2014年02月26日

『近代スポーツ批判』(中村俊雄・三省堂選書) 権利としてのスポーツ

ソチオリンピックに出場していた選手たちが日本にもどり、
記者会見がひらかれる。
外国人記者からの
「日本人は東京五輪組織委員会会長としての森さんを
任期の5年間、耐えられるのだろうか?」
という質問が興味ぶかいけれど、
今回かきたいのはそのことではない。

こうした場では、選手とその競技の関係者が応援に感謝するとともに、
強化のための支援をおねがいすることがおおい。
この場面をみていつもおもいだすのが
『近代スポーツ批判』だ。
もうずいぶんまえによんだ本なので、うろおぼえの記憶になるが、
この本にはトップレベルの選手たちには、
つよく・はやく・たくみになった成果を、国民に還元する義務がある、
と指摘している。
選手たちのたゆまない努力によってつちかわれた能力ではあるけれど、
その強化のために施設やお金が優先的につかわれている。
「愛と感動をありがとう」などという
きれいごとでお茶をにごすのではなく、
世界の強豪たちと技をきそった経験を、
いろんなかたちで一般のひとに還元するのが義務というかんがえ方が
当時のわたしにはとても新鮮だった。

うまいひと・つよいひとには、
なぜ優先的に施設をつかう権利があるのかという疑問。
この視点はなにもオリンピックレベルにかぎったものではなく、
学校の部活動でもおなじことがいえる。
野球部がグランドを優先につかっていれば、
ほかの生徒は、たとえばグランドでドッジボールができない。
そんなのあたりまえ、とおもっていたけれど、
人権や平等についてかんがえたときに、
ほんとうにそれでいいのかどうか。
中村さんは、試合をして野球同好会が野球部にかったとしたら、
グランドの使用権はどうなるか、という例をあげ、
いまつよいチームやクラブが、権利を独占するおかしさをおしえてくれた。
一般のひとに還元、といっても、その組織やひとにあったやり方でいいわけで、
たとえば野球部がいっぱんの生徒を対象に野球大会や野球教室をひらいて
野球のたのしさをおしえてくれたらいい。

わたしはわりと運動ができるほうだったので、
体育やあそびの時間にヘタな子といっしょにプレーするのはたのしくなかった。
しかし、中村さんにいわせると、
運動がへたなひとたちは、すきこのんでヘタになったわけではなく、
ヘタにさせられたかなしい歴史があるというのだ。
おとなになってからわたしは、水泳指導という仕事についた。
競泳をやっていながら、初心者がおよげるようになる、
適切な指導ができなかったわたしは、
初心者の側にたつとはどういうことなのかをかんがえるようになった。

モスクワオリンピックを日本がボイコットしたときの記者会見で、
柔道の山下選手が涙をうかべて抗議していた。
スポーツと政治を混同しないでほしい、といううったえだ。
なんというおさない発想だろうと、
すでに中村さんの本をよんでいたわたしはあきれてしまった。
スポーツと政治はきりはなせない関係なのにきまっている。
どんなスポーツの環境をもとめるかは、
どんな政治をのぞむかと関係ないわけがない。
そんなことも意識しないで、ただつよくなるために練習をかさねてきた
かぼそいエリート選手たち。
涙をうかべる大男が、自分がするべきこともわからない、
なさけない存在にみえた。

中村さんが大切にしている視点は「運動文化の継承と発展」だ。
文化だからといって、すべてをひきつがないといけないわけではない。
数ある文化のなかから、どれをえらび、どう発展させていくのかが
いまをいきるわたしたちにはもとめられているのだ。
必要であればルールをかえることもできる。
その方向性が、一部のひとたちだけに有利な変更ではなく
(バレーボールのネットのたかさなど)、
おおくのひとたちがそのスポーツの本質にふれ、
たのしさを味わうためのものであればいい。

『近代スポーツ批判』は、
権利という視点からスポーツをとらえることをおしえてくれた。
すぐれたアスリートは、ただつよければいいのではなく、
その競技がうまくないおおくのひとたちのためにも、
おもいをめぐらせてほしい。
ソチの「愛と感動」はたくさんもらったから、
こんどは還元のほうもよろしくね、
とクギをさしたくなった。

posted by カルピス at 13:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする