2014年01月27日

トレーニングルームでの奇行をどうとらえるか

星野博美さんのエッセイ『戸越銀座でつかまえて』をよんでいたら、
健康センターでのトレーニング風景がでてきた。
区立の施設なので利用料が400円とやすく、
民間のスポーツクラブとはちがう客層がやってくる。

「運動をしている人を見ているとおもしろい。
その人が職業や社会的立場や日常の人間関係から解き放たれ、
素の姿になっているようにおもえる」

「人目を気にせずでんぐり返しを続けているおじさんがいるかと思えば、
ものすごく重いダンベルを大声をあげながら持ち上げ、
そのたびにこちらをちらりと見て『俺ってすごい?』
と同意を求めるおじさんがいる」

星野さんによると、みていておもしろいのは、圧倒的に男性だという。
これはトレーニングセンターだけではなく、銭湯でもいえることらしく、

「きっと男の人は、ふだん社会や家庭で背負っているものが大きすぎて、
そこから外れた時の開放感が大きいのだろう」

というのが星野さんの分析だけど、これはどうだろうか。
ひごろの束縛から開放されて、つい素がでるというよりも、
いつもやっていることをトレーニングセンターにも
そのままもちこんでいるとみたほうが正解ではないのか。
もっとも、都会のストレスは地方都市とはけたちがいだろうから、
開放感というとらえ方が理解できないわけではない。

わたしがよくいくジムにもかわったおじさんがいる。
自分がつかうはるかまえからバーベルをセットして、
自分用に「確保」しようとする。
シャカシャカといそがしくうごきまわり、
トレーニングというよりあやしい一連の儀式にみえるので
なんとなく部屋全体がおちつかない雰囲気になってしまう。
映画の『ポリスアカデミー』にでてくる迷惑おじさんにそっくりなので、
そのまま「迷惑おじさん」とわたしはよんで、
そのひとがくる時間をはずすようになった。

このひとは、トレーニングセンターという非日常の場によって
精神を開放されたからこんなうごきをとるわけではなく、
ほかの場面でもおなじやり方をとおしているような気がする。
器具の確保というルール違反は注意することができるけど、
職場や家庭という社会生活では、
どうやってひととの関係をつくっているのだろう。

あとの常連さんは、それぞれ自分の流儀にそって
粛々とトレーニングをすすめられており、
トレーニングルームでとくに不自然なうごきはみえない。
それでは女性の奇行が目につくかというと、そういうわけでもないので、
都会と地方都市では、やはりストレスにずいぶんちがいがあるのかもしれない。

わたしがいくジムは、そもそも利用者がすくなくて、
トレーニングルームをひとりで2時間専用利用という日もあるし、
プールでも1コースをひとりじめというのがあたりまえだ。
そんなところでは、あまり自己主張しようとがんばらなくても、
平和に、おだやかにくらしていくことができる。
また、都会ではまわりがしらないひとばかりであり、
つい「旅の恥はかきすて」という意識になりやすく、
いっぽう、いなかではどこへいってもしりあいばかり、という事情によって
極端な行為にブレーキがかかっているのかもしれない。
人口密度がたかくなれば、なにがしら無理がしょうじるので、
どうにかしてそれを調整する必要がある。
都会のひとは、ふつうならするはずのない不自然なうごきで
バランスをとっているともかんがえられる。

そもそも、星野さんが例にあげた
「でんぐり返しの連続おじさん」や
「ダンベルのマッチョおじさん」は、
わたしにはそんなにめずらしいうごきにおもえない。
職場や公共の場でそれをやられたらこまるけど、
トレーニングルームならゆるされる範囲ではないか。
トレーニングルームは、そういうことをするための場所なのだから。
星野さんは奇行に目がゆき、わたしはルール違反のほうが気になる。
どちらも、ほかのひとには全然問題ないのかもしれない。
トレーニングルームの流儀はなかなかむつかしい。
星野さんもわたしも、そしてほかのひとたちだって、
みんなおおかれすくなかれ、すこしずつかわっている、というのが
客観的な事実ではないだろうか。

posted by カルピス at 20:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする