KDP(キンドルダイレクトパブリッシング)で本をつくるにあたり、
ブログにかいてきた記事の選別と分類にとりかる。
わたしはこれまで4つのブログに記事をのせており
(いまかいているのは2つだけ)、
数だけでいえば1000くらいの記事がある。
わたしのもくろみは、
それらの記事を分野ごとに編集すれば、
あるていどの方向性をもった「本」になりそう、というものだ。
量がたりなければかきたしていく。
これまでにかいたことをかきあつめるだけなんて、
お気楽すぎて「本づくり」とよぶにははずかしい作業だけど、
スタートとしてはそれぐらいひくいところからはじめるのが
わたしにむいているとおもうし、
かんがえてみたら、それくらいしかできない。
たとえば、わたしがブログにかく記事は
・鷹の爪
・むすことのやりとり
・放課後等デイサービスの運営
・おすすめの本
などがおおいので、それぞれの分野で一冊のまとまりをもたせていく。
ブログにかいている内容は、個人的な日記という面がかなりつよく、
そんなのをだれがよむのかといわれると、
わたしとしてもあまりうれる気がしない。
でもまあ、それでいいだ、というのがわたしのKDPへの距離感だ。
なんだかおもしろそうだから。
梅棹忠夫さんは『わたしの人生論』のなかで
「今日では『くう』ことからはなれた文学もたくさんはじまっている。(中略)
つまり、かくことに値うちがあるんだという文学ですね。
だれもよまない小説というようなものがいっぱいでてくる。
印刷もされないかもしれない。
印刷されても、だれもよまないかもしれない。(中略)
ごついのをがんばってかいて、ああできた。
ところが、だれもよまない。
しかし、それでもちっともかまわないではないか。
そういうものですね。
これは、いうなれば家庭菜園です」
とのべている。
1970年というはやい時代に、
すでにいまのブログみたいな
ひとりで完結する知的生産を予言されているのは
いつもながらおどろかされる。
「くう」ことからはなれた文学の本質は、
「いろいろなものをつかってたのしくあそぶ」であり、
おおくのひとにとって、セルフ・パブリッシングは
家庭菜園でつくる野菜という位置づけになるだろう。
エネルギーをかたむけ、なにがしかの達成感とひきかえに、
だれもよまない本を出版する。
ただ、ゼロではないというのがミソで、
ささやかでも反応が期待でき、こころがみたされる。
おもしろい時代だとおもう。
ブログにしてもセルフ・パブリッシングにしても、
成熟したかき手とよみ手の存在が不可欠であり、
いまはそれだけの教養をみにつけた大衆社会がそだっている。
かく側は、大ヒットをもとめるわけではない。
自分のかんがえに共感してくれる、
ほんのすこしの読者がいてくれたらいいわけで、
ネットは、かく側と、スキマにかくれている
そんな読者をむすびつけてくれる。
家庭菜園でトマトをつくっても
競争がはげしくてうれそうにないけれど、
アーティチョークなら必要とするひとたちが確実にいるし、
つくり手はそうおおくないだろう。
アーティチョークなんていってるうちは
まだまだ認識があまいかもしれない。
一部の地方でしか食用にされない、
ひじょうに限定された品種のアーティチョーク、
くらいの市場とおもってとりくむつもりだ。