2014年01月08日

こころのうごきをどうとらえるか 「面白くないブログ」にならないために

倉下忠憲さんのメルマガに、
おもしろくないブログについて「面白くなさを考える」
という記事がのっていた。
倉下さんの提案は、

「『そのブログのどこが面白くないと感じるのか』を
自分なりに分析してみることが大切ではないかと思います。
逆に面白いブログの面白さを分析するのでもよいでしょう」

というものだ。
どこがおもしろいかの分析には気もちがうごくけれど、
どこがおもしろくないかをかんがえるのは、
簡単ではないし、いかにも「面白くなさ」そうだ。
そんなブログに対面したときにも、なんとかよい方向への糸口をみつけようとする
倉下さんの好奇心にいつもながら感心させられた。

わたしは以前、職場でつくるたよりの担当をしたことがあり、
まともな文章がかけるひとは、ほんのすこししかいないことをしった。
こんなことをかくと、ぜんぶ自分にふりかかってくるのでおっかないけれど、
ほんとうに、そのままつかえる原稿はほとんどあがってこなかったのだ。
おもしろがらせようとしてひとりよがりだったり(でもぜんぜんおもしろくない)、
もっともらしい語句をかきつらねてはいるけど、
いいたいことがわからなかったり、内容が矛盾していたり。

そんな原稿をなんどもよみなおし、かいた本人に趣旨を確認したりして、
どうにか形をととのえるのはかなり不毛な作業であり、
だんだんと気もちがなえてしまった。
かいたひとにしても、原稿に手をいれられるのは
たのしいことではないだろうし、
なおせばなおすほど、本人の気配がきえてゆき、
わたしの文章になってしまう。

ひとの原稿をみているうちに、文章をかくには、
最終的にはこころのときめきが大切、ということに気づいた。
自分のこころがなにもうごかされていなければ、
よむひとにどうしてもつたえたい、という気もちにはなれない。
感動をつたえたいという動機がまずあって、
そのために、正確で、わかりやすくつたえる技術が必要になってくる。
つかえない原稿のおおくは、もっともらしいだけで
すこしもときめきがかんじられない。
もっとらしいだけ、よけいにいやらしくみえる。

ではどうしたらいいか。
こころのうごきをどうやってつかまえるか、ということになるとおもう。
こころがうごかなければ、どうにもならない。
おもしろいとおもえたり、すばらしいと感動できるこころがすべてだ。
こころがうごかないひとなど、たぶんいないはずで、
ただ、ときめきはすぐににげていきやすいため、
瞬間的におとずれるこころのうごきをどうとらえるかについて、
そのひとなりの工夫がいるかもしれない。
メモの技術とかアイデア論は、こういうときにもやくだってくれるだろう。

ベタすぎてはずかしくなるけれど、
よむ側にとどく文章とは、そうしたときめきがあるものだ。
感動がニセモノであったり無理があったりすると
文章からよくないにおいがつたわってくる。
倉下さんは、おもしろくないブログにたいしてさえ、
なんとかできないかといろいろかんがえる。
そうしないではいられないのが倉下さんであり、
そこにおもしろさをみつけられるひとなのだろう。
こころがうごかないひとに文章はかけない。
どうしたらこころがうごくのかは、
わたしにはわからない。

posted by カルピス at 18:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする