『弱いロボット』(岡田美智男・医学書院)
朝日新聞の土曜日版「be」で紹介されていた。
その記事では、岡田さんがねそべって
なにやらロボットらしいものと手をつないでいる。
「マコのて」というロボットで、
いっしょに手をつないであるくだけ、というロボットなのだという。
もう、びっくりしてしまった。
ただいるだけで、なにもできないロボット。
ロボットにそんな存在価値をもとめるという
かんがえ方がこれまでの発想とぜんぜんちがう。
たとえば、「ゴミ箱ロボット」は
自分でゴミはひろえないけど、
トボトボあるいて、ゴミがはいると会釈をするのだそうだ。
「他力より自力でひろってくれたほうが、
ロボットというかんじがするのでは」
とたずねられると、
「そんなロボットは、従来型の『作業機械』におもえるのです。
私が関心があるのは、『拾うスキル』より、『ソーシャルなスキル』。
他者との関係の中で存在し、その相互作用で何かができるロボットです」
なにもできないロボットというと、
おおくのひとはガンダムにでてきたハローをおもいうかべるだろう。
ハローはでも、「カツ・レツ・キッカ」の友だちであり子もりであり、
知能をいかしてはなしあいてになったりする。
岡田さんがつくる「弱いロボット」は、
もっとなにもできない。
できないことで相手のちからをひきだすロボットなんて、
これまであまりなかった存在だろう。
鉄人28号やマジンガーZ、そしてガンダムにしても、
どれだけつよいかがロボットにはもとめられてきた
(アトムやドラえもんは人型ロボットで、役にたちすぎる)。
コミュニケーションについても、
「弱いロボット」がいてくれるとたすかりそうだ。
おなじ空間、たとえばスタッフが車にのりあわせたときに、
なんらかのコミュニケーションがもとめられる。
しらっとして、ただすわっているだけの
沈黙の時間はわたしにはたえられない。
こんなときのコミュニケーションはエチケットだとわたしはおもうけど、
だまっていても平気なひとがあんがいおおい。
そんなときに「弱いロボット」がいてくれたら、
彼(彼女?)をあいだにはさんでコミュニケーションがなりたちそうだ。
動物もにたような役割をはたしてくれる。
いてくれるだけで、空気をかえておしゃべりをひきだす。
さっそく本屋さんにいくと、さいわい店においてあった。
工学とか科学の棚ではなく、
介護のコーナーにならべられている。
どの棚におくのか、これくらいはっきりしない本はないかもしれない。
帯がうまい。
「ひとりでできないもん
他力本願なロボットがひらく
弱いという希望、できないという可能性。」
よみはじめても、岡田さんがなぜいまのような仕事をするようになったかが、
淡々とかかれているだけで、いまひとつインパクトがよわい。
わたしがなにもしらずにこの本をよんだら、
きっと「弱いロボット」の意味を理解できなかっただろう。
新聞の記事は、それをじつにうまくまとめてある。
「この本は主張も弱く、明確な結論もない」
と岡田さんはかいている。
「書評を読み、『これが自分が言いたかったことだったのか』
と発見するほどです。
だから、この本は『弱い本』です」
がいいオチになっている。