『アンコール』(ポール=アンドリュー=ウィリアムズ監督・イギリス)
あかるい性格の女性マリオンは、気むずかしい夫アーサーとくらしている。
ふたりとも高齢者の夫婦であり、マリオンは癌が再発し、
もうのこりの時間がかぎられている。
アーサーは、マリオンにだけはこころをひらくが、
むすこにも、マリオンがかよう合唱教室のメンバーにも
素直な態度をとることができない。
マリオンは、のこりの人生をじゅうじつさせたいと、
合唱団が出場するコンクールに参加する。
予選を通過したところでマリオンは亡くなってしまい、
のこされたアーサーは、かなしみにくれる。
なんとか気もちをとりなおし、あれほどいやがっていた
合唱団の練習にくわわって、本大会をめざすことになる。
あらすじを紹介するとわかるように、ものすごくベタなストーリーだ。
老人の合唱団が、ヘビメタや「セックスついてはなそう」
というロックな曲をうたったりするのも、よくありがちな展開だし、
仲たがいをしていた息子が、本大会のコンサートにかけつけるあたりも
みるまえから予想がついてしまう。
コンサートでアーサーがソロでうたいあげると、
会場が感動につつまれて、拍手がなりやまないのも
かなり無理があるシーンだ。
そんなにめちゃくちゃうまいわけではなかったから。
練習から本番まで、マリオンとアーサーばかりに注目があつまり、
ほかの老人たちは「その他大勢」というあつかいで、
いじわるなみかたをすれば、ふたりのひきたて役でしかない。
わるぐちばかりかいたけど、それでつまらなかったかというと、
あんがいおもしろくみれたから、映画はわからないものだ。
登場人物のほとんどが老人で、
これからどこの国も、こんなふうに老人が主流の社会になっていく。
合唱教室にあつまる老人たちは、まだまだ元気で
エネルギーをもてあましている。
女性はきかざってお化粧をしているし、
男だって服装に気をつかっており、このままおわるつもりはなさそうだ。
映画のなかにはでてこなかったけど、メンバーどうしの恋愛も
これからどんどんさかんになっていくだろう
(「セックスついてはなそう」をうたうぐらいだから)。
この作品のみどころは、
その他大勢としてえがかれた老人たちひとりひとりに、
マリオンとアーサーのようなものがたりがあると、
気づかせてくれることだ。
年をとったからといって、このままかれていくのではなく、
それぞれがもっと人生をかがやかせたいというエネルギーをもっている。
そうした老人が、少数派ではなく、
これからはもっともっとふえていくのだという、
すこしさきの社会を想像させてくれた。
老人たちに、いかに機嫌よくエネルギーを発散してもらうかは
社会全体にとっても重要な関心ごとであるし、
わたしにとっても、そろそろひとごととはいえなくなってきた。
お化粧をした年配の女性を、ケバイとか、年甲斐もなく、とか
否定するのではなく、仲間にいれてもらい、
いっしょにあそんでもらえるかは
ゆたかな老後における大切なエッセンスになるだろう。
モテたいとはおもわないけれど、きらわれない程度には
身だしなみに気をくばろう。
そんな映画だった(ほんとうか?)。
2014年01月11日
2014年01月10日
『母親ウエスタン』(原田ひ香)不思議なものがたりが生みだすさわやかな読後感
『母親ウエスタン』(原田ひ香・光文社)
目黒考二さんが原田ひ香さんを絶賛していたのでよむ気になった。
なにげない描写なのに、最初の1ページでもうひきこまれる。
母親がいない子どもの家(父親はいる)にはいりこみ、
まるで母親のように子どもたちの世話をする、
広美という女性のものがたり。
広美は、ある期間がすぎるとその家をはなれ、
また子どもとすごすことのできる家族をさがす。
彼女はそうしたことを20年以上くりかえしてきた。
彼女がすごす、そうした一時的な家族とのくらしと並行して、
かつて彼女にそだてられた子どもたち(成人している子もいる)
のはなしがおりこまれている。
彼女は、母親がいなくてさみしいおもいをしている子どもによりそう。
あたたかくみまもったり、いっしょにあそんだりするだけでなく、
じっさいのお母さんとすこしもかわらない母性を子どもたちにむける。
ちゃんとした教育をうけさせ、必要であれば本気でしかり、
手づくりのおやつを用意し、やさしくそいねする。
なぜこんなにまで血のつながりのない子どもたちのためにできるのか、
よんでいて不思議になってくる、献身的なかかわり方だ。
お母さんとはよばせずに、あくまでも手つだいにくるお姉さん
(歳をとってからはおばさん)としてふるまうけど、
自分のことをほんとうに愛してくれたお母さんとして、
子どもたちの記憶にのこる。
借金とりからにげようと、一家そろって車にのり、
となり町をめざしていたとき、
お父さんがむせびなきはじめた。
「もうだめだ、死んでしまいたい。
どうせあいつらは追いかけてくる・・・」
「『だったら、ここで死にますか』
暗闇の中からかすかに聞こえる広美の声は、
普段のしゃべり方とぜんぜん違う冷たい声だった。
『ぜんぜんかまいませんよ、私は。
子供は連れていきます。
あなたが死にたいなら死ねばいい。
けれど、子供は私がもらっていきます。
私が世話してちゃんと育てます。
その代わり、死ぬならきっちりここでやってほしい。
死にきれないとか言って、あとから私たちに迷惑かけないでください』」
広美のおもいは、あくまでも子どもたちにむけてのもので、
男は子どもたちの父親というだけにすぎない。
実の親でもないのに、これだけの覚悟をきめて
なぜ広美は子どもたちにつくそうとするのか。
かとおもえば、自分が必要でない状況になると、
広美はふっといなくなってしまう。
子どもたちにとって、
母親がいないさみしいくらしに広美がやってきて、
ずっとそれがつづけばとねがっていた、しあわせな生活だったのに、
きたときとおなじように、広美はいつのまにかいなくなってしまう。
あんなにほんとうのお母さんみたいにせっしてくれた広美が、
ある日とつぜんいなくなってしまい、子どもたちは途方にくれる。
たとえば自分の子をうしなったネコが、
そのかわりとなる子をみつけてかわいがるように、
我が子として広美は子どもたちに愛情をかたむける。
つぎの家にうつれば、まえの子どもたちのことはほとんどわすれてしまう。
そのギャップがあまりにもすごく、広美の気もちはつかみどころがない。
原田ひ香さんは、どうしたらこんな不思議な女性を
つくりだすことができたのだろう。
ふつうに説明されたらありえない生き方なのに、
リアリティをもたせるのがうまく、
広美をめぐる奇妙なはなしにひきこまれていく。
母親とは、母親がしめす母性とは、
すべての子どもたちにとって格別な存在なのだ。
よみおえたあとの感想もさわやかで、
これからも原田ひ香さんの本をよんでみたくなった。
目黒考二さんが原田ひ香さんを絶賛していたのでよむ気になった。
なにげない描写なのに、最初の1ページでもうひきこまれる。
母親がいない子どもの家(父親はいる)にはいりこみ、
まるで母親のように子どもたちの世話をする、
広美という女性のものがたり。
広美は、ある期間がすぎるとその家をはなれ、
また子どもとすごすことのできる家族をさがす。
彼女はそうしたことを20年以上くりかえしてきた。
彼女がすごす、そうした一時的な家族とのくらしと並行して、
かつて彼女にそだてられた子どもたち(成人している子もいる)
のはなしがおりこまれている。
彼女は、母親がいなくてさみしいおもいをしている子どもによりそう。
あたたかくみまもったり、いっしょにあそんだりするだけでなく、
じっさいのお母さんとすこしもかわらない母性を子どもたちにむける。
ちゃんとした教育をうけさせ、必要であれば本気でしかり、
手づくりのおやつを用意し、やさしくそいねする。
なぜこんなにまで血のつながりのない子どもたちのためにできるのか、
よんでいて不思議になってくる、献身的なかかわり方だ。
お母さんとはよばせずに、あくまでも手つだいにくるお姉さん
(歳をとってからはおばさん)としてふるまうけど、
自分のことをほんとうに愛してくれたお母さんとして、
子どもたちの記憶にのこる。
借金とりからにげようと、一家そろって車にのり、
となり町をめざしていたとき、
お父さんがむせびなきはじめた。
「もうだめだ、死んでしまいたい。
どうせあいつらは追いかけてくる・・・」
「『だったら、ここで死にますか』
暗闇の中からかすかに聞こえる広美の声は、
普段のしゃべり方とぜんぜん違う冷たい声だった。
『ぜんぜんかまいませんよ、私は。
子供は連れていきます。
あなたが死にたいなら死ねばいい。
けれど、子供は私がもらっていきます。
私が世話してちゃんと育てます。
その代わり、死ぬならきっちりここでやってほしい。
死にきれないとか言って、あとから私たちに迷惑かけないでください』」
広美のおもいは、あくまでも子どもたちにむけてのもので、
男は子どもたちの父親というだけにすぎない。
実の親でもないのに、これだけの覚悟をきめて
なぜ広美は子どもたちにつくそうとするのか。
かとおもえば、自分が必要でない状況になると、
広美はふっといなくなってしまう。
子どもたちにとって、
母親がいないさみしいくらしに広美がやってきて、
ずっとそれがつづけばとねがっていた、しあわせな生活だったのに、
きたときとおなじように、広美はいつのまにかいなくなってしまう。
あんなにほんとうのお母さんみたいにせっしてくれた広美が、
ある日とつぜんいなくなってしまい、子どもたちは途方にくれる。
たとえば自分の子をうしなったネコが、
そのかわりとなる子をみつけてかわいがるように、
我が子として広美は子どもたちに愛情をかたむける。
つぎの家にうつれば、まえの子どもたちのことはほとんどわすれてしまう。
そのギャップがあまりにもすごく、広美の気もちはつかみどころがない。
原田ひ香さんは、どうしたらこんな不思議な女性を
つくりだすことができたのだろう。
ふつうに説明されたらありえない生き方なのに、
リアリティをもたせるのがうまく、
広美をめぐる奇妙なはなしにひきこまれていく。
母親とは、母親がしめす母性とは、
すべての子どもたちにとって格別な存在なのだ。
よみおえたあとの感想もさわやかで、
これからも原田ひ香さんの本をよんでみたくなった。
2014年01月09日
どうしたら日常生活を大切にしたことになるのか
死ぬときに、「あー○○をやっておきたかった」とか
「○○すればよかった」というような後悔をしたくないと
つねづねおもっており、
多少不義理になってもやりたいことはやろうという方針で生きている。
でも、じっさい、死ぬときって、ほんとうはどんなことに後悔するのだろう。
なにかを実行しなくて後悔するのか、
それとも日常を大切にしなかったことをくやむのか。
「ほぼ日」の「なんでもない日おめでとう」、というかんがえ方がすきで、
わたしもよく平凡な日常生活がだいじ、なんていうけど、
では具体的には、どうやったら日常生活を大切にすることになるのだろう。
ある一定量の時間を、自分の日常生活にわりあてたらOKという
線がきまっていれば安心できるけど、
どうもそういうものではなさそうで、
自分の意識のなかでしか満足度をはかれない。
いくらかんがえても、かんたんにはこたえがみつからない問題が
世の中にはいくつもあり、「生きる」「愛」「しあわせ」は
そのさいたるものではないか。
「生きるとはなにか」なんて、ひとによってそれぞれだし、
「しあわせ」もまた、なにがしあわせかは
そうかんたんに定義できるものではない。
しあわせとはなにか、などということにふれはじめると、
いろんなものがくっついてきて、
すぐにぐじゃぐじゃになってしまう。
しあわせは(もしくはしあわせの一部は)、平凡な日常生活のなかにある。
では、どうしたら日常生活を大切にしたといえるのか、というのが
このごろわたしが胸にだいている問題意識だ。
サッカージャーナリストの西部謙司さんがかかれた
「幸福の技術」という記事に、
・幸福かどうかは、本人の感じ方次第
・幸福は一過性のもの
・幸福は現在にしかない
とあった。
「幸福の技術」とは、おもしろい目のつけ方で、
技術は没個性だから、だれでも練習しだいで身につけることができる。
しあわせの条件をこんなふうに整理できると
ずいぶん議論の的がしぼれてくる。
日常生活は、「いま」のつみかさねだから、
「一過性のもの」「現在にしかない」という
西部さんの整理ともはなしがあう。
では、どうしたら日常生活を大切にしたことになるのか、
というさいしょの問題にふたたびもどる。
その瞬間、瞬間におとずれる「しあわせ」に気づくこころのもち方、
なんていうと、精神論にかたむいていて、ちょっとはずかしいけれど、
どうもそっちのほうにわたしがもとめるしあわせはありそうだ。
「気もちのもちよう」というとらえ方はすきではないが、
しあわせについては、客観的な評価のしようがない。
一般的に、目標をかかげ、それにむかって努力することが評価されやすい。
しかし、目的意識をもつこととしあわせとは、
あんがい関係ないのではないか。
努力は目標実現のためにするものだから、
努力もまたしあわせに不可欠な要素ではないかもしれない。
しあわせが「いま」をみつめることであるならば、
意識を将来にずらすよりも、いま目のまえにある状況に集中したほうが
しあわせに気づきやすい。
「○○すればよかった」というような後悔をしたくないと
つねづねおもっており、
多少不義理になってもやりたいことはやろうという方針で生きている。
でも、じっさい、死ぬときって、ほんとうはどんなことに後悔するのだろう。
なにかを実行しなくて後悔するのか、
それとも日常を大切にしなかったことをくやむのか。
「ほぼ日」の「なんでもない日おめでとう」、というかんがえ方がすきで、
わたしもよく平凡な日常生活がだいじ、なんていうけど、
では具体的には、どうやったら日常生活を大切にすることになるのだろう。
ある一定量の時間を、自分の日常生活にわりあてたらOKという
線がきまっていれば安心できるけど、
どうもそういうものではなさそうで、
自分の意識のなかでしか満足度をはかれない。
いくらかんがえても、かんたんにはこたえがみつからない問題が
世の中にはいくつもあり、「生きる」「愛」「しあわせ」は
そのさいたるものではないか。
「生きるとはなにか」なんて、ひとによってそれぞれだし、
「しあわせ」もまた、なにがしあわせかは
そうかんたんに定義できるものではない。
しあわせとはなにか、などということにふれはじめると、
いろんなものがくっついてきて、
すぐにぐじゃぐじゃになってしまう。
しあわせは(もしくはしあわせの一部は)、平凡な日常生活のなかにある。
では、どうしたら日常生活を大切にしたといえるのか、というのが
このごろわたしが胸にだいている問題意識だ。
サッカージャーナリストの西部謙司さんがかかれた
「幸福の技術」という記事に、
・幸福かどうかは、本人の感じ方次第
・幸福は一過性のもの
・幸福は現在にしかない
とあった。
「幸福の技術」とは、おもしろい目のつけ方で、
技術は没個性だから、だれでも練習しだいで身につけることができる。
しあわせの条件をこんなふうに整理できると
ずいぶん議論の的がしぼれてくる。
日常生活は、「いま」のつみかさねだから、
「一過性のもの」「現在にしかない」という
西部さんの整理ともはなしがあう。
では、どうしたら日常生活を大切にしたことになるのか、
というさいしょの問題にふたたびもどる。
その瞬間、瞬間におとずれる「しあわせ」に気づくこころのもち方、
なんていうと、精神論にかたむいていて、ちょっとはずかしいけれど、
どうもそっちのほうにわたしがもとめるしあわせはありそうだ。
「気もちのもちよう」というとらえ方はすきではないが、
しあわせについては、客観的な評価のしようがない。
一般的に、目標をかかげ、それにむかって努力することが評価されやすい。
しかし、目的意識をもつこととしあわせとは、
あんがい関係ないのではないか。
努力は目標実現のためにするものだから、
努力もまたしあわせに不可欠な要素ではないかもしれない。
しあわせが「いま」をみつめることであるならば、
意識を将来にずらすよりも、いま目のまえにある状況に集中したほうが
しあわせに気づきやすい。
2014年01月08日
こころのうごきをどうとらえるか 「面白くないブログ」にならないために
倉下忠憲さんのメルマガに、
おもしろくないブログについて「面白くなさを考える」
という記事がのっていた。
倉下さんの提案は、
「『そのブログのどこが面白くないと感じるのか』を
自分なりに分析してみることが大切ではないかと思います。
逆に面白いブログの面白さを分析するのでもよいでしょう」
というものだ。
どこがおもしろいかの分析には気もちがうごくけれど、
どこがおもしろくないかをかんがえるのは、
簡単ではないし、いかにも「面白くなさ」そうだ。
そんなブログに対面したときにも、なんとかよい方向への糸口をみつけようとする
倉下さんの好奇心にいつもながら感心させられた。
わたしは以前、職場でつくるたよりの担当をしたことがあり、
まともな文章がかけるひとは、ほんのすこししかいないことをしった。
こんなことをかくと、ぜんぶ自分にふりかかってくるのでおっかないけれど、
ほんとうに、そのままつかえる原稿はほとんどあがってこなかったのだ。
おもしろがらせようとしてひとりよがりだったり(でもぜんぜんおもしろくない)、
もっともらしい語句をかきつらねてはいるけど、
いいたいことがわからなかったり、内容が矛盾していたり。
そんな原稿をなんどもよみなおし、かいた本人に趣旨を確認したりして、
どうにか形をととのえるのはかなり不毛な作業であり、
だんだんと気もちがなえてしまった。
かいたひとにしても、原稿に手をいれられるのは
たのしいことではないだろうし、
なおせばなおすほど、本人の気配がきえてゆき、
わたしの文章になってしまう。
ひとの原稿をみているうちに、文章をかくには、
最終的にはこころのときめきが大切、ということに気づいた。
自分のこころがなにもうごかされていなければ、
よむひとにどうしてもつたえたい、という気もちにはなれない。
感動をつたえたいという動機がまずあって、
そのために、正確で、わかりやすくつたえる技術が必要になってくる。
つかえない原稿のおおくは、もっともらしいだけで
すこしもときめきがかんじられない。
もっとらしいだけ、よけいにいやらしくみえる。
ではどうしたらいいか。
こころのうごきをどうやってつかまえるか、ということになるとおもう。
こころがうごかなければ、どうにもならない。
おもしろいとおもえたり、すばらしいと感動できるこころがすべてだ。
こころがうごかないひとなど、たぶんいないはずで、
ただ、ときめきはすぐににげていきやすいため、
瞬間的におとずれるこころのうごきをどうとらえるかについて、
そのひとなりの工夫がいるかもしれない。
メモの技術とかアイデア論は、こういうときにもやくだってくれるだろう。
ベタすぎてはずかしくなるけれど、
よむ側にとどく文章とは、そうしたときめきがあるものだ。
感動がニセモノであったり無理があったりすると
文章からよくないにおいがつたわってくる。
倉下さんは、おもしろくないブログにたいしてさえ、
なんとかできないかといろいろかんがえる。
そうしないではいられないのが倉下さんであり、
そこにおもしろさをみつけられるひとなのだろう。
こころがうごかないひとに文章はかけない。
どうしたらこころがうごくのかは、
わたしにはわからない。
おもしろくないブログについて「面白くなさを考える」
という記事がのっていた。
倉下さんの提案は、
「『そのブログのどこが面白くないと感じるのか』を
自分なりに分析してみることが大切ではないかと思います。
逆に面白いブログの面白さを分析するのでもよいでしょう」
というものだ。
どこがおもしろいかの分析には気もちがうごくけれど、
どこがおもしろくないかをかんがえるのは、
簡単ではないし、いかにも「面白くなさ」そうだ。
そんなブログに対面したときにも、なんとかよい方向への糸口をみつけようとする
倉下さんの好奇心にいつもながら感心させられた。
わたしは以前、職場でつくるたよりの担当をしたことがあり、
まともな文章がかけるひとは、ほんのすこししかいないことをしった。
こんなことをかくと、ぜんぶ自分にふりかかってくるのでおっかないけれど、
ほんとうに、そのままつかえる原稿はほとんどあがってこなかったのだ。
おもしろがらせようとしてひとりよがりだったり(でもぜんぜんおもしろくない)、
もっともらしい語句をかきつらねてはいるけど、
いいたいことがわからなかったり、内容が矛盾していたり。
そんな原稿をなんどもよみなおし、かいた本人に趣旨を確認したりして、
どうにか形をととのえるのはかなり不毛な作業であり、
だんだんと気もちがなえてしまった。
かいたひとにしても、原稿に手をいれられるのは
たのしいことではないだろうし、
なおせばなおすほど、本人の気配がきえてゆき、
わたしの文章になってしまう。
ひとの原稿をみているうちに、文章をかくには、
最終的にはこころのときめきが大切、ということに気づいた。
自分のこころがなにもうごかされていなければ、
よむひとにどうしてもつたえたい、という気もちにはなれない。
感動をつたえたいという動機がまずあって、
そのために、正確で、わかりやすくつたえる技術が必要になってくる。
つかえない原稿のおおくは、もっともらしいだけで
すこしもときめきがかんじられない。
もっとらしいだけ、よけいにいやらしくみえる。
ではどうしたらいいか。
こころのうごきをどうやってつかまえるか、ということになるとおもう。
こころがうごかなければ、どうにもならない。
おもしろいとおもえたり、すばらしいと感動できるこころがすべてだ。
こころがうごかないひとなど、たぶんいないはずで、
ただ、ときめきはすぐににげていきやすいため、
瞬間的におとずれるこころのうごきをどうとらえるかについて、
そのひとなりの工夫がいるかもしれない。
メモの技術とかアイデア論は、こういうときにもやくだってくれるだろう。
ベタすぎてはずかしくなるけれど、
よむ側にとどく文章とは、そうしたときめきがあるものだ。
感動がニセモノであったり無理があったりすると
文章からよくないにおいがつたわってくる。
倉下さんは、おもしろくないブログにたいしてさえ、
なんとかできないかといろいろかんがえる。
そうしないではいられないのが倉下さんであり、
そこにおもしろさをみつけられるひとなのだろう。
こころがうごかないひとに文章はかけない。
どうしたらこころがうごくのかは、
わたしにはわからない。
2014年01月07日
かなしみやよろこびにふれないチャコとのわかれ
日本人女性の社会的地位について、梅棹忠夫さんが
とかいておられる。
ほとんどひらがばかりをなれべながら、
なんとうつくしいリズムだろう。
それとともに、民族学という学問が、
個人的な感情に左右されない、
かわいた精神によるおとなの学問であることをしる。
主観ではなく、あくまでも客観が基本だ。
チャコが死んでしまった。
しかし、わたしもまた
「かなしみやよろこび」についてはかかないでおこう。
かなしさや喪失感をここでのべるかわりに、
いっしょにくらしている動物が病気にかかったときに、
どれくらいお金が必要かを記録しておくことにする。
チャコのようすがおかしくなり、病院へつれていくと、
血液検査をされた。脱水症状もはげしいので
補液もされる。
補液は、点滴みたいなやり方で、
いちどに250ccほどの水分が、
血管ではなく、皮と筋肉のあいだにはいっていく。
検査の結果は、腎不全と糖尿病であること、
臓器になにか腫瘍があるかもしれない、とお医者さんにいわれる。
それからは、毎日病院へかよった。
以前からお世話になっている病院で、
かいぬしにしっかりした対応をもとめるきびしい先生だけど、
定休日である水曜日、それにお正月の三が日でさえみてもらえた。
12月15日から1月5日まで、連続して23日間、病院へかよいつづけた。
血液検査に8000円、補液に1700円、
2週間ほどしてからはじまったインシュリンの注射は1200円かかる。
けっきょく、23日の通院で6万円が必要だった。
補液とインシュリンで2900円になるので、
これがもし1ヶ月つづけば、それだけで6万円になり、
いかに大すきなチャコのためとはいえ、
かなりの負担であることはまちがいない。
わたしは銀行からチャコ用に10万円おろしてべつの財布にいれ、
それをわたしのおこづかいとはきりはなしてかんがえることにした。
毎日の治療費を、へっていくお金を気にしながらしはらっていると、
邪悪な感情がはいりこみそうだ。
わたしはケチでビンボーだけど、
自分のお金でないとおもいこめれば、わりときまえがいいのだ。
いちど病気やケガをすると、万単位の治療費がもとめられることを、
これから動物をかおうとするひとはしっておいたほうがいい。
もちろんほかでは手にいれがたいよろこびがついてくるとはいえ、
どうしてもある程度のお金が必要になる。
何十匹のネコとくらしているひとがときどき紹介されるけど、
病院にかかる費用はどうかんがえておられるのだろう。
まえにかっていたネコも、腎不全でよわっていった経験があるので、
へたに延命をめざすより、死を運命としてうけいれようとはじめはおもっていた。
しかし、うずくまったまま、水や食事をもとめなくなった動物を
なかなかほっておけるものではない。
都会だと、なくなった動物のために葬祭会館があるそうで、
そのための費用もまた必要だろう。
わたしは庭に穴をほってチャコのお墓にする。
チャコのおかげでかけがえのないおもいでがたくさんできた。
ああすればよかった、というおもいはいくつもあるけれど、
それをふくめてのチャコとのつきあいだったと自分にいいきかす。
「よろこびとかなしみ」は
つねにセットであることをかみしめるほかない。
それらを客観的にとらえられるわけがなく、
いいこともわるいこともひとまとめになって、いとおしくおもいだす。
亭主関白ののほほんの座にくらべて、妻の座には、どれだけの涙がそそがれてきたことか。しかし、わたしはかなしみやよろこびのことはいわないでおこう。
とかいておられる。
ほとんどひらがばかりをなれべながら、
なんとうつくしいリズムだろう。
それとともに、民族学という学問が、
個人的な感情に左右されない、
かわいた精神によるおとなの学問であることをしる。
主観ではなく、あくまでも客観が基本だ。
チャコが死んでしまった。
しかし、わたしもまた
「かなしみやよろこび」についてはかかないでおこう。
かなしさや喪失感をここでのべるかわりに、
いっしょにくらしている動物が病気にかかったときに、
どれくらいお金が必要かを記録しておくことにする。
チャコのようすがおかしくなり、病院へつれていくと、
血液検査をされた。脱水症状もはげしいので
補液もされる。
補液は、点滴みたいなやり方で、
いちどに250ccほどの水分が、
血管ではなく、皮と筋肉のあいだにはいっていく。
検査の結果は、腎不全と糖尿病であること、
臓器になにか腫瘍があるかもしれない、とお医者さんにいわれる。
それからは、毎日病院へかよった。
以前からお世話になっている病院で、
かいぬしにしっかりした対応をもとめるきびしい先生だけど、
定休日である水曜日、それにお正月の三が日でさえみてもらえた。
12月15日から1月5日まで、連続して23日間、病院へかよいつづけた。
血液検査に8000円、補液に1700円、
2週間ほどしてからはじまったインシュリンの注射は1200円かかる。
けっきょく、23日の通院で6万円が必要だった。
補液とインシュリンで2900円になるので、
これがもし1ヶ月つづけば、それだけで6万円になり、
いかに大すきなチャコのためとはいえ、
かなりの負担であることはまちがいない。
わたしは銀行からチャコ用に10万円おろしてべつの財布にいれ、
それをわたしのおこづかいとはきりはなしてかんがえることにした。
毎日の治療費を、へっていくお金を気にしながらしはらっていると、
邪悪な感情がはいりこみそうだ。
わたしはケチでビンボーだけど、
自分のお金でないとおもいこめれば、わりときまえがいいのだ。
いちど病気やケガをすると、万単位の治療費がもとめられることを、
これから動物をかおうとするひとはしっておいたほうがいい。
もちろんほかでは手にいれがたいよろこびがついてくるとはいえ、
どうしてもある程度のお金が必要になる。
何十匹のネコとくらしているひとがときどき紹介されるけど、
病院にかかる費用はどうかんがえておられるのだろう。
まえにかっていたネコも、腎不全でよわっていった経験があるので、
へたに延命をめざすより、死を運命としてうけいれようとはじめはおもっていた。
しかし、うずくまったまま、水や食事をもとめなくなった動物を
なかなかほっておけるものではない。
都会だと、なくなった動物のために葬祭会館があるそうで、
そのための費用もまた必要だろう。
わたしは庭に穴をほってチャコのお墓にする。
チャコのおかげでかけがえのないおもいでがたくさんできた。
ああすればよかった、というおもいはいくつもあるけれど、
それをふくめてのチャコとのつきあいだったと自分にいいきかす。
「よろこびとかなしみ」は
つねにセットであることをかみしめるほかない。
それらを客観的にとらえられるわけがなく、
いいこともわるいこともひとまとめになって、いとおしくおもいだす。
2014年01月06日
『一分間だけ』(原田マハ)
『一分間だけ』(原田マハ・宝島社)
いっしょにくらしていたリラ(ゴールデンリトリバー)のようすが
きゅうにおかしくなる。
いやな予感がした藍はリラを病院につれていくと、
癌がかなり進行した段階で、手のうちようがない、という診断をうける。
藍は女性誌の記者をしており、ふだんから不規則でいそがしい生活なのに、
編集企画会議や校正のまえなどは
さらにながい時間を職場に拘束される。
朝5時半におき、どんなに段どりに気をくばっても、
リラのまつ家にかえるのが10時すぎになってしまう。
それでもなんとかリラとのくらしをつづけてきたが、
「リラさえいなければ」というおもいが
どうしてもときどき頭をかすめる。
リラさえいなければ、もっと仕事にうちこめるのに、
リラさえいなければ、もっと自由に恋愛ができるのに。
ものがたりは、
「神さま。
どうかお願いです。一時間だけ、時間をください。
一年とか一ヶ月とか、そんな贅沢は言いません。
一週間、いえ、一日なんてのぞみません。
せめて、一時間だけ。
そしたら私、あの子に、リラにいろんなことをしてあげられるんです。
私たちは散歩に出かけます。
いつもの散歩道を、一緒に歩いて行く」
という藍の切実なねがいからはじまる。
そんなふうにもし一時間をえることができたら、
あたりまえにおもっていた日常を、もういちどかみしめられるのに。
毎日の散歩のときにリラがおしえてくれた「くだらないものたち」は、
こんなにもかけがえのない世界だったのか。
大切な会議のある日、リラの容態がきゅうにわるくなる。
いったんは家にもどることをあきらめたものの、
上司の特別なはからいで、藍の発表はあすに延期された。
冷徹で仕事の鬼としてえがかれていたこの上司(女性)もまた、
藍とおなじ体験をもっていたのだ。
なんとかさいごのわかれにたちあいたいと
藍は職場からおおいそぎで家にかけつける。
死に目にたちあいたい、ひとりでいかせたくない、と
家族をみとるときにおおくのひとがねがう。
相手が動物であっても、関係がつよいほど、このおもいは切実であり、
いっぽうで、家族とのわかれでありながらも、
形づくりにマクラもとにかけつけることもおおい。
ひとりでいかせたくない、というねがいのつよさは、
そのままわかれのかなしみのふかさをあらわしている。
藍は、自分のことをいつもすきでいてくれたリラに、
最期だけはどうしてもさみしいおもいをさせたくなかった。
わたしたちにできるのは、ただそばにいることだけでしかない。
そばにいて、これまでいっしょにすごしてきた時間を
もういちど笑顔でふりかえること。
藍が神さまにねがったのは
「一時間だけ、時間をください」だった。
では、タイトルにある「一分間だけ」は
だれがねがったことなのか。
この『一分間だけ』という作品は、藍とリラとの関係にくわえ、
リラの存在が、藍とまわりにいるひとたちを
どのようにむすびつけたかというものがたりでもある。
いっしょにくらしていたリラ(ゴールデンリトリバー)のようすが
きゅうにおかしくなる。
いやな予感がした藍はリラを病院につれていくと、
癌がかなり進行した段階で、手のうちようがない、という診断をうける。
藍は女性誌の記者をしており、ふだんから不規則でいそがしい生活なのに、
編集企画会議や校正のまえなどは
さらにながい時間を職場に拘束される。
朝5時半におき、どんなに段どりに気をくばっても、
リラのまつ家にかえるのが10時すぎになってしまう。
それでもなんとかリラとのくらしをつづけてきたが、
「リラさえいなければ」というおもいが
どうしてもときどき頭をかすめる。
リラさえいなければ、もっと仕事にうちこめるのに、
リラさえいなければ、もっと自由に恋愛ができるのに。
ものがたりは、
「神さま。
どうかお願いです。一時間だけ、時間をください。
一年とか一ヶ月とか、そんな贅沢は言いません。
一週間、いえ、一日なんてのぞみません。
せめて、一時間だけ。
そしたら私、あの子に、リラにいろんなことをしてあげられるんです。
私たちは散歩に出かけます。
いつもの散歩道を、一緒に歩いて行く」
という藍の切実なねがいからはじまる。
そんなふうにもし一時間をえることができたら、
あたりまえにおもっていた日常を、もういちどかみしめられるのに。
毎日の散歩のときにリラがおしえてくれた「くだらないものたち」は、
こんなにもかけがえのない世界だったのか。
大切な会議のある日、リラの容態がきゅうにわるくなる。
いったんは家にもどることをあきらめたものの、
上司の特別なはからいで、藍の発表はあすに延期された。
冷徹で仕事の鬼としてえがかれていたこの上司(女性)もまた、
藍とおなじ体験をもっていたのだ。
なんとかさいごのわかれにたちあいたいと
藍は職場からおおいそぎで家にかけつける。
死に目にたちあいたい、ひとりでいかせたくない、と
家族をみとるときにおおくのひとがねがう。
相手が動物であっても、関係がつよいほど、このおもいは切実であり、
いっぽうで、家族とのわかれでありながらも、
形づくりにマクラもとにかけつけることもおおい。
ひとりでいかせたくない、というねがいのつよさは、
そのままわかれのかなしみのふかさをあらわしている。
藍は、自分のことをいつもすきでいてくれたリラに、
最期だけはどうしてもさみしいおもいをさせたくなかった。
わたしたちにできるのは、ただそばにいることだけでしかない。
そばにいて、これまでいっしょにすごしてきた時間を
もういちど笑顔でふりかえること。
藍が神さまにねがったのは
「一時間だけ、時間をください」だった。
では、タイトルにある「一分間だけ」は
だれがねがったことなのか。
この『一分間だけ』という作品は、藍とリラとの関係にくわえ、
リラの存在が、藍とまわりにいるひとたちを
どのようにむすびつけたかというものがたりでもある。
2014年01月05日
セルフ・パブリッシングにむけて記事を選別する
KDP(キンドルダイレクトパブリッシング)で本をつくるにあたり、
ブログにかいてきた記事の選別と分類にとりかる。
わたしはこれまで4つのブログに記事をのせており
(いまかいているのは2つだけ)、
数だけでいえば1000くらいの記事がある。
わたしのもくろみは、
それらの記事を分野ごとに編集すれば、
あるていどの方向性をもった「本」になりそう、というものだ。
量がたりなければかきたしていく。
これまでにかいたことをかきあつめるだけなんて、
お気楽すぎて「本づくり」とよぶにははずかしい作業だけど、
スタートとしてはそれぐらいひくいところからはじめるのが
わたしにむいているとおもうし、
かんがえてみたら、それくらいしかできない。
たとえば、わたしがブログにかく記事は
・鷹の爪
・むすことのやりとり
・放課後等デイサービスの運営
・おすすめの本
などがおおいので、それぞれの分野で一冊のまとまりをもたせていく。
ブログにかいている内容は、個人的な日記という面がかなりつよく、
そんなのをだれがよむのかといわれると、
わたしとしてもあまりうれる気がしない。
でもまあ、それでいいだ、というのがわたしのKDPへの距離感だ。
なんだかおもしろそうだから。
梅棹忠夫さんは『わたしの人生論』のなかで
「今日では『くう』ことからはなれた文学もたくさんはじまっている。(中略)
つまり、かくことに値うちがあるんだという文学ですね。
だれもよまない小説というようなものがいっぱいでてくる。
印刷もされないかもしれない。
印刷されても、だれもよまないかもしれない。(中略)
ごついのをがんばってかいて、ああできた。
ところが、だれもよまない。
しかし、それでもちっともかまわないではないか。
そういうものですね。
これは、いうなれば家庭菜園です」
とのべている。
1970年というはやい時代に、
すでにいまのブログみたいな
ひとりで完結する知的生産を予言されているのは
いつもながらおどろかされる。
「くう」ことからはなれた文学の本質は、
「いろいろなものをつかってたのしくあそぶ」であり、
おおくのひとにとって、セルフ・パブリッシングは
家庭菜園でつくる野菜という位置づけになるだろう。
エネルギーをかたむけ、なにがしかの達成感とひきかえに、
だれもよまない本を出版する。
ただ、ゼロではないというのがミソで、
ささやかでも反応が期待でき、こころがみたされる。
おもしろい時代だとおもう。
ブログにしてもセルフ・パブリッシングにしても、
成熟したかき手とよみ手の存在が不可欠であり、
いまはそれだけの教養をみにつけた大衆社会がそだっている。
かく側は、大ヒットをもとめるわけではない。
自分のかんがえに共感してくれる、
ほんのすこしの読者がいてくれたらいいわけで、
ネットは、かく側と、スキマにかくれている
そんな読者をむすびつけてくれる。
家庭菜園でトマトをつくっても
競争がはげしくてうれそうにないけれど、
アーティチョークなら必要とするひとたちが確実にいるし、
つくり手はそうおおくないだろう。
アーティチョークなんていってるうちは
まだまだ認識があまいかもしれない。
一部の地方でしか食用にされない、
ひじょうに限定された品種のアーティチョーク、
くらいの市場とおもってとりくむつもりだ。
ブログにかいてきた記事の選別と分類にとりかる。
わたしはこれまで4つのブログに記事をのせており
(いまかいているのは2つだけ)、
数だけでいえば1000くらいの記事がある。
わたしのもくろみは、
それらの記事を分野ごとに編集すれば、
あるていどの方向性をもった「本」になりそう、というものだ。
量がたりなければかきたしていく。
これまでにかいたことをかきあつめるだけなんて、
お気楽すぎて「本づくり」とよぶにははずかしい作業だけど、
スタートとしてはそれぐらいひくいところからはじめるのが
わたしにむいているとおもうし、
かんがえてみたら、それくらいしかできない。
たとえば、わたしがブログにかく記事は
・鷹の爪
・むすことのやりとり
・放課後等デイサービスの運営
・おすすめの本
などがおおいので、それぞれの分野で一冊のまとまりをもたせていく。
ブログにかいている内容は、個人的な日記という面がかなりつよく、
そんなのをだれがよむのかといわれると、
わたしとしてもあまりうれる気がしない。
でもまあ、それでいいだ、というのがわたしのKDPへの距離感だ。
なんだかおもしろそうだから。
梅棹忠夫さんは『わたしの人生論』のなかで
「今日では『くう』ことからはなれた文学もたくさんはじまっている。(中略)
つまり、かくことに値うちがあるんだという文学ですね。
だれもよまない小説というようなものがいっぱいでてくる。
印刷もされないかもしれない。
印刷されても、だれもよまないかもしれない。(中略)
ごついのをがんばってかいて、ああできた。
ところが、だれもよまない。
しかし、それでもちっともかまわないではないか。
そういうものですね。
これは、いうなれば家庭菜園です」
とのべている。
1970年というはやい時代に、
すでにいまのブログみたいな
ひとりで完結する知的生産を予言されているのは
いつもながらおどろかされる。
「くう」ことからはなれた文学の本質は、
「いろいろなものをつかってたのしくあそぶ」であり、
おおくのひとにとって、セルフ・パブリッシングは
家庭菜園でつくる野菜という位置づけになるだろう。
エネルギーをかたむけ、なにがしかの達成感とひきかえに、
だれもよまない本を出版する。
ただ、ゼロではないというのがミソで、
ささやかでも反応が期待でき、こころがみたされる。
おもしろい時代だとおもう。
ブログにしてもセルフ・パブリッシングにしても、
成熟したかき手とよみ手の存在が不可欠であり、
いまはそれだけの教養をみにつけた大衆社会がそだっている。
かく側は、大ヒットをもとめるわけではない。
自分のかんがえに共感してくれる、
ほんのすこしの読者がいてくれたらいいわけで、
ネットは、かく側と、スキマにかくれている
そんな読者をむすびつけてくれる。
家庭菜園でトマトをつくっても
競争がはげしくてうれそうにないけれど、
アーティチョークなら必要とするひとたちが確実にいるし、
つくり手はそうおおくないだろう。
アーティチョークなんていってるうちは
まだまだ認識があまいかもしれない。
一部の地方でしか食用にされない、
ひじょうに限定された品種のアーティチョーク、
くらいの市場とおもってとりくむつもりだ。
2014年01月04日
『とらちゃん的日常』(中島らも)とらちゃんのかわいさに、らもさんの悪行は浄化されたか
『とらちゃん的日常』(中島らも・文春文庫)
あるときらもさんは子ネコを2匹ひろい、仕事部屋でかうことにした。
しかし、子ネコたちは近所の「ネコおばさん」のものだったことが翌朝わかり、
残念ながらかえさなければならなかった。
ネコのいなくなった部屋にらもさんがもどってみると、
たまらなく「しん」とかんじられる。
◯(まる)ちゃんと✕(ぺけ)ちゃんと名前までつけた子ネコたちが
たった一晩のことなのに、「ざっくりと深い爪跡を残している」
ことにらもさんは気づく。
というわけで、らもさんはきゅうにネコをかいたくなり、
ペットショップでみつけてきたのが「とらちゃん」だ。
ネコ族の子どもほどかわいいものはない、と
たしかジョイ=アダムソンさんがいっていた。
なにもアダムソンさんの名前なんかもちださなくても、
ほんとうにネコのあかちゃんはたまらなくかわいい。
本書には、もらわれてきたばかりのとらちゃんが、
しだいに成長していく写真がのっており、
どのとらちゃんもネコずきにはたまらない「いけず」な表情だ。
この本にはかくれたテーマがある。
らもさんのおかしてきた悪行の数々が、
とらちゃんによって浄化されるか、というのがそれだ。
「あんまり猫可愛がりはしない。
なぜなら猫というのは孤高で神聖な生き物だと思うからだ。
おれは猫を飼うに値しない人間だ。
来し方の悪行を考えるとそう思う」
らもさんは、殺人とレイプ以外のすべての悪行に手をそめてきたそうで、
「これら降り積もった黒い雪を、
猫の高貴さが洗い清めてくれるような、そんな気がするのだ」
本書はとらちゃんのことばかりがかかれているわけではなく、
らもさんの仕事ぶりもみえてきてたのしい。
各章の基本的な構成は
・とらちゃんの近況
・らもさんの仕事
・とらちゃんの近況
となっている。
分量としては、らもさんの仕事のほうがおおいぐらいだ。
あるときは8日間のカンヅメになり、
90枚をめざしてかきはじめるものの、
なかなか筆がすすまない。
1〜3日はゲラをチェックする程度、
4日目にやっと4枚かける。5日目には10枚。
しかし、6日目はまたかけず、7日目が9枚と、
合計で23枚という成果しかのこせない。
「(担当の)Kさんがコーヒーをもってやってきた。
わたせるほどの分量が描けなかった、と伝えると
Kさんは悲しそうな顔をした。
こちらだって断腸の思いである」
という赤裸々な「報告」のあとに、
「(マネージャーの)ソドムの情報によると、
とらちゃんはエリザベス・カラーが取れたそうだ」
と、章のおわりはとらちゃんのようすが
近況にあわせて紹介されている。
らもさんは執筆や、講演・舞台・ライブなどにちからをそそぐ。
とらちゃんは、そんならもさんのことはおかまいなしに
ネコとしての成長をとげていく。
避妊手術をし、大家さんの家にいりびたり、
やがてしんいりのネコが家にやってきたりといろいろありながら、
とらちゃんはげんきにくらしている。
最期のページにある写真は、
もうりっぱなおとなになったとらちゃんの姿だ。
病気のチャコを看病する身としては、
とらちゃんのギラギラした生命力がまぶしくみえる。
らもさんがおかしてきた悪行を
とらちゃんがきよめてくれたのかどうかは
けっきょくふれられていない。
この本は2001年に出版されており、
この年からなくなった2004年までの
らもさんの晩年をふりかえってみると、
とらちゃん効果はあまりなかったとみるのが
常識的な判断といえるだろう。
「おれの無口なペン先では
とても描写できないほどとらちゃんは愛らしい。
彼女がおれの罪を洗い流してくれるかもしれない。
そんな予感めいたものも、ちらりとだがある」
そんなにかわいいのなら、もっととらちゃんを
ネコかわいがりすればよかったのに、ともおもうし、
らもさんがいうように、ネコは「孤高で神聖」というとらえかたも
またただしいような気がする。
どのようにとらちゃんとせっするかではなく、
とらちゃんの姿をみまもりつづけることに、
らもさんは浄化作用をほんのすこしだけ期待したのだろう。
らもさんにそうおもわせるだけ、
とらちゃんは圧倒的にかわいかったのだ、きっと。
あるときらもさんは子ネコを2匹ひろい、仕事部屋でかうことにした。
しかし、子ネコたちは近所の「ネコおばさん」のものだったことが翌朝わかり、
残念ながらかえさなければならなかった。
ネコのいなくなった部屋にらもさんがもどってみると、
たまらなく「しん」とかんじられる。
◯(まる)ちゃんと✕(ぺけ)ちゃんと名前までつけた子ネコたちが
たった一晩のことなのに、「ざっくりと深い爪跡を残している」
ことにらもさんは気づく。
というわけで、らもさんはきゅうにネコをかいたくなり、
ペットショップでみつけてきたのが「とらちゃん」だ。
ネコ族の子どもほどかわいいものはない、と
たしかジョイ=アダムソンさんがいっていた。
なにもアダムソンさんの名前なんかもちださなくても、
ほんとうにネコのあかちゃんはたまらなくかわいい。
本書には、もらわれてきたばかりのとらちゃんが、
しだいに成長していく写真がのっており、
どのとらちゃんもネコずきにはたまらない「いけず」な表情だ。
この本にはかくれたテーマがある。
らもさんのおかしてきた悪行の数々が、
とらちゃんによって浄化されるか、というのがそれだ。
「あんまり猫可愛がりはしない。
なぜなら猫というのは孤高で神聖な生き物だと思うからだ。
おれは猫を飼うに値しない人間だ。
来し方の悪行を考えるとそう思う」
らもさんは、殺人とレイプ以外のすべての悪行に手をそめてきたそうで、
「これら降り積もった黒い雪を、
猫の高貴さが洗い清めてくれるような、そんな気がするのだ」
本書はとらちゃんのことばかりがかかれているわけではなく、
らもさんの仕事ぶりもみえてきてたのしい。
各章の基本的な構成は
・とらちゃんの近況
・らもさんの仕事
・とらちゃんの近況
となっている。
分量としては、らもさんの仕事のほうがおおいぐらいだ。
あるときは8日間のカンヅメになり、
90枚をめざしてかきはじめるものの、
なかなか筆がすすまない。
1〜3日はゲラをチェックする程度、
4日目にやっと4枚かける。5日目には10枚。
しかし、6日目はまたかけず、7日目が9枚と、
合計で23枚という成果しかのこせない。
「(担当の)Kさんがコーヒーをもってやってきた。
わたせるほどの分量が描けなかった、と伝えると
Kさんは悲しそうな顔をした。
こちらだって断腸の思いである」
という赤裸々な「報告」のあとに、
「(マネージャーの)ソドムの情報によると、
とらちゃんはエリザベス・カラーが取れたそうだ」
と、章のおわりはとらちゃんのようすが
近況にあわせて紹介されている。
らもさんは執筆や、講演・舞台・ライブなどにちからをそそぐ。
とらちゃんは、そんならもさんのことはおかまいなしに
ネコとしての成長をとげていく。
避妊手術をし、大家さんの家にいりびたり、
やがてしんいりのネコが家にやってきたりといろいろありながら、
とらちゃんはげんきにくらしている。
最期のページにある写真は、
もうりっぱなおとなになったとらちゃんの姿だ。
病気のチャコを看病する身としては、
とらちゃんのギラギラした生命力がまぶしくみえる。
らもさんがおかしてきた悪行を
とらちゃんがきよめてくれたのかどうかは
けっきょくふれられていない。
この本は2001年に出版されており、
この年からなくなった2004年までの
らもさんの晩年をふりかえってみると、
とらちゃん効果はあまりなかったとみるのが
常識的な判断といえるだろう。
「おれの無口なペン先では
とても描写できないほどとらちゃんは愛らしい。
彼女がおれの罪を洗い流してくれるかもしれない。
そんな予感めいたものも、ちらりとだがある」
そんなにかわいいのなら、もっととらちゃんを
ネコかわいがりすればよかったのに、ともおもうし、
らもさんがいうように、ネコは「孤高で神聖」というとらえかたも
またただしいような気がする。
どのようにとらちゃんとせっするかではなく、
とらちゃんの姿をみまもりつづけることに、
らもさんは浄化作用をほんのすこしだけ期待したのだろう。
らもさんにそうおもわせるだけ、
とらちゃんは圧倒的にかわいかったのだ、きっと。
2014年01月03日
かけこみ「あまちゃん」
いまさらながら『あまちゃん』だ。
たかい評判をしりながら、みそびれていた。
12月30日に10時間の総集編が放映されたものを録画し、
年末年始の4日にわけて「あまちゃん」にひたることができた。
紅白での「あまちゃん」も、ユーチューブでみた。
(すぐけされてしまうので、タイミングがあんがいむつかしい)。
かけこみでの、ギリギリセーフといおうか。
紅白では、スナック「梨明日」のようすが中継され、
いつものメンバーがテキトーにさわいでいる。
吉田副駅長が、田舎の駅員そのままを演じていたので、
ほんとうに駅やスナックにカメラがもちこまれたみたいだ。
これからユイがかけつけても紅白にはまにあわない、
ついたころには「ゆく年くる年」の時間で、
「さだまさしがダラダラしゃべってるころだべ」
がおかしかった。
そして「第157話・おら紅白出るど」がはじまった。
オープニングの風景にあわせてユイちゃんが紅白にかけつける。
アキと「潮騒のメモリー」をドラマのようにふたりでうたう。
そのあとは、春子と鈴鹿ひろ美へとひきつがれ、
最期は出演者全員での「地元へかえろう」。
最高の演出であり、最終話だった。
芸名ではなく、「あまちゃん」の役の名前で、
という出演をおもいついたひとはえらい。
能年玲奈や小泉今日子という個人ではなく、
あくまでも「あまちゃん」という作品まるごとが紅白に参加したのであり、
この形なら「えー、『あまちゃん』に15分も?」と文句がいえない。
20分を「あまちゃん」に占領された紅白は
NHKの大英断だった。
「あまちゃん」だから当然なんだけど。
脚本のよさをおおくのひとがとりあげている。
登場人物のもちあじを、最大限にいかした構成。
世界がまるで150人の村でできているみたいに、
都合よくいろんなひとがいろんなところで「偶然に」であう。
いいのだ、「あまちゃん」だから。
わるいひとがいなかったなー。
みんなさいごにはアキちゃんの笑顔にとりこまれている。
復興のものがたりでもあった。
「おら、日本一の天野アキになります」
が、どれだけの意味をもったセリフなのか。
アキのいくことろはどこでも、
みんながたのしそうにわらっている。
「いつまでたっても被災地」(夏)
にならないために、たくさんのひとがアキの存在をもとめている。
そして、なにかにがんばったことがむくわれる世界だ。
かといって、優等生すぎていろんなものをしょいこんだりしない。
親がするのうちに、先輩とさっさとやっちゃおうとする
わかさにまかせたアキちゃんもだいすきだ。
「あまちゃん」の浄化作用は強力だ。
あの笑顔によって、どんなことでもすっきりさせられる。
みおわったあとで、「あまちゃん」にすくわれたとわたしはおもった。
ひとりで生きてもつもらない。
あーだこーだいいながら、仲間とガサゴソやってこそたのしいのだと、
「あまちゃん」の世界はおしえてくれる。
わたしには総集編の10時間でじゅうぶんだった。
もし毎日みていたら、「あまちゃん」とのおわかれは、
ずいぶんわたしをくるしめただろう。
ちょっとネコ背でリュックの肩ひもをにぎるアキ、
海女の衣装みたいなドレスでうたうアキ、
いつもおおきな目であいてをみつめながらはなすアキ。
なにかにつけてアキちゃんの姿がちらついてくるし、
頭のなかは、年末からずっと
「潮騒のメモリー」がリフレインしている。
さっき本屋さんで『おら、「あまちゃん」が大好きだ!』をかってきた。
あまロスのキズをいやしてもらい、
「あまちゃん」のたのしさをもういちどかみしめよう。
わたしは「あまちゃん」がだいすきだ。
たかい評判をしりながら、みそびれていた。
12月30日に10時間の総集編が放映されたものを録画し、
年末年始の4日にわけて「あまちゃん」にひたることができた。
紅白での「あまちゃん」も、ユーチューブでみた。
(すぐけされてしまうので、タイミングがあんがいむつかしい)。
かけこみでの、ギリギリセーフといおうか。
紅白では、スナック「梨明日」のようすが中継され、
いつものメンバーがテキトーにさわいでいる。
吉田副駅長が、田舎の駅員そのままを演じていたので、
ほんとうに駅やスナックにカメラがもちこまれたみたいだ。
これからユイがかけつけても紅白にはまにあわない、
ついたころには「ゆく年くる年」の時間で、
「さだまさしがダラダラしゃべってるころだべ」
がおかしかった。
そして「第157話・おら紅白出るど」がはじまった。
オープニングの風景にあわせてユイちゃんが紅白にかけつける。
アキと「潮騒のメモリー」をドラマのようにふたりでうたう。
そのあとは、春子と鈴鹿ひろ美へとひきつがれ、
最期は出演者全員での「地元へかえろう」。
最高の演出であり、最終話だった。
芸名ではなく、「あまちゃん」の役の名前で、
という出演をおもいついたひとはえらい。
能年玲奈や小泉今日子という個人ではなく、
あくまでも「あまちゃん」という作品まるごとが紅白に参加したのであり、
この形なら「えー、『あまちゃん』に15分も?」と文句がいえない。
20分を「あまちゃん」に占領された紅白は
NHKの大英断だった。
「あまちゃん」だから当然なんだけど。
脚本のよさをおおくのひとがとりあげている。
登場人物のもちあじを、最大限にいかした構成。
世界がまるで150人の村でできているみたいに、
都合よくいろんなひとがいろんなところで「偶然に」であう。
いいのだ、「あまちゃん」だから。
わるいひとがいなかったなー。
みんなさいごにはアキちゃんの笑顔にとりこまれている。
復興のものがたりでもあった。
「おら、日本一の天野アキになります」
が、どれだけの意味をもったセリフなのか。
アキのいくことろはどこでも、
みんながたのしそうにわらっている。
「いつまでたっても被災地」(夏)
にならないために、たくさんのひとがアキの存在をもとめている。
そして、なにかにがんばったことがむくわれる世界だ。
かといって、優等生すぎていろんなものをしょいこんだりしない。
親がするのうちに、先輩とさっさとやっちゃおうとする
わかさにまかせたアキちゃんもだいすきだ。
「あまちゃん」の浄化作用は強力だ。
あの笑顔によって、どんなことでもすっきりさせられる。
みおわったあとで、「あまちゃん」にすくわれたとわたしはおもった。
ひとりで生きてもつもらない。
あーだこーだいいながら、仲間とガサゴソやってこそたのしいのだと、
「あまちゃん」の世界はおしえてくれる。
わたしには総集編の10時間でじゅうぶんだった。
もし毎日みていたら、「あまちゃん」とのおわかれは、
ずいぶんわたしをくるしめただろう。
ちょっとネコ背でリュックの肩ひもをにぎるアキ、
海女の衣装みたいなドレスでうたうアキ、
いつもおおきな目であいてをみつめながらはなすアキ。
なにかにつけてアキちゃんの姿がちらついてくるし、
頭のなかは、年末からずっと
「潮騒のメモリー」がリフレインしている。
さっき本屋さんで『おら、「あまちゃん」が大好きだ!』をかってきた。
あまロスのキズをいやしてもらい、
「あまちゃん」のたのしさをもういちどかみしめよう。
わたしは「あまちゃん」がだいすきだ。
2014年01月02日
『今日もやっぱり処女でした』(夏石鈴子)あおばのささやかなスタートに祝福を
『今日もやっぱり処女でした』(夏石鈴子・角川学芸出版)
タイトルにひかれて、というのはウソで、
角田光代さんの書評にとりあげられていたのが気になっていた。
とはいいながら、まえにも夏石さんの
『バイブを買いに』をよんだことがあるので、
やっぱりタイトルにひかれたのかもしれない。
24歳のあおばは、つとめていた会社をきょねんの冬にやめ、
いまは派遣社員として化粧品会社ではたらいている。
仕事におもいいれがあるわけではなく、
転職ではなく派遣社員をえらんだのは、
イラストレーターになりたかったからだ。
その夢をかなえるために、勉強する時間がほしかった。
週に1回の教室にかよい、家でも提出する「宿題」に毎晩とりくむ。
タイトルにあるとおり、あおばは処女なわけだけど、
そのことにそうひっかかっているわけではない。
「ちょっと世の中、恋愛やセックスのことばかり
考え過ぎではありませんか。
人間にとって、もっと大事なことはあるはずです。
誰かにそう言ってみたい」
といった程度だ。
そしてだんだんと
「健康でのんびり女は口説かれにくい」
「健康なのんびり女は燃え上がりにくい」
ということがわかってきた。
そんな自分をどこか他人ごとのようにみている。
あおばも、彼女の両親も、まっとうなかんがえ方をするひとで、
それだからか、すこし世間からういているようにみえる。
あおばは、まえの会社であまりにもしょうもないことをもとめられ、
「もういいや、こういうことは嫌だ。他の仕事をしよう」
とおもい、やめてしまった。
それだけまともな人間であり、そうおもいきれるつよさがある。
おかあさんはあおばが仕事をやめるといっても、
そのことについて反対はしない。
ただ、
「会社を辞めても何か仕事をして。
何もしないで理屈だけ言ってうちにいるのは、絶対だめ」
とクギをさす。
こんなおかあさんだから、
あおばみたいにまじめな子がそだったのだ。
イラストの教室はもう定員にたっしていたけれど、
とにかくいちどきてみませんかと先生にいわれ、
あおばは教室をたずねていく。
みじかいやりとりのあとで先生は
「(イラストレーターは)人とちゃんとやりとりできるかどうかも、
大切な要素で、山口さんは、それがちゃんとできる。
もちろん、それだけじゃ、イラストは描けないけれど、
まず第一段階は合格」
といってもらえる。
自分をさがすには、まともな社会人であることが
前提条件なのだ。
この本をよんだからといって、
すごくこころがときめいたとか、
おもいたってなにかをはじめたくなるわけではないけれど、
こんなふうに地道に生きていくしかないんだな、
となんだかおちついた気もちになってくる。
本のなかでかたられているあおばさんは、
彼女が気づいていないだけで、とても魅力的だ。
あおばはときどき神さまにはなしかける。
「あの、神様。
わたしのこと、お忘れじゃないですか。
わたし、こうしていてもいいのでしょうか。
いいというか、つまり、わたしにも、この先、
何かぱっとしたことが待っていますか。
わたし、居場所をまちがえていないですか」
ものがたりのおわりでは、
はなしかける内容がずいぶんかわってきた。
「神さま、これから先も、
一度も考えたことのないことって、たくさん起こりますか?
わたし、そんな事もどうにかやってみようと思うのです。
神様、どうか見ていて下さい。
時々弱音も履きますが、わたし、もう始めてしまったんです。
とにかくやります」
自信はないけど、自分できめ、はじめたことに、
すこしずつ足をすすめていく。
まっとうにそだってきた女性が、
自分の人生に責任もった生き方をえらび、
彼女なりのスタートがきれたことを祝福したい。
このさきは、またべつのものがたりであり、
第一幕はこれでいいのだ。
タイトルにひかれて、というのはウソで、
角田光代さんの書評にとりあげられていたのが気になっていた。
とはいいながら、まえにも夏石さんの
『バイブを買いに』をよんだことがあるので、
やっぱりタイトルにひかれたのかもしれない。
24歳のあおばは、つとめていた会社をきょねんの冬にやめ、
いまは派遣社員として化粧品会社ではたらいている。
仕事におもいいれがあるわけではなく、
転職ではなく派遣社員をえらんだのは、
イラストレーターになりたかったからだ。
その夢をかなえるために、勉強する時間がほしかった。
週に1回の教室にかよい、家でも提出する「宿題」に毎晩とりくむ。
タイトルにあるとおり、あおばは処女なわけだけど、
そのことにそうひっかかっているわけではない。
「ちょっと世の中、恋愛やセックスのことばかり
考え過ぎではありませんか。
人間にとって、もっと大事なことはあるはずです。
誰かにそう言ってみたい」
といった程度だ。
そしてだんだんと
「健康でのんびり女は口説かれにくい」
「健康なのんびり女は燃え上がりにくい」
ということがわかってきた。
そんな自分をどこか他人ごとのようにみている。
あおばも、彼女の両親も、まっとうなかんがえ方をするひとで、
それだからか、すこし世間からういているようにみえる。
あおばは、まえの会社であまりにもしょうもないことをもとめられ、
「もういいや、こういうことは嫌だ。他の仕事をしよう」
とおもい、やめてしまった。
それだけまともな人間であり、そうおもいきれるつよさがある。
おかあさんはあおばが仕事をやめるといっても、
そのことについて反対はしない。
ただ、
「会社を辞めても何か仕事をして。
何もしないで理屈だけ言ってうちにいるのは、絶対だめ」
とクギをさす。
こんなおかあさんだから、
あおばみたいにまじめな子がそだったのだ。
イラストの教室はもう定員にたっしていたけれど、
とにかくいちどきてみませんかと先生にいわれ、
あおばは教室をたずねていく。
みじかいやりとりのあとで先生は
「(イラストレーターは)人とちゃんとやりとりできるかどうかも、
大切な要素で、山口さんは、それがちゃんとできる。
もちろん、それだけじゃ、イラストは描けないけれど、
まず第一段階は合格」
といってもらえる。
自分をさがすには、まともな社会人であることが
前提条件なのだ。
この本をよんだからといって、
すごくこころがときめいたとか、
おもいたってなにかをはじめたくなるわけではないけれど、
こんなふうに地道に生きていくしかないんだな、
となんだかおちついた気もちになってくる。
本のなかでかたられているあおばさんは、
彼女が気づいていないだけで、とても魅力的だ。
あおばはときどき神さまにはなしかける。
「あの、神様。
わたしのこと、お忘れじゃないですか。
わたし、こうしていてもいいのでしょうか。
いいというか、つまり、わたしにも、この先、
何かぱっとしたことが待っていますか。
わたし、居場所をまちがえていないですか」
ものがたりのおわりでは、
はなしかける内容がずいぶんかわってきた。
「神さま、これから先も、
一度も考えたことのないことって、たくさん起こりますか?
わたし、そんな事もどうにかやってみようと思うのです。
神様、どうか見ていて下さい。
時々弱音も履きますが、わたし、もう始めてしまったんです。
とにかくやります」
自信はないけど、自分できめ、はじめたことに、
すこしずつ足をすすめていく。
まっとうにそだってきた女性が、
自分の人生に責任もった生き方をえらび、
彼女なりのスタートがきれたことを祝福したい。
このさきは、またべつのものがたりであり、
第一幕はこれでいいのだ。
2014年01月01日
元旦の朝ごはんはどうあってほしいか
元旦の朝ごはん。
母と配偶者がさきにたべ、そのあといれかわるようにわたし、
すこしあとに高1のむすこと、
4人がほぼバラバラの朝ごはんだった。
わたしが自分のお雑煮を準備していると、
洗濯をしていた配偶者が台所に顔をだし、
「おもちとみそ汁の両方があるから」という。
「あけましておめでとう」もなし。
ただ、おもちとふだんのご飯の両方からえらべ、とつたえただけだ。
まあ、こっちもおそくおきだしているのだから、
「『おめでとう』もなしかよ」なんていえる立場ではない。
おもちだって、自分たちでもちつきをした時期もあったのに、
いまではスーパーでかってきたちいさなおもちだ。
5つお雑煮にいれて、2日前につくった筑前煮と、
夕べののこりの数の子といっしょにたべる。
何年かまえによんだ『普通の家族がいちばん怖い』(岩村暢子)に、
正月の食卓が徹底的にこわされている状況が紹介されていた。
孤食だし、個食だ。アンパンだったりカップ麺だったりを、
それぞれが別々の時間にかってにたべる。
特殊な家をえらんだわけではなく、
ごくあたりまえに生活している「ふつう」の家族なのだそうだ。
そもそもおせち料理は家庭でつくるものではなく、
スーパーなどでかってくるものになっているという。
わたしの美意識では、
元旦の朝食くらいみんながそろって食卓につき、
「あけましておめでとう」をいいあい、
お雑煮とおせち料理をたべたいとおもう。
せっかくのお正月なのに、朝からアンパンやカップ麺はないだろう、
とおどろいていたのに、献立はともかく
たべ方についてはわが家も「ふつう」の家族みたいになってきた。
きのうの朝日新聞に、大村美香氏が
「変化を繰り返す伝統の味」として
おせち料理についての記事をよせている。
大村氏によると、「おせち」が正月の主役になったのは
明治以降というから、そうむかしからのしきたりではない。
その内容についても、「田作り・煮豆・数の子」がなければ、
というのはたんなるおもいこみみたいだ。
ようするに、「おせち」はずっと変化しつづけてきた。
「伝統とは先祖代々受け継いできた不変なものと思ってしまいがちだ。
けれど、日本の食については、変化こそお家芸ではないかと思えてくる」
という視点を大村氏は提供している。
そうだろうとおもう。ずっと以前からつづいていて、
それが正統なスタイルだとおもいこんでいることの起源をさぐれば、
あんがいそうふるいものではないことがおおい。
神前結婚式だって、サラリーマンというライフスタイルだって、
たかだか数十年の歴史しかもたないのだ。
大村氏は「わが家なりのおせちを作ってもいいのでは」
と提案されている。
年末にスーパーへいくと、おせち料理に関連した品は
ふだんよりたかく値段がつけられており、
あしもとをみられているようで気分がわるい。
「わが家のおせち」だったら、やすい材料ですませられるだろう。
中国風に水餃子なんて、あんがいたのしいかもしれない。
変化こそ正統なのだから、なんでもいいのだ。
ほうっておいたら、わが家はますます個食化がすすみそうだ。
来年こそ、とはやくも新年の決意をのべておこう。
母と配偶者がさきにたべ、そのあといれかわるようにわたし、
すこしあとに高1のむすこと、
4人がほぼバラバラの朝ごはんだった。
わたしが自分のお雑煮を準備していると、
洗濯をしていた配偶者が台所に顔をだし、
「おもちとみそ汁の両方があるから」という。
「あけましておめでとう」もなし。
ただ、おもちとふだんのご飯の両方からえらべ、とつたえただけだ。
まあ、こっちもおそくおきだしているのだから、
「『おめでとう』もなしかよ」なんていえる立場ではない。
おもちだって、自分たちでもちつきをした時期もあったのに、
いまではスーパーでかってきたちいさなおもちだ。
5つお雑煮にいれて、2日前につくった筑前煮と、
夕べののこりの数の子といっしょにたべる。
何年かまえによんだ『普通の家族がいちばん怖い』(岩村暢子)に、
正月の食卓が徹底的にこわされている状況が紹介されていた。
孤食だし、個食だ。アンパンだったりカップ麺だったりを、
それぞれが別々の時間にかってにたべる。
特殊な家をえらんだわけではなく、
ごくあたりまえに生活している「ふつう」の家族なのだそうだ。
そもそもおせち料理は家庭でつくるものではなく、
スーパーなどでかってくるものになっているという。
わたしの美意識では、
元旦の朝食くらいみんながそろって食卓につき、
「あけましておめでとう」をいいあい、
お雑煮とおせち料理をたべたいとおもう。
せっかくのお正月なのに、朝からアンパンやカップ麺はないだろう、
とおどろいていたのに、献立はともかく
たべ方についてはわが家も「ふつう」の家族みたいになってきた。
きのうの朝日新聞に、大村美香氏が
「変化を繰り返す伝統の味」として
おせち料理についての記事をよせている。
大村氏によると、「おせち」が正月の主役になったのは
明治以降というから、そうむかしからのしきたりではない。
その内容についても、「田作り・煮豆・数の子」がなければ、
というのはたんなるおもいこみみたいだ。
ようするに、「おせち」はずっと変化しつづけてきた。
「伝統とは先祖代々受け継いできた不変なものと思ってしまいがちだ。
けれど、日本の食については、変化こそお家芸ではないかと思えてくる」
という視点を大村氏は提供している。
そうだろうとおもう。ずっと以前からつづいていて、
それが正統なスタイルだとおもいこんでいることの起源をさぐれば、
あんがいそうふるいものではないことがおおい。
神前結婚式だって、サラリーマンというライフスタイルだって、
たかだか数十年の歴史しかもたないのだ。
大村氏は「わが家なりのおせちを作ってもいいのでは」
と提案されている。
年末にスーパーへいくと、おせち料理に関連した品は
ふだんよりたかく値段がつけられており、
あしもとをみられているようで気分がわるい。
「わが家のおせち」だったら、やすい材料ですませられるだろう。
中国風に水餃子なんて、あんがいたのしいかもしれない。
変化こそ正統なのだから、なんでもいいのだ。
ほうっておいたら、わが家はますます個食化がすすみそうだ。
来年こそ、とはやくも新年の決意をのべておこう。