『成長から成熟へ』(天野祐吉・集英社新書)
この本は、「広告からみた『欲望の60年』」として、
大量消費社会がどのようにすすんできたかについて、
広告にたずさわってきた天野さんの目でまとめられている。
さっとよめたので、感想もかんたんにかけるかとおもったら、
これが意外とむつかしい。
個人や日本だけの問題ではなく、
どうしても地球規模でかんがえなければならないからからだ。
「大量消費社会というのは20世紀が生んだ
きわめて特殊な産物なんですね」
飽和状態になった市場でさらにうりあげをのばすには
必要がなくてもあたらしい消費をつくりだすしかない。
「自動車産業は、女性ファッションのスタイルを真似れば、
売上げが増加できはしないかという考え方に飛びついた
最初の大きな産業であった」
数年ごとに自動車のデザインをすこしかえてあたらしくみせる。
「あたらしい」とか「よりよく」は、おおくのひとをひきつける。
その欲求はつくられたものであって、
だれかにあやつられているかもしれないけれど、
いちどは大量消費を体験しないと、ひとの気はすまないのではないか。
日本は、大量消費社会のままではよくないのではないかと、
ようやくおもいはじめた。
でも、おおくの国は体験中であり、またはこれから体験しようとしている。
地球全体でかんがえると、大量消費社会は、
まだまだこれからももとめられているとかんがえたほうがいい。
日本はPM2.5が問題だといいながらも
中国に自動車をたくさんうっているし、
インドを成長がみこめる重要な市場としてとらえている。
自分の国ではおわった大量消費を、
あたりまえのこととしてほかの国にもとめる。
天野さんによると、すぐれた広告は
「広告全体の1000分の1くらいでしかない。
1000分の999は、ただの騒音にすぎないし、
それが世の中の空気を悪くしているのですから、
困ったことです」
ということで、人間らしい、生活のゆたかさを大切にした広告が
いかにすくないかがわかる。
そんな社会で、天野さんのいう「成長から成熟へ」という意識が、
どれだけひろがっていくだろう。
個人としては「おいしい生活」みたいなコピーにひかれても、
企業や社会というおおきなかたまりのうごきはなかなかかわらない。
欲望や消費は、脳にはたらきかけてくるのでやっかいだ。
おおきくなってしまった人間の脳は、
その活動をとめることができない。
ながい人類の歴史のなかで、いまのように物質にかこまれた時代は
ほんのすこしまえにはじまったばかりだ。
それまではずっと精神活動ばかりでやってきた。
いちど体験した大量消費の快楽を、人類は手ばなしたり
環境とうまく調和させる知恵をもっているのだろうか。
数年おきにくりかえされる自動車のモデルチェンジは
たしかに必要ないものだけど、
ものや生活様式を改良し、洗練しようとする脳のはたらきを
人間はきっととめられない。
一部には、ブータンみたいにしあわせを大切にしようという
価値観もみとめられるようになっても、
人類全体の方向性はかえようがなく、
せいぜいブレーキをかけるくらいしかできないようにおもえる。
問題がむつかしすぎるのだ。
本書のプロローグは「世界は歪んでいる」だ。
マスクをしているひとがすごくふえたとか、
福島第一原発の事故にこりたはずなのに
原発を外国へ輸出しようとするとか、
テレビショッピングという「番組」の横行とか、
福袋がよくうれる状況とか、
いわれてみればたしかにゆがんでいる。
天野さんはあくまで「広告」というきりくちから、
そこからみえる「歪み」にこだわっている。
「ゆがんでいる」というひとがいないから、
なんとなくこんなもんだとおもっていたけど
(原発はどうかんがえてもしんじられない)、
たしかに世界はゆがんでいるとおもう。
大量消費からはじまったそのゆがみを
人類は解決できるのだろうか。
わたしは、梅棹忠夫さんが『わたしの生きがい論』にかかれた
人口増加による人類の危機からはなれることができない。
成長にふみつづけるアクセルが、地球を破滅させるのがはやいのか、
成熟によるブレーキがまにあうのか。
自分だけが貧乏をうけいれてすむはなしではないし、
日本だけが成熟すればいいわけでもない。
わたしは、「成長から成熟へ」という、
この本にかかれている内容に賛成だけれど、
地球規模で問題をかんがえると、どうしても悲観的になってしまう。