2014年02月08日

『きっと、うまくいく』(2009年・インド映画)みおわったあとの爽快感がすごい

『きっと、うまくいく』(ラージクマール=ヒラーニ監督・2009年・インド)

きょねんみたインド映画の『恋する輪廻』が
すごくおもしろかったのでたのしみにしていた。
はじめはすんなりはいりこめず、
こまったなーとおもっていたら、まんなかへんからどんどんもりあがっていく。
すばらしい作品。後半のおもしろさは圧倒的だ。
まえむきのエネルギーにみち、わたしをしあわせにしてくれた。
インド映画はこれまで数本しかみていないけれど、
そのどれもがおもしろく、みおわったときの爽快感が共通している。

伏線のはり方がうまく、はじめのほうでおこったこと、かたられたことが、
あとになってぜんぶ関係づけられていく。
なにをかいてもネタばれになってしまうので、
ひとつだけ紹介すると、
おなかのなかにいる赤ちゃんが主人公のランチョーのいう
「うまーく いーく」ということばに反応して
げんきにおなかをける、というほほえましいシーンがある。
妊婦さんはうれしくなって、「あ、またけった」と、
まわりのひとにうれしそうにつたえる。
なんということのない「いいはなし」かとおもっていたら、
出産まじかになって破水し、大水のため医者にもいけず、
停電した家のなかで、なんとか赤ちゃんをとりだそうという、
絶体絶命の場面で、この設定がいきてくる。
出産をめぐり、たくさんの仲間が協力し、
ランチョーが彼ならではの即興的な知恵をしぼり、
さいごは、きらわれ役の学長がなかせるセリフできめる。
これらもぜんぶ、あらかじめはられた伏線がきいている。

学長をたたえるヒンディー語によるスピーチをガリ勉くんがすることになる。
ウガンダ出身のガリ勉くんは、ヒンディー語がよめないので、
主役の3人組が、その原稿にかかれた内容をすりかえて、
めちゃくちゃな演説にしてしまう。
「奇跡」をぜんぶ「強姦」におきかえたので、
場内は爆笑となり、という場面だけど、
きょうの会場ではほとんどわらい声がおきなかった。
「乳頭」の連発もあったけど、これもうけなかった。
日本人がなにもしらないでみてたら、品のないただのしもネタでしかないけど、
ヒンディー語ではなにかべつの意味をくみとれるのだろうか。

まあ、とにかくそのときにコケにされたガリ勉くんが、
卒業してからどれだけ社会的に成功したかがほんとうの勝負だ、と
10年後におなじ場所にあつまることを、3人グループにもちかける。

10年たった。3人はそんなことはすっかりわすれていたのに、
ガリ勉くんだけしっかりおぼえており、
自分の成功したようすを得意そうに2人にみせる。
グループの中心人物だったランチョーだけはその場にあらわれない。
3人はランチョーをさがしにでかけ、
ランチョーの実家や、いまの職場をたずねるうちに、
ランチョーの秘密があきらかになっていく。

大学生時代と、それから10年たって、という2つの時代が平行してすすむ。
個人的なことをいうと、3人組がぜんぶわたしのしりあいにそっくりで、
インド映画をみている気がしなかった。
インド人にもいろんなタイプの顔があるものだ。
10年後の姿が、いかにも自然に歳をとったかんじだったので、
うまく歳をとったなーと感心していたら、
じつはもともと40代や30代の俳優たちだったそうだ。
うまく歳をとったのではなく、うまく若づくりしていたのだ。

ラストのオチもきまって、最高の大団円であり、
ごきげんな気分で会場をあとにした。
2回目の上映もみたかったけど、予定があったので
残念ながら1回だけにとどめる。
こういう作品をみると、ハリウッド映画の大げさな演技や、
お金をこれでもかとつかったスリルとサスペンスというのが
しらじらしくおもえてくる。
『きっと、うまくいく』は、そんなにお金をかけてつくってあるようにみえない。
こんなに気もちよくものがたりにひたれ、
その展開に満足できたのは、脚本がよほどすぐれたできなのだろう。
映画は制作費だけがたいせつではないことが、
この作品をみているとよくわかる。
ハリウッドの大作路線は危機感をもったほうがいい。
いまおおくのひとがもとめているしあわせは、
ハリウッド作品ではなく、インド映画にあるのではないか。

posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月07日

『成長から成熟へ』(天野祐吉) 「成長から成熟へ」はまにあうのか

『成長から成熟へ』(天野祐吉・集英社新書)

この本は、「広告からみた『欲望の60年』」として、
大量消費社会がどのようにすすんできたかについて、
広告にたずさわってきた天野さんの目でまとめられている。
さっとよめたので、感想もかんたんにかけるかとおもったら、
これが意外とむつかしい。
個人や日本だけの問題ではなく、
どうしても地球規模でかんがえなければならないからからだ。

「大量消費社会というのは20世紀が生んだ
きわめて特殊な産物なんですね」

飽和状態になった市場でさらにうりあげをのばすには
必要がなくてもあたらしい消費をつくりだすしかない。

「自動車産業は、女性ファッションのスタイルを真似れば、
売上げが増加できはしないかという考え方に飛びついた
最初の大きな産業であった」

数年ごとに自動車のデザインをすこしかえてあたらしくみせる。
「あたらしい」とか「よりよく」は、おおくのひとをひきつける。
その欲求はつくられたものであって、
だれかにあやつられているかもしれないけれど、
いちどは大量消費を体験しないと、ひとの気はすまないのではないか。
日本は、大量消費社会のままではよくないのではないかと、
ようやくおもいはじめた。
でも、おおくの国は体験中であり、またはこれから体験しようとしている。
地球全体でかんがえると、大量消費社会は、
まだまだこれからももとめられているとかんがえたほうがいい。
日本はPM2.5が問題だといいながらも
中国に自動車をたくさんうっているし、
インドを成長がみこめる重要な市場としてとらえている。
自分の国ではおわった大量消費を、
あたりまえのこととしてほかの国にもとめる。

天野さんによると、すぐれた広告は

「広告全体の1000分の1くらいでしかない。
1000分の999は、ただの騒音にすぎないし、
それが世の中の空気を悪くしているのですから、
困ったことです」

ということで、人間らしい、生活のゆたかさを大切にした広告が
いかにすくないかがわかる。
そんな社会で、天野さんのいう「成長から成熟へ」という意識が、
どれだけひろがっていくだろう。
個人としては「おいしい生活」みたいなコピーにひかれても、
企業や社会というおおきなかたまりのうごきはなかなかかわらない。

欲望や消費は、脳にはたらきかけてくるのでやっかいだ。
おおきくなってしまった人間の脳は、
その活動をとめることができない。
ながい人類の歴史のなかで、いまのように物質にかこまれた時代は
ほんのすこしまえにはじまったばかりだ。
それまではずっと精神活動ばかりでやってきた。
いちど体験した大量消費の快楽を、人類は手ばなしたり
環境とうまく調和させる知恵をもっているのだろうか。

数年おきにくりかえされる自動車のモデルチェンジは
たしかに必要ないものだけど、
ものや生活様式を改良し、洗練しようとする脳のはたらきを
人間はきっととめられない。

一部には、ブータンみたいにしあわせを大切にしようという
価値観もみとめられるようになっても、
人類全体の方向性はかえようがなく、
せいぜいブレーキをかけるくらいしかできないようにおもえる。
問題がむつかしすぎるのだ。

本書のプロローグは「世界は歪んでいる」だ。
マスクをしているひとがすごくふえたとか、
福島第一原発の事故にこりたはずなのに
原発を外国へ輸出しようとするとか、
テレビショッピングという「番組」の横行とか、
福袋がよくうれる状況とか、
いわれてみればたしかにゆがんでいる。

天野さんはあくまで「広告」というきりくちから、
そこからみえる「歪み」にこだわっている。
「ゆがんでいる」というひとがいないから、
なんとなくこんなもんだとおもっていたけど
(原発はどうかんがえてもしんじられない)、
たしかに世界はゆがんでいるとおもう。
大量消費からはじまったそのゆがみを
人類は解決できるのだろうか。

わたしは、梅棹忠夫さんが『わたしの生きがい論』にかかれた
人口増加による人類の危機からはなれることができない。
成長にふみつづけるアクセルが、地球を破滅させるのがはやいのか、
成熟によるブレーキがまにあうのか。
自分だけが貧乏をうけいれてすむはなしではないし、
日本だけが成熟すればいいわけでもない。
わたしは、「成長から成熟へ」という、
この本にかかれている内容に賛成だけれど、
地球規模で問題をかんがえると、どうしても悲観的になってしまう。

posted by カルピス at 12:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月06日

なにかあったときの情報の整理

入院している母にたのまれて、毎日こまごましたものを病院へとどける。
きょうは爪きり・えんぴつ・けしごむと、友だちの電話番号をしらべてきて、とたのまれた。
ものをさがすのはかんたんで、いわれたところにたいていあるけれど、
電話番号や書類という、情報にかんするものは
あんがい記憶した場所にないことがおおい。
きょうも、電話番号のかいてあるノートがなかなかみつからなかった。

これは、母がとくに整理ベタ、ということではなくて、
みんなそうなのだろうとおもった。
おおくのひとが自分だけにわかるところへしまっているのではないか。
おなじようなノートがあちこちにあり、
どれにもにたようなことがかいてあり、一覧性がない。
わたしもにたようなもので、たとえば電話番号にしても、
パソコンにもノートにも、パッとみてわかるように整理されていない。
オープンフォルダーをつかって、書類の分類はわりとできているが、
わたしになにかあった場合の緊急連絡先について、家族はこまりそうだ。

母はいぜんから、なにかあったときは、こことあそこに◯◯がしまってあるからよろしくね、
なんていっていたのに、ぜんぜんよろしい形で保管されていなかった。
あんまりすっきりさせてしまうと、ほんとうになにかがおきてしまうような気がして
わざと整理しないという心理がはたらくのだろうか。
そうではなくて、きっとなにをどうしたらいいのか、
わからないだけなのだろう。

年配のひとに、いまさらデジタルの情報を、というわけにはいかなし、
デジタル情報では本人以外がつかえなくてこまりそうだ。
1冊のノートですべてがわかるようにしておくことが大切だとおもった。
ものはあたらしくかえるけど、情報は本人でないとどうにもならない。
「なにかあったときのための本」みたいなジャンルがあるのだろうけど、
ひとによって事情がことなっており、
こまかいところまでは技術がひろがらないのかもしれない。
データーのバックアップといっしょで、
こういうことは、ほんとうにこまらないと実践にうつされない。
ほんとうにこまることは、そうめったにないので、
いざおきてしまうと、ほんとうにこまる。

ということで、情報の一元化として、
1冊のノートにすべてをかきいれることをわたしはすすめる。
あまりにもあたりまえなので、あんがい、ずっといわれている方法かもしれない。
こまったときの体験者として、そんなノートがあればと、なんどもおもった。
そして、便利そうにおもえても、分類してはだめだ。
何冊もあると、きっとどこにいったかわからなくなる。
だいじなことはシンプルな方法で管理するにかぎる。
わたしの場合はエバーノートに、なんていわないで、
とにかくまず1冊のノートにかきおこす。
プリントアウトしたものをノートにはってもいいので、
ノートという物質的な存在感のあるものにおさまっていることが肝心なのだ。
本人がいない場合のノートなのだから、
本人以外がわかるように、というのを基本方針にしたほうがいい。

posted by カルピス at 13:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月05日

雑談力にはプレミアリーグと海外ドラマ、という津村記久子さんの発見

きのうの朝日新聞に、
津村記久子さんが「ツボを見つける」という記事をよせている。

「このごろ学んだ人付き合いにおいて重要な事項といえば、
『女の人には海外ドラマの話をして、
男の人には海外サッカーの話をすればよい』
という明快なことである」

という発見についての記事だ。
まあ、そういうこともあるかもしれないな、とよんでいると、
そのつづきがおもしろい。

「海外サッカーの話をする9割方の人が、
アーセナルFCかリヴァプールFCを応援しているのである。
ほぼ、どちらかしかいない。
文章の業界にまつわるサッカー好きな人々には、
だいたいアーセナルかリヴァプールの話をしたら
間が持つということになる」

海外ドラマについては「LAW&ORDER」か
「クリミナル・マインド」の2本が双璧ということで、
サッカーの2つのクラブとあわせてこの4つの話題をおさえておけば
雑談でこまることはないそうだ。

こういう新発見をわたしはたかく評価する。
気のきいたおとなたちは、こうした法則性のもとに
会話をなりたたせているのだ。
わたしはかなりサッカーがすきなほうだとおもっていたけど、
残念ながらアーセナルやリヴァプールのはなしをふられても
気のきいたおしゃべりはできない。
ましてや海外ドラマはどちらもタイトルをきいたことさえなく、
お茶をいっしょにのんだら、さぞたいくつな人間だろう。
小田嶋隆さんが

「酒はバカな人とも飲めるけど、
お茶はバカな人とは飲めないんですよ。
30分も会話がもたないでしょう?」

とはなしておられた。
バカはいやだねー、とおもっていたら
自分のことだったとは。

それにしても、アーセナルとリヴァプールだ。
日本の知識人のハードボイルド化は、
あんがいいいところまですすんでいるのではないか。
これが、マンチェスター・ユナイテッドやチェルシーだと、
いかにもそこのあさい、なんちゃってファンがよろこびそうな
チャラチャラした印象になる。
アーセナルとリヴァプールということが肝心なのだ。

野球でないところも「ツボ」だ。
アメリカ人じゃあるまいし、
雑談でヤンキースかレッドソックスの話題だと9割方オッケーというのでは
おもしろくない。サッカーとくれべてふかみがぜんぜんちがう。
バルセロナでもセリエAでもなく、ましてやJリーグでもない。
プレミアリーグ、そのなかでもアーセナルとリヴァプールというひとなら、
お茶をのんでも、さぞ含蓄のある会話がいききするのだろう。
そして、それをかぎつけた津村記久子さんの分析力もいいかんじだ。

べつのいい方をすると、9割方のひととはなしをあわせるには、
アーセナルとリヴァプールについて
そこそこの知識をもっている必要があるということだ。
いまやそれが常識であり、必需品となった。
相手をたいくつさせないため、また、ぎこちない瞬間がおとずれないために、
この2つのクラブについて、ざっと情報をしいれておこう。

アーセナルの人気は、アーセン=ベンゲル監督の長期政権に
鍵があるかもしれない。
マンUのファーガソン前監督のように
ベンゲル監督も1996年から指揮をとっており、
パスワークを武器にした攻撃型のチームとして
たかい評価をえている。
マンUのつよさにいや気がさしているひとは、
そのマンUに攻撃力で対抗するクラブとしてアーセナルに期待する、
という位置づけではないだろうか。

リヴァプールの魅力は・・・わからない。
ここでサジをなげてしまっては、
「いっしょにお茶をたのしめないバカ」になってしまうので、
これはもう、関心を共有できるよう、人気の秘密をたずねるしかない。
なぜきらいかは説明できないけれど、すきなものには理由があるはずだ。
リヴァプールの魅力について、理論整然としたはなしがきけることを
たのしみにしておこう。

posted by カルピス at 08:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月04日

『スマートフォン時代のインテリジェント旅行術』(吉田友和)梅棹さんの旅行がうらやましい

『スマートフォン時代のインテリジェント旅行術』(吉田友和・講談社)

タイトルにあるとおり、スマートフォンをつかっての海外旅行についての本だ。
旅行さきでネットにつながっているために、
シムロックフリーのスマートフォンが便利だという。
それだけ。
いじわるないい方をすると、それでほぼすべて、という本で、
つながったネット環境で、こんなことができますよ、
という目あたらしい提案はない。
2011年9月に出版された本なので、
いまでは状況がいくらかかわっているだろう。
最先端の情報だけをうりものにすると、
この手の本はすぐに賞味期限がきてしまう。

この本にざっと目をとおすと、ウェブ時代の旅行というものについてかんがえてしまった。
スマートフォンでネットにつながっていれば、
それで旅行は充実するのだろうか。

倉下忠憲さんがブログで梅棹忠夫さんの
タイプライターについてかいておられた。
ほんとうに、このときの梅棹さんとタイプライターほど
道具の機能をいかしきったかっこいいものはない。

1955年におこなわれたアフガニスタンでの探検をおえ、
梅棹さんは友人のアメリカ人学者2人にさそわれて、
カーブルからカルカッタまでの自動車旅行にくわわった。
そのときに、自動車での移動中も、
梅棹さんはひざのうえにのせたタイプライターをたたいて
記録をとりつづけたのだ。
夜くらくなっても、道がどんなにがたがたでも、
タイプライターなら記録がとれる。
ノートとペンではどうにもならない。
窓のそとにうつりかわる、ひとやたてもののようすを
梅棹さんはこまごまと記録する。
この旅行のようすが「カイバル峠からカルカッタまで」という原稿にまとめられ、
やがて『文明の生態史観』の壮大な構想へとつながっていく。
以前から、梅棹さんはローマ字による日本語入力を実践されており、
その体験があったからこそ、この旅行でタイプライターをいかすことができた。

ネットにつながっていたら、たしかに便利だし、
家とおなじことが旅行さきでもできる。
すぐに外国語へと翻訳してくれるのもたすかる機能だ。
電子書籍をよめれば荷物はかくじつにすくなくなる。
でも、それらが旅行を画期的にかえるかというと
たいしたちがいがないような気がする。

梅棹さんがカイバル峠からカルカッタまで、
仲間といっしょにフォルクスワーゲンで旅したときの
密度のこゆい体験がわたしはうらやましい。
旅行というと、そして旅行での記録というと、
このときの自動車とタイプライターのくみあわせをおもいうかべる。

わたしはいまでもスマホをつかわないし、
携帯も電話機能だけだ。
宿泊先のホテルでパソコンがつかえたら
それでもういうことはない。
そんな人間にとって、
『スマートフォン時代のインテリジェント旅行術』は
はじめからいかしようのない本だったのかもしれない。

posted by カルピス at 13:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月03日

冬のノラネコって、たいへんなんだろうなあ

何年かまえに、いなくなったネコをさがして
住宅地や畑をあるきまわったことがある。
さむい時期で、雪がつもっていた。
こんなときに、ごはんもたべられず、
さむさにちぢこまっているカルピス(ネコの名前)のことをかんがえると
気がきではなかった。
あるいていると、ノラネコのかげをときどきみかける。
カルピスだけでなく、つらいおもいをしているネコたちがほかにもいるのだ。

とつぜん、ノラネコだけでなく、すべての野生動物は
このさむさのなか自分で身をまもり、
たべものをさがしていることに気づく。
ぬくぬくと人間の家でくらしていたネコが、
きゅうにきびしい環境にほうりだされるのはたいへんだろうが、
タヌキにしろカラスにしろ、ノラでくらすたいていの動物は、
このさむさをなんとかしのいでいるのだ。
冬眠する動物はいいとして、それ以外の野生動物たちは
どんなおもいできびしい山陰の冬をのりきっているのだろう。
雪におおわれた地面から、いったいなにをみつけられるというのだ。
カエルも虫もいない。このごろは、ゴミおき場の管理も厳重になり、
たべものをさがすのは、どれだけたいへんだろう。
野良ネコたちは、おなかをすかせたまま、
さむさのなか死んでいくしかないのか。

すこしかんがえてみただけで、野生動物のおかれた状況はとてもきびしい。
夏は、さむさはないにしても、
ノミや蚊になやまされてねむれないのではないか。
ヤブでくらしている鳥たちは、
蚊がたてる羽音になやまされないのだろうか。
なわばりあらそいをして目や足にケガをおったら、
それだけでもう命をおとすことにつながりかねない。
病気になっても薬をだしてくれる医者はいないのだ。
それを、かわいそうだとか、きびしいとかいうのは、
人間のかってなおもいこみでしかない。

野生で生きることが、どんな状況を意味するのか、
それまでかんがえたことがなかった。
自然環境のもとでは、命はものすごくはかなくて、ふたしかだ。
さらにいえば、野生動物だけでなく、ほんのすこしまえの人類だって、
そうした環境のもとでくらしてきた。
へびやサソリにかまれると、どんなにげんきな男でも
死ななければならなかっただろうし、
大雨や水不足など、自然現象によって、
食料が手にはいらないことなど、いくらでもおこりえた。
戦争にかりだされて、いまではなおるようなケガをしたときにも、
薬草かおまじないしかなかったかもしれない。
そうした時代のいのちとは、現代とまったくちがった
意味あいをもっていたのだろう。

カルピスは、けっきょく2週間ほどのちに、
自分からもどってきた。
チラシをくばり、夜にやみのなかをさがしまわり、
もうあきらめかけたころのうれしい帰還だった。
もしあのままずっとノラとして生きなければならなかったら、
カルピスはきっとその状況をうけいれていただろう。
生きることは、うえや死ととなりあわせであり、
かなしみにくれるのは、人間であるわたしの
ひとりよがりにすぎないのだ。

posted by カルピス at 13:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月02日

『つながる図書館』(猪谷千香)図書館の「図書館」ばなれに期待する

『つながる図書館』(猪谷千香・ちくま新書)

倉下忠憲さんが書評にとりあげておられたのでよんでみた。
図書館がどんどんかわっていっている状況がこまかく紹介されている。

著者は、日本で話題になっているいくつもの図書館をたずね、
そのとりくみについてどこがすごいのかをくわしくおしえてくれる。
資料的に正確であろうとするためか、
制度や数字のはなしがたくさんもりこまれている。
そういうところはさっと目をとおすだけになってしまい、
おおまかな感想しかいえないけれど、
図書館って、こんなになんでもできる機関だったのだ。
ひきだしがたくさんあるというか、ふところがひろいというか、
やわらかなかんがえ方をもちこめば、まちづくりの重要な拠点となる。
アメリカの図書館について赤木かん子さんが、
トラクターのかしだしまでしている図書館がめずらしくないと、
日本の概念からおおきくはなれた存在であることを紹介されていた。
日本でも、そうした意識改革がおきているのだ。

図書館というと、しずかな空間で、本がどっさりあり、
ネット環境がととのっていたらもういうことない、
くらいにおもっていたら、
いまの図書館はもっと積極的に「図書館」であることから
はなれようとしている。
「図書館」とはなにか、の再定義がはかられている、という印象をもつ。

本書には、特徴のあるいくつもの図書館が紹介されている。
そのなかでも鳥取県立図書館と隠岐諸島の海士町中央図書館は、
わたしのすむまちのちかくにある図書館として興味ぶかくよんだ。
鳥取県立図書館は、ビジネス支援として
Iターンで農業をはじめようとするひとや
わかいひとへの就労支援などにとりくんでいるし、
海士町中央図書館は、それまで図書館のなかった島に
「島をまるごと図書館に」という構想をもちこみ、
島の未来をみすえたとりくみとして注目されている。

ほかにも、「気になる図書館」が全国にはたくさんうまれている。
少子高齢化社会をむかえ、まちづくりをどうすすめたらいいのか、
指定管理者制度は?電子書籍をどうあつかうか、
といった、あたらしい課題をまえに、
これまでの図書館のままでいてはダメだ、という危機感が
こうした変化をうみだしているのだろう。

わかいころ、友だちがいる町をたずねると、
わたしはよくそこの図書館にでかけてお世話になった。
町によって、図書館の位置づけはずいぶん差があることをしる。
中央図書館を中心に、分館がはりめぐらされている市があれば、
倉庫みたいなところがかろうじて「図書館」とよばれているところもある。
図書館のない町にはすみたくないなー、とつよくおもったものだ。
数年まえにおとずれた金沢市のみらい図書館は、
箱としてのデザインから、館内の空間のつかい方まで、
わたしが図書館にいだいているイメージからおおきくはなれ、
そののびやかな方向性におどろいた。
ここでたくさんあそんでください、というサービス精神をかんじ、
これがこれからの図書館なのかと印象にのこった。

ひるがえって、わたしのまちの図書館はどうだろう。
10日ほどまえに、市立図書館が企画した「書庫探検」にでかけて
図書館の意外なサービスをたのしませてもらった。
いつもははいることのできない閉架書庫を開放し、
自由に本をえらんでください、という
あそびごころをくすぐる「探検」だ。
こうしたとりくみは、たくさんのひとに
図書館について関心をもってもらおうといううごきのひとつだろう。
ただ、本書で紹介されているような
図書館の概念をやぶるような存在とはなっていない。
よくもわるくも、むかしからある、いわゆる「図書館」だ。

わたしはただしい図書館利用者として、
中高生が仲間どおしでおしゃべりしてたりすると、
「おしゃべりは外でしてね」とか、
もっとひどいときは
「ギャアギャアうるさいだろうが!しずかにしろ!」
とか積極的にいう方で、
そんなことに気をとられていると精神的にたのしくはなく、
自然と週末には図書館にいかなくなっていた。
平日の図書館は老人と女性がおおく、しずかでおちついた雰囲気だ。
しかしこれは、停滞した施設ということもでき、
図書館が一部の市民だけのものになっている状態かもしれない。

本書で紹介されているような図書館をしると、
わたしの町にも、そんなふうに
「なんでもあり」の図書館がほしくなってきた。
傍若無人のおしゃべりはおことわりするけれど、
すんでいてたのしいまちであるために、
「図書館」からはなれた図書館になることを期待したい。
ひとりの市民として、わたしにできることがなにかあるだろうか。
おっかないおじさん役は、やめたほうがいいのかもしれない。

posted by カルピス at 11:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月01日

『バックパッカーパラダイス』(斉藤夫婦)「どう考えても、旅は楽しすぎる」

『バックパッカーパラダイス』(斉藤夫婦・旅行人)

おふたりともマンガ家である斉藤夫妻が、
2年半にわたる世界一周の旅にでる。
この本は、旅さきでのできごとを、1冊のマンガ(407ページ)にまとめたものだ。
中米からスタートし、東まわりで42カ国をめぐっている。
2月9日にラオスゆきを計画しながら、
あっけなくつぶれてしまったわたしとしては、
なんともうらやましくてしょうがなかった。
本書は、これでよむのが3ど目になるのに、
そのつどふたりの旅行を、まるでいっしょにまわっているように
たのしむことになる。
1991年の3月から1993年の9月におこなわれた旅行であり、
この本の出版が1995年なので、もう古典といっていいかもしれない。

本の「はじめに」には、食費をきりつめ、
いっさい無駄なかいものをせず、
3年間で4百万以上ためたとある。
はじめは中南米だけのつもりだったけど、
「人生長しといえど、仕事、家族、健康、お金・・・
それらの条件が都合よく揃い、長期間の旅を楽しめるチャンスというのは、
意外と少ないものかも」と、
計画を世界一周にきりかえている。
ほんとうにそうだ。旅行にでる条件はなかなかそろわない。
いけるときにいっとかないと、つぎはリタイアしてからということになり、
お金はなんとかなるかもしれないけど、健康に自信がもてなかったりする。

ぎっしりかきこまれたマンガなので、絵からつたわってくる情報量がおおく、
よんでいるだけでも旅行している気になってくる。
各ページの下には、安宿やチケットなどの「ひとくち情報」がのっていて、
時間がたてばやくにはたたないけど、よりリアリティがますおいしい情報だ。
いわゆる「バックパッカー」スタイルの旅行であり、
安宿をさがし、地元の食堂でやすい食事をとる。
贅沢はしないけど、イースター島やサファリツアーなど、
観光名所には多少お金がかかってもしっかりでかけている。

920日の旅行にかかった費用は、
ふたりあわせて500万円なのだそうだ。
おおいような、すくないような。
「徹底した貧乏旅行をしたわけではなく、
この金額はまだまだ低く抑えることが出来た」
とあるので、ヨーロッパやアメリカにいかなければ
もっとやすあがりの旅行になる。
でも、旅行は体験をかいにでかけるともいえ、
ある程度お金がかかるのはしょうがないだろう。

「長期旅行お最大最期の難問は、やはり帰ってからの職だろう」
とある。
わかいころの長期旅行は、日本にかえっても
まだそれからのこりの人生がながいので、たしかに難問といえる。
わたしが20代に体験した旅行でも、
「日本にかえってなにをする?」というのは
旅行者のあいだでわりとひんぱんに話題になっていた。
旅行ちゅうは気らくで、たのしくていいけど、
日本かえればそれぞれにきびしい現実がまっている。
とはいえ、そんな旅行にでるタイプのひとは、
いい会社につとめ、結婚してから家をたて、という、
路線からはずれているひとがおおく、
そんなに建設的なはなしにはならなかったようにおもう。
ひとりだけ、日本にかえったらコンビニではたらく、
と決意をかたったまだ10代のわかものがいて、
まわりから「えらい!」とほめられていた。

「あとがき」にある、
「どう考えても、旅は楽しすぎます」がまぶしい。
夫婦での旅行というメリットをいかして、
おふたりは、お金ではかえない貴重な体験をされたのだろう。
わたしも、2年半とはいわないから、
1年くらいゆっくり旅行にでかけたくなった。
現実的には、この本にでてきた北海道の青年のように、
農繁期ははたらいて、11月から2月までは旅行、というのが
ながつづきするやり方におもえる。
「仕事・家族・健康・お金」という条件がそろうのは、
このさきそんなにないだろう。
かずすくないチャンスをどういかすかをかんがえると、
冬に旅行というスタイルには魅力がある。

この本には、スマホはもちろん、インターネットも登場しない。
ネットで予約したり、スマホでレビューを参考に、というわけにもいかない。
いまからおもえば、むかしながらのスタイルでまわる
最期の時代だったのだろう。
いいときに、いい旅行をされたおふたりの旅行記を
じっくりたのしませてもらった。

posted by カルピス at 16:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする