死ぬときに、「あー○○をやっておきたかった」とか
「○○すればよかった」というような後悔をしたくないと
つねづねおもっており、
多少不義理になってもやりたいことはやろうという方針で生きている。
でも、じっさい、死ぬときって、ほんとうはどんなことに後悔するのだろう。
なにかを実行しなくて後悔するのか、
それとも日常を大切にしなかったことをくやむのか。
「ほぼ日」の「なんでもない日おめでとう」、というかんがえ方がすきで、
わたしもよく平凡な日常生活がだいじ、なんていうけど、
では具体的には、どうやったら日常生活を大切にすることになるのだろう。
ある一定量の時間を、自分の日常生活にわりあてたらOKという
線がきまっていれば安心できるけど、
どうもそういうものではなさそうで、
自分の意識のなかでしか満足度をはかれない。
いくらかんがえても、かんたんにはこたえがみつからない問題が
世の中にはいくつもあり、「生きる」「愛」「しあわせ」は
そのさいたるものではないか。
「生きるとはなにか」なんて、ひとによってそれぞれだし、
「しあわせ」もまた、なにがしあわせかは
そうかんたんに定義できるものではない。
しあわせとはなにか、などということにふれはじめると、
いろんなものがくっついてきて、
すぐにぐじゃぐじゃになってしまう。
しあわせは(もしくはしあわせの一部は)、平凡な日常生活のなかにある。
では、どうしたら日常生活を大切にしたといえるのか、というのが
このごろわたしが胸にだいている問題意識だ。
サッカージャーナリストの西部謙司さんがかかれた
「幸福の技術」という記事に、
・幸福かどうかは、本人の感じ方次第
・幸福は一過性のもの
・幸福は現在にしかない
とあった。
「幸福の技術」とは、おもしろい目のつけ方で、
技術は没個性だから、だれでも練習しだいで身につけることができる。
しあわせの条件をこんなふうに整理できると
ずいぶん議論の的がしぼれてくる。
日常生活は、「いま」のつみかさねだから、
「一過性のもの」「現在にしかない」という
西部さんの整理ともはなしがあう。
では、どうしたら日常生活を大切にしたことになるのか、
というさいしょの問題にふたたびもどる。
その瞬間、瞬間におとずれる「しあわせ」に気づくこころのもち方、
なんていうと、精神論にかたむいていて、ちょっとはずかしいけれど、
どうもそっちのほうにわたしがもとめるしあわせはありそうだ。
「気もちのもちよう」というとらえ方はすきではないが、
しあわせについては、客観的な評価のしようがない。
一般的に、目標をかかげ、それにむかって努力することが評価されやすい。
しかし、目的意識をもつこととしあわせとは、
あんがい関係ないのではないか。
努力は目標実現のためにするものだから、
努力もまたしあわせに不可欠な要素ではないかもしれない。
しあわせが「いま」をみつめることであるならば、
意識を将来にずらすよりも、いま目のまえにある状況に集中したほうが
しあわせに気づきやすい。