2014年01月25日

「暖房ゼロ生活」 さむさを排除すべき敵ではなく、共存する環境としてとらえる

きのうの朝日新聞に稲垣えみ子さんが
「やみつき『暖房ゼロ生活』」という記事をよせている。
節電をきっかけにはじめた「暖房ゼロ生活」が、
3ど目の冬をむかえているのだそうだ。
稲垣さんは、子どものころからさむさによわく、
エアコンをぜいたくにつかって冬をのりこえており、
今の生活が自分でもしんじられないという。

秘密兵器は湯たんぽで、これをふともものうえにおき、
おおきなひざかけをけるとじゅうぶんあたたかいそうだ。
ねるときにももちろん湯たんぽをつかう。
はく息がしろいほどさむい部屋でも、
「自分が温かければ案外どうってことない」といわれる。

わたしもこの冬から湯たんぽ生活をはじめた。
おおい日は3回もお湯をいれかえてあたためてもらっている。
パソコンにむかっていすにすわっていると、
あしもとがひえてたまらなくなるけれど、
湯たんぽを寝袋にいれて、下半身をすっぽりもぐりこませると、
それだけですごくあたたかくすごせることがわかった。
さむさは足元からやってくるので、そこをあたためてさえおけば、
上半身の暖房はそんなに重要ではない。
不便なのは、いちど寝袋におさまってしまうと、
手帳や本をとりにいったり、ピピがあそびにさそってくれたときに
いちいちおおげさなしきりなおしが必要なことで、
稲垣さんはひざかけをどけるだけだから、まだ身がるなのだろう。

稲垣さんは、「暖房ゼロ生活」をはじめてから
苦手だったさむさが気にならなくなったそうだ。
お湯をわかすことだけで、すこしはあたたかくなるし、
湯でカンをした日本酒のうまさにしあわせをあじわう。

「暖房に頼っていたころ、
寒さは全面的に排除すべき敵であった。(中略)
私たちは経済成長とともに
『ある』幸せを求めてきた。
金がある。電気がある。暖房がある。ああ幸せ!
それに慣れると『ない』ことを恐れるようになる。
でも実は、『ない』中にも小さな幸せは
無限に隠れているのだ。
そう気づいたとき、恐れは去り、
何とも言えぬ自由な気持ちがわき上がってくる」

排除すべき敵ではなく、共存しなくてはならない環境というとらえ方が
すてきだとおもった。
野宿野郎のかとうちあきさんも、
野宿をすすめながらいつもこの自由についてかたっている。
あつさもさむさも、洗濯できないことも、蚊になやまされることも、
ぜんぶ敵ではなく共存すべき環境としてとらえ、
そのなかにしあわせ・自由があるとわたしたちをさそってくれる。

稲垣さんの記事のタイトルをもういちどくりかえすと、
「やみつき『暖房ゼロ生活』」であり、
「暖房ゼロ」に「やみつき」になったというのがすごい。
やみつきなのだから、暖房にたよる生活よりも
暖房ゼロのほうがこのましいわけで、
そのたのしさ・自由をもう手ばなせなくなっているのだ。
わたしたちは、暖房のおかげで快適な環境を手にいれたとおもっていたら、
それはかえってささやかなしあわせをみうしなう、
おもしろみのない生活だったのかもしれない。

わたしは湯たんぽ+寝袋でぬくもるのがせいぜいで、
とても「暖房ゼロ生活」にきりだす勇気はない。
よほどいくじのない人間で、さむさのまえではすべての意欲がきえて
なにもできなくなってしまう。
すこし譲歩して、まきストーブくらいなら、
その不便さをたのしめるような気がする。
冬をまえに、まきを大量に準備して、という冬ごもりも得意そうだ。
まきストーブと湯たんぽで、暖房費ゼロ生活を「やみつき」にするのが
農的生活にからめて、4番目くらいにえがいているわたしの夢だ。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする