2014年01月15日

宮崎駿さんがといかける「みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?」

砂田麻美さんがスタジオジブリにかよって『夢と狂気の王国』
という映画をとられた。
一年間の取材をつうじ、砂田さんは
ジブリならではのはなしをききだしている。
そのときのようすを砂田さんにインタビューした記事が「cakes」にのっていた。

「宮崎監督が『みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?』
って問いかけるんです。
『鈴木さんを見ていると、そうじゃないと思うんだけど』って。
彼らは、自分の幸せや自己実現のためではなく、
ただ、今やるべきことをやってきた人だと思うんですよ」

というはなしにがっくりくる。
そうだろうなー、だからおれはいつまでも未熟なのだ。

ひとが、自分のしあわせをいうようになったのは、
ほんのごく最近はじまったかんがえ方であり、
それまでは生まれた環境をそのままうけいれて
個人のためにではなく、その集落のことだけを
かんがえざるをえなかった。
たとえば風の谷の、族長のむすめとして生まれたナウシカは、
自分のやりたいこと、自分のしあわせのために生きるわけにいかない。
風の谷の村人たちも、自分のことはいわず、
「風の谷」のことだけをかんがえる。
それが「しあわせ」な生き方かどうかはわからないけれど、
そもそも「しあわせ」になる、という発想がないのだろう。

わたしのまわりにも、自分のことはぜんぜんだいじにしないで、
いつもまわりのひとに、どうやったらよろこんでもらえるかをかんがえている
神さまみたいなひとがいる。
そんなひとといっしょに仕事をすると、
お金がどうこうではなく、いい仕事がしたいと
わたしでもおもうし(ながくはつづかなかった)、
魅力があるので、そのひとのまわりには
自然とひとがあつまってくる。

『ノルウェイの森』で「僕」が永沢さんに
大切にしていることをたずねるシーンがある。

「紳士であることだ」

紳士とは、とさらにワタナベくんがたずねると、

「やるべきことをやることだ」

と永沢さんはこたえる。
永沢さんがそんなことをいうとずっこけたくなるけれど、
あのひとはほんとうにそういう規範で生きているようだ。
それ以来、わたしもときどきこのことばをおもいだし、
「やるべきことをやること」と自分にといただすけど、
ながくはつづかない。
どうしても、やるべきことよりも、やりたいことのほうへいってしまう。

自分のしあわせとか、自己実現とかをいうのは、
それだけ世の中がゆたかになり、
自分のことをかんがえる余裕がでてきたからだろう。
でも、「しあわせ」や「わたしがほんとうにやりたいこと」などを、
いくらかんがえてもこたえはみつからない。

宮崎駿さんは

「目の前のことを、一生懸命やりなさい」
「自分の個性を出そうとか、
何か人と違ったことをしようって頭で考える前に、
『まず、働け』」

といわれている。
かんがえているだけではだめで、
とにかく一生懸命はたらくこと。
わたしは自分がもういい年齢(52)になったことをいいわけに、
そろそろすきなことをしてもいいころ、と楽なほうににげるけど、
宮崎さんや鈴木さんは、ぜったいに自分のことなんかいわない。

先日いつものように体育館へトレーニングにいくと、
しりあいの養護学校の先生がおられた。
目のよくみえない女性について、
ランニングマシンのつかい方を説明されている。
もうすぐひらかれる大会にむけて、
練習をつんでこられているのだそうだ。
どれだけの頻度かはたずねなかったけど、
もうずっとボランティアとしてかかわっておられるのがわかる。

なんだか自分が自分だけのことばかりかんがえている
つまらない人間におもえてきた。
とっさに頭にうかんだのは、
なにかボランティアをやろう、という
あまりにもお気楽な発想で、
でもほんとうに、すこし自分をはなれて
ひとのためになにかしたいとおもった。
運動や、外国人への手だすけでだったら
なにかわたしにできることがあるかもしれない。
そんなことより仕事に熱をいれろ、という
つっこみもあるだろうが、
仕事とはなれたところで、なにか関係をつくれたほうがおもしろそうだ。

「みんな本当に、自分の幸せのために生きてるの?」

は、自分ばかりを大切にしてきたわたしに、
ジワジワときいてくるおもいといかけだ。

posted by カルピス at 20:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする