入院している母にたのまれて、毎日こまごましたものを病院へとどける。
きょうは爪きり・えんぴつ・けしごむと、友だちの電話番号をしらべてきて、とたのまれた。
ものをさがすのはかんたんで、いわれたところにたいていあるけれど、
電話番号や書類という、情報にかんするものは
あんがい記憶した場所にないことがおおい。
きょうも、電話番号のかいてあるノートがなかなかみつからなかった。
これは、母がとくに整理ベタ、ということではなくて、
みんなそうなのだろうとおもった。
おおくのひとが自分だけにわかるところへしまっているのではないか。
おなじようなノートがあちこちにあり、
どれにもにたようなことがかいてあり、一覧性がない。
わたしもにたようなもので、たとえば電話番号にしても、
パソコンにもノートにも、パッとみてわかるように整理されていない。
オープンフォルダーをつかって、書類の分類はわりとできているが、
わたしになにかあった場合の緊急連絡先について、家族はこまりそうだ。
母はいぜんから、なにかあったときは、こことあそこに◯◯がしまってあるからよろしくね、
なんていっていたのに、ぜんぜんよろしい形で保管されていなかった。
あんまりすっきりさせてしまうと、ほんとうになにかがおきてしまうような気がして
わざと整理しないという心理がはたらくのだろうか。
そうではなくて、きっとなにをどうしたらいいのか、
わからないだけなのだろう。
年配のひとに、いまさらデジタルの情報を、というわけにはいかなし、
デジタル情報では本人以外がつかえなくてこまりそうだ。
1冊のノートですべてがわかるようにしておくことが大切だとおもった。
ものはあたらしくかえるけど、情報は本人でないとどうにもならない。
「なにかあったときのための本」みたいなジャンルがあるのだろうけど、
ひとによって事情がことなっており、
こまかいところまでは技術がひろがらないのかもしれない。
データーのバックアップといっしょで、
こういうことは、ほんとうにこまらないと実践にうつされない。
ほんとうにこまることは、そうめったにないので、
いざおきてしまうと、ほんとうにこまる。
ということで、情報の一元化として、
1冊のノートにすべてをかきいれることをわたしはすすめる。
あまりにもあたりまえなので、あんがい、ずっといわれている方法かもしれない。
こまったときの体験者として、そんなノートがあればと、なんどもおもった。
そして、便利そうにおもえても、分類してはだめだ。
何冊もあると、きっとどこにいったかわからなくなる。
だいじなことはシンプルな方法で管理するにかぎる。
わたしの場合はエバーノートに、なんていわないで、
とにかくまず1冊のノートにかきおこす。
プリントアウトしたものをノートにはってもいいので、
ノートという物質的な存在感のあるものにおさまっていることが肝心なのだ。
本人がいない場合のノートなのだから、
本人以外がわかるように、というのを基本方針にしたほうがいい。