2014年02月03日

冬のノラネコって、たいへんなんだろうなあ

何年かまえに、いなくなったネコをさがして
住宅地や畑をあるきまわったことがある。
さむい時期で、雪がつもっていた。
こんなときに、ごはんもたべられず、
さむさにちぢこまっているカルピス(ネコの名前)のことをかんがえると
気がきではなかった。
あるいていると、ノラネコのかげをときどきみかける。
カルピスだけでなく、つらいおもいをしているネコたちがほかにもいるのだ。

とつぜん、ノラネコだけでなく、すべての野生動物は
このさむさのなか自分で身をまもり、
たべものをさがしていることに気づく。
ぬくぬくと人間の家でくらしていたネコが、
きゅうにきびしい環境にほうりだされるのはたいへんだろうが、
タヌキにしろカラスにしろ、ノラでくらすたいていの動物は、
このさむさをなんとかしのいでいるのだ。
冬眠する動物はいいとして、それ以外の野生動物たちは
どんなおもいできびしい山陰の冬をのりきっているのだろう。
雪におおわれた地面から、いったいなにをみつけられるというのだ。
カエルも虫もいない。このごろは、ゴミおき場の管理も厳重になり、
たべものをさがすのは、どれだけたいへんだろう。
野良ネコたちは、おなかをすかせたまま、
さむさのなか死んでいくしかないのか。

すこしかんがえてみただけで、野生動物のおかれた状況はとてもきびしい。
夏は、さむさはないにしても、
ノミや蚊になやまされてねむれないのではないか。
ヤブでくらしている鳥たちは、
蚊がたてる羽音になやまされないのだろうか。
なわばりあらそいをして目や足にケガをおったら、
それだけでもう命をおとすことにつながりかねない。
病気になっても薬をだしてくれる医者はいないのだ。
それを、かわいそうだとか、きびしいとかいうのは、
人間のかってなおもいこみでしかない。

野生で生きることが、どんな状況を意味するのか、
それまでかんがえたことがなかった。
自然環境のもとでは、命はものすごくはかなくて、ふたしかだ。
さらにいえば、野生動物だけでなく、ほんのすこしまえの人類だって、
そうした環境のもとでくらしてきた。
へびやサソリにかまれると、どんなにげんきな男でも
死ななければならなかっただろうし、
大雨や水不足など、自然現象によって、
食料が手にはいらないことなど、いくらでもおこりえた。
戦争にかりだされて、いまではなおるようなケガをしたときにも、
薬草かおまじないしかなかったかもしれない。
そうした時代のいのちとは、現代とまったくちがった
意味あいをもっていたのだろう。

カルピスは、けっきょく2週間ほどのちに、
自分からもどってきた。
チラシをくばり、夜にやみのなかをさがしまわり、
もうあきらめかけたころのうれしい帰還だった。
もしあのままずっとノラとして生きなければならなかったら、
カルピスはきっとその状況をうけいれていただろう。
生きることは、うえや死ととなりあわせであり、
かなしみにくれるのは、人間であるわたしの
ひとりよがりにすぎないのだ。

posted by カルピス at 13:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする