む守備で多少のメドが立ちつつある。
ここが良くなれば、日本は強豪相手でも勝てる可能性が残る。
あとは時の運だ。夢も希望もある」(西部)
あとは時の運なのだ。
なげやりみたいだけど、ここまでくるのにどれだけの紆余曲折をへたことか。
戦術をかえる選択はもはやなく、これまでのサッカーを、
Wカップでためすという最高の舞台がととのった。
「夢と希望」の両方をもちながら、
6月の本大会にのぞめることをよろこびたい。
2014年01月17日
『のりたまと煙突』(星野博美) ネコずきへの一線をこえる瞬間
『のりたまと煙突』(星野博美・文藝春秋)
20代のころ、ひっこしたさきにネコが2匹いて、
さかんに星野さんの部屋にはいりたがる。
ネコに名前をつけてしまったらおしまいと、
便宜的に「しろねこ」と「のらねこ」とよび、
ネコたちにとりこまれるのをこばんでいた。
星野さんはそれまで「どちらかといえば積極的に猫が嫌いだった」
のだそうだ。
しかし、ついに「しろねこ」は子ネコをつれて星野さんの部屋にやってきた。
「『ころ、おいで。こわくないよ』
気づいたら、私は仔猫のことをすでに『ころ』と呼んでいた。
そして大急ぎで近所のコンビニエンスストアへ走り、にぼしを買った。
『さあ、しろもくろもおいで』
このとき、私は一線を踏み越えてしまったのだ。(中略)
しばらくすると、今度はくろがちっこいのを二匹連れてきた。
私がしろの仔猫を受け入れたのを見て、
くろは『機が熟した』と判断したようだった。
わたしはその二匹にも名前を付けざるを得なかった。
しかしそれはまだほんの序章に過ぎなかった。
しろのお腹が再び大きくなり始めていることに、
その時はまだ気づいていなかったのである。
こうして私の人生は転落していった」
この本は、星野さんの日常がつづられた連作エッセイで、
ネコたちがしばしば登場する。
第一章のまえに「本書に登場する猫の系図」がのっているほどだから、
主役といってもいいくらいだ。
なにしろ、庭にやってくる26匹のネコに星野さんは名前をつけてきた。
タイトルの「のりたま」も、「のり」と「たま」という兄弟ネコの名前で、
こんなふうにひらがな二文字の名前をつけるようにしていたら、
もうあたらしい名前をおもいつかなくなったそうだ。
それまで「積極的に猫が嫌いだった」ひとが
こんなにすきになるは、ネコについていうとそうめずらしくない。
この本のすばらしさは、ネコにたいして微妙な心理をだいていたひとが、
どんなふうに一線をこえるのかを、的確に記録したことにある。
わたしは、どんなきっかけでネコにとりこまれたのかおぼえてないし、
わたしの配偶者も、いまでこそはなしかけたりするけど、
まえはどちらかというと「猫が嫌いだった」ひとだ。
みんな、それぞれに一線をこえた瞬間をもっているはずだけど、
星野さんみたいにはっきり記憶しているひとは、あまりいないのではないか。
すこしまえの新聞記事に、ネコのえさ代がたりなくて
あきすをくりかえしていた男性のことがのっていた。
このひとは、自宅とかし倉庫で20匹のネコをかい、
そのほかに公園やコンビニの駐車場にあつまる100匹のネコに
えさをあたえていたという。
「ネコにほおずりするのが至福の時間だった」そうで、
えさ代が1日に2万5000円にもなっていたのだから、
新聞にのるだけの「事件」といえるだろう。
このひとなどは、何本もの線をこえてしまったかんじだ。
それでもいちばんはじめの線がどこかにあったはずで、
記事には
・ネコをかいはじめたのが1993年
・2010年5月ごろからのらネコに残飯をあたえるようになった
・2011年8月に無職になり、同居している女性のお金で
えさをあたえていた
・2012年9月にネコが急激にふえてお金がたりなくなり
あきすをおもいつく
と、はじめのころは「ふつう」にネコとつきあっていたのが、
きゅうな坂をころげおちるように、あきすまでつっぱしっていったのが
よくまとめられている。
同情はしないけれど、なんだかひとごとではないような事件で、
こんなふうにネコにとらわれていくことが、
あらかじめ予定されていたみたいな、自然なながれをかんじる。
つかまった男性からえさをもらえなくなったネコたちが
ぶじにこの冬をのりきれるようねがっている。
20代のころ、ひっこしたさきにネコが2匹いて、
さかんに星野さんの部屋にはいりたがる。
ネコに名前をつけてしまったらおしまいと、
便宜的に「しろねこ」と「のらねこ」とよび、
ネコたちにとりこまれるのをこばんでいた。
星野さんはそれまで「どちらかといえば積極的に猫が嫌いだった」
のだそうだ。
しかし、ついに「しろねこ」は子ネコをつれて星野さんの部屋にやってきた。
「『ころ、おいで。こわくないよ』
気づいたら、私は仔猫のことをすでに『ころ』と呼んでいた。
そして大急ぎで近所のコンビニエンスストアへ走り、にぼしを買った。
『さあ、しろもくろもおいで』
このとき、私は一線を踏み越えてしまったのだ。(中略)
しばらくすると、今度はくろがちっこいのを二匹連れてきた。
私がしろの仔猫を受け入れたのを見て、
くろは『機が熟した』と判断したようだった。
わたしはその二匹にも名前を付けざるを得なかった。
しかしそれはまだほんの序章に過ぎなかった。
しろのお腹が再び大きくなり始めていることに、
その時はまだ気づいていなかったのである。
こうして私の人生は転落していった」
この本は、星野さんの日常がつづられた連作エッセイで、
ネコたちがしばしば登場する。
第一章のまえに「本書に登場する猫の系図」がのっているほどだから、
主役といってもいいくらいだ。
なにしろ、庭にやってくる26匹のネコに星野さんは名前をつけてきた。
タイトルの「のりたま」も、「のり」と「たま」という兄弟ネコの名前で、
こんなふうにひらがな二文字の名前をつけるようにしていたら、
もうあたらしい名前をおもいつかなくなったそうだ。
それまで「積極的に猫が嫌いだった」ひとが
こんなにすきになるは、ネコについていうとそうめずらしくない。
この本のすばらしさは、ネコにたいして微妙な心理をだいていたひとが、
どんなふうに一線をこえるのかを、的確に記録したことにある。
わたしは、どんなきっかけでネコにとりこまれたのかおぼえてないし、
わたしの配偶者も、いまでこそはなしかけたりするけど、
まえはどちらかというと「猫が嫌いだった」ひとだ。
みんな、それぞれに一線をこえた瞬間をもっているはずだけど、
星野さんみたいにはっきり記憶しているひとは、あまりいないのではないか。
すこしまえの新聞記事に、ネコのえさ代がたりなくて
あきすをくりかえしていた男性のことがのっていた。
このひとは、自宅とかし倉庫で20匹のネコをかい、
そのほかに公園やコンビニの駐車場にあつまる100匹のネコに
えさをあたえていたという。
「ネコにほおずりするのが至福の時間だった」そうで、
えさ代が1日に2万5000円にもなっていたのだから、
新聞にのるだけの「事件」といえるだろう。
このひとなどは、何本もの線をこえてしまったかんじだ。
それでもいちばんはじめの線がどこかにあったはずで、
記事には
・ネコをかいはじめたのが1993年
・2010年5月ごろからのらネコに残飯をあたえるようになった
・2011年8月に無職になり、同居している女性のお金で
えさをあたえていた
・2012年9月にネコが急激にふえてお金がたりなくなり
あきすをおもいつく
と、はじめのころは「ふつう」にネコとつきあっていたのが、
きゅうな坂をころげおちるように、あきすまでつっぱしっていったのが
よくまとめられている。
同情はしないけれど、なんだかひとごとではないような事件で、
こんなふうにネコにとらわれていくことが、
あらかじめ予定されていたみたいな、自然なながれをかんじる。
つかまった男性からえさをもらえなくなったネコたちが
ぶじにこの冬をのりきれるようねがっている。
2014年01月16日
岡田斗司夫氏は「悩みのるつぼ」にどうこたえてきたか
『オタクの息子になやんでます』(岡田斗司夫・幻冬舎新書)
朝日新聞の土曜日版「be」に「悩みのるつぼ」という
相談コーナーがあって、
岡田さんをふくめ4人の方が読者からの相談にこたえている。
この本は、ただ質問と回答をならべただけでなく、
どういうかんがえ方からそのこたえをみちびきだしたかという、
思考回路をあきらかにしたものだ。
回答者の4人というのは、岡田さんのほかに
上野千鶴子さん・車谷長吉さん(いまは美輪明宏さん)
・金子勝さんというメンバーで、
岡田さんとしては当然だれよりもおもしろい回答をかくことをめざしている。
わたしもこのコーナーをよくよんでいて、
岡田さんの回答はたしかに意外性があり、おもしろく、役にもたちそうだ。
岡田さんは、どんな方法で質問にとりくんだのだろう。
まず、相談者は何をもとめているかを分析する。
質問には「どうしたら◯◯になるでしょうか?」など、
自分がなにをしりたいかがたいていかかれているけれど、
それがほんとうに相談者のいちばんしりたいことかというと、
どうもそうではない。
いろいろうったえてきているなかで、このひとはどんな回答をもとめ、
どんな表現ならこころにとどくのかを岡田さんは慎重にかんがえる。
また、相談者のうしろには、おなじ問題になやむ
10万のひとがいる、と岡田さんはとらえている。
うえから目線で説教しても相手にはつたわらない。
そのひとの立場で、そのひとの味方になることで、
その10万人にもことばをとどけるつもりで回答をかく。
「分析」「仕分け」など、11個の思考ツールをつかっておられ、
ひとつひとつについてこまかな説明がされている。
わたしがひかれたのは、「仕分け」についての
・解決可能な問題を仕分ける
だ。
ある女性からの相談をまとめてみると、
・27歳で、7歳の子がいるシングルマザー
・中絶する予定の前日に実家から逃げ、一人で子供を育ててきた
・自分が3歳のころに両親が離婚。3歳のときにきた母親に虐待されつづけた
:虐待された子は虐待する可能性があるときき、子どもとすごすのがこわい
・昼夜はたらいており、息子の勉強を見てあげられず、勉強嫌いになった
・高卒後に派遣の会社にはいり、上司にキスされたショックで退職
・夜の仕事が本業になり、じきにお客さんの子どもができた
・自分が入院しているあいだに彼は浮気して、
自分の貯金を全部もっていってしまう。縁がきれてよかったとおもっている
・いまは愛人のような形で生活をたすけてくれる相手がいる
・しかし、マンションのローンをはらっておらず、
あと3ヶ月ででていかなければならない
・ずっと連絡してなかった両親にたすけをもとめたが、
「自分の責任」とつきはなされ、どうすればいいかわからない
これだけよむと、もう問題が山づみで、
どこから手をつけたらいいのかわからなくなってくる。
朝日新聞の担当者も「岡田さん、大変な質問が来ました」と深刻にとらえ、
つけられた仮題が「壮絶、シングルマザー」だったという。
でも、これらの「問題」をよくかんがえてみると
・27歳で、7歳の子がいるシングルマザー
→ いまは関係ない
・中絶する予定の前日に実家から逃げ、一人で子供を育ててきた
→ たいへんでしたね。でも、いまは関係ない
・自分が3歳のころに両親が離婚。3歳のときにきた母親に虐待されつづけた
:虐待された子は虐待する可能性があるときき、子どもとすごすのがこわい
→ トラウマでたいへんかもしれないけど、
「いまこのひとがなやむべき問題ではない」
・昼夜はたらいており、息子の勉強を見てあげられず、勉強嫌いになった
→ いまは関係ない
・高卒後に派遣の会社にはいり、上司にキスされたショックで退職
→ いまは関係ない
・夜の仕事が本業になり、じきにお客さんの子どもができた
→ いまは関係ない
・自分が入院しているあいだに彼は浮気して、
自分の貯金を全部もっていってしまう。縁がきれてよかったとおもっている
→ 縁がきれてよかったとおもっているのだから、いまは関係ない
・いまは愛人のような形で生活をたすけてくれる相手がいる
→ 「問題」かもしれないけど、とりあえずいまはよし
・ずっと連絡してなかった両親にたすけをもとめたが、
「自分の責任」とつきはなされ、どうすればいいかわからない
→ だめといわれたのだから、しょうがない
けっきょく、このひとがかんがえなければならないのは、
・しかし、マンションのローンをはらっておらず、
あと3ヶ月ででていかなければならない
というこの部分だけに整理できる。
ひとは、おもすぎる荷物をまえにするとうごけなくなる。
「解決可能な悩みだけにフォーカスを合わせる」ことで、
身がるになり、解決にむけてうごきだせるようになる。
岡田さんは回答の最期に、
「今、あなたが考えるべきは『自分の稼ぎで住める場所を探す』だけのはず。
前だけをしっかり向いて、がんばってください」
とかかれたそうだ。
わたしの仕事でも、支援計画といって、
利用者のニーズをききだして、ひつような支援を整理することがある。
研修会などでよくあるのは、いろいろなケースについて、
グループで検討するというもので、このときに問題が山づみで、
どこから手をつけていいのかわからないことがおおい。
また、ききだしたとおもっているニーズが、
ほんとうはべつのことがいいたかった、ということもあり、
岡田さんのこの本は、課題の分析について、
じっさいに役だつかんがえ方をおしえてくれた。
朝日新聞の「悩み相談」というと、
中島らもさんの「明るい悩み相談室」をについて
どうしてもふれておきたい。
「じゃがいもを焼いてミソをつけてたべると死ぬ、といわれたが本当か?」
という相談にたいして、らもさんは
「本当です、僕の友人の医者のはなしでも・・・」とやったのだ。
じゃがいもにミソをつけてたべようがどうしようが、
いつかは人間は死ぬ、という趣旨だったのに、
その回答がものすごい波紋をよび、おおさわぎになった、という
有名な「焼きじゃがいも事件」だ。
岡田さんのするごいこたえに感心しつつ、
らもさんのサービス精神がわすれられない。
「だれよりもおもしろいこたえを」と
ほかの回答者を意識する岡田氏は、
もしらもさんがメンバーにまじっていたら、
どう返答をいじってくるだろうか。
朝日新聞の土曜日版「be」に「悩みのるつぼ」という
相談コーナーがあって、
岡田さんをふくめ4人の方が読者からの相談にこたえている。
この本は、ただ質問と回答をならべただけでなく、
どういうかんがえ方からそのこたえをみちびきだしたかという、
思考回路をあきらかにしたものだ。
回答者の4人というのは、岡田さんのほかに
上野千鶴子さん・車谷長吉さん(いまは美輪明宏さん)
・金子勝さんというメンバーで、
岡田さんとしては当然だれよりもおもしろい回答をかくことをめざしている。
わたしもこのコーナーをよくよんでいて、
岡田さんの回答はたしかに意外性があり、おもしろく、役にもたちそうだ。
岡田さんは、どんな方法で質問にとりくんだのだろう。
まず、相談者は何をもとめているかを分析する。
質問には「どうしたら◯◯になるでしょうか?」など、
自分がなにをしりたいかがたいていかかれているけれど、
それがほんとうに相談者のいちばんしりたいことかというと、
どうもそうではない。
いろいろうったえてきているなかで、このひとはどんな回答をもとめ、
どんな表現ならこころにとどくのかを岡田さんは慎重にかんがえる。
また、相談者のうしろには、おなじ問題になやむ
10万のひとがいる、と岡田さんはとらえている。
うえから目線で説教しても相手にはつたわらない。
そのひとの立場で、そのひとの味方になることで、
その10万人にもことばをとどけるつもりで回答をかく。
「分析」「仕分け」など、11個の思考ツールをつかっておられ、
ひとつひとつについてこまかな説明がされている。
わたしがひかれたのは、「仕分け」についての
・解決可能な問題を仕分ける
だ。
ある女性からの相談をまとめてみると、
・27歳で、7歳の子がいるシングルマザー
・中絶する予定の前日に実家から逃げ、一人で子供を育ててきた
・自分が3歳のころに両親が離婚。3歳のときにきた母親に虐待されつづけた
:虐待された子は虐待する可能性があるときき、子どもとすごすのがこわい
・昼夜はたらいており、息子の勉強を見てあげられず、勉強嫌いになった
・高卒後に派遣の会社にはいり、上司にキスされたショックで退職
・夜の仕事が本業になり、じきにお客さんの子どもができた
・自分が入院しているあいだに彼は浮気して、
自分の貯金を全部もっていってしまう。縁がきれてよかったとおもっている
・いまは愛人のような形で生活をたすけてくれる相手がいる
・しかし、マンションのローンをはらっておらず、
あと3ヶ月ででていかなければならない
・ずっと連絡してなかった両親にたすけをもとめたが、
「自分の責任」とつきはなされ、どうすればいいかわからない
これだけよむと、もう問題が山づみで、
どこから手をつけたらいいのかわからなくなってくる。
朝日新聞の担当者も「岡田さん、大変な質問が来ました」と深刻にとらえ、
つけられた仮題が「壮絶、シングルマザー」だったという。
でも、これらの「問題」をよくかんがえてみると
・27歳で、7歳の子がいるシングルマザー
→ いまは関係ない
・中絶する予定の前日に実家から逃げ、一人で子供を育ててきた
→ たいへんでしたね。でも、いまは関係ない
・自分が3歳のころに両親が離婚。3歳のときにきた母親に虐待されつづけた
:虐待された子は虐待する可能性があるときき、子どもとすごすのがこわい
→ トラウマでたいへんかもしれないけど、
「いまこのひとがなやむべき問題ではない」
・昼夜はたらいており、息子の勉強を見てあげられず、勉強嫌いになった
→ いまは関係ない
・高卒後に派遣の会社にはいり、上司にキスされたショックで退職
→ いまは関係ない
・夜の仕事が本業になり、じきにお客さんの子どもができた
→ いまは関係ない
・自分が入院しているあいだに彼は浮気して、
自分の貯金を全部もっていってしまう。縁がきれてよかったとおもっている
→ 縁がきれてよかったとおもっているのだから、いまは関係ない
・いまは愛人のような形で生活をたすけてくれる相手がいる
→ 「問題」かもしれないけど、とりあえずいまはよし
・ずっと連絡してなかった両親にたすけをもとめたが、
「自分の責任」とつきはなされ、どうすればいいかわからない
→ だめといわれたのだから、しょうがない
けっきょく、このひとがかんがえなければならないのは、
・しかし、マンションのローンをはらっておらず、
あと3ヶ月ででていかなければならない
というこの部分だけに整理できる。
ひとは、おもすぎる荷物をまえにするとうごけなくなる。
「解決可能な悩みだけにフォーカスを合わせる」ことで、
身がるになり、解決にむけてうごきだせるようになる。
岡田さんは回答の最期に、
「今、あなたが考えるべきは『自分の稼ぎで住める場所を探す』だけのはず。
前だけをしっかり向いて、がんばってください」
とかかれたそうだ。
わたしの仕事でも、支援計画といって、
利用者のニーズをききだして、ひつような支援を整理することがある。
研修会などでよくあるのは、いろいろなケースについて、
グループで検討するというもので、このときに問題が山づみで、
どこから手をつけていいのかわからないことがおおい。
また、ききだしたとおもっているニーズが、
ほんとうはべつのことがいいたかった、ということもあり、
岡田さんのこの本は、課題の分析について、
じっさいに役だつかんがえ方をおしえてくれた。
朝日新聞の「悩み相談」というと、
中島らもさんの「明るい悩み相談室」をについて
どうしてもふれておきたい。
「じゃがいもを焼いてミソをつけてたべると死ぬ、といわれたが本当か?」
という相談にたいして、らもさんは
「本当です、僕の友人の医者のはなしでも・・・」とやったのだ。
じゃがいもにミソをつけてたべようがどうしようが、
いつかは人間は死ぬ、という趣旨だったのに、
その回答がものすごい波紋をよび、おおさわぎになった、という
有名な「焼きじゃがいも事件」だ。
岡田さんのするごいこたえに感心しつつ、
らもさんのサービス精神がわすれられない。
「だれよりもおもしろいこたえを」と
ほかの回答者を意識する岡田氏は、
もしらもさんがメンバーにまじっていたら、
どう返答をいじってくるだろうか。
2014年01月15日
宮崎駿さんがといかける「みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?」
砂田麻美さんがスタジオジブリにかよって『夢と狂気の王国』
という映画をとられた。
一年間の取材をつうじ、砂田さんは
ジブリならではのはなしをききだしている。
そのときのようすを砂田さんにインタビューした記事が「cakes」にのっていた。
「宮崎監督が『みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?』
って問いかけるんです。
『鈴木さんを見ていると、そうじゃないと思うんだけど』って。
彼らは、自分の幸せや自己実現のためではなく、
ただ、今やるべきことをやってきた人だと思うんですよ」
というはなしにがっくりくる。
そうだろうなー、だからおれはいつまでも未熟なのだ。
ひとが、自分のしあわせをいうようになったのは、
ほんのごく最近はじまったかんがえ方であり、
それまでは生まれた環境をそのままうけいれて
個人のためにではなく、その集落のことだけを
かんがえざるをえなかった。
たとえば風の谷の、族長のむすめとして生まれたナウシカは、
自分のやりたいこと、自分のしあわせのために生きるわけにいかない。
風の谷の村人たちも、自分のことはいわず、
「風の谷」のことだけをかんがえる。
それが「しあわせ」な生き方かどうかはわからないけれど、
そもそも「しあわせ」になる、という発想がないのだろう。
わたしのまわりにも、自分のことはぜんぜんだいじにしないで、
いつもまわりのひとに、どうやったらよろこんでもらえるかをかんがえている
神さまみたいなひとがいる。
そんなひとといっしょに仕事をすると、
お金がどうこうではなく、いい仕事がしたいと
わたしでもおもうし(ながくはつづかなかった)、
魅力があるので、そのひとのまわりには
自然とひとがあつまってくる。
『ノルウェイの森』で「僕」が永沢さんに
大切にしていることをたずねるシーンがある。
「紳士であることだ」
紳士とは、とさらにワタナベくんがたずねると、
「やるべきことをやることだ」
と永沢さんはこたえる。
永沢さんがそんなことをいうとずっこけたくなるけれど、
あのひとはほんとうにそういう規範で生きているようだ。
それ以来、わたしもときどきこのことばをおもいだし、
「やるべきことをやること」と自分にといただすけど、
ながくはつづかない。
どうしても、やるべきことよりも、やりたいことのほうへいってしまう。
自分のしあわせとか、自己実現とかをいうのは、
それだけ世の中がゆたかになり、
自分のことをかんがえる余裕がでてきたからだろう。
でも、「しあわせ」や「わたしがほんとうにやりたいこと」などを、
いくらかんがえてもこたえはみつからない。
宮崎駿さんは
「目の前のことを、一生懸命やりなさい」
「自分の個性を出そうとか、
何か人と違ったことをしようって頭で考える前に、
『まず、働け』」
といわれている。
かんがえているだけではだめで、
とにかく一生懸命はたらくこと。
わたしは自分がもういい年齢(52)になったことをいいわけに、
そろそろすきなことをしてもいいころ、と楽なほうににげるけど、
宮崎さんや鈴木さんは、ぜったいに自分のことなんかいわない。
先日いつものように体育館へトレーニングにいくと、
しりあいの養護学校の先生がおられた。
目のよくみえない女性について、
ランニングマシンのつかい方を説明されている。
もうすぐひらかれる大会にむけて、
練習をつんでこられているのだそうだ。
どれだけの頻度かはたずねなかったけど、
もうずっとボランティアとしてかかわっておられるのがわかる。
なんだか自分が自分だけのことばかりかんがえている
つまらない人間におもえてきた。
とっさに頭にうかんだのは、
なにかボランティアをやろう、という
あまりにもお気楽な発想で、
でもほんとうに、すこし自分をはなれて
ひとのためになにかしたいとおもった。
運動や、外国人への手だすけでだったら
なにかわたしにできることがあるかもしれない。
そんなことより仕事に熱をいれろ、という
つっこみもあるだろうが、
仕事とはなれたところで、なにか関係をつくれたほうがおもしろそうだ。
「みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?」
は、自分ばかりを大切にしてきたわたしに、
ジワジワときいてくるおもいといかけだ。
という映画をとられた。
一年間の取材をつうじ、砂田さんは
ジブリならではのはなしをききだしている。
そのときのようすを砂田さんにインタビューした記事が「cakes」にのっていた。
「宮崎監督が『みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?』
って問いかけるんです。
『鈴木さんを見ていると、そうじゃないと思うんだけど』って。
彼らは、自分の幸せや自己実現のためではなく、
ただ、今やるべきことをやってきた人だと思うんですよ」
というはなしにがっくりくる。
そうだろうなー、だからおれはいつまでも未熟なのだ。
ひとが、自分のしあわせをいうようになったのは、
ほんのごく最近はじまったかんがえ方であり、
それまでは生まれた環境をそのままうけいれて
個人のためにではなく、その集落のことだけを
かんがえざるをえなかった。
たとえば風の谷の、族長のむすめとして生まれたナウシカは、
自分のやりたいこと、自分のしあわせのために生きるわけにいかない。
風の谷の村人たちも、自分のことはいわず、
「風の谷」のことだけをかんがえる。
それが「しあわせ」な生き方かどうかはわからないけれど、
そもそも「しあわせ」になる、という発想がないのだろう。
わたしのまわりにも、自分のことはぜんぜんだいじにしないで、
いつもまわりのひとに、どうやったらよろこんでもらえるかをかんがえている
神さまみたいなひとがいる。
そんなひとといっしょに仕事をすると、
お金がどうこうではなく、いい仕事がしたいと
わたしでもおもうし(ながくはつづかなかった)、
魅力があるので、そのひとのまわりには
自然とひとがあつまってくる。
『ノルウェイの森』で「僕」が永沢さんに
大切にしていることをたずねるシーンがある。
「紳士であることだ」
紳士とは、とさらにワタナベくんがたずねると、
「やるべきことをやることだ」
と永沢さんはこたえる。
永沢さんがそんなことをいうとずっこけたくなるけれど、
あのひとはほんとうにそういう規範で生きているようだ。
それ以来、わたしもときどきこのことばをおもいだし、
「やるべきことをやること」と自分にといただすけど、
ながくはつづかない。
どうしても、やるべきことよりも、やりたいことのほうへいってしまう。
自分のしあわせとか、自己実現とかをいうのは、
それだけ世の中がゆたかになり、
自分のことをかんがえる余裕がでてきたからだろう。
でも、「しあわせ」や「わたしがほんとうにやりたいこと」などを、
いくらかんがえてもこたえはみつからない。
宮崎駿さんは
「目の前のことを、一生懸命やりなさい」
「自分の個性を出そうとか、
何か人と違ったことをしようって頭で考える前に、
『まず、働け』」
といわれている。
かんがえているだけではだめで、
とにかく一生懸命はたらくこと。
わたしは自分がもういい年齢(52)になったことをいいわけに、
そろそろすきなことをしてもいいころ、と楽なほうににげるけど、
宮崎さんや鈴木さんは、ぜったいに自分のことなんかいわない。
先日いつものように体育館へトレーニングにいくと、
しりあいの養護学校の先生がおられた。
目のよくみえない女性について、
ランニングマシンのつかい方を説明されている。
もうすぐひらかれる大会にむけて、
練習をつんでこられているのだそうだ。
どれだけの頻度かはたずねなかったけど、
もうずっとボランティアとしてかかわっておられるのがわかる。
なんだか自分が自分だけのことばかりかんがえている
つまらない人間におもえてきた。
とっさに頭にうかんだのは、
なにかボランティアをやろう、という
あまりにもお気楽な発想で、
でもほんとうに、すこし自分をはなれて
ひとのためになにかしたいとおもった。
運動や、外国人への手だすけでだったら
なにかわたしにできることがあるかもしれない。
そんなことより仕事に熱をいれろ、という
つっこみもあるだろうが、
仕事とはなれたところで、なにか関係をつくれたほうがおもしろそうだ。
「みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?」
は、自分ばかりを大切にしてきたわたしに、
ジワジワときいてくるおもいといかけだ。
2014年01月14日
日本文明が世界に貢献できること
NHKスペシャルで、”日本式”生活インフラについてとりあげていた。
日本人にとって、あたりまえだとおもっている
水道の水がのめることや、正確な交通機関、宅配便などが、
世界ではものすごくありがたサービスだという。
アニメやメイド喫茶がクールといわれ、
あらためてその価値に気づいたりしてきたけど、
ひとつひとつのサービスをつつんでいる
システムそのものがほかの国ではありえない水準にあるのだ。
また、日本にきていちばんおどろいたのは、
靴屋さんで、店員さんがひざかがみになって靴をえらんでくれたこと、
とはなすひともいた。
こういう「おもてなし」のこころは、
たしかに日本ならではのものだろう。
日本にいると、あまりにもあたりまえの「環境」なので、
安全で清潔で親切なこの国のよさを、ついみのがしてしまいがちだ。
日本式生活インフラというと、なんのことかわかりにくいけど、
これは、日本文明そのものといっていいのではないか。
いぜん梅棹忠夫さんが、電車の車両は文化であり、
電車を運行させるシステムが文明、というたとえで
文化と文明のちがいを説明されていた。
日本の車両をほかの国にもっていっても、
1分30秒間隔で安全にはしらせることはできない。
ひとつひとつの装置をどうくみあわせるかという
システムがちがうのだ。
各国には、それぞれの文化が根づいている。
ハンバーガーやコーラなど、文化は輸出可能だ。
文明はどうだろうか。
古代文明やローマ帝国など、ひとつの国がさかえると、
その勢力をほかの地域にもひろげていったように、
文明もまた発祥の地からほかの場所へと移植されていく。
正確に電車をはしらせるシステムや、
つぎの日にかならず配達されるという宅配便サービスが、
ほかの国でもひろがる可能性はじゅうぶんあるだろう。
番組では、給食システムやスーパー銭湯など、
日本にしかなじまないサービスかとおもっていたものが、
ほかの国でもとりいれられている例が紹介されている。
あたらしいものだけでなく、くみとり式のトイレだって、
リサイクルのきく、とても便利なしくみなのだという。
世界ではおおくのひとがトイレなしで生活しており、
これからそのひとたちが水洗トイレをつかえるようにととのえるのは、
現実的な解決策ではない。
そんなときにはくみとり式のトイレがやくにたつ。
このごろ日本製品は、韓国や中国製品におされて元気がないけれど、
システム全体としては日本のきめこまやかさはずばぬけている。
日本文明そのものの輸出という手があったのだ。
しかし、せっかくの日本のつよみも、
外国政府からの受注には、なかなかむすびつかないという。
相手国の事情にあわせることが、日本企業にはなかなかむつかしく、
外国のプロジェクトばかり採用されていく。
番組では、どうすれば「かせぐ力」となるか、
という問題意識でまとめようとしていたけど、
ここらへんにくると、わたしにはほとんど興味がわいてこない。
こんなふうにビジネスのはなしにするとおもしろくなくなる。
日本には独自の発達をとげてきたユニークな文明があり、
外国のおおくがそのすばらしさに気づきはじめている。
もっと日本文明ならではの、オリジナルなちからを強調できないものか。
資源ごみの回収や、健康診断車の巡回など、
地方自治体がこまかいノウハウをこれまでつみあげており、
外国から研修にまねいて、普及にちからをかしている町も紹介されていた。
おおくの国にとって、しんじられない便利なサービスが
スムーズに運用されている日本は、
日本文明の輸出というかたちで世界に貢献できる。
インドのひとたちがイメージする日本は、
1位が先進技術の国、というのはともかくとして、
2位に「平和を愛する国」があげられているという。
日本の発展は、製品の品質によるものだけでなく、
これまでにきずいてきた、
こんなすばらしいイメージのおかげかもしれない。
しかし、そのイメージはイメージだけになりつつある。
日本文明が世界にひろがっていくことで、
世界の平和に協力することができれば、
それがいちばん日本がほこれることではないだろうか。
日本人にとって、あたりまえだとおもっている
水道の水がのめることや、正確な交通機関、宅配便などが、
世界ではものすごくありがたサービスだという。
アニメやメイド喫茶がクールといわれ、
あらためてその価値に気づいたりしてきたけど、
ひとつひとつのサービスをつつんでいる
システムそのものがほかの国ではありえない水準にあるのだ。
また、日本にきていちばんおどろいたのは、
靴屋さんで、店員さんがひざかがみになって靴をえらんでくれたこと、
とはなすひともいた。
こういう「おもてなし」のこころは、
たしかに日本ならではのものだろう。
日本にいると、あまりにもあたりまえの「環境」なので、
安全で清潔で親切なこの国のよさを、ついみのがしてしまいがちだ。
日本式生活インフラというと、なんのことかわかりにくいけど、
これは、日本文明そのものといっていいのではないか。
いぜん梅棹忠夫さんが、電車の車両は文化であり、
電車を運行させるシステムが文明、というたとえで
文化と文明のちがいを説明されていた。
日本の車両をほかの国にもっていっても、
1分30秒間隔で安全にはしらせることはできない。
ひとつひとつの装置をどうくみあわせるかという
システムがちがうのだ。
各国には、それぞれの文化が根づいている。
ハンバーガーやコーラなど、文化は輸出可能だ。
文明はどうだろうか。
古代文明やローマ帝国など、ひとつの国がさかえると、
その勢力をほかの地域にもひろげていったように、
文明もまた発祥の地からほかの場所へと移植されていく。
正確に電車をはしらせるシステムや、
つぎの日にかならず配達されるという宅配便サービスが、
ほかの国でもひろがる可能性はじゅうぶんあるだろう。
番組では、給食システムやスーパー銭湯など、
日本にしかなじまないサービスかとおもっていたものが、
ほかの国でもとりいれられている例が紹介されている。
あたらしいものだけでなく、くみとり式のトイレだって、
リサイクルのきく、とても便利なしくみなのだという。
世界ではおおくのひとがトイレなしで生活しており、
これからそのひとたちが水洗トイレをつかえるようにととのえるのは、
現実的な解決策ではない。
そんなときにはくみとり式のトイレがやくにたつ。
このごろ日本製品は、韓国や中国製品におされて元気がないけれど、
システム全体としては日本のきめこまやかさはずばぬけている。
日本文明そのものの輸出という手があったのだ。
しかし、せっかくの日本のつよみも、
外国政府からの受注には、なかなかむすびつかないという。
相手国の事情にあわせることが、日本企業にはなかなかむつかしく、
外国のプロジェクトばかり採用されていく。
番組では、どうすれば「かせぐ力」となるか、
という問題意識でまとめようとしていたけど、
ここらへんにくると、わたしにはほとんど興味がわいてこない。
こんなふうにビジネスのはなしにするとおもしろくなくなる。
日本には独自の発達をとげてきたユニークな文明があり、
外国のおおくがそのすばらしさに気づきはじめている。
もっと日本文明ならではの、オリジナルなちからを強調できないものか。
資源ごみの回収や、健康診断車の巡回など、
地方自治体がこまかいノウハウをこれまでつみあげており、
外国から研修にまねいて、普及にちからをかしている町も紹介されていた。
おおくの国にとって、しんじられない便利なサービスが
スムーズに運用されている日本は、
日本文明の輸出というかたちで世界に貢献できる。
インドのひとたちがイメージする日本は、
1位が先進技術の国、というのはともかくとして、
2位に「平和を愛する国」があげられているという。
日本の発展は、製品の品質によるものだけでなく、
これまでにきずいてきた、
こんなすばらしいイメージのおかげかもしれない。
しかし、そのイメージはイメージだけになりつつある。
日本文明が世界にひろがっていくことで、
世界の平和に協力することができれば、
それがいちばん日本がほこれることではないだろうか。
2014年01月13日
「お泊りデイサービス」事業者だけがわるいのではない
けさの朝日新聞に「お泊りデイサービス」がとりあげられていた。
はじめてきく名前なので、なんのことかとおもったら、
デイサービスの利用者が、
家にかえらずにそのまま事業所にとまることなのだそうだ。
デイサービスは、文字どおり日中の活動を提供するサービスであり、
「お泊り」「デイサービス」は、相反することばをふたつならべたことになる。
夜とまるサービスは、ふつうならショートステイがうけもつ役割だ。
「お泊りデイサービス」は介護保険の適応外のサービスであり、
1泊1000円ほどの料金でひきうけているところがおおいらしい。
ショートステイをうけいれる事業所がたりないことで、
こうしたあたらしいサービスがうまれたという。
新聞には、「お泊りデイサービス」は職員体制がじゅうぶんではなく、
利用者への配慮がたりない状況が放置されていると、
事業所にたいして批判的なかきかたがされている。
しかし、1泊1000円で、どうやって手あついサービスをしろというのだ。
なぜ1000円というやすい料金でやれるかというと、
夜のおとまりは、ひるまのデイサービスにくる利用者を
確実に確保するための「付録」としての位置づけであり、
ショートステイのような手あつい体制をとるつもりなど
はじめからないのだ。
これは、事業所をせめていわけではない。
ショートステイのような職員配置を実現させると、
利用料は1万円くらいになるはずで、
1泊1000円は、値段だけでいうなら、
利用する側にとってとてもたすかるサービスだ。
手あついからといって、1万円を家族ははらう覚悟があるのか。
記事には、あずけていた父親が救急車で病院へはこばれ、
納得のいく説明がないまま2ヶ月後になくなった、という例が紹介されている。
「『父には本当にかわいそうなことをした』。
今も悔やみきれない」
と、家族の方はかなしまれている。
こうした不幸な例はほかにもあるかもしれない。
しかし、このひとは、いったい一晩1000円で、
どれだけのことをしてもらえるとおもっていたのか。
じゅうぶんな職員体制ではないとしりつつ、
それでもほかにあずけるところがないから、
「お泊りデイサービス」におねがいしている家族がおおいはずで、
事業所をやりだまにあげるだけでは責任のある報道とはいえない。
やすければ利用する側はたすかるが、
事業所としては経営できない。
行政がきびしい基準をしけば、
事業所はサービスから手をひかざるをえず、
いまのままではこまるのはけっきょく利用者だ。
事業所・利用者(と家族)・行政という三者は、
ますますたかまるであろう「おとまり」のニーズに、
これからどう対応していけばいいのだろう。
わたしにいえるのは、ひくすぎる料金設定ではなにもできないということで、
いまのまま介護保険の適応外という位置づけをつづけていては、
事業者も利用者も、おたがいが満足できる体制はとれない。
2025年には、団塊の世代が本格的に介護を必要とするようになり、
いまのしくみでは対応しきれないのでは、と心配されている。
そのころには、ショートステイの需要がふえ、
しかし事業所のうけ皿はいっぱいで、
ますます「お泊りデイサービス」が必要な状況になっているだろう。
記事によると、
「厚生労働省はこれまでお泊りデイを黙認し、
実態も把握していない。
ようやく15年度から、介護保険を適用しないものの、
基準を作って届け出制にしたり
自己報告などを義務づけたりすることを検討している」
とずいぶんのんびりした対応だ。
しかし、状況はもっとさしせまっている。
全国にある3万7000ヶ所のデイサービスのうち、
1割ちかい3000ヶ所が「お泊りデイサービス」を提供しているといい、
これだけのニーズがあれば、厚生労働省は
いつまでも無視しつづけるわけにいかないはずだ。
介護保険適応外のサービスについて、
これからもにたような問題がおこってくるだろう。
行政にはお金がなく、できるだけ支出をともなわない
あたらしいしくみにたよりたいはずだ。
利用する側も、1000円程度しはらったからといって
まかせっきりにするのではなく、
手あついサービスをもとめるのなら、
もっと負担する覚悟をきめたほうが現実的だ。
やすければやすいなりのサービスでしかない。
サービスにはお金がかかる。お金をおしむと質がさがって、
けっきょくはおたがいがしあわせになれない。
はじめてきく名前なので、なんのことかとおもったら、
デイサービスの利用者が、
家にかえらずにそのまま事業所にとまることなのだそうだ。
デイサービスは、文字どおり日中の活動を提供するサービスであり、
「お泊り」「デイサービス」は、相反することばをふたつならべたことになる。
夜とまるサービスは、ふつうならショートステイがうけもつ役割だ。
「お泊りデイサービス」は介護保険の適応外のサービスであり、
1泊1000円ほどの料金でひきうけているところがおおいらしい。
ショートステイをうけいれる事業所がたりないことで、
こうしたあたらしいサービスがうまれたという。
新聞には、「お泊りデイサービス」は職員体制がじゅうぶんではなく、
利用者への配慮がたりない状況が放置されていると、
事業所にたいして批判的なかきかたがされている。
しかし、1泊1000円で、どうやって手あついサービスをしろというのだ。
なぜ1000円というやすい料金でやれるかというと、
夜のおとまりは、ひるまのデイサービスにくる利用者を
確実に確保するための「付録」としての位置づけであり、
ショートステイのような手あつい体制をとるつもりなど
はじめからないのだ。
これは、事業所をせめていわけではない。
ショートステイのような職員配置を実現させると、
利用料は1万円くらいになるはずで、
1泊1000円は、値段だけでいうなら、
利用する側にとってとてもたすかるサービスだ。
手あついからといって、1万円を家族ははらう覚悟があるのか。
記事には、あずけていた父親が救急車で病院へはこばれ、
納得のいく説明がないまま2ヶ月後になくなった、という例が紹介されている。
「『父には本当にかわいそうなことをした』。
今も悔やみきれない」
と、家族の方はかなしまれている。
こうした不幸な例はほかにもあるかもしれない。
しかし、このひとは、いったい一晩1000円で、
どれだけのことをしてもらえるとおもっていたのか。
じゅうぶんな職員体制ではないとしりつつ、
それでもほかにあずけるところがないから、
「お泊りデイサービス」におねがいしている家族がおおいはずで、
事業所をやりだまにあげるだけでは責任のある報道とはいえない。
やすければ利用する側はたすかるが、
事業所としては経営できない。
行政がきびしい基準をしけば、
事業所はサービスから手をひかざるをえず、
いまのままではこまるのはけっきょく利用者だ。
事業所・利用者(と家族)・行政という三者は、
ますますたかまるであろう「おとまり」のニーズに、
これからどう対応していけばいいのだろう。
わたしにいえるのは、ひくすぎる料金設定ではなにもできないということで、
いまのまま介護保険の適応外という位置づけをつづけていては、
事業者も利用者も、おたがいが満足できる体制はとれない。
2025年には、団塊の世代が本格的に介護を必要とするようになり、
いまのしくみでは対応しきれないのでは、と心配されている。
そのころには、ショートステイの需要がふえ、
しかし事業所のうけ皿はいっぱいで、
ますます「お泊りデイサービス」が必要な状況になっているだろう。
記事によると、
「厚生労働省はこれまでお泊りデイを黙認し、
実態も把握していない。
ようやく15年度から、介護保険を適用しないものの、
基準を作って届け出制にしたり
自己報告などを義務づけたりすることを検討している」
とずいぶんのんびりした対応だ。
しかし、状況はもっとさしせまっている。
全国にある3万7000ヶ所のデイサービスのうち、
1割ちかい3000ヶ所が「お泊りデイサービス」を提供しているといい、
これだけのニーズがあれば、厚生労働省は
いつまでも無視しつづけるわけにいかないはずだ。
介護保険適応外のサービスについて、
これからもにたような問題がおこってくるだろう。
行政にはお金がなく、できるだけ支出をともなわない
あたらしいしくみにたよりたいはずだ。
利用する側も、1000円程度しはらったからといって
まかせっきりにするのではなく、
手あついサービスをもとめるのなら、
もっと負担する覚悟をきめたほうが現実的だ。
やすければやすいなりのサービスでしかない。
サービスにはお金がかかる。お金をおしむと質がさがって、
けっきょくはおたがいがしあわせになれない。
2014年01月12日
『日本全国津々うりゃうりゃ』(宮田珠己) 別次元の新世界を発見した宮田さん
『日本全国津々うりゃうりゃ』(宮田珠己・廣済堂出版)
旅行作家の宮田さんが、日本のいろいろな場所をたずねる。
宮田さんといえば、外国旅行にいきたくてたまらず、
会社をやめてライターになったひとで、
日本を対象にした本もいくつかでている。
この本は、「廣済堂よみものweb」で一年間連載された原稿を
加筆訂正してまとめたものだという。
名古屋・日光と、ふつうの町にまじって
「大陸(と言っても過言ではないうちの庭)」と、
宮田なんとわが家の庭をとりあげてしまった。
宮田家の庭は、家のまわりを一周できるようになっていて、
この「一周できる」というのが宮田さんにとってはきわめて重大なことだった。
その理由は
「任意の点Aにいるとして、反対側の点Bへ行くのに
二通りの道が選択できるから」であり
「そうすれば、途中C地点に1000ポインとのダメージを与える敵キャラがいる場合でも、
それに出会うことなく反対側へぬけられる」という、
鬼ごっこの鉄則である「二方向避難ルートの確保」がまもられているからだ。
というわけで、宮田さんは、任意の玄関Aから時計まわりで一周の旅にでる。
「さて、われわれは、
いよいよわが家の庭の最西端に到達しつつある。
ユーラシア大陸でいうところのロカ岬だ」
がおかしい。この本をよむまでわたしはロカ岬のことをしらなかった。
地図をみると、ほんとうに、ポルトガルの西の端に、この岬があるのだ。
「ロカ岬を過ぎて、北西の端に到達すると、
一周まではあと少しだ。
家の北側はこれまでとは一転、暗くて狭くて寒い。
西のロカ岬から東のガレージまで
一直線に通じているこの通路を、北東航路と呼びたい」
がこの章の白眉だ。
大航海時代の冒険がはじまるようなものものしさで
しずしずと、いさましくわが家を一周する宮田さんの「旅」は、
文字どおり新世界を発見したとたたえることができる。
これまでに、いくつもの旅行記や、
おとずれた町を紹介する本をよんできたけど、
自分の庭を一周するという別次元の発想は、宮田さんにしかないものだろう。
もうひとつ、おとこのおろかさを極限までみつめた
「千里」もなかせるはなしだ。
宮田さんは、中高生のころすんでいた千里ニュータウンをたずね、
あちこちにちらばるおもいでの場所を紹介している。
「ついに世界の真実を知ったのは、中2のときだった。
クラスの男子の間で、ある写真が回ってきて、
えらい驚いたのである」
という、事件をきっかけに、
宮田少年の頭のなかは「真実の探求」でいっぱいになる。
そのあと高校の美術教師に「クラス女子30%の真実」をうちあけられ、
宮田さんはさらにはげしくモンモンとした日々をすごすわけで、
わかき日の宮田少年は、まさにわたしだと、ふかく共感するのだった。
旅行作家の宮田さんが、日本のいろいろな場所をたずねる。
宮田さんといえば、外国旅行にいきたくてたまらず、
会社をやめてライターになったひとで、
日本を対象にした本もいくつかでている。
この本は、「廣済堂よみものweb」で一年間連載された原稿を
加筆訂正してまとめたものだという。
名古屋・日光と、ふつうの町にまじって
「大陸(と言っても過言ではないうちの庭)」と、
宮田なんとわが家の庭をとりあげてしまった。
宮田家の庭は、家のまわりを一周できるようになっていて、
この「一周できる」というのが宮田さんにとってはきわめて重大なことだった。
その理由は
「任意の点Aにいるとして、反対側の点Bへ行くのに
二通りの道が選択できるから」であり
「そうすれば、途中C地点に1000ポインとのダメージを与える敵キャラがいる場合でも、
それに出会うことなく反対側へぬけられる」という、
鬼ごっこの鉄則である「二方向避難ルートの確保」がまもられているからだ。
というわけで、宮田さんは、任意の玄関Aから時計まわりで一周の旅にでる。
「さて、われわれは、
いよいよわが家の庭の最西端に到達しつつある。
ユーラシア大陸でいうところのロカ岬だ」
がおかしい。この本をよむまでわたしはロカ岬のことをしらなかった。
地図をみると、ほんとうに、ポルトガルの西の端に、この岬があるのだ。
「ロカ岬を過ぎて、北西の端に到達すると、
一周まではあと少しだ。
家の北側はこれまでとは一転、暗くて狭くて寒い。
西のロカ岬から東のガレージまで
一直線に通じているこの通路を、北東航路と呼びたい」
がこの章の白眉だ。
大航海時代の冒険がはじまるようなものものしさで
しずしずと、いさましくわが家を一周する宮田さんの「旅」は、
文字どおり新世界を発見したとたたえることができる。
これまでに、いくつもの旅行記や、
おとずれた町を紹介する本をよんできたけど、
自分の庭を一周するという別次元の発想は、宮田さんにしかないものだろう。
もうひとつ、おとこのおろかさを極限までみつめた
「千里」もなかせるはなしだ。
宮田さんは、中高生のころすんでいた千里ニュータウンをたずね、
あちこちにちらばるおもいでの場所を紹介している。
「ついに世界の真実を知ったのは、中2のときだった。
クラスの男子の間で、ある写真が回ってきて、
えらい驚いたのである」
という、事件をきっかけに、
宮田少年の頭のなかは「真実の探求」でいっぱいになる。
そのあと高校の美術教師に「クラス女子30%の真実」をうちあけられ、
宮田さんはさらにはげしくモンモンとした日々をすごすわけで、
わかき日の宮田少年は、まさにわたしだと、ふかく共感するのだった。