2014年02月28日

『本の雑誌3月号』はよみごたえがあります

『本の雑誌3月号』に、

「『椎名誠 旅する文学館』シリーズの電子書籍が刊行されました」

というおしらせがのっていた。
椎名さんは電子書籍なんかよむ気はなくて、
電子書籍ばかりがはびこるようになったころには
自分の目はもうヨレヨレだろうから、
そのときには本をよむなんてきっぱりやめて
北か南のまちでしずかにくらす、
みたいなことを何年かまえの本にかいていた。
自分は電子書籍がきらいでも、
自分の本が電子書籍になるのはいいのだろうか。

高野秀行さんも、電子書籍なんてよみたくない、
とかいていたのに、
ご自身の本4冊が電子書籍になるとブログで宣伝してあった。

「海外在住の人、旅行に行く人はもちろん、
写真をカラーで見たい人、新しい写真を見たい人も
ぜひお試しください」

本の電子書籍化を批判するのなら、
自分の本を電子書籍化するのはおかしいようにおもえる。
そこらへんの整合性はどうなっているのだろう。
おふたりともすきな作家なので、説明なり提案なり、
スジをとおしてもらいたいものだ。

『本の雑誌』3月号はよみごたえがあった。
穂村弘氏の「藤圭子の少年マガジン」という記事は、
年末に掃除をしていたら、40年くらいまえのマガジンが
2冊でてきた、というはなしだ。
表紙はいずれも藤圭子だという。
「巨人の星」「あしたのジョー」「アシュラ」「釘師サブやん」
などなつかしい名前がでてくる。
マンガだけでなく、欄外のミニコラムには
「英国婦人のブラジャーの半分は針金入り、
このため英空港では、婦人が通るたびにハイジャック防止の
武器探知装置が反応を示し・・・」などの記事がのっていたそうだ。
「英国」も「ブラジャー」も「飛行機」も、
子どもにははるかにとおい世界だったわけだから、
おさなかった自分はどんなに興奮しただろう、
と穂村氏はふりかえっている。

「定価80円の雑誌の中に、
世界と『ぼく』に革命が起きるかもしれないという
予感が充ちている」

1970年代らしい、未知への期待がつたわってくるいいはなしだ。

ファミコンもケータイもなく、
少年週刊誌の存在は、子どもにとって
いまとはくらべられないくらいおおきかった。
とかきながら、いまの子どもたちがなにをしているのかしらないくせに、
こんなふうにわかったようなことはかけないことに気づく。
せっかく藤圭子が表紙にのったマガシンで、
少年の気もちによりそったはずなのに
おとなのずるさがすぐかおをだす。
それにしても、2冊ともなんで藤圭子だったのだろう。

わたしはマガジンではなく、サンデー派だった。
「男組」「直角」「一球さん」「プロゴルファー猿」と
豪華な連載がたくさんのっていて、
なんていうはなしをしだすときりがない。
むかしばなしがきらいで、のみ会などで
むかしをなつかしんでばかりのひとがいるとうんざりするくせに、
こういった風俗をふりかえるのは、たしかにたのしい。

『武士の家計簿』をかいた磯田道史さんの記事は、
どうやって古文書をよめるようになったかがかいてある。
家には代々ひきつだれてきた古文書があり、
もしそれがよめたら、自分の祖先が殿さまにつかえて
200年にわたりどんな勤務をしてきたかがわかる。

「私は、もうその日から、
学校の勉強はしないことにきめた。
古文書が解読できたら、
また数学だの英語だのは、やることにした。(中略)
みつけた忍者の古文書を解読するのには、
いくらも徹夜できるが、
印税目当てに本を書くなんぞは眠くてできない。(中略)
試験の成績をあげるため、どこかいい大学に入るため、
そんなことで勉強がやれる忍耐をもちあわせている人はいい。(中略)
しかし、自分は、そういうことの埒外で生きてきた」

かっこいい。なんてすっきりした生き方だろう。
そんなふうにして先祖の古文書をよんでみると、
いかに武士のくらしは出費がおおいかがわかったそうだ。
大名行列にくわわるのにも、自分のもちだし分がある。
もし武士の家計簿がみつかり、それを研究したら
いろんなことがわかるのではないかということで、
小説『武士の家計簿』がかかれた。
印税めあてにはかけないというひとの小説を
よんでみたくなった。

posted by カルピス at 19:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月27日

ピピへの過剰の愛にくるしむ

チャコが死んでからというもの、
ピピはますますなくてはならない存在となった。
こんなことを心配してもしょうがないとおもいつつ、
もしピピになにかあったらわたしはどうなるだろうと、
ピピというより自分の反応がおそろしくなる。
といって、距離をおくなんてとてもできない。
ピピとあついハグをかわしながら、
自分がやりたくてこんなふうに溺愛しているのであり、
もともとはピピがもとめたわけでないと、よく承知している。
わたしがネコかわいがりするうちにピピがあまえるようになり、
そのかわいさがまた溺愛をうみと、どんどんエスカレートしていく。
ネコかわいがりは、人間側の自己満足でしかなく、
けっきょくは自分をくるしめることになるのがわかっていて、
でもやめられない。

トム=ハンクス主演の『キャスト・アウェイ』で、
無人島に漂着したトム=ハンクスが、
なんてことのない、ただのボールに名前をつけ
はなし相手としてかわいがる場面がある。
人形を相手にするのならまだしも、たかがボールなのに、
トム=ハンクスにとってかけがえのない存在となっていく。
だれともはなせない無人島では、こんな精神状態になってしまうのだと、
孤独感がリアルにかんじられた。
イチかバチかで島を脱出するとき、
このボールとはなればなれになったトム=ハンクスは、
まるで恋人をうしなったみたいに呆然とする。
ペットを溺愛するのは、ボールに人格をもたせるのと、
おなじことをしているのだろうか。

ペットロスにならないために、という注意事項には、
あまり溺愛しないで適切な距離をとる、みたいなことがよくかかれている。
そんなことがほんとうにできるのだろうか。
それができれば苦労しないし、
ネコかわいがりをしないなんて、
ネコとくらす醍醐味がないともおもう。
その動物が死んでしまったときの用心に、
生前から距離をおくなんて、つまらないことではないか。
ただしくてもできないことがある。

ペットといっしょにくらすということは、
いいこと・わるいことのすべてをうけいれることでもある。
そんなことはわかっていながら、
いざわかれるときがくれば、かなしみはふかい。
かわいがれば、わかれがかなしい。
かわいがらなければ、いっしょにくらすよろこびがない。

だれもわたしにネコを溺愛しなさい、なんていっておらず、
わたしがかってにかわいがっているだけだ。
なぜわたしは溺愛せずにいられないのだろう。
自分がナイーブでやさしい人間だと自慢しているのではない。
はじめは、かわいがらないほうがおかしいとおもっていたけれど、
このごろは、自分のほうにそれをもとめる
なんらかの理由・欠陥があるのかも、とおもうようになった。
自分がされたいことを、ひとはやっているのだそうで、
その解釈でいうと、わたしはかわいがられたいから
かわいがっていることになる。
そんなつもりはもちろんないけれど、
深層心理のことをいわれるとよくわからない。
ピピへの感情が、家族にむかっているかというと、
まったく自信がないわけで、
こういうのはやさしさとはいわず、よわさ、
もっとひどくいえば、ゆがみともいえるかもしれない。
なにがわたしをネコたちにむけているのか。

夜中におきると、ピピがうでのなかにいることをたしかめ、
朝はピピといっしょに寝床からおきだす。
ピピへ過剰な愛をかたむけつつ、
ピピがいなくなる「もしも」のときにおびえる生活は、
微妙なバランスのうえにやっとなりたっているもろさをかんじる。

posted by カルピス at 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月26日

『近代スポーツ批判』(中村俊雄・三省堂選書) 権利としてのスポーツ

ソチオリンピックに出場していた選手たちが日本にもどり、
記者会見がひらかれる。
外国人記者からの
「日本人は東京五輪組織委員会会長としての森さんを
任期の5年間、耐えられるのだろうか?」
という質問が興味ぶかいけれど、
今回かきたいのはそのことではない。

こうした場では、選手とその競技の関係者が応援に感謝するとともに、
強化のための支援をおねがいすることがおおい。
この場面をみていつもおもいだすのが
『近代スポーツ批判』だ。
もうずいぶんまえによんだ本なので、うろおぼえの記憶になるが、
この本にはトップレベルの選手たちには、
つよく・はやく・たくみになった成果を、国民に還元する義務がある、
と指摘している。
選手たちのたゆまない努力によってつちかわれた能力ではあるけれど、
その強化のために施設やお金が優先的につかわれている。
「愛と感動をありがとう」などという
きれいごとでお茶をにごすのではなく、
世界の強豪たちと技をきそった経験を、
いろんなかたちで一般のひとに還元するのが義務というかんがえ方が
当時のわたしにはとても新鮮だった。

うまいひと・つよいひとには、
なぜ優先的に施設をつかう権利があるのかという疑問。
この視点はなにもオリンピックレベルにかぎったものではなく、
学校の部活動でもおなじことがいえる。
野球部がグランドを優先につかっていれば、
ほかの生徒は、たとえばグランドでドッジボールができない。
そんなのあたりまえ、とおもっていたけれど、
人権や平等についてかんがえたときに、
ほんとうにそれでいいのかどうか。
中村さんは、試合をして野球同好会が野球部にかったとしたら、
グランドの使用権はどうなるか、という例をあげ、
いまつよいチームやクラブが、権利を独占するおかしさをおしえてくれた。
一般のひとに還元、といっても、その組織やひとにあったやり方でいいわけで、
たとえば野球部がいっぱんの生徒を対象に野球大会や野球教室をひらいて
野球のたのしさをおしえてくれたらいい。

わたしはわりと運動ができるほうだったので、
体育やあそびの時間にヘタな子といっしょにプレーするのはたのしくなかった。
しかし、中村さんにいわせると、
運動がへたなひとたちは、すきこのんでヘタになったわけではなく、
ヘタにさせられたかなしい歴史があるというのだ。
おとなになってからわたしは、水泳指導という仕事についた。
競泳をやっていながら、初心者がおよげるようになる、
適切な指導ができなかったわたしは、
初心者の側にたつとはどういうことなのかをかんがえるようになった。

モスクワオリンピックを日本がボイコットしたときの記者会見で、
柔道の山下選手が涙をうかべて抗議していた。
スポーツと政治を混同しないでほしい、といううったえだ。
なんというおさない発想だろうと、
すでに中村さんの本をよんでいたわたしはあきれてしまった。
スポーツと政治はきりはなせない関係なのにきまっている。
どんなスポーツの環境をもとめるかは、
どんな政治をのぞむかと関係ないわけがない。
そんなことも意識しないで、ただつよくなるために練習をかさねてきた
かぼそいエリート選手たち。
涙をうかべる大男が、自分がするべきこともわからない、
なさけない存在にみえた。

中村さんが大切にしている視点は「運動文化の継承と発展」だ。
文化だからといって、すべてをひきつがないといけないわけではない。
数ある文化のなかから、どれをえらび、どう発展させていくのかが
いまをいきるわたしたちにはもとめられているのだ。
必要であればルールをかえることもできる。
その方向性が、一部のひとたちだけに有利な変更ではなく
(バレーボールのネットのたかさなど)、
おおくのひとたちがそのスポーツの本質にふれ、
たのしさを味わうためのものであればいい。

『近代スポーツ批判』は、
権利という視点からスポーツをとらえることをおしえてくれた。
すぐれたアスリートは、ただつよければいいのではなく、
その競技がうまくないおおくのひとたちのためにも、
おもいをめぐらせてほしい。
ソチの「愛と感動」はたくさんもらったから、
こんどは還元のほうもよろしくね、
とクギをさしたくなった。

posted by カルピス at 13:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月25日

おいわいする日って、たくさんある

ちょっとまえに寝酒がすぎることがつづき、
もう酒なんかやめようとおもったことがある。
でも、そうきめたとたん、
おいわいしたくなるできごとばかりおこるので
すぐに挫折してしまった。
ダイエットをしたことのあるひとは、
おなじ体験をしておられることだろう。
ささやかなおいわいをしたいことができたり、
ちょうど旬のたべもの(たとえばサンマやクリ)が食卓にならんだりすると、
かんたんにダイエットがくじける理由になるのではないか。

乾杯をするのにも理由にこまらない。
理屈をつけておいわいの口実をつくるのではなく、
ごく自然におめでたいことが日常にはちらばっている。
いい本にであったこと、
主人公にふかく共感したとき、
サッカーのいい試合をみて、その余韻にひたりたいとき、
気にかかっていた課題をぶじにおえたとき。
清志郎の命日なんていうのもはずすわけにいかない。
そもそも「なんでもない日おめでとう」なわけだから、
なにもない日こそ、おいわいをしないわけにいかないし。

だれかといっしょにいる気分にひたりたいのかもしれない。
乾杯は、ひとりでお酒をのみながらも、
気もちはだれかとつながっている。

今回は、ソチオリンピックがらみで
なんども「おめでとう」の乾杯をした。
たとえば、ショートプログラムからの真央ちゃんの復活は、
乾杯でこころの友とよろこびをわかちあうしかない。
「観たぞソチオリンピック」にすてきな感想をよせていた
「にわかファン」仲間のことだ。

わが家は家族でオリンピック、という雰囲気ではなく、
たとえいっしょにテレビをみていても
オリンピックについて話題がふくらむことがない。
そんな残念な家族関係なので、
わたしにとって「観たぞソチオリンピック」はとてもありがたい場所だった。
ネットとはいえ、いっしょにオリンピックをみている気になれる。

「観たぞ」にのった「いいね!」的な感想を
エバーノートにクリップしていたら、
ソチオリンピックについて185のノートがたまった。
選手たちが満足のいくレースができることを、
自分のこととしてよろこべるすてきなひとが
こんなにたくさんいたのだ。
「観たぞ」がおしえてくれた「みる」たのしさは格別だった。
ネットならではのすてきな場所をつくってくれたほぼ日に感謝したい。

「オリンピックは自動的に
 開催されるわけではない。
4年後は、4年かけて、みんなでつくる」

というかんがえ方を永田さんが紹介していた。
4年先のビョンチャン、もしくは2年さきのリオを
どうたのしめるかはわたし次第だ。

おいわいする日って、たくさんある。
お酒はやめららないけれど、
これはぜったいにしあわせなことだ。

posted by カルピス at 13:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月24日

『もっとにぎやかな外国語の世界』(黒田龍之助)「ルパン三世」はなぜ「ルパンV世」ではないのか

『もっとにぎやかな外国語の世界』(黒田龍之助・白水Uブックス)

外国語はまったく得意ではないけれど、
外国や、そこではなされていることばには関心がある。
この本をかいたのは黒田龍之助氏。
おもしろいといいけど、とかってみたものの、あまり期待はしていない。
よみはじめても、なんだかおなじような場所をぐるぐるまわっているかんじで、
なかなか本論にはいらない(じつは、本論などなかった)。
かいてある内容だって、やさしく、といいながらわたしにはじゅうぶんむつかしい。
でも、「黒田龍之助」が、ロシア語講座の黒田先生だとわかってから
うけとめる気もちがガラッとかわり、
あのひとがいうのだから、さいごまでつきあおうとおもった。
ラジオのロシア語講座をきいていると、
ロシア語のややこしさがすきでたまらないという
黒田先生のひととなりがつたわってきて、
ぜんぜんわからないなりにたのしい時間をあじわっているからだ
(カーチャさんのかわいい声にもひかれて)。

もっとも、わたしはちゃんとテキストをまえに勉強しているわけではなく、
自動車を運転しながら、15分きざみでながれてくる
いろんな外国語講座をただきいているだけだ。
ロシア語講座はそのなかのひとつであるにすぎない。
なんとなく「ことば」というぐらいはわかるスペイン語やドイツ語にくらべ、
ロシア語はとびきり複雑だ。
はなすひとの性別により名詞まで変化するし、
複数形も英語のようにただ「s」をつけるだけではなく、
ひとつなのか、ふたつなのか、それ以上なのかによってちがってくる。
発音も子音がおおく、どれもおなじように、
もしくはどれもちがうようにしかきこえない。
こんなことばは、とてもじゃないけど理解できない、
というか、そもそもことばともおもえない、と
あきれながら、ただラジオをつけている。

おしえる側の黒田龍之助先生は「大丈夫ですよ」と
いつもかわらず、やさしく、たのしそうに説明してくれる。
やさしい、といっても、生徒には基本的な知識と努力をもとめられるし、
やさしくいわれても、わからないものはわからないのだから、
ロシア語がむつかしい、という印象はかわらない。

まえおきがながくなった。
この『もっとにぎやかな外国語の世界』は、
いろいろな外国語の勉強を、かたぐるしくなく、
にぎやかにたのしんでほしい、という
黒田先生のエッセイだ。
ロシア語だけでなく、チェコ語やクロアチア語、
インドのナーガリー文字など、さまざまなことばが話題にのぼる。
黒田先生は、外国語とその文字を勉強するのが
すきでたまらない。
言語学だから学問になるけど、
ちがう分野だったらオタクといわれそうな
マイナーでふかい世界をたのしんでおられる。
留学せずにロシア語をまなんだとかいてあるけど、
ロシア語講座でのカーチャさんとのやりとりをきいていると、
現地での体験がないひとにはとてもおもえない。
ことばに関することはぜんぶ吸収してしまうのだろう。

それぞれの章のあいだにコラムがはさんであり、
やわらかい話題で休憩しながらよみすすめる。
ローマ数字について、
「アレクサンドルV世」はローマ数字なのに、
「ルパン三世」はそうではない、と指摘してあって、
いわれてみれば不思議になってくる
(なぜかはけっきょくわからない)。
また、ローマ数字がいまはあまりつかわれないのは、
ゼロをあらわせないからだそうで、
こういう、どうでもいいけどおもしろいはなしをしると、
ことばについての興味がわいてくる。

ひとつ気になったのは、エスペラント語について、

「平等という発想は立派である。
だが国際共通語一つだけで
みんながコミュニケーションできる世の中が
果たして幸せなのだろうか」

とかいてあるところだ。
エスペラント語はひとつだけの国際共通語をめざしたものではなく、
母語と、もうひとつエスペラント語さえ身につけていたら、
世界中のひととコミュニケーションできる、
という国際補助語としての運動ではなかったか。
黒田先生は

「(エスペラント語は)やさしいといわれているが、
あまりそういう気がしない。(中略)
英語やフランス語などをすでに知っている人にはいいかもしれないが、
そうでなければ覚える手間は同じではないだろうか」

といわれる。
エスペラント語の入門書をほんのすこしかじった経験からいわせてもらえば、
ぜんぜん「同じ」ではない。客観的にいって圧倒的にやさしい。
なにしろ、文法に例外がなく、
たとえば現在形は語尾に「as」がつくとおぼえてしまえば、
すべての単語にその規則がいかされる。人称による変化もない。
例外がいっさいないということが、どれほど気をらくにしてくれることか。
「覚える手間は同じ」なんてとてもおもえない。

エスペラント語は、黒田先生にとってかんたんすぎるのだ。
「例外がない文法なんて、なんだかつまらない」といわれる。
ロシア語の複雑さをまえにおどろくしかないわたしにとって、
エスペラント語の規則のすくなさはとても魅力的なのに。

ことばを身につけることにかけて、天才はたしかにいて、
そうしたひとは一般人にくらべ
ほんのわずかな労力で外国語を習得してしまう。
黒田さんがなんの努力もしていない、なんていうつもりはないけれど、
それでも数おおくのことばを勉強し、
それがたのしくてしかたがないという黒田さんは、
特別な才能をもっているというべきだろう。
なにしろ、留学しなかった理由のひとつに
「日本にいれば、いくつもの外国語とにぎやかにつき合える」
なんていうのだ。
「どこの国、どこの街にいても、そこにはない言語を、
しかも二つも三つも求めてしまう」のだそうだ。

にぎやかな外国語の世界への案内、
というのがこの本の趣旨であり、
ラジオでの黒田先生のひとがらをしっていたおかげもあって、
「言語学」からくる、かたぐるしそうなイメージにおびえないでよむことができた。
あとは、自分でどうその世界をひろげるかで、
英語にかたよりがちな意識をどうにかしないと、
つぎのことばになかなかすすめない。

この本の基本的な精神である、ことばについての平等主義が
よんでいて気もちがよかった。
黒田先生は、英語なんかを特別あつかいしてなくて、
ピジンやクレオールにもちゃんと敬意をはらっている。
黒田先生がこれほどおもしろそうに外国語についてかいてくれたのだから、
ラジオ講座の受講生としても、なにかうごきをつくりたいところだ。
黒田先生がすすめている「言葉のしくみシリーズ」は
「いろんな言語をすこしずつ覗いてみたいという人向きの、
気軽な案内書」
ということだから、わたしにむいてそうな気がする。
習得をめざすのではなく、「すこしずつ覗く」とう方針で
外国語の世界をひろげてみたい。

posted by カルピス at 12:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月23日

いまのわかいひとは手紙をかくのか

ラジオをきいていたら

「何回もかきなおした手紙は
いまもぼくのポケットのなか」

という歌詞がながれてきた。
槇原敬之の「ラブレター」という曲らしい。
この手紙はパソコンでかいたものだろうか。
曲をきいていると、紙にかいたようにおもえるけど、
いまのわかいひとは、ペンと紙で手紙をかくのだろうか。

歌詞をしらべてみると、
「徹夜で作ったテープ」ということばもでてくる。
たぶんCDからお気にいりの曲をあつめて
カセットテープにまとめたのだろう。
まだパソコンが一般的でない時代のようだから、
この手紙は直筆によるもの、とみたほうがいいのだろう。

歌詞のなかににでてくる品々によって、時代が限定される曲は、
当時の風俗がしのばれて貴重なデーターともいえるけど、
それだけきく側の条件を限定してしまう。
スマホということばをつかえば、いまは一般的な状況でも、
あと10年もすれば「スマホ?」という時代になっているだろう。
ビートルズの曲がいつまでもしたしまれるのは、
普遍的なことばをえらんでかかれているからではないか。
村上春樹の本も、昭和うまれでないとわからないような情報はつかわれていない。

このラブレターという曲は、
自分がわかかったころのおもいをうたったものであり、
状況を当時に限定してもさしつかえない場面なのかもしれない。
槇原さんはそんなことはわかったうえでつくっただろうから、
よけいなお世話とはいえ、
歌詞にでてくる日用品によって
曲の賞味期限がきまってくるのはもったいないようにおもう。

最初の疑問にもどって、
いまの若者は手紙、とくにラブレターをかくのだろうか。
かくとしたら、どんな内容なのかに興味がわいてくる。
相手へのおもいをつたえるときに、
ツイッターやフェイスブックのときみたいな
みじかくてぶつぎりのことばでは味けない。
そもそもラブレターとデジタル機器とは
あまりいい相性ではないような気がする。
そのうち(じつはすでに)ラブレターは死語となり、
手紙というコミュニケーション手段もきえていきそうだ。
かくして恋愛は、縄文時代のように
ちょくせつ相手へのおもいをあらわすものへとかわっていく。

posted by カルピス at 10:21 | Comment(0) | TrackBack(1) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月22日

浅田真央!

女子フィギュアのフリーがはじまり、
浅田真央選手が最初のジャンプをきめると胸がいっぱいになった。
曲がすすむにつれてうごきがスムーズになり、
浅田さんの演技にひきこまれる。
すべりおえると、こらえきれずに浅田さんはなみだをうかべ、
そして笑顔をみせる。

ショートプログラムが失敗におわったあと、
おおくのひとが「真央ちゃんはいまどうしているだろう?」と
浅田さんを気づかった。
もういちどリンクのうえにたつことが、
どれだけつよい気もちを必要とするか、
「にわか」のわたしにもわかる。
浅田さんならきっとやってくれると、
しんじ、そしていのるしかない。

「観たぞソチオリンピック」にも
たくさんの感想がとどいている。
よんでいるうちに、おおくのひととよろこびをわかちあえた気になれた。
すばらしいスケートだったと、胸のたかまりをなんどもおもいおこす。

「私たちがスポーツを見る理由が
ここに集約されてる気がします。
本当にありがとう。真央ちゃん。」(あず)

「ただただ拍手。
深夜に1人でスタンディングオベーション。」(なつ)

「何年もこのコーナーの愛読者ですが初めての投稿です。
一人で見てましたが誰かと分け合わずにおられません。
フィギュア見て泣いたのは初めてです。
真央ちゃんすごい!!えらい!!
笑顔で終えられてほんとにほんとによかった!!!
ありがとう!!!」(ふむすたー)

「真央ちゃんの演技に感動し、脱帽し、
魂が抜けている深夜2時過ぎ、
そわそわした挙句なぜか髪をブローし始めました。
出勤まであと5時間もあるというのに。」(みこりんの姉)

「まおちゃん、大きすぎるSPのショックからの
劇的な復活でした。
世界の名スケーターたちからは惜しみない賞賛が
ツイッター上で寄せられています。
皇帝鼻王子エフゲニー・プルシェンコは、
『真央は素晴らしかった。
 トリプルアクセルは特に良かったよ。
 君は真の戦士だ』と前夜のミスを引きずらず
トリプルアクセルを成功させたまおちゃんを賞賛。
SPの際、『ミスは残念だけど、このプログラムは大好き』
と応援したバンクーバー五輪銅メダリストの
ジョアニー・ロシェット選手も
『真央! なんてスケート! なんてファイターなの!』
とミスをはねのけたハートの強さをたたえました。
ミシェルクワンは、
『真央の姿に涙した。一生忘れない演技だった』
と感動のコメントをよせました。
トリノ五輪男子フィギュア銅メダリストで、
金メダリスト羽生結弦の振り付けを担当した
ジェフリー・バトルは
『僕の目から涙がこぼれた。
 ありがとう真央。華麗だったよ』と感動をつづります。
まおちゃん、あなたのフィギュアスケートは
ソチ五輪最高のメモリーとして、心に残ります。」(ありがとうスポーツ)

「アメリカで観ています。
フィギュア女子フリー、タラ・リピンスキー&ジョニー・ウィアー
という超豪華解説陣。
真央ちゃんの感動的な演技が終わって、
涙こらえていたのですが、タラさんの
『真央は表彰台には立たないかもしれないけど、
 ソチ五輪の浅田真央のことは誰も忘れない』、
ジョニーさんの
『キム・ヨナがクィーンなら、浅田真央はアイス・クィーンだ』
という言葉に涙腺も大崩壊でした。
注目され、期待され、重圧を背負ったことのある
トップ・アスリート達の心からの称賛。
思いもかけない成績だったSPからのカムバックが
どれほど大変なことかを知っているお二人だからこそ、
真央ちゃんがフリーで成し遂げたことがどれほど人並み外れたことか、
身に染みて感じておられたんだと思います。
真央ちゃん、本当にありがとう!」(背番号28)

みんななんてすてきなひとたちだろう。
自分は放心状態になりながら
浅田さんにのしかかるプレッシャーを心配し、
そして最高の演技におわると、こころからよろこびをあらわす。
浅田さんの成功を浅田さんのためによろこんでいる。
みているものをそんな気もちにしてしまうなにかが
浅田さんのスケートにはあるのだ。
ソチオリンピックでは、たくさんのドラマがうまれたけれど、
女子フィギュアのフリーもまた格別なものがあった。
浅田真央選手のつよさとうつくしさを
わたしはぜったいにわすれない。
おめでとう。ありがとう。

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2014年02月21日

『コガネムシはどれほど金持ちか』(椎名誠)気になる身体表現は口にチャック

『コガネムシはどれほど金持ちか』(椎名誠・毎日新聞社)

『サンデー毎日』に連載されている「ナマコのからえばり」シリーズの3冊め。
シーナさんは月に22の連載をかかえているそうで、

「ほぼ毎日が原稿締め切りなんだけれど、
ニンゲンというのはしぶといもので、
殆どアタマの中に何の思考も入っていないのに
締め切りを直前にすると人々を騙すようなコトバのレトリックを使って
ナニゴトかほざき、
それが『おはなし』になってしまうのである」

という。
ひどいはなしにおもえるけど、
それでもよませてしまうからたいしたものだ。
くらべるのは失礼だけど、ブログをかくのもにたようなもので、
パソコンにむかってなにかうっているうちに、
はじめにおもっていた方向とぜんぜんちがう結末ながら
うまくおさまってしまうところがある。

この本は、ネタにこまってあきらかにくるしまぎれ、
という回がときにはあるけれど、
シーナさんくらいになると、それでもなんとかつないでしまう。
なんば花月で「オール阪神・巨人」の漫才をきいたときに、
はなしがあっちへとんだかとおもうと、
あい方がぜんぜん別のはなしをはじめ、と
自由自在にしゃべくっているようにみえて、
それがめちゃくちゃおもしろくて感心したことがある。
名人の芸とは、こういう別格な域にたっしているのだ。
シーナさんのネタにこまったよたばなしも、
それといっしょで、というとちょっとほめすぎか。
でもまあ、だいたいそんなかんじ。
あぶなげがなく、安心してよんでいられる。

おもしろかったのは「見たことがない」というはなしだ。
この回では
「がくりと肩を落とした」
「目を白黒させていた」
などの身体表現にシーナさんはからんでいる。
「ペロリとたいらげた」のペロリとは、どういうたべ方か、
といわれるとたしかにそうだし、
「口にチャック」では、じっさいに口にチャックをぬいつけた状況を想像し、
それがいかにたいへんなことかという指摘がおかしかった。
安易にそんな表現をつかうな、というのだ。
口にチャックなんかつけられたらたいへんだから、
わたしもこの手の表現は
比喩とはちがうものとしてあつかうようにしている。
もっとも、ソチオリンピックの女子フィギュアで
リプニツカヤさんの演技をみていたら、
ありえないからだのつかい方がでてきたりする。
「ペロリとたいらげる」みたいな身体表現も
あながち不可能とばかりいえなくなるかもしれない。

批判だけでとどまっていては芸がない。
シーナさんの提案は、どうせありえないうごきなわけだから、
そんな中途半端な表現ではなく、もっとおおげさに、というものだ。
たとえば

「岡山県の養蚕業の網島さんは
このままではもうやっていけません、
とにわかに怒りはじめ、口から轟々と火を吐いた」

のほうがインパクトがあるではないか、という。
「口から轟々と火を吐く」はともかくとして、
方向性としては採用したいかんがえ方だ。
でも、こういう身体表現が気になるひとは
はじめからべつのたとえをつかうだろうし、
気にならないひとはどうどうと「ペロリとたいらげる」だろうから、
現実的には採用されそうにない。

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2014年02月20日

赤信号をどうやってわたるか(あるいはわたらないか)

きのうにつづいて星野博美さんの『謝謝!チャイニーズ』から。

中国の交通渋滞は、歩行者が信号をまもらないことが原因だという。
どんなに交通量がおおい道路でも、
中国の人は、自分がわたりたいところでわたろうとする。
信号や横断歩道を、まもらなければならないものとおもっていない。
そんな中国から日本にもどると、車がとおらないときでも
赤信号を忠実にまもるひとがおおく、
星野さんは「いやな感じ」がするのだそうだ。

「そんなに周りの人間と違った行動を取るのが怖いのか。
そこまでして守らなければならない秩序とは、
我々にとってどんな意味があるのか。そういいたくなる。
私がいやなのは、信号を守る人間ではなく、
赤信号でも渡ってしまう人間を見つめる、その他大勢の目だ。
秩序を乱して独自の行動を取る人間に浴びせられる、
ちょっぴり羨望の混じった高圧的な空気。
規則に従ってりゃ安全だという事なかれ主義。
ところが何人か秩序を乱す者が現れると途端に気が大きくなって、
手を取りあって行動を共にしようとする傲慢な無責任」

わたしは、車がこなければできるだけわたるほうだ。
子どもがちゃんと信号をまもっているときは
さすがにわたらないけど、
とくにさしさわりがない場面では、安全をたしかめたうえでわたることにしている。
でも、よくかんがえると、さしさわりがあるときこそ、
断固としてわたるべきなのだ。
子どもからみたらとんでもない行為でも、
それはそれで彼らがなにがしかをじぶんでかんがえるだろうし、
信号をまもるタイプのおとなにも、インパクトがある。
さしさわりがあるときに赤信号をわたるだけの気概がわたしにはなく、
自分よりもまわりに行動の基準があるというのはいやなかんじだ。
でも、うえつけられた価値観はいまさらかわりそうにない。
わたしもまた、典型的な日本人であることをかんじるときだ。

日本人は、交通マナーがすぐれているわけではない。
ドライバーがまもるのは信号機だけだ
(黄色になっても、赤にかわってもつっこんでくる車はおおいけど)。
横断歩道のそばで歩行者がまっていても
信号がなければ、とまる車はほとんどない。
とびだし注意の路地などでは
歩行者のほうが注意しなくてはいけないし、
自転車にのっていると、
ドライバーがいかに自転車をかろんじているかよくわかる。
その程度のおそまつな交通マナーなのに、
赤信号だけはしっかりまもるというのが日本流だ。

ドイツでは、日本に輪をかけて、ぜったいに車がこないとわかっていて、
まわりにひとがいなくても
信号をまもらなければならないという。
それはそれで、いかにもドイツらしい。
カナダでは、歩行者を目にしたドライバーは
かならず車をとめてくれたのでおどろいたし、かっこよくおもえた。
ネパールでは、まったくじゃまにならないところをあるいていても、
はるかとおくからクラクションをならされるので頭にきたものだ。
国や民族性によって、歩行者と自動車のちから関係はさまざまで、
そのなかでも日本の赤信号への反応はいかにも日本的だ。
よくある沈没船ジョークでは、
船をおりるように説得するときに、国べつに効果のあることばがわかれている。

アメリカ人に対して・・・「飛び込めばヒーローになれますよ」
イタリア人に対して・・・「海で美女が泳いでいますよ」
フランス人に対して・・・「決して海には飛び込まないで下さい」
イギリス人に対して・・・「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」
ドイツ人に対して・・・「規則ですので海に飛び込んでください」


そして日本人には「みんなとびこんでいますよ」というのだから、がっかりする。
まわりをみて自分の行動をきめるのはすごくかっこわるい。

中国は、だれも横断歩道や信号をまもらないので、
道路にそってハードルをおき、物理的にわたれなくしたという。
道路をよこぎらないと、歩道橋まで何分もあるかないといけないので、
中国人はハードルをよじのぼる。
ひとがいても、車はスピードをおとしてくれるわけではなく、
道路をわたるのはすごくあぶない。
星野さんは中国人の無秩序を非難するのなら、自分はルールをまもろうと、
だいぶとおまわりをして歩道橋をわたることにする。
でも、歩道橋では不自由な自分のからだをみせつけて、
ものごいをするひとがたちふさがっていた。
お金をださなければ、かんたんにはとおしてくれないのだった。

「なぜ多くの人たちが危険を冒してまで、
ハードルを越えようとするのか、わかった気がした。
この歩道橋を平然と通り過ぎることに比べたら、
ミニバスにはね飛ばされる危険を覚悟する方が、
精神的にはよほど楽だ。
それから私は、ハードルをよじ登るのが少しだけ得意になった」

その国には、その国なりのさまざまな事情があり、
かるがるしく批判はできない。
自分がわたりたいところで道をわたる中国人は、
まわりがわたらないから自分もわたらない日本人より、
まだ正常な感覚のようにおもう。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月19日

『謝謝!チャイニーズ』(星野博美)でかんがえる中国のゴミ問題

星野博美さんの『謝謝!チャイニーズ』をよんでいたら、
ゴミにかんする中国人のふるまいについてかいてあった。
汽車で中国を旅行中、星野さんはたべおえたりんごの芯を
うしろめたくおもいながら、まわりのひとたちのまねをして
窓のそとにすてた。
中国人の乗客は、りんごの芯ならまだしも、
お弁当がはいっていた発泡スチロール製の容器も
ためらいなくそとになげすてる。
星野さんは、さすがにそれはできないので、
車両のはしにあるゴミ箱まで容器をもっていく。
でも、車掌さんがそのゴミ箱をどうするのかというと、
えいっと、いきおいよく中身を窓のそとになげたのだそうだ。

中国の町にもゴミ収集車がはしっているけれど、
ゴミ箱にゴミをすてる習慣がないため、
ゴミは路上にちらかりっぱなしになっている。
テーブルのうえのゴミは床へ、床のゴミは道路へ。
星野さんが、たとえばホテルの部屋にあるゴミ箱にゴミをすてても、
そのゴミはけっきょく路上にぶちまけられることになる。
フェリーにのっていてもおなじことがおこる。
乗客は、たべおえた容器を
みごとにぜんぶ海になげすてて「かたづけた」ことになる。

すごいなーとおどろきながら、
そうだろうともおもう。
1993年にかかれた本なので、いまはすこしでも
状況がかわっていることに期待したいけど、
きっとおなじことがつづけられている。

「自分が心底そのゴミの行く末に対して責任を感じるなら、
私は旅の間に出たすべてのゴミを日本に持ち帰り、
分別してすてなければならない」

と星野さんはとほうにくれる。
そんなことはとてもできないし、かりにそうしたとしても、
それで問題が解決するだろうか、と
といかけるのが星野さんらしいところだ。
日本でゴミを分別すると、たしかに自治体が回収して
一般市民としては責任をはたした気になれる。
しかし、ゴミは地上からきえたわけではなく、
ただ移動しただけともいえるし、
もし自治体がゴミをあつめなくなったら
自分はどうするだろう、というといかけだ。

日本のあらゆる海岸が、ながれついてくるゴミでよごされていると
テレビの番組でとりあげられていた。
ゴミのおおくは外国からのもので、
とってもとっても嵐がくるたびに
またゴミでうまってしまうのだそうだ。
ゴミをすてることにたいして、
まったくためらいをもたない中国や韓国のひとたちにとって、
ゴミをすてるな、というよびかけはなんの効果ももたないだろう。
バンコクからの飛行機が韓国の仁川空港についたとき、
韓国人のマナーのひどさにおどろいたことがある。
通路が毛布やよみおえた新聞・雑誌などでうまっていたのだ。
それはもう徹底的な風景で、
かたつけとかゴミの処理についての感覚が
日本人とはまったくちがうことにうんざりさせられた。
彼らには、ゴミをすてるのはよくないことだという意識がまったくない。
機内とおなじことが地球的な規模でおこなわれているのだろう。

「彼らの罪悪感のなさは、多くのことを知りすぎて、
何をするにも後ろめたさから逃れられない自分には、
不謹慎かもしれないが少しだけ羨ましかった。
しかし・・・だ。
これが中国全土で日々行われているのかと思うと、
やはり空恐ろしくなる。
私は中国の環境問題がとっても心配だ」

星野さんの心配は、そのまま現実となり、
中国からのゴミは日本の海岸や空をよごしている。
日本でおこなわれているゴミの分別をしった中国のひとが、
そのすばらしさをネットで紹介していた。
自分はやれるけど、まわりにひろがるのはむつかしそう、という感想だ。
中国だけで13億人という人口のおおさをかんがえると、
ゴミ問題のゆくさきはたしかにおそろしい。

星野さんのいうように、中国だけを非難してすむことではない。
ゴミ収集日のたびに袋にいっぱいのゴミをだしている生活や、
原発で汚染された水のたれながしなど、
わたしもまた加担している側であることからのがれられない。
日本では、公害問題がおわったことになっているけれど、
ほかの国に場所をうつしているだけなら、かえってひどいともいえる。
宮ア駿さんは、毎朝近所のゴミひろいをしておられるそうだ。
理屈ばっかりいってないで、そんなふうに
自分にできることをしているひとがいちばんえらい。

posted by カルピス at 19:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

NHK-FM「とことん暑苦しい音楽」と「めんどくさいのならしょうがない」との関係

NHK-FM夕方6時からの「とことん」シリーズは、
先週から「とことん暑苦しい音楽」をやっている(再放送みたいだ)。
ギトギト、ネバネバのあつくるしい曲をあつめた、というより、
案内やくの「DJホットマン」氏の声があつくるしいだけだけど、
いつまでもさむさのつづく今年の冬にぴったりくる。
選曲がよく、あまり音楽にあかるくないわたしでもたのしめる。
たとえば2月14日はこんなラインナップだった。

• 01. Master Blaster (Jammin') / Stevie Wonder
• 02. Buffalo Soldier / Bob Marley & The Wailers
• 03. Double Dutch Bus / Frankie Smith
• 04. Fight The Power / The Isley Brothers
• 05. I Love Rock 'n' Roll / Britney Spears
• 06. Play That Funky Music / Wild Cherry
• 07. Keep On Play That Fnky Music / Wild Cherry
• 08. This Cats On The Hotin Root / Brian Setzer Orchestra
• 09. Smile on Me / The Yardbirds
• 10. Rock And Roll / Led Zeppelin
• 11. Get It On (Bang a Gong) / The Power Station

「とことん暑苦しい」のまえは「とことん真冬のラテン」で、
このときは案内役のはなし方が生理的にわたしとあわず、
番組がはじまるとスイッチをきっていた。
いい曲だったらなんでもいいわけではない。
案内役の仕事は重大だ。

DJホットマン氏は、番組をきいているひとにぜんぜんこびてない。
でっちあげのリスナーからのコメントを紹介しておいて
ぜんぶ否定したり、
「◯◯という線で曲をあつめたとおもいますか?
偶然です!」とつきはなす。
そもそも、こんなはなし方をしたらいやがられるだろう、なんて発想がなく、
きく側を無視したどこまでもあつくるしい声でかってにもりあがる
(とおもわせるのがうまい)。
「おもてなし」がはやり、「お客さま」と客をもちあげるサービスがおおいなかで、
これだけすきかってにされるとほんとうにいいかんじだ。

ほぼ日の「観たぞソチオリンピック」に、
めんどくさいんじゃしょうがない、
というはなしがのった。

スキーやスノーボードの競技がおわってから採点をまつまあいだ、
ゴーグルをとらない選手がおおいことについての報告だ。
仕事でヘルメットとゴーグルの両方をつけてはたらいていたひとが、
この2つをつけたりはずしたりするのは
すごくめんどくさいことを説明し、
「ゴーグルを取らない選手には、
勝手に親近感を覚えます」
という感想をつたえている。

それについて永田さんも
「めんどくさいんじゃしょうがないですね」
というコメントだった。

そうだな。めんどくさいんじゃしょうがない、
とわたしもおもう。
あんまり関係ないみたいだけど、
DJホットマン氏のいっけんテキトーなたのしみ方と、
この「めんどくさいんじゃしょうがない」
の精神は、とてもちかいところにある。
「お客」をお客さまとしてまつりあげたり、
おもってもない「おもてなし」にやっきになるよりも、
「めんどくさいんじゃしょうがない」と
かんたんにあきらめるかるさがすきだ。
もちろん、すべてをめんどくさがるのではなく、
なにをめんどくさいとするかにセンスがとわれる
(なんてついいわずもがななことをかいてしまうわたしは、まだまだあまい)。

posted by カルピス at 10:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

『本を読む人のための書体入門』(正木香子)書体にたいしての独特の感覚

『本を読む人のための書体入門』(正木香子・星海社新書)

正木氏は、自分のことを「文字食」とよんでいるという。
文字を味わうひと、という意味なのだそうだ。
日本語にはせっかくたくさんの書体があるのだから、
ある場面でどうしてその書体がつかわれているかを
味わえたほうがたのしい、といわれたら、
たしかにそうおもう。

でもこの本は、書体の味わいかたについてしるよりも、
そのむつかしさにとまどうことがおおかった。
書体の多様性をたのしむ世界のなかで、
ほんのごくわずかなちがいをめでる
正木氏の特殊な感性におどろくしかない。
自分は特別ではない、と正木氏はくりかえしているけれど、
これはそうとう特殊な感覚ではないだろうか。
「入門」とタイトルにはありながら、
そのさきにいけるかというと、
ほんのかぎられたひとだけにしかわからない世界におもえる。

文体や、かかれている内容にあった書体をつかうことで、
効果をたかめるのはわかる。
それにしてもわたしには数種類の書体があればじゅうぶんで、
数千あるという書体のそれぞれをいつくしむなんてとてもできない。
おなじページにいくつもの書体がつかってあると、
目がチカチカしておちつけなくなる。

正木氏が書体に敏感になった理由のひとつに

「日本語の文章をかくときにはローマ字入力をしない、
という自分だけのルールをつくっていた」

ことをあげている。
「理屈ではなく、直感的に選択した」という。

「小さな子供にも老人にも、
当たり前のようにローマ字入力が推奨されるのは残念なことです。
それどころか、今ではどちらでもないタッチパネル式の入力も増えていて、
本来一つひとつの字に備わっている時間の概念は
まったく無視されているように感じます。
誰もが筆をつかっていたころのように
美しい文字をかけなくなるだけでなく、
文字の身体性を感じとる能力も失われる時代になっているようなのです」

いったいなんのことかとおもった。
「本来一つひとつの字に備わっている時間の概念」とか、
「文字の身体性を感じとる能力」といわれてもピンとこない。
よくよんでみると、このわかりにくさは
書体について特殊な能力をもったひとが、
その感覚を表現しようとするときのもどかしさなのだとおもった。

「日本語の『り』には『り』の、『ん』には『ん』の、
『ご』には『ご』だけがもっているスピードがあります。
私はそれを頭のなかでイメージし、
キーとキーを打つ間に、
文字を手でかくときと同じような滞空時間(思考する間)を
仮想的につくっています」

これは、正木さんが特別にもっている感覚だ。
たとえば天才スケーターが、氷のうえをすべるときの感覚や
意識してうごかせない体幹部の筋肉のつかい方を
まったくスピードスケートをしらないひとにつたえようとするときみたいなもので、
ふつうの人間にはなかなか理解できない。
そういう、書体を味わうことにかけての天才が、
入門書をかいてくれたわけだけど、
しょうじきにいって、わたしにはこの本にかかれていることがよく理解できなかった。
正木氏が書体にたいして、ふかいおもいいれをもっていることはわかる。
でも、その味わいについていくら説明されても
おおくの場合が感覚的なものであり、わたしにとってはこのみの問題でしかない。
こんな世界があるのだという、おどろきのほうがつよかった。
天才のかく入門書は一般人むきではない。

posted by カルピス at 13:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月16日

『弱いロボット』(岡田美智男)「他力本願なロボットがひらく弱いという希望、できないという可能性」

『弱いロボット』(岡田美智男・医学書院)

朝日新聞の土曜日版「be」で紹介されていた。
その記事では、岡田さんがねそべって
なにやらロボットらしいものと手をつないでいる。
「マコのて」というロボットで、
いっしょに手をつないであるくだけ、というロボットなのだという。
もう、びっくりしてしまった。
ただいるだけで、なにもできないロボット。
ロボットにそんな存在価値をもとめるという
かんがえ方がこれまでの発想とぜんぜんちがう。

たとえば、「ゴミ箱ロボット」は
自分でゴミはひろえないけど、
トボトボあるいて、ゴミがはいると会釈をするのだそうだ。

「他力より自力でひろってくれたほうが、
ロボットというかんじがするのでは」
とたずねられると、

「そんなロボットは、従来型の『作業機械』におもえるのです。
私が関心があるのは、『拾うスキル』より、『ソーシャルなスキル』。
他者との関係の中で存在し、その相互作用で何かができるロボットです」

なにもできないロボットというと、
おおくのひとはガンダムにでてきたハローをおもいうかべるだろう。
ハローはでも、「カツ・レツ・キッカ」の友だちであり子もりであり、
知能をいかしてはなしあいてになったりする。
岡田さんがつくる「弱いロボット」は、
もっとなにもできない。
できないことで相手のちからをひきだすロボットなんて、
これまであまりなかった存在だろう。
鉄人28号やマジンガーZ、そしてガンダムにしても、
どれだけつよいかがロボットにはもとめられてきた
(アトムやドラえもんは人型ロボットで、役にたちすぎる)。

コミュニケーションについても、
「弱いロボット」がいてくれるとたすかりそうだ。
おなじ空間、たとえばスタッフが車にのりあわせたときに、
なんらかのコミュニケーションがもとめられる。
しらっとして、ただすわっているだけの
沈黙の時間はわたしにはたえられない。
こんなときのコミュニケーションはエチケットだとわたしはおもうけど、
だまっていても平気なひとがあんがいおおい。
そんなときに「弱いロボット」がいてくれたら、
彼(彼女?)をあいだにはさんでコミュニケーションがなりたちそうだ。
動物もにたような役割をはたしてくれる。
いてくれるだけで、空気をかえておしゃべりをひきだす。

さっそく本屋さんにいくと、さいわい店においてあった。
工学とか科学の棚ではなく、
介護のコーナーにならべられている。
どの棚におくのか、これくらいはっきりしない本はないかもしれない。
帯がうまい。

「ひとりでできないもん
他力本願なロボットがひらく
弱いという希望、できないという可能性。」

よみはじめても、岡田さんがなぜいまのような仕事をするようになったかが、
淡々とかかれているだけで、いまひとつインパクトがよわい。
わたしがなにもしらずにこの本をよんだら、
きっと「弱いロボット」の意味を理解できなかっただろう。
新聞の記事は、それをじつにうまくまとめてある。

「この本は主張も弱く、明確な結論もない」
と岡田さんはかいている。

「書評を読み、『これが自分が言いたかったことだったのか』
と発見するほどです。
だから、この本は『弱い本』です」

がいいオチになっている。

posted by カルピス at 11:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月15日

『英国一家、日本を食べる』(マイケル=ブース)だしと旬の素材、そして感謝する謙虚な気もち

『英国一家、日本を食べる』(マイケル=ブース・亜紀書房)

ブース氏は、料理学校でしりあった日系人のトシと、
日本料理についてよくいいあらそいをする。
やがてトシの影響で辻静雄氏の本をよむようになり、
日本をじっさいにたずね、
自分の舌で日本料理をあじわうことをきめる。

この本はブース氏とその家族(奥さん・子ども2人)が
日本各地を3ヶ月のあいだたべあるいた記録だ。
新聞の書評欄にもとりあげられていたし、ブログでも評判をよんだ。
2013年の4月に1刷が発行された本書は、
おなじ年の12月にはやくも11刷までのばしている。
そんなにうれている本をかうのはちょっとシャクだけど、
外国人の味わった日本食、というのに興味がわいた。

ブース一家は北海道から沖縄まで、料理で有名な日本各地をたずね、
これぞいまの日本、というたべあるきを実行する。
有名店だけでなく、ラーメンやうどん、おこのみやきにタコヤキと、
出発まえにチェックしていた日本ならではのたべもの。
そしてジャーナリストとしての人脈をいかして、
相撲部屋やSMAPの料理番組といった取材体験も紹介されている。
どのたべものも、めずらしくておいしそうで、からだにもよく、
こんなすてきな国だったら、わたしも旅行にいきたくなってくる。
おこのみやきは「世界に広まる次の日本の料理のトレンド」なのだそうだ。

福岡のラーメン店「一蘭」へはわたしもいったことがある。
カウンターが板でしきられていて、
となりの席がみえなくなっている。
おしゃべりやケータイは禁止という方針で、
それだけラーメンに集中してほしいというしんじられない店だった。
味についてはあまり印象にのこっていない。
パーテーションというレイアウトに気をとられ、
かえってラーメンに集中できなかったみたいだ。

相撲部屋はドラッグがひろがっているとあっさりかいてあり、
こういうのは外国人の記者でないとかけないリアルな情報だ。
本の前半は、日本をはじめておとずれた外国人としての
正直な日本食体験の感想がきけるけど、
後半は日本の食文化にかんする専門書の紹介みたいになっていた。
家族での体験記ではなく、ブース氏だけが登場するようになったせいかもしれない。
子どもや奥さんという食のしろうとが、
日本のたべものをどうかんじたか、という視点がおもしろかったのに。

日本でいちばんという料理店での食事がブース氏をおどろかす。
じょうずにだしがとられた料理について、

「かすかな磯の香りがふっと鼻を突く。
どこまで味でどこからが香りかを区別するのは不可能」

旬の素材をいかすことについて、

「素材そのものを反映した混じり気のない味は、
ほのかでありながら、ここぞという部分だけ際立っている。
ひとつの料理のなかに、異なる風味と異なる強さの味が、
重なり合って存在しているように感じるが、
そのひとつひとつは、明確に区別がつく。(中略)
盛りつけは上品だが、技巧や細かな手間は全く施されていない。
ただ、料理があるべきところに『到着している』だけのように見える」

日本料理とは、だしのうまみと、旬の素材をいかしたものであると、
ブース氏は理解する。

パリにもどってトシにあったブース氏は、
日本料理のよさをすべてみとめるとつたえる。

「じゃあ、もう、魚を長時間火にかけたりしないだろうな?」
「ああ、トシ、しないよ」
「野菜にクリームやバターも、もうなしだな?」
「そうするよ、トシ」

トシはさいごに「ごちそうさまでした」をブース氏におしえる。

「仏教から生まれたことばで、
食べ物を収穫する人や料理をしてくれる人に感謝するという意味だ。
今度から、食事のたびに言えよ」

自分にたいして、同業者にたいして、料理にたいして、素材にたいして、
謙虚でなければほんものの料理人になれない、
とブース氏はさいごにまとめている。
「ごちそうさまでした」、そして「いただきます」は、
日本料理が日本料理であるための、たいせつなことばだ。

posted by カルピス at 18:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

『あたえる人があたえられる』 成功への5つの法則

『あたえる人があたえられる』(ボブ=バーグ&ジョン=デイビッド=マン・海と月社)

「シゴタノ!」の大橋 悦夫さんがすすめておられた本だ。
『あなたがあたえる大富豪ピンダーの夢をかなえる5つの秘密』が
版元とタイトルをかえて出版されたもの。

ノルマ達成にやっきになっているジョーが、
もうどうにもならなくなり、わらにもすがるおもいで
「伝説のコンサルタント」として有名なビンダー氏に電話をかける。
おどろいたことに、ビンダー氏はこころよく依頼をききいれ、
自分の家にくるようにジョーにつたえた。
つぎの日からいちにちにひとつずつ、ビンダー氏がジョーに、
成功の秘訣として5つの法則をおしえていく。

やさしくかかれていてスラスラよめた。まえむきで、とてもいい気分になる。
『仕事は楽しいかね?』をよんだときのことをおもいだした。
5つの法則は、どれもむつかしいことではなく、
こころのもち方でしかない(だからむつかしいともいえるけど)。

「いちばん大事なことは、
あなたがどういう人かということです。(中略)
あなたが何を売っているつもりであっても、
じつは、本当に売っているのはあなた自信なのです」

「『人と接する力を身につけたいですか?』彼女はくりかえした。
『それなら、自分らしくいることです』」

ブログをかくという意味も、ひとつにはこのことがあるのかもしれない。
自分をわかりやすくつたえようとする手段がブログなのではないか。
こざかしく損得のそろばんばかりをはじいてばかりではなく、
自分にも、もっとワクワクする仕事ができる気がしてきた。
献身的で正直にい生きたくなる。このすがすがしさはなんなのだ。

わたしのまわりにも、自分のことよりひとにおおくをあたえようとするひとがなんにんかいる。
経済的な成功にはかならずしもむすびついてはいないけど、
ひとりの人生としてとらえると、充実したすばらしい時間をすごしているようにみえる。

世界は意外とシンプルにつくられているのかもしれない。

posted by カルピス at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月13日

毎朝のそうじがもたらすもの

わたしがうけもっている家のそうじは、
1階と2階の板の間を棒ぞうきんでふき、
そのあとほうきでゴミをあつめるというもので、
まじめにやると15分ほどかかる。
朝のいそがしいときに15分はもったいないので、
いくつかの省略パターンがいつのまにかできあがり、
いそいでいるときにはほうきではくだけ、
もっとひどいときはそうじをしない、というズルをする日がでてくる。

いちにちくらいそうじをなまけても、
もちろん世の中の大勢に影響はあたえないし、
ズルしたことがそんなにうしろめたいわけでもない。
でも、そうじをするとしないとでは、
なにかがちがってくることに最近わたしは気づいた。

イギリスのうつくしい芝生が、
ただ毎日の水やりを何百年もつづけることによってのみ
つくりだされるのとおなじように、
わが家がわが家であるためには、
わたしの毎朝の規則ただしいそうじが
必要不可欠なのだ。
いちにち、いちにちの変化をみためでかんじることはない。
いちにち、いちにちのつみかさねによってしか、
なしえないことがある、としかいえない。

15分間からだをうごかすことでもたらされる爽快感か、
やるべきことをやった、という安心感か、
そうじをすることで気もちがととのえられてスイッチがはいる。
そのスイッチは、わたしの仕事をスムーズにするだけでなく、
家のたたずまいになにがしかの影響をあたえるようにおもえてきた。
これをたんなる精神的な問題としてかたづけてしまいたくない。

このそうじは、だれからも評価されない、という点も重要だ。
ただわたしがシコシコとからだをうごかしているだけで、
かえってこっちがちいさくなっている面さえある。
家族間のちから関係といってしまってはミもフタもないので、
最近よんだ本にあった「あたえる人があたえられる」
とはこういうことかとおもうようにしている。
自分が自分であるための、みかえりをもとめない、成功者に特徴的な行為だ。

そうじをすることでなにかがかわる。
精神的な整理だとおもいたくないし、
物理的な変化だともいいたくはない。
15分はいろいろかんがえさせられる含蓄のある時間だ。

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2014年02月12日

ほぼ日の「観たぞソチオリンピック」がいいかんじ

ほぼ日の「観たぞ、ソチオリンピック」がおかしい。
どの感想も、じょうずにおまつりをたのしんでいて、
じっさいの競技をみたくなってくる。
ほぼ日という場所にあつまって、
みんながわいわいやっている雰囲気がよく、
あんまりむつかしいことかんがえないで、たのしくやろう!
みたいな気になってくる。
ほぼ日が10年かけてそだててきた、
質のたかいサポーターがこのサイトをささえている。
いっしょにあそんでいる距離感が絶妙だ。

永田さんという方が、10年間この企画を担当されており、
オリンピックごとに感想をよせてくる常連さんもおられ、
なんだか同窓会的な、なごやかな雰囲気だ。
永田さんみたいにうまくかえせたら、
フェイスブックのコメントもたのしくなりそう。
これまでわたしはオリンピックに興味がなく、
夕ごはんのときにちょっとみるぐらいだったけど、
録画してでもみたくなったから、すごい影響力だ。
おれはオリンピックなんかに興味ない、
テレビなんかみない、なんてすましたこといってないで、
おなじアホならおどらにゃそんそん、という気がしてきた。
東京に大雪がふっても、あまり苦情がきこえてこなかったのは、
ソチオリンピック気分にひたることができたからでは、
という仮説をたてた。
それぐらい、みんなオリンピックをじょうずにたのしんでいる。

冬のオリンピックのよさは、なんといってもそのゆるさにある。
夏よりも冬が、冬のなかでもよりマイナーな競技は
なんだか地区の運動会の延長にあるみたいに
かたのちからがぬけている。
絶対に失敗はゆるされません、という
悲壮感がない。
むしろ「あそばないとからだがうごかない」
なんていう解説者もいてうれしくなる。

「バイアスロン、
ランドセルを忘れて学校に行く子のように、
ライフルを背負い忘れて
スタートする子はいないかと、母親的心配。
(ぷん)」

それにたいするほぼ日の永田さんのコメント

「ライフルもったー!?」
「もったってばー」
「的はずして、走らされちゃダメよー!?」
「わかってるってばー!
 ‥‥でもしょうがないじゃん、はずしちゃうのは」
「なにか言ったー!?」
「なんでもない! 行ってきまーす!」

「カーリングの小笠原さんは、
金太郎が入っている。
(dene)」

「町田くんの演技、大変鳥です!
開会式のハトより鳥です!
(うまだ)」

それにたいする永田さん
「開会式のハトは白鳥なのにクラゲだったからなあ。
なにがなんやらわからんわい。」

「メリル姐さんには
襟を抜き気味にした紫の銘仙のお召しに
長いキセルを持って長火鉢のまえに座り
『お前さんの言うことは道理が通りゃしないじゃないか』
(火鉢にキセルをコンと叩きつける)
という役柄で是非エキシビションを」
(まれ)

それにたいする永田さん
「おもしろいけど、組み立てづらいわ、
そのエキシビション」

「冷凍のホッケを見て、
ウチの小3が、
『アイスホッケ!!』
と、1人で大笑いです」
(あん)

「ムルダー兄と結婚して
ムルダー弟に『ねえさん』と呼ばれたいわ」
(こちゃろう)

「母にチャンネル変えられてたので
『スピードスケート見ようよ』と誘ったら、
『え、でも同じことばっかりやってるよ』と。
ああ、ハイライトかと思って見たらLIVE映像。
続けて母が
『さっきから走ってばっかりいるんだけど』と‥‥。
どう返せばいいんだか連日深夜観戦の頭では
到底思いつきませんでした」
(ゆきへのふ)

「観たぞ、ソチオリンピック」に報告するひと、
わたしはすきだ。
日本の平和と一家団欒は、「観たぞ、ソチオリンピック」のなかにある。

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2014年02月11日

『はじまらないティータイム』(原田ひ香) まともそうだけど、みんなすこしずつへん

『はじまらないティータイム』(原田ひ香・集英社)

わたしにとって、『母親ウエスタン』につづく原田ひ香の2冊目だ。
うんざりするような女性が2人と、まともそうにおもえる女性が2人。
うんざりするほうは、まともそうなほうから
相応とおもえるつれないあつかいをうけ、
よんでいるわたしは溜飲をさげる。
でも、だんだんと、まともそうなほうも、
そんなにまともな面ばかりでないことがわかってくる。

佐智子は他人の家にはいり、なかのようすをみるのが趣味で、
鍵をあけるのには、自分でつくった道具をつかう。
ピッキングだ。
でも、なにもとらない。
ただ部屋のようすをこまかく観察すれば気がすむので、
これまでにつかまったことはない。

このピッキングのわざをいかして
佐智子は、わかれた夫とそのあたらしい妻がくらすマンションに
しのびこむことになる。
親戚すじのおばさんに、ピッキングの現場をみつかってしまい、
なんとなくそんなながれになってしまったのだ。
佐智子は、そのおばさんといっしょにマンションをおとずれる。

ピッキングのたのしさを佐智子がおばさんに説明するのがおかしい。

「家の中を見るのもいいですけど・・・
この、開ける瞬間も実は結構楽しいんです」

そうだろうとおもう。カチッとうまく鍵があいたときの手ごたえは、
そうとうな快感をもたらしてくれるだろう。
おっさんの解錠師はたまらないけど、
いかにも素人っぽい35歳の女性がやるとかっこよさそうだ。

玄関にある靴を佐智子がこまかく観察していると、
おばさんにいそぐよううながされる。

「さあ、入りましょう。
こんなところで止まっていたら、いつまでたっても終わらない。
あの人が帰ってきちゃう」

「はい・・・でも、
こういう細かいところを見るのも楽しいんですよ」

そのたのしみのために佐智子はピッキングをしてきたのだけど、
それをことばにだして自然に説明されると
なんとなく納得してしまう。
ひとの家にかってにはいっておきながら、
ぬすっとたけだけしい、というよりも、
「仕事に熱中しているご婦人はうつくしい」という
『カリオストロの城』でルパンが不二子にいったセリフがぴったりくる。
まともそうなひとが、まともでないことをしながら、
まともなことをいうと説得力がある。
あれこれしてるうちに、予定していなかった「ティータイム」がはじまりそうになってしまう。

本書は、原田ひ香のデビュー作で、すばる文学賞を受賞、とある。
147ページほどの中編小説で、『母親ウエスタン』にくらべると
よみごたえはすくない。
でも、いやなやつはいなくて、みんなすこしずつへん、
というのがいかにも原田ひ香の作品らしく、
とくにラストのドタバタは、なんだかニール=サイモンのシナリオみたいに
きれいにはまっている。
よんだあと、おもいがけずいい気分にさせてもらった。

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2014年02月10日

ソチオリンピックのオープニングセレモニーをみておもったこと

ソチオリンピックの開会式についてフモフモさんが
「東京五輪の不安はセレモニー、その1点のみ」としていた

わたしもそうおもう。

ソチオリンピックの壮大なオープニングセレモニーをみて頭にうかぶのは、
こういうのが得意なのはたぶん北朝鮮みたいな国で、
日本も、集団でのうごきをうつくしくえんじる素養をもっている。
しかし、いまの時代、ただ画一的にやればいいというものではなく、
のびやかな発想と大胆な個人のうごきがなければ
みる側はたのしめない。
北朝鮮が得意とするような、ただ一糸みだれぬ、というだけでは
かっこうがつかないご時世だ。
日本は北朝鮮にくらべてまだ柔軟性があるし、
歴史のながさと密度では諸外国にまけてはいない。
最新のテクノロジーもふんだんにつかえる。
問題になるのは、どんな演出をするか、という一点につきる。
材料と技術はある。あとは演出なのだ。

ロシアは、ソチオリンピックのオープニングセレモニーで、
ロシアの歴史をこれでもかとみせてきた。
すばらしい演技だったとおもう。
どんな経緯であのストーリーになったかはしらないけれど、
担当責任者を中心に、ものすごくたくさんのひとが
この式のために練習をかさねてきたことは想像がつく。
ロシア人は、こうした集団によるチームワークが必要とする式を、
じょうずに演出できるのだ。
まあ、バレエというお家芸があり、
上から下へという情報の伝達がスムーズなお国柄で、
ソビエト時代にやしなわれた集団的なうごきへのなれもあり、
おおきな舞台をロシアらしく無難にまとめた。
ロシアからイメージするかたさ・つめたさがなく、
人間味をかんじさせる演技だった。

オリンピック全体の大会運営については、
日本ほど安心してまかせられる国はあまりないのではないか。
期日にまにあわせるのが得意だし、
正確な列車のダイヤからもわかるとおり、
安全で秩序だったうけいれ体制をととのえるだろう。
問題は、オープニングセレモニーだ。
これまでのオリンピックの入場式でわかるとおり、
日本人は、はりきってがんばればがんばるほど、
その意図がからまわりしてずっこけてしまう。

オープニングセレモニーだかれといって、
あんまりおおさわぎしなくてもいいのではないか。
日本という国は、日本人よりも外国人にそのよさをみとめられているところがある。
おいしい食事が提供され、交通機関は正確にうごき、
世界的にみればしんじられないくらい安全で、
「おもてなし」の精神がしみこんだ親切な国民性。
政治家の無能さはよくしらえており、
国民は政治が機能しなくてもちゃんとやっていける。

日本人が気づいていない日本のよさは、
へんにがんばってしまわないほうがつたわりやすい。
国家の威信をかけるのではなく、
できるだけ国はくちをはさまない。
日本らしく、かるくてたのしいオープニングセレモニーとなることをねがっている。

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2014年02月09日

「前田の呪い」ではなく、神さまのアレンジで

2月9日、つまりほんとうならわたしはきょう
ラオスへの旅行に出発しているはずだった。
個人的な事情から旅行をとりやめることとなり、
わたしはそのはらいせに、2月9日には大寒波がやってきて、
タイへの飛行機がとばなくなるのを公然とねがっていた。
もしくは、バンコクの政治的混乱がエスカレートするのもわるくない。
結果として、わたしだけがバンコクへ旅だてないのではなく、
その便をつかうはずだったひとがみんないけなくなれば
わたしの気はすむのだ。

わたしのねがい、というかのろいを
いくらかは神さまがききいれてくださり、
きのうから関東地方では20センチをこす記録的な大雪となっている。
しかし、わたしがのる予定だった飛行機は、関空からのものだったので、
関東の雪に影響をうけることなく、
おそらくバンコクゆきJL727は予定どおり出発するだろう。
バンコクを中心とした反政府運動も、
渡航自粛勧告まではいっていない。

Jリーグには「前田の呪い」という都市伝説がある。
前田選手がシーズンの初ゴールをあげた相手チームは降格する、
というありがたくない伝説で、
どこだって降格したくはないから、シーズン開幕当初、
磐田と対戦するチームは必死になって
前田選手のゴールをふせごうとする。
ゴールをふせごうとすると、結果として磐田には点がはいらないわけで、
ジュビロ磐田はスタートにつまずいてしまい、
けっきょくそのままシーズンがおわるまで
リズムをとりもどすことができなかった。
本人だけでなく、所属するジュビロ磐田まで
伝説にふりまわされてしまったかんじだ。

この伝説は、はじめ相手チームだけにのしかかるプレッシャーだったはずで、
前田選手はそんな伝説を意識することなくプレーすればよかった。
それが、何年かたつうちに、だんだんと伝説がより伝説として意味をもちはじめ、
さいごにはなにがなんだかよくわからない
カナシバリにあったような状態にジュビロ磐田はおちいってしまった。

わたしの「のろい」は不完全な効果しかはたさなかったけど、
もしほんとうにピッタンコで飛行機がとばなかったら、
気のちいさなわたしはうれしさよりも、とまどいがつよかったのではないか。
プラスの思考は「ねがい」であり、マイナスのときは「のろい」となる。
のろいなんかで自分の希望がかなったら、
けっきょくは自分にふりかかってくるようにおもうようになった。
きっと「前田の呪い」の教訓が、頭につよくうえつけられたからだ。

いつかちかいうちに、今回のラオス旅行にかわる企画をたてる。
あのときはいけなかったけど、けっきょくこれでよかった、
とおもえるようにしよう。
スロットマシンみたいに、いろんな条件がきれいにそろうときがかならずくる。
だいじなのはそのチャンスをのがさないことで、
条件がそろうときは、いわば神さまのアレンジというおもむきがつよい。
ねがったりのろったりとはべつの原理がはたらいている気がする。

posted by カルピス at 11:45 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする