チャコが死んでからというもの、
ピピはますますなくてはならない存在となった。
こんなことを心配してもしょうがないとおもいつつ、
もしピピになにかあったらわたしはどうなるだろうと、
ピピというより自分の反応がおそろしくなる。
といって、距離をおくなんてとてもできない。
ピピとあついハグをかわしながら、
自分がやりたくてこんなふうに溺愛しているのであり、
もともとはピピがもとめたわけでないと、よく承知している。
わたしがネコかわいがりするうちにピピがあまえるようになり、
そのかわいさがまた溺愛をうみと、どんどんエスカレートしていく。
ネコかわいがりは、人間側の自己満足でしかなく、
けっきょくは自分をくるしめることになるのがわかっていて、
でもやめられない。
トム=ハンクス主演の『キャスト・アウェイ』で、
無人島に漂着したトム=ハンクスが、
なんてことのない、ただのボールに名前をつけ
はなし相手としてかわいがる場面がある。
人形を相手にするのならまだしも、たかがボールなのに、
トム=ハンクスにとってかけがえのない存在となっていく。
だれともはなせない無人島では、こんな精神状態になってしまうのだと、
孤独感がリアルにかんじられた。
イチかバチかで島を脱出するとき、
このボールとはなればなれになったトム=ハンクスは、
まるで恋人をうしなったみたいに呆然とする。
ペットを溺愛するのは、ボールに人格をもたせるのと、
おなじことをしているのだろうか。
ペットロスにならないために、という注意事項には、
あまり溺愛しないで適切な距離をとる、みたいなことがよくかかれている。
そんなことがほんとうにできるのだろうか。
それができれば苦労しないし、
ネコかわいがりをしないなんて、
ネコとくらす醍醐味がないともおもう。
その動物が死んでしまったときの用心に、
生前から距離をおくなんて、つまらないことではないか。
ただしくてもできないことがある。
ペットといっしょにくらすということは、
いいこと・わるいことのすべてをうけいれることでもある。
そんなことはわかっていながら、
いざわかれるときがくれば、かなしみはふかい。
かわいがれば、わかれがかなしい。
かわいがらなければ、いっしょにくらすよろこびがない。
だれもわたしにネコを溺愛しなさい、なんていっておらず、
わたしがかってにかわいがっているだけだ。
なぜわたしは溺愛せずにいられないのだろう。
自分がナイーブでやさしい人間だと自慢しているのではない。
はじめは、かわいがらないほうがおかしいとおもっていたけれど、
このごろは、自分のほうにそれをもとめる
なんらかの理由・欠陥があるのかも、とおもうようになった。
自分がされたいことを、ひとはやっているのだそうで、
その解釈でいうと、わたしはかわいがられたいから
かわいがっていることになる。
そんなつもりはもちろんないけれど、
深層心理のことをいわれるとよくわからない。
ピピへの感情が、家族にむかっているかというと、
まったく自信がないわけで、
こういうのはやさしさとはいわず、よわさ、
もっとひどくいえば、ゆがみともいえるかもしれない。
なにがわたしをネコたちにむけているのか。
夜中におきると、ピピがうでのなかにいることをたしかめ、
朝はピピといっしょに寝床からおきだす。
ピピへ過剰な愛をかたむけつつ、
ピピがいなくなる「もしも」のときにおびえる生活は、
微妙なバランスのうえにやっとなりたっているもろさをかんじる。