文章のかきかたについて、いろいろな本がでているし、
注意すべき点や、大切なコツとかをよく耳(目にも)にする。
それぞれもっともな指摘であるにしても、
まずおさえておいたほうがいいのは
かけなくてあたりまえ、ということだ。
うつくしい文章をめざすわけではなくても、
正確でわかりやすくかくことでさえ、どれだけむつかしいことか。
ながい語句をまえに、とか、句読点のうちかたとか、
文章のセンスとはなんの関係もなく、
ただきまりをまもればいいようなことを説明しても、
おおくのひとはできない。
これは、できないひとの能力がたりないのではなく、
文章をかくことはそれだけむつかしいということだ。
できないことを基準にかんがえる。
文章力の基準は、そうとうひくくみつもってまちがいない。
期待しなければ失望もない、というのとはちがう。
文章力を、だれにもそなわっているはずの能力と、
とらえないほうが実態をあらわしているのだ。
一般的におもわれているほど、文章をかくのはやさしいことではない。
かけないのは、そのひとのせいではなく、かけなくてあたりまえなのだ。
義務教育で英語を勉強しても、
ほとんどのひとはつかえるようにならない。
はしりはばとびや100メートル走にしても、
あるレベル以上になると、だれにでもこえられる記録ではない。
文章力もそれとおなじだ。
できないのがふつうだと おもったほうがいい。
文章力だけが、なぜだれにでも身につくちからだと しんじられているのだろう。
日常的に日本語をはなしているからといって、
それを文章であらわすのは、またべつの能力であり、
つかいこなすためには、かなりの時間をかける必要がある。
かけなくてあたりまえであり、それを前提に
わかりやすく 正確につたわるかきかたを かんがえる。
「今まで文書を書くことが苦手だった人にも、
ワープロの普及で文書を作成する機会が増えました。
しかし、カナ漢字変換によって難しい漢字が文面に増えてきて
読みづらさを感じることがあります。
漢字は一目見て多くの概念を伝えることができる有用な文字ですが、
文中に漢字が多すぎるものは圧迫感があります。
そのため、新聞などでは長年の実践の中で記載方法を整理してきています。
私たちも、その成果に学びたいものです」
これは、あるサイトにのっていた「文章の書き方」だ。
なにかの冗談かとおもった。
「成果に学びたい」といいながら
じゅうぶんに圧迫感のある漢字のおおさだ。
文章についておしえる側になると、
かけないひとへのいらだちからか、
ちからがはいってすべってしまう例がおおい。
わかりやすく説明しようとして、
そこなし沼にとらわれたように 身うごきがつかなくなる。
うえから目線のかきかたにもなりやすいようだ。
ものすごくたくさんの英語についての本があるように、
ものすごくたくさんの文章についての本がある。
両方とも、決定版はうまれていない。
さらにいえば、文章だけでなく、すべてにおいて
「できなくてあたりまえ」とおもっていたほうが、
謙虚に、こころしずかに生きることができる。
才能なんて、ないのがあたりまえであり、
ないことを基準にかんがえれば、あることが とてもありがたくなる。
お金も時間も、ないのがあたりまえであり、あるのがありがたい。
まいにちブログをかいていると、
「あれ、これはまえにかいたことかも」ということがよくある。
そんなときには「おぼえていなくてあたりまえ」のひとことにすくわれる。
「あたりまえ」にすりかえてしまえば、
記憶力のわるさになやむこともない。
すこしぐらいよくにた内容についてかいたとしても、
それがどうしたというのだ。
と、これはただのひらきなおりであり、
こうなってしまうと とりあつかいのむつかしい
やっかいな人間になってしまう。
謙虚さと傲慢さは、紙一重だ。
2014年03月31日
2014年03月30日
シェフ武井氏の「おれは食べて痩せたいのだ」(男たちのアンチエイジング)に期待する
「ほぼ日」で、シェフ武井氏の「おれは食べて痩せたいのだ」がはじまった。
「中年男たちを巻き込んでの、健康になるための企画」だという。
「ぼくは健康です。健康なはずです。
健康だと思う。健康なんじゃないかな?
だって人間ドックでも
大きく引っ掛かったことはありませんし、
これまで入院したこともないし、大けがもない。
努力だって、しております」
うまいかきだしだ。
あるていどの年齢になると、たいていのひとは健康に無関心でいられなくなる。
自分のからだだけでなく、配偶者や両親もふくめて、
みんながげんきですごせてこそ平和な日常がある。
健康でいられることがすべての前提条件だ。
健康はお金でかえないし、死んでからの世界にも役だたない事実が、
だんだんとシビアにつきつけられてくる。
そんなときには、ずっと調子よくすごしてきたひとのはなしよりも、
血圧がたかくて、とか、中性脂肪が要注意といわれる、
というひとのはなしのほうが共感をだきやすい。
体調がどうわるいのか、どうしたらそんなにふとったのか、
どんなダイエットをしたのか。その結果は?
シェフ武井氏がいまの体型と体調をえるにいたった経緯は、
わたしの関心にピッタリかさなっている。
わかいころは仕事におわれる不摂生な生活をおくり、
やがておとずれた腰痛やひざのいたみをきっかけに
ジムにかよいはじめる。
トレーニングによって、なんとか健康をとりもどしたとおもっていたのに、
チベット医学の先生にいろんな不調を指摘され・・・と、
中年男性としての典型的なあゆみを体験されてきた。
こういうことをかくといやがられるだろうけど、
わたしはたいした努力もせずに、大学生のころからラインがかわらない。
180センチで63キロ。体脂肪率はひとけたを維持している。
ジョギングや水泳がすきとはいえ、トレーニングは週に2回程度だから、
ふとりにく体質のおかげだなのだろう。
ただ、プロポーションがかわらないからといって、健康とはかぎらないわけで、
血糖値や動脈硬化など、目にみえない不調におびえる心境はよくわかる。
アンチエイジングは、中年になってから とくに重大な関心ごととなった。
とはいえ、老化を否定するだけではおもしろくない。
老化とうまくつきあっていくこころの問題としても
アンチエイジングをうけとめたい。
これからシェフ武井氏がどうやって健康になっていくのか。
どう中年男性をまきこんでくれるのか、たのしみな企画だ。
「中年男たちを巻き込んでの、健康になるための企画」だという。
「ぼくは健康です。健康なはずです。
健康だと思う。健康なんじゃないかな?
だって人間ドックでも
大きく引っ掛かったことはありませんし、
これまで入院したこともないし、大けがもない。
努力だって、しております」
うまいかきだしだ。
あるていどの年齢になると、たいていのひとは健康に無関心でいられなくなる。
自分のからだだけでなく、配偶者や両親もふくめて、
みんながげんきですごせてこそ平和な日常がある。
健康でいられることがすべての前提条件だ。
健康はお金でかえないし、死んでからの世界にも役だたない事実が、
だんだんとシビアにつきつけられてくる。
そんなときには、ずっと調子よくすごしてきたひとのはなしよりも、
血圧がたかくて、とか、中性脂肪が要注意といわれる、
というひとのはなしのほうが共感をだきやすい。
体調がどうわるいのか、どうしたらそんなにふとったのか、
どんなダイエットをしたのか。その結果は?
シェフ武井氏がいまの体型と体調をえるにいたった経緯は、
わたしの関心にピッタリかさなっている。
わかいころは仕事におわれる不摂生な生活をおくり、
やがておとずれた腰痛やひざのいたみをきっかけに
ジムにかよいはじめる。
トレーニングによって、なんとか健康をとりもどしたとおもっていたのに、
チベット医学の先生にいろんな不調を指摘され・・・と、
中年男性としての典型的なあゆみを体験されてきた。
こういうことをかくといやがられるだろうけど、
わたしはたいした努力もせずに、大学生のころからラインがかわらない。
180センチで63キロ。体脂肪率はひとけたを維持している。
ジョギングや水泳がすきとはいえ、トレーニングは週に2回程度だから、
ふとりにく体質のおかげだなのだろう。
ただ、プロポーションがかわらないからといって、健康とはかぎらないわけで、
血糖値や動脈硬化など、目にみえない不調におびえる心境はよくわかる。
アンチエイジングは、中年になってから とくに重大な関心ごととなった。
とはいえ、老化を否定するだけではおもしろくない。
老化とうまくつきあっていくこころの問題としても
アンチエイジングをうけとめたい。
これからシェフ武井氏がどうやって健康になっていくのか。
どう中年男性をまきこんでくれるのか、たのしみな企画だ。
2014年03月29日
ウサギのむれから「道徳の起源」という発想にしびれる
すこしまえの天声人語に「遅刻の誕生」という研究書についてふれてあった。
近代化をすすめる過程で、遅刻という概念が、日本でどのようにひろがっていったか。
この研究書によると、大正のすえごろまでの日本は、
能率についてあまり関心をはらわない社会だったようだ。
時間をまもるということが、よほど日本人にあっていたのか、
いまでは世界一正確なダイヤで電車をはしらせる国となった。
ある時期までは、「遅刻」という概念がなかったのに、
どこかで一線をこえ、あとはひたすら時間厳守の価値観になじんでいった。
その線は、どこからはじまったのだろう。
「◯◯の誕生」とか「◯◯の発見」というはなしがわたしはだいすきで、
たとえば「子どもは17世紀(テキトー)のイギリスで発見された」とかいわれると、
コロッと感心してしまう。
それまでは、大人のちいさい版の人間として 子どもはあつかわれており、
子どもの存在は、そうふるくない時代にようやく気づかれた、という意味での「発見」だ。
誕生や発見といったジャンルで、いちばんインパクトがつよかったのは、
ウサギを観察するときのテーマとしてしめされた「道徳の起源」だ。
これは、梅棹忠夫さんが、河合雅雄さん(河合隼雄さんのおにいさん)の
卒業論文を指導するときにあたえたテーマである。
梅棹さんは、ウサギのむれを観察することで
「道徳の起源」についてかんがえるよう もとめた。
ウサギの観察から道徳の起源。クールだ。
このテーマをあたえられた河合雅雄さんは、
あまりにもとっかかりがないテーマなので、
「『社会の観察ならやれそうです』と弱々しく答えた」そうで、
残念ながら「道徳の起源」についてかかれることはなかった。
すべてのものに「起源」はあるわけで、
それが、いつ、どんな理由ではじまったかを推理するのはたのしい。
そして、研究の対象と「起源」の距離が、はなれているほど意外性がうまれてくる。
「セーラー服と機関銃」のように。
もっとも、梅棹さんとしたら 奇をてらったわけではなく、
モンゴルで羊のむれをおいかけ、
日本にもどってから、オタマジャクシの観察で博士論文をかいたながれから、
ウサギの社会の観察により「道徳の起源」をかんがえるのは、当然の発想だったのだろう。
とはいえ、一般的にはありえないくみあわせであり、
梅棹さんらしい大胆で壮大なスケールにうれしくなる。
河合さんにしても、とまどいとともに、
梅棹さんのむちゃぶりをよろこんでいるフシがある。
「アイデアとは既存の要素のあたらしいくみあわせ」といわれる。
ウサギの観察による道徳の起源というおもいつきは、いかにも梅棹さんだ。
「誕生」や「起源」ということばをきくと、
いつも「道徳の起源」をおもいだす。
既存の、異質な要素のくみあわせは、かくありたい。
近代化をすすめる過程で、遅刻という概念が、日本でどのようにひろがっていったか。
この研究書によると、大正のすえごろまでの日本は、
能率についてあまり関心をはらわない社会だったようだ。
時間をまもるということが、よほど日本人にあっていたのか、
いまでは世界一正確なダイヤで電車をはしらせる国となった。
ある時期までは、「遅刻」という概念がなかったのに、
どこかで一線をこえ、あとはひたすら時間厳守の価値観になじんでいった。
その線は、どこからはじまったのだろう。
「◯◯の誕生」とか「◯◯の発見」というはなしがわたしはだいすきで、
たとえば「子どもは17世紀(テキトー)のイギリスで発見された」とかいわれると、
コロッと感心してしまう。
それまでは、大人のちいさい版の人間として 子どもはあつかわれており、
子どもの存在は、そうふるくない時代にようやく気づかれた、という意味での「発見」だ。
誕生や発見といったジャンルで、いちばんインパクトがつよかったのは、
ウサギを観察するときのテーマとしてしめされた「道徳の起源」だ。
これは、梅棹忠夫さんが、河合雅雄さん(河合隼雄さんのおにいさん)の
卒業論文を指導するときにあたえたテーマである。
梅棹さんは、ウサギのむれを観察することで
「道徳の起源」についてかんがえるよう もとめた。
ウサギの観察から道徳の起源。クールだ。
このテーマをあたえられた河合雅雄さんは、
あまりにもとっかかりがないテーマなので、
「『社会の観察ならやれそうです』と弱々しく答えた」そうで、
残念ながら「道徳の起源」についてかかれることはなかった。
すべてのものに「起源」はあるわけで、
それが、いつ、どんな理由ではじまったかを推理するのはたのしい。
そして、研究の対象と「起源」の距離が、はなれているほど意外性がうまれてくる。
「セーラー服と機関銃」のように。
もっとも、梅棹さんとしたら 奇をてらったわけではなく、
モンゴルで羊のむれをおいかけ、
日本にもどってから、オタマジャクシの観察で博士論文をかいたながれから、
ウサギの社会の観察により「道徳の起源」をかんがえるのは、当然の発想だったのだろう。
とはいえ、一般的にはありえないくみあわせであり、
梅棹さんらしい大胆で壮大なスケールにうれしくなる。
河合さんにしても、とまどいとともに、
梅棹さんのむちゃぶりをよろこんでいるフシがある。
「アイデアとは既存の要素のあたらしいくみあわせ」といわれる。
ウサギの観察による道徳の起源というおもいつきは、いかにも梅棹さんだ。
「誕生」や「起源」ということばをきくと、
いつも「道徳の起源」をおもいだす。
既存の、異質な要素のくみあわせは、かくありたい。
2014年03月28日
ややこしくなるピピのマイブーム
このごろピピは、わたしの寝酒の時間につきあって
ヒザのうえでくつろぐのが日課になっている。
わたしが焼酎のお湯わりをつくり 部屋にもってはいると、
あまえた声をだしてピピがよってくる。
毛布をモミしだき、注意ぶかく場所をえらんで腰をおろす。
ノドからのゴロゴロというふかい音で、
ピピがここちよくおもっているのがわかる。
という うごきのまえに、
ピピはお風呂場の窓から家にはいってきて、
大声をあげてかえってきたことをアピールする。
ほかの場所からもどったときは、
すんなり部屋にはいるだけなのに、
お風呂場の窓にかぎっては
かえったことを大声でうったえる。
うけいれる側(つまりわたし)はおおさわぎをして
「おかえりー!」「かわいいねー!」と大歓迎をするのがきまりになっている。
その儀式をすませたあとで、
さきほどかいたような毛布モミしだきという
本来の目的とするうごきにはいる。
という そのまたまえに、ピピはごはんのおいてある場所にすわりこみ、
あたらしい食事を追加するようもとめる。
袋からだしたばかりのエサのほうが、かおりがたかいからだと
獣医さんがいっていた。
でも、エサをお皿によそったからといって
ピピはすぐにたべるわけではない。
そうやってエサをださせておいて、
いったんは外にでかけてしきりなおしをする。
なんでこんなややこしいことをするのかわからない。
ピピほんにんも、きっとわからないのではないか。
だんだんといろんな儀式がかさなりあって、
ストレートに要求があらわれなくなっている。
整理してみると、寝酒につきあってくれるまえに、
ピピは
1. あたらしいごはんをもとめる
2. そとにでかけ、お風呂場の窓からもどってくる
3. かえったことをおおさわぎしてうったえ、
大歓迎されるのをまつ
というややこしい一連の儀式を毎日くりかえしている。
ネコはきまったパターンをくりかえすのをこのむ。
いちどながれができると、
しばらくはそのマイブームがつづく。
そして、これまでの経験でいうと、いろんなうごきがつけたされたあげく、
おそらくもうすぐこの儀式はチャラになる。
きのう職場からおおきな公園へでかけたとき、
ネコにエサをやるひとがなんにんもいた。
おなじ時間にたくさんのネコがあつまっていたので、
個人的にではなく、ネコずきのグループがあるのかもしれない。
ひとりのわかい男性は、アグラをかいて地面にすわりこみ、
ひぜのうえにのったネコをおもいつめた表情でみつめていた。
かなりネコずきなひとなのだろうが、
なんだかみてはならない現場をみたような、
へんなかんじだった。
すこしまえの新聞記に、ネコにやるエサ代がなくて
アキスをくりかえしていた男性が逮捕されたという記事がのっていた。
だんだんとエサをやるネコがふえていき、
自分のかせぎだけではエサ代がたりなくなったのだ。
ネコに頬ずりするのが至福の時間だった、とかいてあった。
公園でみかけた男性も、おなじようなネコずきなひとなのだろう。
気もちはよくわかるけど、
ネコとあそぶというより、生理作用をみたしているみたいで、
あまりいい印象をうけなかった。
わたしは、毎晩ピピをなでながら寝酒をたのしむ。
だいすきなピピをヒザにのせ、
お酒をのみながら本をながめるという、
至福の時間が毎日おとずれる。
ねるときになり あかりをけすと、ピピもいっしょにふとんにもぐりこむ。
まことにありがたいことである。
ヒザのうえでくつろぐのが日課になっている。
わたしが焼酎のお湯わりをつくり 部屋にもってはいると、
あまえた声をだしてピピがよってくる。
毛布をモミしだき、注意ぶかく場所をえらんで腰をおろす。
ノドからのゴロゴロというふかい音で、
ピピがここちよくおもっているのがわかる。
という うごきのまえに、
ピピはお風呂場の窓から家にはいってきて、
大声をあげてかえってきたことをアピールする。
ほかの場所からもどったときは、
すんなり部屋にはいるだけなのに、
お風呂場の窓にかぎっては
かえったことを大声でうったえる。
うけいれる側(つまりわたし)はおおさわぎをして
「おかえりー!」「かわいいねー!」と大歓迎をするのがきまりになっている。
その儀式をすませたあとで、
さきほどかいたような毛布モミしだきという
本来の目的とするうごきにはいる。
という そのまたまえに、ピピはごはんのおいてある場所にすわりこみ、
あたらしい食事を追加するようもとめる。
袋からだしたばかりのエサのほうが、かおりがたかいからだと
獣医さんがいっていた。
でも、エサをお皿によそったからといって
ピピはすぐにたべるわけではない。
そうやってエサをださせておいて、
いったんは外にでかけてしきりなおしをする。
なんでこんなややこしいことをするのかわからない。
ピピほんにんも、きっとわからないのではないか。
だんだんといろんな儀式がかさなりあって、
ストレートに要求があらわれなくなっている。
整理してみると、寝酒につきあってくれるまえに、
ピピは
1. あたらしいごはんをもとめる
2. そとにでかけ、お風呂場の窓からもどってくる
3. かえったことをおおさわぎしてうったえ、
大歓迎されるのをまつ
というややこしい一連の儀式を毎日くりかえしている。
ネコはきまったパターンをくりかえすのをこのむ。
いちどながれができると、
しばらくはそのマイブームがつづく。
そして、これまでの経験でいうと、いろんなうごきがつけたされたあげく、
おそらくもうすぐこの儀式はチャラになる。
きのう職場からおおきな公園へでかけたとき、
ネコにエサをやるひとがなんにんもいた。
おなじ時間にたくさんのネコがあつまっていたので、
個人的にではなく、ネコずきのグループがあるのかもしれない。
ひとりのわかい男性は、アグラをかいて地面にすわりこみ、
ひぜのうえにのったネコをおもいつめた表情でみつめていた。
かなりネコずきなひとなのだろうが、
なんだかみてはならない現場をみたような、
へんなかんじだった。
すこしまえの新聞記に、ネコにやるエサ代がなくて
アキスをくりかえしていた男性が逮捕されたという記事がのっていた。
だんだんとエサをやるネコがふえていき、
自分のかせぎだけではエサ代がたりなくなったのだ。
ネコに頬ずりするのが至福の時間だった、とかいてあった。
公園でみかけた男性も、おなじようなネコずきなひとなのだろう。
気もちはよくわかるけど、
ネコとあそぶというより、生理作用をみたしているみたいで、
あまりいい印象をうけなかった。
わたしは、毎晩ピピをなでながら寝酒をたのしむ。
だいすきなピピをヒザにのせ、
お酒をのみながら本をながめるという、
至福の時間が毎日おとずれる。
ねるときになり あかりをけすと、ピピもいっしょにふとんにもぐりこむ。
まことにありがたいことである。
2014年03月27日
春になると、自然にはしりだしたくなる 子どもたちのリアルさ
春やすみにはいり、わたしの職場「放課後等デイサービス・ピピ」は
たくさんの子どもたちでにぎわっている。
定員が10名の事業所なので、いちにちの平均利用者が12名以下、
いちにちでは、定員の150%、つまり最大15人までときめられている。
利用者がおおければ、それだけ事業所にはいるお金はふえる。
春やすみなど、学校がやすみのときは、
ふだんよりもさらに単価があがるので、
事業所にとってはかきいれどきともいえる。
今週は、月・水・金が15人、そのほかの日も
13人だったり12人だったしたので、
もうずっとにぎやかなのがつづいているかんじだ。
こうなると、ソロバンをはじくげんきもなくなり、
ぐったりとつかれはてて いちにちをおえる。
ふだんは放課後、つまり午後2時から6時までという
みじかい時間しかはたらいていない身としては、
春やすみは試練の2週間だ。
つかれると、なんとかしようとポジティブにとらえるげんきもなく、
ただあたえられた課題をひたすらこなす日常になってしまう。
おそろしいことに、そうした毎日になれてしまうのも人間の特徴のようで、
朝はやくから職場にいくのがあたりまえになってしまった
(でもこのツケはあとからおおきくひびいてくる)。
15人の子どもたちがあそびまわる1軒の民家「ピピ」は、
むかしの日本はこんなかんじだったのではないかとおもわせる風景だ。
お正月に親戚じゅうが本家にあつまり、
イトコどうしでおおさわぎしてうごきまわる。
どの部屋をのぞいても、なんにんもの子があそんだり、
ただゴロゴロしてたり。
少子化の日本といえども、いるところには、子どもがたくさんいるのだ。
きょうはお天気がよかったので、ちかくの運動公園へ散歩にでかける。
ひろい敷地なので、くるまやひとに気をつかわず、
安心してすごすことができる場所だ。
みんなでゆっくりあるいていると、きゅうにひとりの子が
「おれ、はしってくる」といって、
外周をまわろうとはしりはじめた。
ほかの子たちも、なんにんかで「よーいドン!」をやっている。
ながい冬がおわり、ようやくやってきた春に
からだが自然に反応したかんじだ。
はしることにうえていたようにもみえる。
生物として、リアルなエネルギー発散への欲求だったのかもしれない。
ブランコやすべり台でまずあそぼうとするのかとおもったのに、
とにかくはしりたい、となるのがすばらしい。
わたしは、バギーにのる子をおして この光景をながめていた。
残念ながら、わたしにはたまらなくはしりたくなる欲求はわいてこない。
みんな、えらいなー、とまるでひとごととして
はしりまわる子どもたちに感心する中年職員。
春のうららかな陽をあびて、
さいごに血をさわがせたのはいつのことだったろうか。
はしらずにはおれない子どもと、
こうしていっしょにすごせるのは
きっとすごくしあわせなことなのだろう。
たくさんの子どもたちでにぎわっている。
定員が10名の事業所なので、いちにちの平均利用者が12名以下、
いちにちでは、定員の150%、つまり最大15人までときめられている。
利用者がおおければ、それだけ事業所にはいるお金はふえる。
春やすみなど、学校がやすみのときは、
ふだんよりもさらに単価があがるので、
事業所にとってはかきいれどきともいえる。
今週は、月・水・金が15人、そのほかの日も
13人だったり12人だったしたので、
もうずっとにぎやかなのがつづいているかんじだ。
こうなると、ソロバンをはじくげんきもなくなり、
ぐったりとつかれはてて いちにちをおえる。
ふだんは放課後、つまり午後2時から6時までという
みじかい時間しかはたらいていない身としては、
春やすみは試練の2週間だ。
つかれると、なんとかしようとポジティブにとらえるげんきもなく、
ただあたえられた課題をひたすらこなす日常になってしまう。
おそろしいことに、そうした毎日になれてしまうのも人間の特徴のようで、
朝はやくから職場にいくのがあたりまえになってしまった
(でもこのツケはあとからおおきくひびいてくる)。
15人の子どもたちがあそびまわる1軒の民家「ピピ」は、
むかしの日本はこんなかんじだったのではないかとおもわせる風景だ。
お正月に親戚じゅうが本家にあつまり、
イトコどうしでおおさわぎしてうごきまわる。
どの部屋をのぞいても、なんにんもの子があそんだり、
ただゴロゴロしてたり。
少子化の日本といえども、いるところには、子どもがたくさんいるのだ。
きょうはお天気がよかったので、ちかくの運動公園へ散歩にでかける。
ひろい敷地なので、くるまやひとに気をつかわず、
安心してすごすことができる場所だ。
みんなでゆっくりあるいていると、きゅうにひとりの子が
「おれ、はしってくる」といって、
外周をまわろうとはしりはじめた。
ほかの子たちも、なんにんかで「よーいドン!」をやっている。
ながい冬がおわり、ようやくやってきた春に
からだが自然に反応したかんじだ。
はしることにうえていたようにもみえる。
生物として、リアルなエネルギー発散への欲求だったのかもしれない。
ブランコやすべり台でまずあそぼうとするのかとおもったのに、
とにかくはしりたい、となるのがすばらしい。
わたしは、バギーにのる子をおして この光景をながめていた。
残念ながら、わたしにはたまらなくはしりたくなる欲求はわいてこない。
みんな、えらいなー、とまるでひとごととして
はしりまわる子どもたちに感心する中年職員。
春のうららかな陽をあびて、
さいごに血をさわがせたのはいつのことだったろうか。
はしらずにはおれない子どもと、
こうしていっしょにすごせるのは
きっとすごくしあわせなことなのだろう。
2014年03月26日
たたかうことへのうたがい
病気とのたたかい、とか
病虫害とのたたかい、とか
よく「たたかい」ということばがつかわれるけど、
たいていのことは「たたかい」とおもっていたら
うまくいかないのではないか。
たたかっている、という気もち、
たたかっているという状況認識がすでにもうだめで、
うまくいくときに「たたかい」などはない。
闘病生活といういいかたもよく耳にする。
よくいわれるように、病気だけでなく
いいところもわるいところもふくめて自分のからだなのであり、
病気とたたかっているとおもうより、
病気をかかえた自分のからだぜんたいをいたわるという
うけとめ方のほうがいいような気がする。
病気を敵としてとらえ、それだけをきりすてるかんがえ方に
なじめなくなってきた。
闘病ではなく養生という認識が適切であり、
病気をまねいた生活全体をみなおすべきだろう。
「壮絶な闘病生活」など、
さらに輪にかけて「たたかっている」表現を目にすると
その当事者のつらさはお気の毒としかいいえないけれど、
もうすこしおだやかに表現してみては、とおもってしまう。
「闘病生活」などといいだすのは、たいていまわりの人間が、
うつくしいものがたりに まつりあげたくてのことだ。
たたかってどうにかなるとおもうのが、おこがましいのではないか。
はじめこの記事は、
「すべてのたたかいは悪である」という、
このごろよくありがちなタイトルでかきだしていた。
でも、これもまた挑発的であり、たたかいをさそっている表現かもしれない。
独立戦争とか労使交渉とか、
たたかわないでおいて、権利をかちとることはできないこともあるので、
「すべてのたたかい」を否定するのは極論におもえてきた。
今回は「自然現象とのたたかい」に限定してのべてみたい。
病気とたたかうという意識でいると、
そのための武器は薬や手術ということになる。
農業においても、病害虫とたたかおうとすると、
農薬で害虫(害虫!)や病気をやっつけたり、
非人間的な労働としての草とりをイメージしてしまう。
こうしたたたかいは、たのしくないし、うつくしくもない。
自然農法のように、まるごとの自然環境をあいてにして
作物をそだてようとするときは、
「たたかい」ではなく、
自然界との調和によって そだててもらおうという意識になるのではないか。
雑草にしても、とりのぞく対象としてではなく、
いっしょにそだっていく環境としてとらえられたら。
「自分とのたたかい」というのも、
とくにスポーツにおいてよくいいがちだ。
自分にまけていては記録がのびないのだろうが、
わたしの美意識からすると、できるだけたたかいからはなれた意識で競技にのぞみたい。
「私のすべてが出る、
私のプレーのすべてを見て、
生きていこうと思ってくれたり、
つらいことがあっても頑張ろうとか、
人のこころを良い方向に持っていけるようなプレーがしたいです」
これは、18歳のときに宮間あやさんがかたったことばだ。
サッカー女子代表のキャプテンとして、チームをまとめられるのも、
こういう意識をもっているからだろう。
スポーツだから、相手がいて、かちまけがある。
それでもなお、
「人のこころを良い方向に持っていけるようなプレーがしたいです」
といえる宮間あやさんはすてきだ。
たたかい、とくに自然界とのたたかいへの違和感から、
たたかいからはなれたところで生きたいとおもうようになった。
たたかわないのだから、
たたかうよりも勇気なんていらないはずで、
いかにもわたしにむいた人生観のような気がする。
闘病なんてしないで、死ぬときがきたら
死をうけいれる、というのがわたしのねがいだ。
病虫害とのたたかい、とか
よく「たたかい」ということばがつかわれるけど、
たいていのことは「たたかい」とおもっていたら
うまくいかないのではないか。
たたかっている、という気もち、
たたかっているという状況認識がすでにもうだめで、
うまくいくときに「たたかい」などはない。
闘病生活といういいかたもよく耳にする。
よくいわれるように、病気だけでなく
いいところもわるいところもふくめて自分のからだなのであり、
病気とたたかっているとおもうより、
病気をかかえた自分のからだぜんたいをいたわるという
うけとめ方のほうがいいような気がする。
病気を敵としてとらえ、それだけをきりすてるかんがえ方に
なじめなくなってきた。
闘病ではなく養生という認識が適切であり、
病気をまねいた生活全体をみなおすべきだろう。
「壮絶な闘病生活」など、
さらに輪にかけて「たたかっている」表現を目にすると
その当事者のつらさはお気の毒としかいいえないけれど、
もうすこしおだやかに表現してみては、とおもってしまう。
「闘病生活」などといいだすのは、たいていまわりの人間が、
うつくしいものがたりに まつりあげたくてのことだ。
たたかってどうにかなるとおもうのが、おこがましいのではないか。
はじめこの記事は、
「すべてのたたかいは悪である」という、
このごろよくありがちなタイトルでかきだしていた。
でも、これもまた挑発的であり、たたかいをさそっている表現かもしれない。
独立戦争とか労使交渉とか、
たたかわないでおいて、権利をかちとることはできないこともあるので、
「すべてのたたかい」を否定するのは極論におもえてきた。
今回は「自然現象とのたたかい」に限定してのべてみたい。
病気とたたかうという意識でいると、
そのための武器は薬や手術ということになる。
農業においても、病害虫とたたかおうとすると、
農薬で害虫(害虫!)や病気をやっつけたり、
非人間的な労働としての草とりをイメージしてしまう。
こうしたたたかいは、たのしくないし、うつくしくもない。
自然農法のように、まるごとの自然環境をあいてにして
作物をそだてようとするときは、
「たたかい」ではなく、
自然界との調和によって そだててもらおうという意識になるのではないか。
雑草にしても、とりのぞく対象としてではなく、
いっしょにそだっていく環境としてとらえられたら。
「自分とのたたかい」というのも、
とくにスポーツにおいてよくいいがちだ。
自分にまけていては記録がのびないのだろうが、
わたしの美意識からすると、できるだけたたかいからはなれた意識で競技にのぞみたい。
「私のすべてが出る、
私のプレーのすべてを見て、
生きていこうと思ってくれたり、
つらいことがあっても頑張ろうとか、
人のこころを良い方向に持っていけるようなプレーがしたいです」
これは、18歳のときに宮間あやさんがかたったことばだ。
サッカー女子代表のキャプテンとして、チームをまとめられるのも、
こういう意識をもっているからだろう。
スポーツだから、相手がいて、かちまけがある。
それでもなお、
「人のこころを良い方向に持っていけるようなプレーがしたいです」
といえる宮間あやさんはすてきだ。
たたかい、とくに自然界とのたたかいへの違和感から、
たたかいからはなれたところで生きたいとおもうようになった。
たたかわないのだから、
たたかうよりも勇気なんていらないはずで、
いかにもわたしにむいた人生観のような気がする。
闘病なんてしないで、死ぬときがきたら
死をうけいれる、というのがわたしのねがいだ。
2014年03月25日
日本のネットコミュニケーションはクールなのか
「クールジャパン」という番組で、
日本のネットコミュニケーションをとりあげていた。
外国人からみた日本のネットコミュニケーションはクールなのか。
町にでてアンケートをとってみると、
10代・20代のわかものにとって
ツイッターとLINEが絶対的な存在で、
フェイスブックをつかっているのは、
学生よりも社会人のほうがおおかった。
ツイッターでしりあったひととじっさいにあって
友だちになる、というのも あたりまえにおこなわれている。
匿名でのやりとりも、日本ならではのつかわれ方のようだ。
だからフェイスブックがわかものには
もうひとつひろまらないのかもしれない。
日本はたてまえ社会なので、いいたいことはたくさんあるけど、
それを実名で表現することにはためらいがある。
匿名では気らくにかきこみできるので、
こんなにたくさんのひとがつかうようになったのだろう。
匿名性は日本のネット文化の特徴だ。
総務省の調査では、ブログを実名でかいているひとは5%にすぎないと
ゲストの大学教授がふれていた。
有名人でないかぎり、ほとんどのひとが匿名でかいているのだ。
外国人は、自分のかんがえを主張し、
ひとを説得しようとしてブログをかくけれど、
日本人は、やくだつ情報を発信するのに匿名でブログをかく。
スタジオにあつまった外国人によると、
たとえば富士山ののぼり方といった、こまかな情報をえるのに
ブログがとてもやくにたったという。
そして、それらの情報が匿名でかかれていることにおどろいていた。
わたしは、自分がかいているこのブログみたいなのが、
典型的なブログかとおもっていたけど、どうもそうではないらしい。
わたしがおもしろいとおもうブログにあまりであわないのは、
ブログにもとめる機能が ほかのひととちがうからだろう。
おおくのひとにとって、ブログは意見や感想をかく場所ではなくて、
個人的な日記だったり、しっていると便利な情報を発信する場所のようだ。
そうした情報があれば、よむほうはたすかるけど、
それを匿名で発信することに おもしろさがあるとはおもわなかった。
はじめてブログを開設したときに、わたしが参考にした本の著者は
匿名より実名で、という方針をしめされていた。
実名でかけば記事への責任があきらかになる。
なにかをかくかぎり、その責任がすべて自分にあるのは
とうぜんのことだとおもった。
そのときのブログや、2年半まえにはじめたこのブログなど、
これまで実名でブログをかいてきて、
不愉快なおもいをしたことはない。
LINEでは、スタンプでの会話がさかんだという。
家族4人でLINEをつかっている例が紹介されていた。
お母さんがむすめたちにかいものをたのんだり、
お父さんが「夕ごはんはいらない」などのコメントを、
さまざまな表情をしたスタンプでやりとりする。
以前よりも家族関係が親密になったとはなしておられた。
たしかにかんたんにかいものをたのめたり、
「すこしおくれます」と伝言をのこせれば便利だろう。
でも、それだけのことにもおもえる。
スタンプをつかった家族間での会話というのは、
いかにも日本的なつかい方だ。
シニアむけのSNSの紹介では、67歳の男性が取材されている。
この方は、退職してからの生活にSNSをとりいれたことで、
毎日がすごくたのしくなったそうだ。
じっさいにつかっているようすをみせてくださった。
なにかを発信すると、すぐに「拍手」(「いいね!」みたいなもの)がよせられてくる。
そうやってはばひろい地域のひととしりあえるそうで、
気のあったひとがいたら文通するという。
ネットのつぎに文通がくるというのがさすがシニア世代だ。
スタジオにいた外国人たちは、
日本のシニア層があたらしいものにも好奇心をむけることにおどろいていた。
外国の年配者は、歳をとると
あたらしいものをなにもうけつけなくなるという。
日本では、わかものよりもシニア層のほうが英語学習への意欲も
さかんなのだそうだ。
ただ、直接あっておしゃべりするのではなく、
メールやスタンプでメッセージをおくるなんて、
おおくの国ではありえないという。
「電話ではなします」とひとりがいうと
なんにんものゲストが賛成していた。
ツイッターやSNSをつかってのコミュニケーションは
きわめて日本的なかたちで発達しており、
外国の状況とはずいぶんちがうという。
日本ではクールだけど、自分の国ではつかわれないとおもう、
という意見がおおかった。
外国人からみてどうこうよりも、
いまの日本で一般的につかわれているコミュニケーション手段から、
わたしがかんぜんにはずれていることをしらされた。
そうはいっても、たのしくないことはやりたくないし、
やばいのか?という、あせりもすこし。
ブログをコツコツ更新するだけで
満足していてはいけなかったのか。
わたしは、平均的な日本人中年男性のつもりでいたけれど、
辺境にすむ少数民族にすぎないのかもしれない。
番組でのSNSのつかわれ方は、わたしの認識をこえるものだった。
いまの日本人がなにをかんがえ、なにをやっているのかを
わたしはなにもしらないのではないか。
ツイッターとLINEをわたしはつかっていないし、
つかっておもしろくなるともおもわない。
フェイスブックにしても、料理の写真をのせ、
それにたいして「いいね!」をおしたり、
「おいしそー!」と感想をかえしたりすることに、
まったく関心がわいてこない。
年齢の問題というよりも、
性格が日本的なネットコミュニケーションにあわないのだろう。
好奇心がないわけではなく、
おもしろいことにはなるだけ顔をつっこもうとおもっているのに、
ツイッターやSNSとは距離をおいてしまった。
でもまあ、やりたくないものはしょうがない。
80歳の老人じゃあるまいし、
まさか自分がネットコミュニケーションからとりのこされる身になるとは。
日本のネットコミュニケーションをとりあげていた。
外国人からみた日本のネットコミュニケーションはクールなのか。
町にでてアンケートをとってみると、
10代・20代のわかものにとって
ツイッターとLINEが絶対的な存在で、
フェイスブックをつかっているのは、
学生よりも社会人のほうがおおかった。
ツイッターでしりあったひととじっさいにあって
友だちになる、というのも あたりまえにおこなわれている。
匿名でのやりとりも、日本ならではのつかわれ方のようだ。
だからフェイスブックがわかものには
もうひとつひろまらないのかもしれない。
日本はたてまえ社会なので、いいたいことはたくさんあるけど、
それを実名で表現することにはためらいがある。
匿名では気らくにかきこみできるので、
こんなにたくさんのひとがつかうようになったのだろう。
匿名性は日本のネット文化の特徴だ。
総務省の調査では、ブログを実名でかいているひとは5%にすぎないと
ゲストの大学教授がふれていた。
有名人でないかぎり、ほとんどのひとが匿名でかいているのだ。
外国人は、自分のかんがえを主張し、
ひとを説得しようとしてブログをかくけれど、
日本人は、やくだつ情報を発信するのに匿名でブログをかく。
スタジオにあつまった外国人によると、
たとえば富士山ののぼり方といった、こまかな情報をえるのに
ブログがとてもやくにたったという。
そして、それらの情報が匿名でかかれていることにおどろいていた。
わたしは、自分がかいているこのブログみたいなのが、
典型的なブログかとおもっていたけど、どうもそうではないらしい。
わたしがおもしろいとおもうブログにあまりであわないのは、
ブログにもとめる機能が ほかのひととちがうからだろう。
おおくのひとにとって、ブログは意見や感想をかく場所ではなくて、
個人的な日記だったり、しっていると便利な情報を発信する場所のようだ。
そうした情報があれば、よむほうはたすかるけど、
それを匿名で発信することに おもしろさがあるとはおもわなかった。
はじめてブログを開設したときに、わたしが参考にした本の著者は
匿名より実名で、という方針をしめされていた。
実名でかけば記事への責任があきらかになる。
なにかをかくかぎり、その責任がすべて自分にあるのは
とうぜんのことだとおもった。
そのときのブログや、2年半まえにはじめたこのブログなど、
これまで実名でブログをかいてきて、
不愉快なおもいをしたことはない。
LINEでは、スタンプでの会話がさかんだという。
家族4人でLINEをつかっている例が紹介されていた。
お母さんがむすめたちにかいものをたのんだり、
お父さんが「夕ごはんはいらない」などのコメントを、
さまざまな表情をしたスタンプでやりとりする。
以前よりも家族関係が親密になったとはなしておられた。
たしかにかんたんにかいものをたのめたり、
「すこしおくれます」と伝言をのこせれば便利だろう。
でも、それだけのことにもおもえる。
スタンプをつかった家族間での会話というのは、
いかにも日本的なつかい方だ。
シニアむけのSNSの紹介では、67歳の男性が取材されている。
この方は、退職してからの生活にSNSをとりいれたことで、
毎日がすごくたのしくなったそうだ。
じっさいにつかっているようすをみせてくださった。
なにかを発信すると、すぐに「拍手」(「いいね!」みたいなもの)がよせられてくる。
そうやってはばひろい地域のひととしりあえるそうで、
気のあったひとがいたら文通するという。
ネットのつぎに文通がくるというのがさすがシニア世代だ。
スタジオにいた外国人たちは、
日本のシニア層があたらしいものにも好奇心をむけることにおどろいていた。
外国の年配者は、歳をとると
あたらしいものをなにもうけつけなくなるという。
日本では、わかものよりもシニア層のほうが英語学習への意欲も
さかんなのだそうだ。
ただ、直接あっておしゃべりするのではなく、
メールやスタンプでメッセージをおくるなんて、
おおくの国ではありえないという。
「電話ではなします」とひとりがいうと
なんにんものゲストが賛成していた。
ツイッターやSNSをつかってのコミュニケーションは
きわめて日本的なかたちで発達しており、
外国の状況とはずいぶんちがうという。
日本ではクールだけど、自分の国ではつかわれないとおもう、
という意見がおおかった。
外国人からみてどうこうよりも、
いまの日本で一般的につかわれているコミュニケーション手段から、
わたしがかんぜんにはずれていることをしらされた。
そうはいっても、たのしくないことはやりたくないし、
やばいのか?という、あせりもすこし。
ブログをコツコツ更新するだけで
満足していてはいけなかったのか。
わたしは、平均的な日本人中年男性のつもりでいたけれど、
辺境にすむ少数民族にすぎないのかもしれない。
番組でのSNSのつかわれ方は、わたしの認識をこえるものだった。
いまの日本人がなにをかんがえ、なにをやっているのかを
わたしはなにもしらないのではないか。
ツイッターとLINEをわたしはつかっていないし、
つかっておもしろくなるともおもわない。
フェイスブックにしても、料理の写真をのせ、
それにたいして「いいね!」をおしたり、
「おいしそー!」と感想をかえしたりすることに、
まったく関心がわいてこない。
年齢の問題というよりも、
性格が日本的なネットコミュニケーションにあわないのだろう。
好奇心がないわけではなく、
おもしろいことにはなるだけ顔をつっこもうとおもっているのに、
ツイッターやSNSとは距離をおいてしまった。
でもまあ、やりたくないものはしょうがない。
80歳の老人じゃあるまいし、
まさか自分がネットコミュニケーションからとりのこされる身になるとは。
2014年03月24日
Jリーグ第4節 「リーグタイム」で早野さんがさえていた
Jリーグ第4節。
浦和レッズと清水エスパルスが埼玉スタジアムで無観客試合をしている。
「Jリーグタイム」がどうとりあげるかとおもっていたら、
いちばんはじめのカードで紹介していた。
観客のいないグランドは空間がめだち、ものすごくさみしい。
練習試合というのでもない。
なんだかみたことのない異様な雰囲気だ。
両チームの選手たちは、気もちのこもった試合を展開し、
1-1のドローとなる。
解説の早野宏史さんは
「こんな試合は2どとみたくありません。
差別は絶対にゆるしてはならないということを、
みんながかんじたんじゃないでしょうか」とつよい口調ではなす。
無観客試合は、かち点の剥奪よりも
ゆるいペナルティかとおもっていたけど、ちがった。
だれもいないグランドで試合をすることがどれだけさみしいか、
差別的な表現をしたらどうなるかを、
両チームだけでなく、おおくの関係者が肝にめいじたことだろう。
早野さんのいわれるように、2どとこういう試合をおこなってはならない。
あたらしいスタートとなることをねがっている。
アルビレックス新潟対サガン鳥栖の試合では、
早野さんがまえにでて、棒を手にしながらフォーメーションを解説する。
めずらしいことをするなーとみていたら、
ダジャレへの伏線だった。
棒をふって、おこったように早野さんがいう。
「ちゃんとみてくださいよ、ミヌなんていってないで」と
サガン鳥栖のキムミヌ選手についてふれたのだ。
芸がこまかいというか、アイデアが豊富というか。
差別をバッサリきりすてるし、ダジャレはきれいにきまるしで、
今夜の早野さんはさえていた。
「鳥栖の選手がトスしたところをアタックされる」
はちょっとくるしかったけど。
セレッソ大阪のフォルラン選手に初ゴールがうまれる。
柿谷が「さあ、どうぞきめてください」と
ゴールまえにおいしいパスをだしたので、
フォルランはただ足をだすだけだった。
それでも「日本中がまってたんじゃないですか」
と早野さんがいうとおりの、だれもがまちのぞんでいたゴールだった。
今シーズンから「Jリーグタイム」のアシスタントは
宮崎瑠依さんになった。
その日いちばん感動したプレーを宮崎さんがえらぶ
「感RUI」のコーナーというのがあり、
浦和レッズの関根選手をとりあげていた。
関根選手はまだ18歳で、この試合がJリーグのデビューとなる。
無観客試合にもかかわらず、まえへ、まえへ、という
気迫のこもったプレーがひかっていた。
「こんどはたくさんの観客のまえで
きょうみたいなすばらしいプレーをみせてほしいとおもいました」
と、宮崎さんが関根選手をえらんだのはファインプレーだった。
「Jリーグタイム」がはじまるまで、
わたしはずっと川崎フロンターレ対FC東京の試合をみていた。
序盤のほんのすこしを東京がせめていただけで、
あとはずっと川崎の時間だった。
あしもとでのワンタッチパスが、
チョン、チョン、チョン、とおもしろいようにつながる。
むつかしいことはしてないようにみえるのに、
東京はボールをうばえない。
フロンターレは東京の守備をつりだしておいて、
うらへ憲剛のスルーパスがきまる。
大久保と小林悠が2点ずつをとって、
フロンターレの快勝となった。
フロンターレのサッカーはきわめて異色で、
試合中にパスの練習をしているみたいだ。
みていてわくわくしてくる。
浦和レッズと清水エスパルスが埼玉スタジアムで無観客試合をしている。
「Jリーグタイム」がどうとりあげるかとおもっていたら、
いちばんはじめのカードで紹介していた。
観客のいないグランドは空間がめだち、ものすごくさみしい。
練習試合というのでもない。
なんだかみたことのない異様な雰囲気だ。
両チームの選手たちは、気もちのこもった試合を展開し、
1-1のドローとなる。
解説の早野宏史さんは
「こんな試合は2どとみたくありません。
差別は絶対にゆるしてはならないということを、
みんながかんじたんじゃないでしょうか」とつよい口調ではなす。
無観客試合は、かち点の剥奪よりも
ゆるいペナルティかとおもっていたけど、ちがった。
だれもいないグランドで試合をすることがどれだけさみしいか、
差別的な表現をしたらどうなるかを、
両チームだけでなく、おおくの関係者が肝にめいじたことだろう。
早野さんのいわれるように、2どとこういう試合をおこなってはならない。
あたらしいスタートとなることをねがっている。
アルビレックス新潟対サガン鳥栖の試合では、
早野さんがまえにでて、棒を手にしながらフォーメーションを解説する。
めずらしいことをするなーとみていたら、
ダジャレへの伏線だった。
棒をふって、おこったように早野さんがいう。
「ちゃんとみてくださいよ、ミヌなんていってないで」と
サガン鳥栖のキムミヌ選手についてふれたのだ。
芸がこまかいというか、アイデアが豊富というか。
差別をバッサリきりすてるし、ダジャレはきれいにきまるしで、
今夜の早野さんはさえていた。
「鳥栖の選手がトスしたところをアタックされる」
はちょっとくるしかったけど。
セレッソ大阪のフォルラン選手に初ゴールがうまれる。
柿谷が「さあ、どうぞきめてください」と
ゴールまえにおいしいパスをだしたので、
フォルランはただ足をだすだけだった。
それでも「日本中がまってたんじゃないですか」
と早野さんがいうとおりの、だれもがまちのぞんでいたゴールだった。
今シーズンから「Jリーグタイム」のアシスタントは
宮崎瑠依さんになった。
その日いちばん感動したプレーを宮崎さんがえらぶ
「感RUI」のコーナーというのがあり、
浦和レッズの関根選手をとりあげていた。
関根選手はまだ18歳で、この試合がJリーグのデビューとなる。
無観客試合にもかかわらず、まえへ、まえへ、という
気迫のこもったプレーがひかっていた。
「こんどはたくさんの観客のまえで
きょうみたいなすばらしいプレーをみせてほしいとおもいました」
と、宮崎さんが関根選手をえらんだのはファインプレーだった。
「Jリーグタイム」がはじまるまで、
わたしはずっと川崎フロンターレ対FC東京の試合をみていた。
序盤のほんのすこしを東京がせめていただけで、
あとはずっと川崎の時間だった。
あしもとでのワンタッチパスが、
チョン、チョン、チョン、とおもしろいようにつながる。
むつかしいことはしてないようにみえるのに、
東京はボールをうばえない。
フロンターレは東京の守備をつりだしておいて、
うらへ憲剛のスルーパスがきまる。
大久保と小林悠が2点ずつをとって、
フロンターレの快勝となった。
フロンターレのサッカーはきわめて異色で、
試合中にパスの練習をしているみたいだ。
みていてわくわくしてくる。
2014年03月23日
ローマ字についてのサイト「ローマ字 Aioue」に感激する
わたしは梅棹忠夫氏の本からローマ字運動をしり、
できればローマ字で日本語をかけたらとおもってきた。
ブログも、漢字かなまじりによる表記だけでなく、
ローマ字によるものもひらこうとおもっていた。
漢字かなまじりでかかれた文章を、
ボタンひとつでローマ字に変換してくれるソフトがあると便利だ。
ネットで検索してみると、カタカナやひらがなをローマ字に、というのはあるけれど、
わかちがきされていないので、そのままではよめない。
さがしているうちに「ローマ字 Aioue」というサイトにであった。
Hypnosさんという方が、ひとりでつくられているそうで、
「ローマ字の 理解と 普及を 目的とした サイト」ということだ。
なぜローマ字で日本語をかきたいのかというと、
できるだけたくさんのひとによんでもらうためには、
いまはともかく、将来のことをかんがえると、
ローマ字による表記がふさわしいとおもうからだ。
サイトは、下にあげたようなメニューから、
各ページにアクセスするようになっている。
「あらまし」「なりたち」などのことばえらびをみるだけで、
ローマ字の世界が目のまえにひらかれたようにかんじた。
•「はじめに」:このページです。
•「あらまし」:ローマ字の 基本を 簡単に 説明しています。
•「なりたち」:ローマ字の 歴史を 説明しています。
•「いろいろ」:ローマ字の 種類・比較・つかいわけを 説明しています。
•「書きかた」:ローマ字の 書法を 説明しています。
•「からくり」:ローマ字を あつかう ツールが まとめてあります。
•「おさらい」:ローマ字の 理解度を ためす テストが できます。
•「つながり」:外部リンクなどが まとめてあります。
サイトをめぐっていると、Hypnosさんのローマ字に関する正確な知識におどろかされた。
このサイトをみれば、歴史からかきかたまで、
ローマ字のすべてがわかる。
そのままローマ字にすれば、意味がわかることばがえらばれ、
うつくしい文章のおてほんがしめされている。
ヘボン式ローマ字の問題点や、パスポートを申請するときに注意することなど、
理想とするすがたにむけて
いまできることが よく整理されている。
サイトには練習問題もついている。
レベル1から6にわかれていて、指定されるローマ字によって
文をつづるようになっている。
かんたんかとおもったら、長音記号やわかちがきにひっかかって、
半分くらいしか丸がもらえない。
固有名詞のはじめの字は大文字とか、
ローマ字は音にそってかくので、
「〜を」は、「〜wo」ではなく「〜o」となり、
パソコンのローマ字入力とはずいぶんちがう。
わたしとしたら、「まあいいがな」みたいにおもうけど、
ローマ字でつづるには、まあいいがな、ではダメで
規則にそった正確なつづりでないと意味をなさなくなる。
これらはあたりまえのことで、
どこの国のことばにも正書法があり、ただしいかきかたがきまっている。
日本語は、漢字かなまじり文をつかっているかぎり、
この正書法がつくれないという問題があった。
ローマ字で日本語をかく経験をつんでいけば、
ただしいかきかたに、すぐになれていくだろう。
梅棹さんは、99式というかきかたをすすめている。
これは「日本ローマ字会」が提案した方式で、
長音をあらわすのに特別な記号はつかわない。
パソコンでローマ字入力するときとおなじ文字、
つまり、変換するまえのローマ字入力であり、
かんたんにうてるけれど、
「音声でかんがえる、というローマ字の原則からはずれています。
したがって、厳密な意味では、正書法としてのローマ字ではありません」
と、このサイトではすすめられていない。
ローマ字でつづりたい、などといいながら、
ローマ字で日本語をかくのはかんたんではないことが
よくわかった。
これからのローマ字がどうあるべきかは、
じつはこのサイトでもあきらかにされていない。
ローマ字の問題は、つかわれていないことがいちばんの原因となっている。
たくさんのひとがつかうようになれば、
だんだんとローマ字表記になれてきて、
問題点が整理されてゆくだろう。
「今の 日本語を そのまま ローマ字書きに して
実用に たえられるのかと 問われれば,
かなり きびしいと こたえなければ なりません。
ところが,それを 十分に わかった 上で,
日常生活の 日本語を どんどん ローマ字書きに していこう,
と いっているのが 現代の ローマ字運動なのです」
「ローマ字は あたらしい 理論を もとめています。
しかし,議論できる レベルの 知識を もった 人は ほとんど いません。
まず,知識を ひろめる ところから はじめなければ ならないのです」
とにかくまず、ローマ字をつかってみることだ。
できればローマ字で日本語をかけたらとおもってきた。
ブログも、漢字かなまじりによる表記だけでなく、
ローマ字によるものもひらこうとおもっていた。
漢字かなまじりでかかれた文章を、
ボタンひとつでローマ字に変換してくれるソフトがあると便利だ。
ネットで検索してみると、カタカナやひらがなをローマ字に、というのはあるけれど、
わかちがきされていないので、そのままではよめない。
さがしているうちに「ローマ字 Aioue」というサイトにであった。
Hypnosさんという方が、ひとりでつくられているそうで、
「ローマ字の 理解と 普及を 目的とした サイト」ということだ。
なぜローマ字で日本語をかきたいのかというと、
できるだけたくさんのひとによんでもらうためには、
いまはともかく、将来のことをかんがえると、
ローマ字による表記がふさわしいとおもうからだ。
サイトは、下にあげたようなメニューから、
各ページにアクセスするようになっている。
「あらまし」「なりたち」などのことばえらびをみるだけで、
ローマ字の世界が目のまえにひらかれたようにかんじた。
•「はじめに」:このページです。
•「あらまし」:ローマ字の 基本を 簡単に 説明しています。
•「なりたち」:ローマ字の 歴史を 説明しています。
•「いろいろ」:ローマ字の 種類・比較・つかいわけを 説明しています。
•「書きかた」:ローマ字の 書法を 説明しています。
•「からくり」:ローマ字を あつかう ツールが まとめてあります。
•「おさらい」:ローマ字の 理解度を ためす テストが できます。
•「つながり」:外部リンクなどが まとめてあります。
サイトをめぐっていると、Hypnosさんのローマ字に関する正確な知識におどろかされた。
このサイトをみれば、歴史からかきかたまで、
ローマ字のすべてがわかる。
そのままローマ字にすれば、意味がわかることばがえらばれ、
うつくしい文章のおてほんがしめされている。
ヘボン式ローマ字の問題点や、パスポートを申請するときに注意することなど、
理想とするすがたにむけて
いまできることが よく整理されている。
サイトには練習問題もついている。
レベル1から6にわかれていて、指定されるローマ字によって
文をつづるようになっている。
かんたんかとおもったら、長音記号やわかちがきにひっかかって、
半分くらいしか丸がもらえない。
固有名詞のはじめの字は大文字とか、
ローマ字は音にそってかくので、
「〜を」は、「〜wo」ではなく「〜o」となり、
パソコンのローマ字入力とはずいぶんちがう。
わたしとしたら、「まあいいがな」みたいにおもうけど、
ローマ字でつづるには、まあいいがな、ではダメで
規則にそった正確なつづりでないと意味をなさなくなる。
これらはあたりまえのことで、
どこの国のことばにも正書法があり、ただしいかきかたがきまっている。
日本語は、漢字かなまじり文をつかっているかぎり、
この正書法がつくれないという問題があった。
ローマ字で日本語をかく経験をつんでいけば、
ただしいかきかたに、すぐになれていくだろう。
梅棹さんは、99式というかきかたをすすめている。
これは「日本ローマ字会」が提案した方式で、
長音をあらわすのに特別な記号はつかわない。
パソコンでローマ字入力するときとおなじ文字、
つまり、変換するまえのローマ字入力であり、
かんたんにうてるけれど、
「音声でかんがえる、というローマ字の原則からはずれています。
したがって、厳密な意味では、正書法としてのローマ字ではありません」
と、このサイトではすすめられていない。
ローマ字でつづりたい、などといいながら、
ローマ字で日本語をかくのはかんたんではないことが
よくわかった。
これからのローマ字がどうあるべきかは、
じつはこのサイトでもあきらかにされていない。
ローマ字の問題は、つかわれていないことがいちばんの原因となっている。
たくさんのひとがつかうようになれば、
だんだんとローマ字表記になれてきて、
問題点が整理されてゆくだろう。
「今の 日本語を そのまま ローマ字書きに して
実用に たえられるのかと 問われれば,
かなり きびしいと こたえなければ なりません。
ところが,それを 十分に わかった 上で,
日常生活の 日本語を どんどん ローマ字書きに していこう,
と いっているのが 現代の ローマ字運動なのです」
「ローマ字は あたらしい 理論を もとめています。
しかし,議論できる レベルの 知識を もった 人は ほとんど いません。
まず,知識を ひろめる ところから はじめなければ ならないのです」
とにかくまず、ローマ字をつかってみることだ。
2014年03月22日
ゴギファップンゴロッパンベレラ、起動せよ!
きのうの「ビットワールド」は
「鷹の爪”新規開店直前!閉店大放出セール第1弾」
ということで、2012年に放送されたなかから
人気のあった回5本(どうやってしらべた?)の特集だった。
そのなかでも「究極の戦闘ロボ」は、出色の出来だったので、
ファンとしてぜひ紹介しておきたい。
はじめに、ざっとあらすじを。
・レオナルド博士と吉田くんが「レレロー」という名の戦闘ロボをつくる。
・あまりにも脱力系の名前なので、
「もっとなにかいい名前はないのかね」、という総統に吉田くんは
レレローは音声認識ロボなので、かんたんな名前がいいのだ、と説明する。
「レレロー、起動せよ!」と命令すると、
かっこよくうごきだした。
でも、あんまりかんたんな名前すぎて、
デラックスファイターにすぐおぼえられてしまい、
デラックスファイターが「レレロー、鷹の爪団をやっつけろ!」
とくだした命令にレレローが反応して、あえなく玉砕。
・という反省をふまえ、こんどはややこしい名前のマシンを開発する。
名づけて「ゴギファップンゴロッパンベレラ」で、
このロボットを開発するための試作段階には
「ゴギファッペンゴロッパンベレラ」
(目からビームのかわりに、耳からナルトをだす)
「ゴギホッパンゴロッパンベレラ」
(とてもはきごこちのいいスリッパをつくる)
「ゴギファップンヌルッパンベレラ」
(よごれた金魚の水槽をかってにそうじしてくれる)
「ギゴファッペンゴロッパンベレラ」
(ぜったいに失敗しない恋人えらびをすすめてくれる)
らがつくられたという。
・吉田くんは、これらのロボットの名をスルスルといえたのに、
肝心のデラックスファイターがきたときは、
「ゴギファップンゴロッパンベレラ」を正確にいえず、ロボが反応しない。
「ゴギファップンクロッパンベレラ」と吉田くんは
「コ」と「ク」をまちがえていたのだ。
・ただしい名前を博士からおそわった総統が、
「ゴギファッペンゴロッパンベレラ、起動せよ!」と命令すると、
ロボットは耳からナルトをだす。
そのスキにデラックスファイターからデラックスボンバーをあびせられて、
また今回もあえなく玉砕。
「ゴギファップンゴロッパンベレラじゃった〜!」
という総統の声がむなしく耳にのこる。
このはなしのどこがすごいのかというと、
さいきんの鷹の爪は世界征服からはなれ、
デラックスファイターとなんだか友だちみたいなつきあいをし、
レオナルド博士があたらしいメカを開発せず、と
創成期の精神をうしないがちだったのにたいし、
この回ではデラックスファイターはちゃんとにくたらしい敵として登場するし、
レオナルド博士はありえないマシンをつくりだしたし、
鷹の爪団が団結して世界征服をめざしている。
「ゴギファップンゴロッパンベレラ」と、
なかなかおぼえられない名前を、
博士と吉田くんがスラスラくちにする場面は圧巻だった。
博士も吉田くんも総統も、フロッグマン氏がひとりでふきかえをしているので、
いちどおぼえればあとはかんたん、などというのはゲスのかんぐりであり、
ちがう人物としてセリフをおぼえるのは、
またぜんぜんべつのむつかしい仕事だ。
「ゴギファップンゴロッパンベレラ」
「ゴギファッペンゴロッパンベレラ」
「ゴギホッパンゴロッパンベレラ」
「ゴギファップンヌルッパンベレラ」
「ギゴファッペンゴロッパンベレラ」
の名前とそれぞれのロボットを、
まちがいなく一致できるようになれば
ボケ予防にもやくだつにちがいない。
わたしも「ゴギファップンゴロッパンベレラ」だけはなんども復唱し、
つぎの日までおぼえていられるぐらいくちになじんだ。
「ギゴ」「ゴギ」「ホッパン」「ファップン」「ファッペン」など、
まぎらわしい語句を自由にあやつる吉田くんを感心してみていたのに、
肝心なときにいいまちがえるのはお約束としても、
総統までがさいごはちゃんといえるようになったのは
高齢化社会にむけていくつもの教訓をしめしてくれる。
それに、「ゴギファップンゴロッパンベレラ」をパスワードにつかえば
ぜったいに悪用されずにすむ。
フロッグマン氏はどこからこの名前をおもいついたのだろう。
「鷹の爪”新規開店直前!閉店大放出セール第1弾」
ということで、2012年に放送されたなかから
人気のあった回5本(どうやってしらべた?)の特集だった。
そのなかでも「究極の戦闘ロボ」は、出色の出来だったので、
ファンとしてぜひ紹介しておきたい。
はじめに、ざっとあらすじを。
・レオナルド博士と吉田くんが「レレロー」という名の戦闘ロボをつくる。
・あまりにも脱力系の名前なので、
「もっとなにかいい名前はないのかね」、という総統に吉田くんは
レレローは音声認識ロボなので、かんたんな名前がいいのだ、と説明する。
「レレロー、起動せよ!」と命令すると、
かっこよくうごきだした。
でも、あんまりかんたんな名前すぎて、
デラックスファイターにすぐおぼえられてしまい、
デラックスファイターが「レレロー、鷹の爪団をやっつけろ!」
とくだした命令にレレローが反応して、あえなく玉砕。
・という反省をふまえ、こんどはややこしい名前のマシンを開発する。
名づけて「ゴギファップンゴロッパンベレラ」で、
このロボットを開発するための試作段階には
「ゴギファッペンゴロッパンベレラ」
(目からビームのかわりに、耳からナルトをだす)
「ゴギホッパンゴロッパンベレラ」
(とてもはきごこちのいいスリッパをつくる)
「ゴギファップンヌルッパンベレラ」
(よごれた金魚の水槽をかってにそうじしてくれる)
「ギゴファッペンゴロッパンベレラ」
(ぜったいに失敗しない恋人えらびをすすめてくれる)
らがつくられたという。
・吉田くんは、これらのロボットの名をスルスルといえたのに、
肝心のデラックスファイターがきたときは、
「ゴギファップンゴロッパンベレラ」を正確にいえず、ロボが反応しない。
「ゴギファップンクロッパンベレラ」と吉田くんは
「コ」と「ク」をまちがえていたのだ。
・ただしい名前を博士からおそわった総統が、
「ゴギファッペンゴロッパンベレラ、起動せよ!」と命令すると、
ロボットは耳からナルトをだす。
そのスキにデラックスファイターからデラックスボンバーをあびせられて、
また今回もあえなく玉砕。
「ゴギファップンゴロッパンベレラじゃった〜!」
という総統の声がむなしく耳にのこる。
このはなしのどこがすごいのかというと、
さいきんの鷹の爪は世界征服からはなれ、
デラックスファイターとなんだか友だちみたいなつきあいをし、
レオナルド博士があたらしいメカを開発せず、と
創成期の精神をうしないがちだったのにたいし、
この回ではデラックスファイターはちゃんとにくたらしい敵として登場するし、
レオナルド博士はありえないマシンをつくりだしたし、
鷹の爪団が団結して世界征服をめざしている。
「ゴギファップンゴロッパンベレラ」と、
なかなかおぼえられない名前を、
博士と吉田くんがスラスラくちにする場面は圧巻だった。
博士も吉田くんも総統も、フロッグマン氏がひとりでふきかえをしているので、
いちどおぼえればあとはかんたん、などというのはゲスのかんぐりであり、
ちがう人物としてセリフをおぼえるのは、
またぜんぜんべつのむつかしい仕事だ。
「ゴギファップンゴロッパンベレラ」
「ゴギファッペンゴロッパンベレラ」
「ゴギホッパンゴロッパンベレラ」
「ゴギファップンヌルッパンベレラ」
「ギゴファッペンゴロッパンベレラ」
の名前とそれぞれのロボットを、
まちがいなく一致できるようになれば
ボケ予防にもやくだつにちがいない。
わたしも「ゴギファップンゴロッパンベレラ」だけはなんども復唱し、
つぎの日までおぼえていられるぐらいくちになじんだ。
「ギゴ」「ゴギ」「ホッパン」「ファップン」「ファッペン」など、
まぎらわしい語句を自由にあやつる吉田くんを感心してみていたのに、
肝心なときにいいまちがえるのはお約束としても、
総統までがさいごはちゃんといえるようになったのは
高齢化社会にむけていくつもの教訓をしめしてくれる。
それに、「ゴギファップンゴロッパンベレラ」をパスワードにつかえば
ぜったいに悪用されずにすむ。
フロッグマン氏はどこからこの名前をおもいついたのだろう。
2014年03月21日
つりびとの寓話は、なにをつたえようとしているのか
4月1日は、あたらしい年度がはじまときだから、
これまでと環境がおおきくかわるひとがすくなくないだろう。
わたしもまた、今年度から仕事へのかかわりをかえることにした。
毎日を午後出勤にして、勤務時間をへらす。
当然はいってくるお金はへる。
ちいさな職場ばかりにいたので、
これまでは新年度だからといって、なにかがおおきくかわることはなかった。
今回も、仕事や部署をかえるわけではなく、
ただ勤務時間をへらすだけだ。
しかしこれは、おおきな一歩になるはずの変化だ。
これまでだって、一般的な会社員としては
かなり自分の時間をもてるようにうごいてきた。
20代はいろんなことを経験するのにすぎてしまい、
わたしが仕事についたといえるのは、30代になってからだ。
それからの10年間がわたしの労働意欲のピークで、
それでもう、じゅうぶんはたらいた気になってしまった。
「もえつきた」はあまりにもかっこよすぎてつかえない。
はたらくことにむいていない人間だと、よくわかったといったほうがいい。
それで、今年からはたらきかたをかえることにした。
かんたんにいえば「もう、おりた」という気分にちかい。
仕事はつづけるので、リタイアではないけれど、
軸足をおおきく「あそび」へとうつすことになる。
もともとなにかを目的に、という意識はうすかったとおもう。
それでも目のまえにいいものをぶらさげられると、
まあやってみるか、という気になった。
それが、52歳となり、のこされた時間はそうおおくないことを
なにかにつけかんじることがふえてきた。
なにかをやりたいという、あつい気もちがなくても
生きていけるし、そういうひとのほうがおおいのではないか。
目的や夢の否定ではく、できればそういうものがあったほうが生きやすいだろうし、
まわりにも説得力がある。
でもまあ、ないものはしょうがない。
こうやって、いやなことをさけているうちに、
やりたいことがうきぼりになってくればいいけど。
すこしまえの「今日のダーリン」(「ほぼ日」)に、
「いまやれることがたくさんある」という寓話がのっていた。
仕事におわれるサラリーマンが、
湖畔でのんびりとつり糸をたれている男性に、
「わたしも退職したらあなたみたいに・・・」と
うらやましそうにいうはなしかける、というやつだ。
糸井さんはこの寓話を、
「仕事をやめなくても、たいていのことはいまでもできるのではないか」
という文脈でつづけている。
わたしが記憶しているこのはなしはすこしちがう。
「仕事をやめたらわたしもあなたのような生活を」といわれた男性は、
「おれはいま、それをやってるんだ」というのだ。
おなじようでいて、あきらかに解釈がちがう。
仕事をやめなくても、たいていのことはいまでもできるのであれば、
やりたいことをやるのに、リタイアは関係ないことになる。
わたしが記憶している寓話のほうは、
「そんならさっさとリタイアしたら」と
はやくおりることをすすめている。
仕事のなかにもよろこびはあるのだし、
お金も必要だから、たいていのひとは仕事をしながら生きる。
糸井さん説のつりびとは、
「いまやれること」をいまやることで満足しているようにみえる。
でもほんとうは、この寓話はどちらをつたえたかったのだろう。
つりびとは、ほんのすこしのお金があれば生きていけると、
はやめに仕事をやめたひとだろうか。
じょうずに時間をやりくりして、
つり糸をたれているひとだろうか。
わたしはつりびとのほうだろうか、
はなしかけたサラリーマンのほうだろうか。
これまでと環境がおおきくかわるひとがすくなくないだろう。
わたしもまた、今年度から仕事へのかかわりをかえることにした。
毎日を午後出勤にして、勤務時間をへらす。
当然はいってくるお金はへる。
ちいさな職場ばかりにいたので、
これまでは新年度だからといって、なにかがおおきくかわることはなかった。
今回も、仕事や部署をかえるわけではなく、
ただ勤務時間をへらすだけだ。
しかしこれは、おおきな一歩になるはずの変化だ。
これまでだって、一般的な会社員としては
かなり自分の時間をもてるようにうごいてきた。
20代はいろんなことを経験するのにすぎてしまい、
わたしが仕事についたといえるのは、30代になってからだ。
それからの10年間がわたしの労働意欲のピークで、
それでもう、じゅうぶんはたらいた気になってしまった。
「もえつきた」はあまりにもかっこよすぎてつかえない。
はたらくことにむいていない人間だと、よくわかったといったほうがいい。
それで、今年からはたらきかたをかえることにした。
かんたんにいえば「もう、おりた」という気分にちかい。
仕事はつづけるので、リタイアではないけれど、
軸足をおおきく「あそび」へとうつすことになる。
もともとなにかを目的に、という意識はうすかったとおもう。
それでも目のまえにいいものをぶらさげられると、
まあやってみるか、という気になった。
それが、52歳となり、のこされた時間はそうおおくないことを
なにかにつけかんじることがふえてきた。
なにかをやりたいという、あつい気もちがなくても
生きていけるし、そういうひとのほうがおおいのではないか。
目的や夢の否定ではく、できればそういうものがあったほうが生きやすいだろうし、
まわりにも説得力がある。
でもまあ、ないものはしょうがない。
こうやって、いやなことをさけているうちに、
やりたいことがうきぼりになってくればいいけど。
すこしまえの「今日のダーリン」(「ほぼ日」)に、
「いまやれることがたくさんある」という寓話がのっていた。
仕事におわれるサラリーマンが、
湖畔でのんびりとつり糸をたれている男性に、
「わたしも退職したらあなたみたいに・・・」と
うらやましそうにいうはなしかける、というやつだ。
糸井さんはこの寓話を、
「仕事をやめなくても、たいていのことはいまでもできるのではないか」
という文脈でつづけている。
わたしが記憶しているこのはなしはすこしちがう。
「仕事をやめたらわたしもあなたのような生活を」といわれた男性は、
「おれはいま、それをやってるんだ」というのだ。
おなじようでいて、あきらかに解釈がちがう。
仕事をやめなくても、たいていのことはいまでもできるのであれば、
やりたいことをやるのに、リタイアは関係ないことになる。
わたしが記憶している寓話のほうは、
「そんならさっさとリタイアしたら」と
はやくおりることをすすめている。
仕事のなかにもよろこびはあるのだし、
お金も必要だから、たいていのひとは仕事をしながら生きる。
糸井さん説のつりびとは、
「いまやれること」をいまやることで満足しているようにみえる。
でもほんとうは、この寓話はどちらをつたえたかったのだろう。
つりびとは、ほんのすこしのお金があれば生きていけると、
はやめに仕事をやめたひとだろうか。
じょうずに時間をやりくりして、
つり糸をたれているひとだろうか。
わたしはつりびとのほうだろうか、
はなしかけたサラリーマンのほうだろうか。
2014年03月20日
『フリーという生き方』(岸川真)きびしいけれど、えらぶにあたいする生き方
『フリーという生き方』(岸川真・岩波ジュニア新書)
岸川さんは「WEB本の雑誌」に
「こんな僕がインタビュー術を語っていいんですかっ?」
という連載をつづけられている。
27回の連載でやっと「おわりの考察」まできたのに、
まだかきたりなくて、28回目として「おまけの筆まかせ」がのった。
自分が体験したこと、仕事でかかわったひとのはなしが
具体的にもりこまれており、
インタビューって、こんなにふかい世界だったのかと、
おどろいてしまうこまかさだ。
このひとは、ほんとうに本と映画がすきなのだということがつたわってくるし、
自分のかんがえを、正確につたえようとする岸川さんの姿勢にもひかれていたので、
この『フリーという生き方』をよんでみる気になった。
岸川さんは、いつか映画をとることを夢みながら、
いろんな企画をたてて本をつくる仕事をしている。
わかいころ、いちど就職したことがあるけど、
そこが1年半でつぶれてからはずっとフリーだ。
岸川さんは、この本は
「なにものにかなりたくて、
就職しないで生きていきたいな」
というひとのための本なのだという。
フリーになることを、かんたんにすすめているのではない。
フリーのきびしい生活を具体的にかたりながら、
それでもフリーであることの魅力がかたられている。
フリーの魅力とは、文字どおりフリーであることであり、
不安定や孤独ととなりあわせであるにしても、
とにかく自由でいることができる。
フリーにむいているひと、
フリーでなければ社会とおりあいがつけれないタイプのひとも、たしかにいる。
よくいわれるように、自由とは、貧乏になることをふくめた自由であり、
岸川さんは何ヶ月も家賃をはらえなかったり、
財布に1000円以下しかはいっていなかったりという、
フリーランスならではの体験をされている。
それでもフリーでありつづけているのは、
岸川さんがフリーという生き方にほこりをもっているからだ。
フリーのよさをいかして、自分ならではの生き方をしたいとおもい、
その手ごたえをえている。
いい本をつくり、いつかは映画もとろうという夢があり、
それをかなえるには岸川さんにとって
フリーであるほうがうごきやすい。
就職をしないで、アルバイトなどをしながらくいつなぐことはできる。
ある程度は定期的な収入のみこみがあり、計算がなりたつ。
しかし、岸川さんのようなフリーな生き方をえらんだひとは、
安定した生活からとおいところでくらしている。
企画がとおらなければ本をだせないし、
ちゃんと仕事をしたとしても、
なにかのひょうしにお金がはいらないこともある。
「わーっ!」とさけんでしまいくなるような状況でも、
とにかく知恵をしぼっていい企画をかんがえだすしかない。
よんでいるだけで、おしりがむずがゆく、ヒリヒリしてきた。
フリーのきびしい生活が、これだけありのままにかたられている本はよんだことがない。
フリーをめざすひとは、これぐらいの覚悟はしといたほうがいいのだろうし、
それでも自分のすきなことができる魅力にはかえがたいという
岸川さんのあつい生き方がつたわってくる。
岸川さんがしりあいからきいたフリーの秘訣は
「頭を下げない、無理をしない」なのだそうで、
これはくしくも「本の雑誌社」がかかげている
「頭をさげない、いばらない、無理をしない」と
よくにている。
自分がやりたいことを、いいかんじでつづけようとおもったら、
自分のとって無理なことはさけたほうがいいのだろう。
安定したくらしをすて、貧乏もあたりまえにうけいれ、
そのうえでずっと頭をさげたり、無理をしていたら、
なんのためにフリーでいるのかわからない。
わかいころだけでなく、人生のどの場面においても、
自分に誠実に生きようとしたときに、フリーという選択肢がある。
覚悟はしたほうがいいけど、わるいことばかりの生き方ではない。
この本は、そういう道をえらんだひとへのエールとなっている。
岸川さんは「WEB本の雑誌」に
「こんな僕がインタビュー術を語っていいんですかっ?」
という連載をつづけられている。
27回の連載でやっと「おわりの考察」まできたのに、
まだかきたりなくて、28回目として「おまけの筆まかせ」がのった。
自分が体験したこと、仕事でかかわったひとのはなしが
具体的にもりこまれており、
インタビューって、こんなにふかい世界だったのかと、
おどろいてしまうこまかさだ。
このひとは、ほんとうに本と映画がすきなのだということがつたわってくるし、
自分のかんがえを、正確につたえようとする岸川さんの姿勢にもひかれていたので、
この『フリーという生き方』をよんでみる気になった。
岸川さんは、いつか映画をとることを夢みながら、
いろんな企画をたてて本をつくる仕事をしている。
わかいころ、いちど就職したことがあるけど、
そこが1年半でつぶれてからはずっとフリーだ。
岸川さんは、この本は
「なにものにかなりたくて、
就職しないで生きていきたいな」
というひとのための本なのだという。
フリーになることを、かんたんにすすめているのではない。
フリーのきびしい生活を具体的にかたりながら、
それでもフリーであることの魅力がかたられている。
フリーの魅力とは、文字どおりフリーであることであり、
不安定や孤独ととなりあわせであるにしても、
とにかく自由でいることができる。
フリーにむいているひと、
フリーでなければ社会とおりあいがつけれないタイプのひとも、たしかにいる。
よくいわれるように、自由とは、貧乏になることをふくめた自由であり、
岸川さんは何ヶ月も家賃をはらえなかったり、
財布に1000円以下しかはいっていなかったりという、
フリーランスならではの体験をされている。
それでもフリーでありつづけているのは、
岸川さんがフリーという生き方にほこりをもっているからだ。
フリーのよさをいかして、自分ならではの生き方をしたいとおもい、
その手ごたえをえている。
いい本をつくり、いつかは映画もとろうという夢があり、
それをかなえるには岸川さんにとって
フリーであるほうがうごきやすい。
就職をしないで、アルバイトなどをしながらくいつなぐことはできる。
ある程度は定期的な収入のみこみがあり、計算がなりたつ。
しかし、岸川さんのようなフリーな生き方をえらんだひとは、
安定した生活からとおいところでくらしている。
企画がとおらなければ本をだせないし、
ちゃんと仕事をしたとしても、
なにかのひょうしにお金がはいらないこともある。
「わーっ!」とさけんでしまいくなるような状況でも、
とにかく知恵をしぼっていい企画をかんがえだすしかない。
よんでいるだけで、おしりがむずがゆく、ヒリヒリしてきた。
フリーのきびしい生活が、これだけありのままにかたられている本はよんだことがない。
フリーをめざすひとは、これぐらいの覚悟はしといたほうがいいのだろうし、
それでも自分のすきなことができる魅力にはかえがたいという
岸川さんのあつい生き方がつたわってくる。
岸川さんがしりあいからきいたフリーの秘訣は
「頭を下げない、無理をしない」なのだそうで、
これはくしくも「本の雑誌社」がかかげている
「頭をさげない、いばらない、無理をしない」と
よくにている。
自分がやりたいことを、いいかんじでつづけようとおもったら、
自分のとって無理なことはさけたほうがいいのだろう。
安定したくらしをすて、貧乏もあたりまえにうけいれ、
そのうえでずっと頭をさげたり、無理をしていたら、
なんのためにフリーでいるのかわからない。
わかいころだけでなく、人生のどの場面においても、
自分に誠実に生きようとしたときに、フリーという選択肢がある。
覚悟はしたほうがいいけど、わるいことばかりの生き方ではない。
この本は、そういう道をえらんだひとへのエールとなっている。
2014年03月19日
サンドウィッチマンの名セリフ「ダイエットちゅう失礼します」
とくにダイエットが目的というわけではなく、あるくのがすきなので、
仕事ちゅうに利用者と散歩できるとうれしい。
万歩計はつけていないけど、10分あるけばだいたい1000歩ぐらいだろう。
100分あるいたら一万歩なわけで、仕事で一万歩もあるけるなんてすごくありがたい。
きのういっしょにあるいたひとは、
かなりはやあるきだったし、のぼり・くだりがきゅうなコースだったこともあり、
けさはトレーニングのつかれをかんじて目がさめた。
一万歩どころか、トレーニングにもなるなんて、
ますますありがたい。
まえにみたサンドウィッチマンのコントで
あるいているひとにおまわりさんが「ダイエットちゅう失礼します」
というのがあり、すごくおかしかった。
いわれたほうは「ダイエットなんかしてねーよ!」とぶぜんとした表情になる。
なんでおかしいか、そのときはよくわからなかったけど、とにかくおかしい。
ひるでも夜でも、いかにもダイエットちゅう、
というかんじであるいているひとをよくみかける。
「たいへんですね」は余計なお世話だし、「ファイト!」だってへんだ。
「よい散歩を」もどこかはずしている。
もしかしたら、ダイエットちゅうのひとには
なにも声をかけてはいけないのかもしれない。
声をかけないほうがいいひとにむかって、
「ダイエットちゅう失礼します」はさすがに失礼で、
ふつうだったらなかなかいえない。
「失礼します」にしても、
「おいそがしいところ、失礼します」
「お仕事ちゅう、失礼します」
はごくふつうにくちにするのに、
なぜダイエットちゅうにいわれたら不愉快なのかを
発見したサンドウィッチマンはえらい。
健康づくりにあるいているひとにむかって
「ダイエットちゅうに失礼します」はぜんぜんこたえない。
ダイエットをしているひとが、
「それだけはいわれたくないセリフ」だからこそおかしいのだ。
「それだけはいわれたくないセリフ」のもつ威力を、
サンドウィッチマンのコントはおしえてくれた。
なぜ「それだけはいわれたくないセリフ」なのかは、
ほんとのところ、よくわからない。
こっちのかんがえすぎなのだろうか。
仕事ちゅうに利用者と散歩できるとうれしい。
万歩計はつけていないけど、10分あるけばだいたい1000歩ぐらいだろう。
100分あるいたら一万歩なわけで、仕事で一万歩もあるけるなんてすごくありがたい。
きのういっしょにあるいたひとは、
かなりはやあるきだったし、のぼり・くだりがきゅうなコースだったこともあり、
けさはトレーニングのつかれをかんじて目がさめた。
一万歩どころか、トレーニングにもなるなんて、
ますますありがたい。
まえにみたサンドウィッチマンのコントで
あるいているひとにおまわりさんが「ダイエットちゅう失礼します」
というのがあり、すごくおかしかった。
いわれたほうは「ダイエットなんかしてねーよ!」とぶぜんとした表情になる。
なんでおかしいか、そのときはよくわからなかったけど、とにかくおかしい。
ひるでも夜でも、いかにもダイエットちゅう、
というかんじであるいているひとをよくみかける。
「たいへんですね」は余計なお世話だし、「ファイト!」だってへんだ。
「よい散歩を」もどこかはずしている。
もしかしたら、ダイエットちゅうのひとには
なにも声をかけてはいけないのかもしれない。
声をかけないほうがいいひとにむかって、
「ダイエットちゅう失礼します」はさすがに失礼で、
ふつうだったらなかなかいえない。
「失礼します」にしても、
「おいそがしいところ、失礼します」
「お仕事ちゅう、失礼します」
はごくふつうにくちにするのに、
なぜダイエットちゅうにいわれたら不愉快なのかを
発見したサンドウィッチマンはえらい。
健康づくりにあるいているひとにむかって
「ダイエットちゅうに失礼します」はぜんぜんこたえない。
ダイエットをしているひとが、
「それだけはいわれたくないセリフ」だからこそおかしいのだ。
「それだけはいわれたくないセリフ」のもつ威力を、
サンドウィッチマンのコントはおしえてくれた。
なぜ「それだけはいわれたくないセリフ」なのかは、
ほんとのところ、よくわからない。
こっちのかんがえすぎなのだろうか。
2014年03月18日
『死んでいるかしら』(柴田元幸・新書館)なんでもないはなしがおかしい
『死んでいるかしら』(柴田元幸・新書館)
この本は、なにげないことばを柴田さんがじょうずにいじくりまわして
興味ぶかい話題にしたてている。
たとえば「クロコダイルの一日は」というはなしは
「クロコダイルの一日は日光浴からはじまる」ではじまる。
クロコダイルの一日は日光浴からはじまるのに、
アリゲーターについてはそういういいかたをしないそうで、
クロコダイルとアリゲーターは、おなじワニといえども
ひとからげにしてはいけないという説があるそうだ。
クロコダイルのなみだというと、
なみだで旅人をおびきよせ、たべてしまう「偽善の涙」であるのにたいし、
アリゲーターは「別れを告げるのにふさわしい動物」というイメージがあるという。
ここらへんになると柴田さんならではの英語の知識がたのしくて、
だれかにクロコダイルのことをかたりたくなってくる。
「クロコダイルの一日は、日光浴からはじまるんだよ」というふうに。
「取り越し苦労」というはなしをよんでいたら
元号がかわるときに、つぎの元号は自分のなまえになるのでは、
と柴田さんは心配していたという。
元気で幸せなんて、いかにも縁起がよさそうだし、
元幸(もとゆき)を「げんこう」とよむと、ありがたそうにきこえる。
さいわい柴田さんの心配はとりこし苦労におわり、
よくしられているように元号は「平成」へとかわった。
サッカーW杯の代表23人が発表されるとき、だれがえらばれるか、
サプライズがあるかどうかなど、おおくのひとの関心をあつめる。
常識的にかんがえれば自分に声がかかることなど
絶対にないとわかっていながらも、おおくのサッカー愛好家が
こころのかたすみで「もしかしたら」と
ありえない期待をもってしまうことがよくしられている。
これもまた「とりこし苦労」におわるわけだけど、
とりこし苦労は、おおかれすくなかれ代表メンバーの発表ににていて、
ありえない事態をさきばしりして心配しているにすぎない。
そんなことをいえば、心配とはそもそもなんなのかと
かんがえてしまった。
心配というのは、いつの場合でもなんのやくにもたたない。
心配してどうにかなるものなら、いくらでも心配したらいいけど、
それがおこるかどうかは、そのひとのちからでは
どうにもできないわけだから、心配してもしかたがない。
心配することなんかやめて、
なにかがおこってからその対応をかんがえればいい。
「心配していました」「心配です」は、
きわめて情緒的なメッセージであり、メッセージという機能しかもたない。
心配=とりこし苦労とかんがえてもいいのではないか。
幸福な食事の場面より、むしろわびしい食事のほうが
こころにのこる、というはなしでは、
レイモンド=カーヴァーの「学生の妻」という短編が例にあげられている。
「目をさました妻は、何かサンドイッチでも作ってよ、と夫に甘える」
そのサンドイッチは「バターとレタスと塩のサンドイッチ」であり、
素材にこだわったおいしいサンドイッチ、というわけではなく、
それくらいの材料しかかいおきのない、まずしいくらしであることを
カーヴァー流のテクニックでつたえているという。
村上春樹さんの訳だと
「ねえマイク、私に何かサンドイッチでも作ってくれない?
バターを塗ったパンに塩をふったレタスをはさんで」
となり、たしかにいくらきれいに訳しても、
あまりおいしそうなサンドイッチにはみえない。
そもそもアメリカ人におけるサンドイッチは、
とにかく空腹をみたせたらいいんだ、
という程度のあつかいがおおいようにおもう。
映画の『激突』では、田舎のドライブインで休憩したときに、
店の客のおおくがサンドイッチをほおばっていた。
食パンにレタスとハム、それにチーズと、
よくある材料にみえるのに、たべかたがいかにもやっつけ仕事で、
ガソリンがわりにとにかく腹にいれとこう、
というかんじでぜんぜんおいしそうではない。
わびしい食事のほうがこころにのこる、という意味において
たしかに印象的な場面だ。
「がんばれポルカ」は
映画『グッドモーニング・ベトナム』についてのはなしだ。
気にきかない上官がDJでポルカをかけたのにたいし、
ロビン=ウィリアムスがえんじる人気DJは
ロックをかけまくり、兵士たちにすごくよろこばれる場面がある。
「こういう独善に出会うと、私は断固、ポルカに味方したくなる。(中略)
自分の正しさを大声で言うのはみっともないことである。
ロックをそういう独善のなかに持ち込んでほしくない」(柴田)
わたしもまた、ポルカをかけた上官をバカにした側で、
そういわれたら、たしかにもうしわけないことをしたとおもう。
わたしこそがポルカをかけるであろう典型的なタイプなのに。
あの上官は、軍隊という組織のなかで
あたえられた役割をはたしていたにすぎない。
町でしりあったとしたら、ちょっとかわってるけど、
いっしょにあそべばいいやつなのだろう。
ポルカファンだって、さえない音楽ときめつけられて
さぞかなしいおもいをしたのではないか。
ロック的でない態度という柴田さんの指摘はするどい。
おもしろさでいうと、タイトルにもなっている
「死んでいるかしら」にいちばんわらった。
柴田さんは「自分はもう死んでいるのではないか」
とおもうことがよくあるそうだ。
まわりのひとは「もしもし、あなた死んでますよ」とおしえたいけれど、
どうきりだしていいのかわからなくてこまっている、というもの。
とくにふかい意味はないはずなのに、
「もしかしたらおれも」と身につまされるはなしになっている。
学生たちは
「柴田先生ねー、もう死んでるのに頑張ってるわよねー」
「うん、ほとんど感動的だよねー」
「だけどさー、ちょっとさー、見ててつらくない?」
なんておしゃべりをたのしんでる。
「死んでる?」でも「死んでるのでは?」でもなく
「死んでいるかしら」という第三者的な視点がリアルだ
この本は、なにげないことばを柴田さんがじょうずにいじくりまわして
興味ぶかい話題にしたてている。
たとえば「クロコダイルの一日は」というはなしは
「クロコダイルの一日は日光浴からはじまる」ではじまる。
クロコダイルの一日は日光浴からはじまるのに、
アリゲーターについてはそういういいかたをしないそうで、
クロコダイルとアリゲーターは、おなじワニといえども
ひとからげにしてはいけないという説があるそうだ。
クロコダイルのなみだというと、
なみだで旅人をおびきよせ、たべてしまう「偽善の涙」であるのにたいし、
アリゲーターは「別れを告げるのにふさわしい動物」というイメージがあるという。
ここらへんになると柴田さんならではの英語の知識がたのしくて、
だれかにクロコダイルのことをかたりたくなってくる。
「クロコダイルの一日は、日光浴からはじまるんだよ」というふうに。
「取り越し苦労」というはなしをよんでいたら
元号がかわるときに、つぎの元号は自分のなまえになるのでは、
と柴田さんは心配していたという。
元気で幸せなんて、いかにも縁起がよさそうだし、
元幸(もとゆき)を「げんこう」とよむと、ありがたそうにきこえる。
さいわい柴田さんの心配はとりこし苦労におわり、
よくしられているように元号は「平成」へとかわった。
サッカーW杯の代表23人が発表されるとき、だれがえらばれるか、
サプライズがあるかどうかなど、おおくのひとの関心をあつめる。
常識的にかんがえれば自分に声がかかることなど
絶対にないとわかっていながらも、おおくのサッカー愛好家が
こころのかたすみで「もしかしたら」と
ありえない期待をもってしまうことがよくしられている。
これもまた「とりこし苦労」におわるわけだけど、
とりこし苦労は、おおかれすくなかれ代表メンバーの発表ににていて、
ありえない事態をさきばしりして心配しているにすぎない。
そんなことをいえば、心配とはそもそもなんなのかと
かんがえてしまった。
心配というのは、いつの場合でもなんのやくにもたたない。
心配してどうにかなるものなら、いくらでも心配したらいいけど、
それがおこるかどうかは、そのひとのちからでは
どうにもできないわけだから、心配してもしかたがない。
心配することなんかやめて、
なにかがおこってからその対応をかんがえればいい。
「心配していました」「心配です」は、
きわめて情緒的なメッセージであり、メッセージという機能しかもたない。
心配=とりこし苦労とかんがえてもいいのではないか。
幸福な食事の場面より、むしろわびしい食事のほうが
こころにのこる、というはなしでは、
レイモンド=カーヴァーの「学生の妻」という短編が例にあげられている。
「目をさました妻は、何かサンドイッチでも作ってよ、と夫に甘える」
そのサンドイッチは「バターとレタスと塩のサンドイッチ」であり、
素材にこだわったおいしいサンドイッチ、というわけではなく、
それくらいの材料しかかいおきのない、まずしいくらしであることを
カーヴァー流のテクニックでつたえているという。
村上春樹さんの訳だと
「ねえマイク、私に何かサンドイッチでも作ってくれない?
バターを塗ったパンに塩をふったレタスをはさんで」
となり、たしかにいくらきれいに訳しても、
あまりおいしそうなサンドイッチにはみえない。
そもそもアメリカ人におけるサンドイッチは、
とにかく空腹をみたせたらいいんだ、
という程度のあつかいがおおいようにおもう。
映画の『激突』では、田舎のドライブインで休憩したときに、
店の客のおおくがサンドイッチをほおばっていた。
食パンにレタスとハム、それにチーズと、
よくある材料にみえるのに、たべかたがいかにもやっつけ仕事で、
ガソリンがわりにとにかく腹にいれとこう、
というかんじでぜんぜんおいしそうではない。
わびしい食事のほうがこころにのこる、という意味において
たしかに印象的な場面だ。
「がんばれポルカ」は
映画『グッドモーニング・ベトナム』についてのはなしだ。
気にきかない上官がDJでポルカをかけたのにたいし、
ロビン=ウィリアムスがえんじる人気DJは
ロックをかけまくり、兵士たちにすごくよろこばれる場面がある。
「こういう独善に出会うと、私は断固、ポルカに味方したくなる。(中略)
自分の正しさを大声で言うのはみっともないことである。
ロックをそういう独善のなかに持ち込んでほしくない」(柴田)
わたしもまた、ポルカをかけた上官をバカにした側で、
そういわれたら、たしかにもうしわけないことをしたとおもう。
わたしこそがポルカをかけるであろう典型的なタイプなのに。
あの上官は、軍隊という組織のなかで
あたえられた役割をはたしていたにすぎない。
町でしりあったとしたら、ちょっとかわってるけど、
いっしょにあそべばいいやつなのだろう。
ポルカファンだって、さえない音楽ときめつけられて
さぞかなしいおもいをしたのではないか。
ロック的でない態度という柴田さんの指摘はするどい。
おもしろさでいうと、タイトルにもなっている
「死んでいるかしら」にいちばんわらった。
柴田さんは「自分はもう死んでいるのではないか」
とおもうことがよくあるそうだ。
まわりのひとは「もしもし、あなた死んでますよ」とおしえたいけれど、
どうきりだしていいのかわからなくてこまっている、というもの。
とくにふかい意味はないはずなのに、
「もしかしたらおれも」と身につまされるはなしになっている。
学生たちは
「柴田先生ねー、もう死んでるのに頑張ってるわよねー」
「うん、ほとんど感動的だよねー」
「だけどさー、ちょっとさー、見ててつらくない?」
なんておしゃべりをたのしんでる。
「死んでる?」でも「死んでるのでは?」でもなく
「死んでいるかしら」という第三者的な視点がリアルだ
2014年03月17日
『異邦人』(カミュ・新潮文庫)『世界の終わりとハードボイルド・・・』をきっかけに
『異邦人』(カミュ・新潮文庫)
「きょう、ママンが死んだ。
もしかすると、昨日かも知れないが、
私にはわからない。
養老院から電報をもらった。
『ハハウエノシヲイタム、マイソウアス』
これでは何もわからない。
恐らく昨日だったのだろう」
簡潔で印象的なかきだし。
にたような文章にときどきであう。
まねがしたくなるうつくしいリズムだ。
わたしが『異邦人』をよんだのは、
村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』がきっかけだ。
イタリア料理のレストランで、
図書館につとめる女性と「私」は夕食をとる。
「よくわからない」という「私」のくちぐせをきっかけに、
『異邦人』が話題にのぼった。
「『僕のせいじゃない』というのは
『異邦人』の主人公の口ぐせだったわね、たしか。
あの人なんていう名前だったかしら、えーと」
「ムルソー」と私は言った。
「そう、ムルソー」と彼女は繰りかえした。
「高校時代に読んだわ。
でも今の高校生って『異邦人』なんてぜんぜん読まないのよ」
わたしは、この食事の場面がだいすきで、
こんなふうに気のきいたおしゃべりができたらと、ずっとあこがれてきた。
くちぐせから、むかしよんだ小説の主人公をおもいだすのは
いかにも自然でおしゃれな会話だし、
「私」の人生観はムルソーのそれと、よくにているようにおもえる。
『異邦人』は、ムルソーが海岸でピストルをうつまでの第1部と、
刑務所の独房ですごしながら、法廷での判決をまつ第2部にわかれている。
わたしがすきな場面は、事件をおこすまえのはなしがほとんどなので、
だんだんと第1部だけをくりかえしよむようになった。
ママンの葬式があった翌日、ムルソーは海へおよぎにいって、
いぜんおなじ事務所ではたらいていた女性、マリイにであう。
わたしはこのマリイがだいすきで、
『グレート・ブルー』のジョアンナをおもいうかべてよんでいる。
キュートということばがピッタリくる、情熱的なひと。
いつも気になるのは、なぜマリイのような
うつくしくてわかい女性がひとりで海にいたのか、ということだ。
ひとりで海にいくようなひとがわたしはすきだけど、
けして一般的ではないようにおもう。
『異邦人』について、いまさらわたしがもっともらしいことなど
かけるはずもないので、すきな場面をあげてみる。
仕事のあいまにムルソーは職場の上司によばれ、
パリに出張所をつくるので、
そこではたらく気はないか、とたずねられる。
「『君は若いし、こうした生活が気に入るはずだと思うが』
私は、結構ですが、実をいうとどちらでも私には同じことだ、と答えた。
すると主人は、生活の変化ということに興味がないのか、と尋ねた。
誰だって生活を変えるなんてことは決してありえないし、
どんな場合だって、生活というのは似たりよったりだし、
ここでの自分の生活は少しも不愉快なことはない、と私は答えた」
「夕方、私に会いにマリイが来ると、
自分と結婚したいかと尋ねた。
私は、それはどっちでもいいことだが、
マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。
すると、あなたは私を愛しているか、ときいて来た。
前に一ぺんいったとおり、それには何の意味もないが、
恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。
『じゃあ、なぜあたしと結婚するの?』というから、
そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むのなら、
一緒になっても構わないのだ、と説明した」
「あなたは変わっている、
きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、
いつかはまた、その同じ理由からあなたがきらいになるかも知れない、
と彼女はいった」
すきな場面がおおくて、かきうつしているときりがない。
ムルソーのかわいた精神がわたしをひきつける。
ムルソーは、アラピア人をピストルでうったことについて、
「太陽のせいだ」といったけど、
これは、なんでもいいからと
おもいつきで太陽を理由にあげたのではない。
ムルソーがいう「太陽」は、
かつてロンメル将軍をなやませた、
北アフリカの圧倒的な存在感のある「太陽」であり、
ただあつさで気がボーっとなったという意味ではない。
『異邦人』の世界には、つよすぎる太陽がつねに顔をだしている。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をきっかけに
『異邦人』にすすんだひとは、けっこうおおいのではないか。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
のころの高校生は『異邦人』をよまなかったそうだけど、
いまの高校生はどうなのだろう。
わかいころによんだら、そうとう影響をうけてしまいそうだ。
でもよんでほしい。
村上春樹の小説がすきなひとなら、きっと気にいってくれる。
「きょう、ママンが死んだ。
もしかすると、昨日かも知れないが、
私にはわからない。
養老院から電報をもらった。
『ハハウエノシヲイタム、マイソウアス』
これでは何もわからない。
恐らく昨日だったのだろう」
簡潔で印象的なかきだし。
にたような文章にときどきであう。
まねがしたくなるうつくしいリズムだ。
わたしが『異邦人』をよんだのは、
村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』がきっかけだ。
イタリア料理のレストランで、
図書館につとめる女性と「私」は夕食をとる。
「よくわからない」という「私」のくちぐせをきっかけに、
『異邦人』が話題にのぼった。
「『僕のせいじゃない』というのは
『異邦人』の主人公の口ぐせだったわね、たしか。
あの人なんていう名前だったかしら、えーと」
「ムルソー」と私は言った。
「そう、ムルソー」と彼女は繰りかえした。
「高校時代に読んだわ。
でも今の高校生って『異邦人』なんてぜんぜん読まないのよ」
わたしは、この食事の場面がだいすきで、
こんなふうに気のきいたおしゃべりができたらと、ずっとあこがれてきた。
くちぐせから、むかしよんだ小説の主人公をおもいだすのは
いかにも自然でおしゃれな会話だし、
「私」の人生観はムルソーのそれと、よくにているようにおもえる。
『異邦人』は、ムルソーが海岸でピストルをうつまでの第1部と、
刑務所の独房ですごしながら、法廷での判決をまつ第2部にわかれている。
わたしがすきな場面は、事件をおこすまえのはなしがほとんどなので、
だんだんと第1部だけをくりかえしよむようになった。
ママンの葬式があった翌日、ムルソーは海へおよぎにいって、
いぜんおなじ事務所ではたらいていた女性、マリイにであう。
わたしはこのマリイがだいすきで、
『グレート・ブルー』のジョアンナをおもいうかべてよんでいる。
キュートということばがピッタリくる、情熱的なひと。
いつも気になるのは、なぜマリイのような
うつくしくてわかい女性がひとりで海にいたのか、ということだ。
ひとりで海にいくようなひとがわたしはすきだけど、
けして一般的ではないようにおもう。
『異邦人』について、いまさらわたしがもっともらしいことなど
かけるはずもないので、すきな場面をあげてみる。
仕事のあいまにムルソーは職場の上司によばれ、
パリに出張所をつくるので、
そこではたらく気はないか、とたずねられる。
「『君は若いし、こうした生活が気に入るはずだと思うが』
私は、結構ですが、実をいうとどちらでも私には同じことだ、と答えた。
すると主人は、生活の変化ということに興味がないのか、と尋ねた。
誰だって生活を変えるなんてことは決してありえないし、
どんな場合だって、生活というのは似たりよったりだし、
ここでの自分の生活は少しも不愉快なことはない、と私は答えた」
「夕方、私に会いにマリイが来ると、
自分と結婚したいかと尋ねた。
私は、それはどっちでもいいことだが、
マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。
すると、あなたは私を愛しているか、ときいて来た。
前に一ぺんいったとおり、それには何の意味もないが、
恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。
『じゃあ、なぜあたしと結婚するの?』というから、
そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むのなら、
一緒になっても構わないのだ、と説明した」
「あなたは変わっている、
きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、
いつかはまた、その同じ理由からあなたがきらいになるかも知れない、
と彼女はいった」
すきな場面がおおくて、かきうつしているときりがない。
ムルソーのかわいた精神がわたしをひきつける。
ムルソーは、アラピア人をピストルでうったことについて、
「太陽のせいだ」といったけど、
これは、なんでもいいからと
おもいつきで太陽を理由にあげたのではない。
ムルソーがいう「太陽」は、
かつてロンメル将軍をなやませた、
北アフリカの圧倒的な存在感のある「太陽」であり、
ただあつさで気がボーっとなったという意味ではない。
『異邦人』の世界には、つよすぎる太陽がつねに顔をだしている。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をきっかけに
『異邦人』にすすんだひとは、けっこうおおいのではないか。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
のころの高校生は『異邦人』をよまなかったそうだけど、
いまの高校生はどうなのだろう。
わかいころによんだら、そうとう影響をうけてしまいそうだ。
でもよんでほしい。
村上春樹の小説がすきなひとなら、きっと気にいってくれる。
2014年03月16日
『ポルトガル、ここに誕生す』わたしにとっての有名で退屈な3大作品がそろう
県民会館で『ポルトガル、ここに誕生す』をみる。
まったくおもしろくない。
4人の監督によるオムニバス作品で、
つぎはもしかしたら、と
さいごまでつきあったけれど、
けっきょくずっと意味不明だった。
これは、作品にけちをつけているわけではなく、
わたしとあわなかったのだと、ほんとうにおもっている。
4人の監督とも「巨匠」なのだそうで、
彼らの表現をくみとるちからがわたしにはなかったのだろう。
かすかにひびいてきたのが、第3話の『割れたガラス』(エリセ監督)で、
これは2002年に閉鎖された紡績工場でたたらいていたひとたちへの
インタビューをあつめたものだ。
そのなかで、ひとりの女性がしあわせについてはなす。
「しあわせは・・・、わたしにはわかりません。
よろこびは、わかります。
でも、しあわせは・・・、よくわかりません」
しばらくしあわせについてかんがえたのちに、
この女性はおだやかな表情でこうくりかえす。
そうだなー。しあわせって、なんだろうなー。
よろこびと、どうちがうんだろう、と
わたしもしばらくいじくりまわしてみたけど、やっぱりわからない。
わからないことを、残念そうでも、ひらきなおりでもなく、
ただおだやかにはなせるこの女性がすてきだった。
すこしまえの朝日新聞に、伊藤理佐さんが
「三つそろって、ポンっ」という記事をのせていた。
自分だけのルールで3つなにかがそろうと
「おおーっ」となるのだそうだ。
たとえとして、
「主役じゃない人の名前がタイトルになっている映画や本ベスト3」
があげられている。
たしかに、きれいに3つそろったら、
なにがしかの反応をしめしたくなりそうだ。
『ポルトガル、ここに誕生す』により、
これまでにわたしがみた映画での、
有名で退屈な3大作品がそろった。
『ブンミおじさん』(ウィーラセータクン監督)
『永遠と一日』(アンゲロプロス監督)
そしてこの『ポルトガル、ここに誕生す』だ。
『ブンミおじさん』と『永遠と一日』は、
どちらもカンヌ映画祭でパルムドールを受賞している。
3作とも、評価のたかさとはうらはらに、
わたしにとっては、ただ、とにかく退屈だった。
トルストイ風にいえば、おもしろい作品には
さまざまなおもしろさがあるのにたいし、
退屈な作品はどれもにたような雰囲気をもっている。
『ポルトガル、ここに誕生す』では、
第1話の『バーテンダー』(カウリスマキ監督)で
ちゃんと退屈のきざしがあらわれており、
この雰囲気は、どこかで体験したものだ、といやな予感がする。
そして、第2話の『スウィート=エクソシスト』(コスタ監督)
で決定的になった。
こうなったら、どれだけ自分とあわないかをたしかめるため、
毒をくえば皿まで、みたいに覚悟をきめるしかない。
わたしには、この映画をまったく理解できないのに、
興味ぶかくみるひとが確実にいることを不思議におもう。
ひとによって、いろんなうけとめかたがあるものだ。
あわないものはしょうがないと、
映画についてはわりと謙虚にあきらめるのに、
本のことになるとつい攻撃的になってしまうのは
わたしの欠点なのかもしれない。
「三つそろってポンっ」の論理をしったのは、
『ポルトガル、ここに誕生す』をみたつぎの日のことだ。
というわけで、わたしはなんのよろこびもなく、
映画のおわる96分後を、ただまつしかなかった。
まったくおもしろくない。
4人の監督によるオムニバス作品で、
つぎはもしかしたら、と
さいごまでつきあったけれど、
けっきょくずっと意味不明だった。
これは、作品にけちをつけているわけではなく、
わたしとあわなかったのだと、ほんとうにおもっている。
4人の監督とも「巨匠」なのだそうで、
彼らの表現をくみとるちからがわたしにはなかったのだろう。
かすかにひびいてきたのが、第3話の『割れたガラス』(エリセ監督)で、
これは2002年に閉鎖された紡績工場でたたらいていたひとたちへの
インタビューをあつめたものだ。
そのなかで、ひとりの女性がしあわせについてはなす。
「しあわせは・・・、わたしにはわかりません。
よろこびは、わかります。
でも、しあわせは・・・、よくわかりません」
しばらくしあわせについてかんがえたのちに、
この女性はおだやかな表情でこうくりかえす。
そうだなー。しあわせって、なんだろうなー。
よろこびと、どうちがうんだろう、と
わたしもしばらくいじくりまわしてみたけど、やっぱりわからない。
わからないことを、残念そうでも、ひらきなおりでもなく、
ただおだやかにはなせるこの女性がすてきだった。
すこしまえの朝日新聞に、伊藤理佐さんが
「三つそろって、ポンっ」という記事をのせていた。
自分だけのルールで3つなにかがそろうと
「おおーっ」となるのだそうだ。
たとえとして、
「主役じゃない人の名前がタイトルになっている映画や本ベスト3」
があげられている。
たしかに、きれいに3つそろったら、
なにがしかの反応をしめしたくなりそうだ。
『ポルトガル、ここに誕生す』により、
これまでにわたしがみた映画での、
有名で退屈な3大作品がそろった。
『ブンミおじさん』(ウィーラセータクン監督)
『永遠と一日』(アンゲロプロス監督)
そしてこの『ポルトガル、ここに誕生す』だ。
『ブンミおじさん』と『永遠と一日』は、
どちらもカンヌ映画祭でパルムドールを受賞している。
3作とも、評価のたかさとはうらはらに、
わたしにとっては、ただ、とにかく退屈だった。
トルストイ風にいえば、おもしろい作品には
さまざまなおもしろさがあるのにたいし、
退屈な作品はどれもにたような雰囲気をもっている。
『ポルトガル、ここに誕生す』では、
第1話の『バーテンダー』(カウリスマキ監督)で
ちゃんと退屈のきざしがあらわれており、
この雰囲気は、どこかで体験したものだ、といやな予感がする。
そして、第2話の『スウィート=エクソシスト』(コスタ監督)
で決定的になった。
こうなったら、どれだけ自分とあわないかをたしかめるため、
毒をくえば皿まで、みたいに覚悟をきめるしかない。
わたしには、この映画をまったく理解できないのに、
興味ぶかくみるひとが確実にいることを不思議におもう。
ひとによって、いろんなうけとめかたがあるものだ。
あわないものはしょうがないと、
映画についてはわりと謙虚にあきらめるのに、
本のことになるとつい攻撃的になってしまうのは
わたしの欠点なのかもしれない。
「三つそろってポンっ」の論理をしったのは、
『ポルトガル、ここに誕生す』をみたつぎの日のことだ。
というわけで、わたしはなんのよろこびもなく、
映画のおわる96分後を、ただまつしかなかった。
2014年03月15日
「無人の町のじじい部隊」しずかに、いのちをかけてふるさとをまもるじじいたち
録画しておいた「無人の町のじじい部隊」をみる。
原発事故により、いまはだれもひとがすまなくなった
大熊町についての番組だ。
町のるすをまもるため、じじい部隊をたちあげた元役場の職員たち。
大熊町は福島第一原発がたっている町で、
原発事故がおきてからは町全体が警戒地区となり、
大熊町にすんでいたひとたち全員が、会津若松市に避難している。
役場もそこに仮役場をひらいて住民へのサービスをおこなっている。
「じじい部隊」とは、役場を退職した男性6人が、
だれもすむひとのいなくなった大熊町のるすをまもるために、
自主的にたちあげたグループだ。
放射線量がたかいため、将来のあるわかものにはたのめないと、
平均年齢60歳の「じじい」だけで部隊をささえている。
町の半分の面積が、帰還困難地区としてたちいりを制限されており、
じじい部隊はゲートをくぐって、無人の町のみまわりをする。
だれもちかよりたがらない町に、
あえて危険をおかしてまではいるのは、
自分たちの町をまもろうという愛にほかならない。
あれはてた町にはだれももどりたくないだろうからと、
道にたおれている枝をとりのぞいたり、
たてものが山にのみこまれてしまわないように草をかる。
子どもをそだてているわかい世代が
町にもうもどらないというのはしかたがない、
でも、もどりたいひともいるからと、ほそぼそとるすをままる。
20〜30年かかっても、すこしずつ町を復活させていこうと、
じじい部隊はねばりづよく国や東京電力にかけあっていく。
たしかに、だれもひとがよりつかなければ、
町はしだいにひとびとの記憶からきえてしまうだろう。
じじい部隊のうごきは、町をわすれさせないためにも大切な意味をもつ。
客観的にみれば、除染をしても、
もどれるまで何年かかるかわからないような町にしがみつくよりは、
もっと安全なところにひっこしたら、とおもってしまう。
でも、大熊町でうまれそだったひとの気もちはそうならない。
先祖からうけついだこの土地をまもり、あとの世代へひきつぐのが
自分たちの責任だという気もちをメンバー全員がもっている。
帰還困難地区は、許可がなければ
月にいちどしかもどれないほど放射線量がたかい。
放射線測定器がすぐに警戒音をだすような場所に、
たとえ防護服をきているとはいえ毎日おとずれて
かわったことはないかとパトロールするじじい部隊。
このひとたちは、なにもえらそうなことはいわないけれど、
いのちをかけてふるさとをまもろうとしている。
じじい部隊のリーダーの鈴木さんは、
いつもおちついて仕事をすすめているようにみえる。
放射線量が国の基準の70倍をこえ、子どもをつれてかえれない、と
子そだて世代の住民がはなしても、
「除染をすればさがりますよ」とけっして絶望せずに、
自分たちにできることを着実にすすめていく。
鈴木さんたちの計画は、まず線量のすくない地区の除染にとりかかり、
そこを突破口にして、だんだんとひとがすめる部分を
ふやしていこうというものだ。
帰還困難地区の除染は国がおもい腰をあげないため、
まず墓地の除染にとりかかるという作戦をたてる。
墓まいりをきっかけに、町への関心をつなぎとめられるかもしれない。
なんねんかかっても、町にもういちどにぎわいをとりもどしたいというのが
メンバーのねがいだ。
そんな鈴木さんたちの気もちをふみにじるように、
国は大熊町の国有化計画をうちあげる。
これにあわせて中間貯蔵施設も大熊町にたてようとしている。
町には事前になんの相談もなかった。
新聞でこのうごきをしった鈴木さんは、
さすがに「まったくひとをバカにして」と
いかりをおさえられない。
なにもしないでおいたら、なしくずし的に
町は「ないもの」としてあつかわれてゆくだろう。
自分たちの町をよみがえらせようと、
いのちをおしまず、淡々とパトロールをつづけるじじい部隊。
じじい部隊の活動がなかったら、
大熊町はかんたんに地図からけされていたのではないか。
じじいになっても、こんなに英雄的な生き方ができるのだ。
大熊町がふたたびにぎわいをとりもどし、
じじい部隊のメンバーが、かつて夢みていた
平和な隠居生活をおくれることをねがっている。
原発事故により、いまはだれもひとがすまなくなった
大熊町についての番組だ。
町のるすをまもるため、じじい部隊をたちあげた元役場の職員たち。
大熊町は福島第一原発がたっている町で、
原発事故がおきてからは町全体が警戒地区となり、
大熊町にすんでいたひとたち全員が、会津若松市に避難している。
役場もそこに仮役場をひらいて住民へのサービスをおこなっている。
「じじい部隊」とは、役場を退職した男性6人が、
だれもすむひとのいなくなった大熊町のるすをまもるために、
自主的にたちあげたグループだ。
放射線量がたかいため、将来のあるわかものにはたのめないと、
平均年齢60歳の「じじい」だけで部隊をささえている。
町の半分の面積が、帰還困難地区としてたちいりを制限されており、
じじい部隊はゲートをくぐって、無人の町のみまわりをする。
だれもちかよりたがらない町に、
あえて危険をおかしてまではいるのは、
自分たちの町をまもろうという愛にほかならない。
あれはてた町にはだれももどりたくないだろうからと、
道にたおれている枝をとりのぞいたり、
たてものが山にのみこまれてしまわないように草をかる。
子どもをそだてているわかい世代が
町にもうもどらないというのはしかたがない、
でも、もどりたいひともいるからと、ほそぼそとるすをままる。
20〜30年かかっても、すこしずつ町を復活させていこうと、
じじい部隊はねばりづよく国や東京電力にかけあっていく。
たしかに、だれもひとがよりつかなければ、
町はしだいにひとびとの記憶からきえてしまうだろう。
じじい部隊のうごきは、町をわすれさせないためにも大切な意味をもつ。
客観的にみれば、除染をしても、
もどれるまで何年かかるかわからないような町にしがみつくよりは、
もっと安全なところにひっこしたら、とおもってしまう。
でも、大熊町でうまれそだったひとの気もちはそうならない。
先祖からうけついだこの土地をまもり、あとの世代へひきつぐのが
自分たちの責任だという気もちをメンバー全員がもっている。
帰還困難地区は、許可がなければ
月にいちどしかもどれないほど放射線量がたかい。
放射線測定器がすぐに警戒音をだすような場所に、
たとえ防護服をきているとはいえ毎日おとずれて
かわったことはないかとパトロールするじじい部隊。
このひとたちは、なにもえらそうなことはいわないけれど、
いのちをかけてふるさとをまもろうとしている。
じじい部隊のリーダーの鈴木さんは、
いつもおちついて仕事をすすめているようにみえる。
放射線量が国の基準の70倍をこえ、子どもをつれてかえれない、と
子そだて世代の住民がはなしても、
「除染をすればさがりますよ」とけっして絶望せずに、
自分たちにできることを着実にすすめていく。
鈴木さんたちの計画は、まず線量のすくない地区の除染にとりかかり、
そこを突破口にして、だんだんとひとがすめる部分を
ふやしていこうというものだ。
帰還困難地区の除染は国がおもい腰をあげないため、
まず墓地の除染にとりかかるという作戦をたてる。
墓まいりをきっかけに、町への関心をつなぎとめられるかもしれない。
なんねんかかっても、町にもういちどにぎわいをとりもどしたいというのが
メンバーのねがいだ。
そんな鈴木さんたちの気もちをふみにじるように、
国は大熊町の国有化計画をうちあげる。
これにあわせて中間貯蔵施設も大熊町にたてようとしている。
町には事前になんの相談もなかった。
新聞でこのうごきをしった鈴木さんは、
さすがに「まったくひとをバカにして」と
いかりをおさえられない。
なにもしないでおいたら、なしくずし的に
町は「ないもの」としてあつかわれてゆくだろう。
自分たちの町をよみがえらせようと、
いのちをおしまず、淡々とパトロールをつづけるじじい部隊。
じじい部隊の活動がなかったら、
大熊町はかんたんに地図からけされていたのではないか。
じじいになっても、こんなに英雄的な生き方ができるのだ。
大熊町がふたたびにぎわいをとりもどし、
じじい部隊のメンバーが、かつて夢みていた
平和な隠居生活をおくれることをねがっている。
2014年03月14日
「やさしい日本語」は、外国人だけでなく、だれにとってもやさしい
災害がおきたときに、外国人へ情報を正確につたえるしくみづくりについて、
島根県のとりくみが紹介されていた(13日の朝日新聞島根版)。
・いろいろな外国語に対応できるようにする
・やさしい日本語にいいかえる
というふたつの方向にわけることができる。
「いろんな外国語に対応」というのは、
「災害時外国人サポーター」という制度をつくり、
外国語のできるひとに登録してもらったり、
サポーターを養成する講座をひらいたりすることだ。
しまね国際センターでは、現在44名のサポーターが登録されており、
13言語に対応できるという。
また、避難所で安心してすごせるために、
たきだしや配給についての説明を
いくつものことばでかいたシートも完成させている。
「やさしい日本語へのいいかえ」とは、
外国人に災害の情報をつたえる方法として、
わかりやすい表現にいいかえるというものだ。
例として
「大津波警報 直ちに高台へ避難してください」は
「大きい津波(とてもたかい波)がきます。
いますぐたかいところへにげてください」へ、
「川の水位が警戒水位を超えました」は
「川で水がたくさんながれています。
水の量がおおいです。あぶないです」
といういいかえが紹介されている。
阪神大震災のとき、英語での災害情報が理解できない外国人が
すくなくなかったことから、
弘前大学の社会言語学研究室がかんがえた方法だという。
日本で外国語というと、まず英語をおもいうかべてしまうけれど、
日本でくらす外国人のうち、英語がわかるひとはそうおおくないそうだ。
日本語と英語で情報をながしても、
必要な援助をうけられないひとがでてくる。
かといって、日本にすむすべての外国人がはなす言語を
カバーするわけにはいかない。
そこででてきたのが、外国人にもわかりやすい日本語でつたえる、
というかんがえ方だ。
テレビのニュースではなしているような、かたぐるしい日本語ではなく、
やさしいことばをえらべば、あんがいおおくの外国人が
日本語を理解できる。
緊急のニュースや警報は、おおくのひとにわかってもらえなかったら意味がない。
やさしい日本語は、とてもいいこころみだとおもうけれど、
あたりまえすぎて、そんなことさえいままでしてなかっのかと、
かえっておどろいてしまった。
また、外国人のなかには、ひらがなとカタカナだけでかかれた日本語ならよめる、
というひともおおい。
ただ、そのときにはことばえらびが必要で、
漢字をただひらがなになおすだけでは
わかりやすい文章にはならない。
そうしたやさしい日本語は、漢字をまだつかいこなせない
小学生にもよみやすいし、きいたときにもわかる。
震災のときだけにかぎらず、行政サービスや病院など、いろいろな場面で
やさしい日本語をつかえばいいとおもう。
はじめは違和感があるかもしれないが、
つかっているうちになれて、だんだんとひろがっていくだろう。
コミュニケーションは、相手につたわらなくてははじまらない。
震災のときなどは、いのちにかかわることだから、
なおさらつたえるための工夫がもとめられる。
やさしい日本語は、外国人にだけでなく、
だれにとってもやさしい道具となる。
島根県のとりくみが紹介されていた(13日の朝日新聞島根版)。
・いろいろな外国語に対応できるようにする
・やさしい日本語にいいかえる
というふたつの方向にわけることができる。
「いろんな外国語に対応」というのは、
「災害時外国人サポーター」という制度をつくり、
外国語のできるひとに登録してもらったり、
サポーターを養成する講座をひらいたりすることだ。
しまね国際センターでは、現在44名のサポーターが登録されており、
13言語に対応できるという。
また、避難所で安心してすごせるために、
たきだしや配給についての説明を
いくつものことばでかいたシートも完成させている。
「やさしい日本語へのいいかえ」とは、
外国人に災害の情報をつたえる方法として、
わかりやすい表現にいいかえるというものだ。
例として
「大津波警報 直ちに高台へ避難してください」は
「大きい津波(とてもたかい波)がきます。
いますぐたかいところへにげてください」へ、
「川の水位が警戒水位を超えました」は
「川で水がたくさんながれています。
水の量がおおいです。あぶないです」
といういいかえが紹介されている。
阪神大震災のとき、英語での災害情報が理解できない外国人が
すくなくなかったことから、
弘前大学の社会言語学研究室がかんがえた方法だという。
日本で外国語というと、まず英語をおもいうかべてしまうけれど、
日本でくらす外国人のうち、英語がわかるひとはそうおおくないそうだ。
日本語と英語で情報をながしても、
必要な援助をうけられないひとがでてくる。
かといって、日本にすむすべての外国人がはなす言語を
カバーするわけにはいかない。
そこででてきたのが、外国人にもわかりやすい日本語でつたえる、
というかんがえ方だ。
テレビのニュースではなしているような、かたぐるしい日本語ではなく、
やさしいことばをえらべば、あんがいおおくの外国人が
日本語を理解できる。
緊急のニュースや警報は、おおくのひとにわかってもらえなかったら意味がない。
やさしい日本語は、とてもいいこころみだとおもうけれど、
あたりまえすぎて、そんなことさえいままでしてなかっのかと、
かえっておどろいてしまった。
また、外国人のなかには、ひらがなとカタカナだけでかかれた日本語ならよめる、
というひともおおい。
ただ、そのときにはことばえらびが必要で、
漢字をただひらがなになおすだけでは
わかりやすい文章にはならない。
そうしたやさしい日本語は、漢字をまだつかいこなせない
小学生にもよみやすいし、きいたときにもわかる。
震災のときだけにかぎらず、行政サービスや病院など、いろいろな場面で
やさしい日本語をつかえばいいとおもう。
はじめは違和感があるかもしれないが、
つかっているうちになれて、だんだんとひろがっていくだろう。
コミュニケーションは、相手につたわらなくてははじまらない。
震災のときなどは、いのちにかかわることだから、
なおさらつたえるための工夫がもとめられる。
やさしい日本語は、外国人にだけでなく、
だれにとってもやさしい道具となる。
2014年03月13日
『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美)ありがたい文学賞ガイドブック
『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美/パルコ出版)
一般にしられている文学賞は芥川賞と直木賞ぐらいだけど、
それ以外にもさまざまなジャンルに500以上の文学賞があるという。
この本は
・無数にある文学賞を明快かつわかりやすく分類整理する
・文学賞ブックガイドとしての役割をもたせる
ことを目的にした、「小説好きによる小説好きのための小説賞ガイド」だ。
大森望さんと豊崎由美さんの対談というかたちですすめられている。
対象は、小説にあたえられる賞にかぎられており、
詩・俳句・短歌などはあつかわれていない。
「『直木賞をとりました』と親戚のおばさんに報告したら、
『おめでとう、次は芥川賞ね』と言われた」
という、よくありそうなはなしに象徴されるように、
文学賞のなかでいちばん有名なのが芥川賞で、
そのつぎが直木賞というのがふつうの人の認識だろう。
それでは、純文学の新人賞は芥川賞が最高峰なのか。
そこらへんのことを、出版業界にながくたずさわる2人が
ばっさりきりすてるのが、この本のおもしろさだ。
「とにかく今、芥川賞を左右しているのは宮本輝なんですよ。
とりあえず、テルちゃんに読ませなきゃいけないわけ。
テルちゃんでもわかる日本語、テルちゃんでもわかる物語、
それが芥川賞への近道」(豊崎)
「村上春樹が受賞してないってのはほんとに、
芥川賞史に残る大汚点ですよ」(豊崎)
「そういう人を救済するのが目的で出来たのが三島賞なのだけど、
さすがに村上春樹にあげるにはタイミングが遅すぎた」(大森)
文学賞というと、いかめしくてむつかしいものを連想するけど、
そのなりたちや、選考の過程をしらされると、
人間味があるというか、ありすぎるというか。
けして純粋にその分野の最高作品が
えらばれているわけではないことがわかる。
各章のおわりには、まとめにあたる「文学賞の心得」という欄がある。
・直木賞は、賞を与えるタイミングを間違えている。
・文学賞は、作家のためにある(読者のためにあるのではない)。
など、ひとことでその賞の特徴がわかるようになっている。
皮肉っているようにおもえる心得は、
それほどその賞が矛盾をかかえているのだろう。
受賞作品をえらぶのは選考委員であり(編集者がえらぶ賞もある)、
だれを選考委員にもってくるかによって
どんな作品が受賞するかという傾向がきまってくる。
選考委員のこのみにあわせて作品をしあげてくるという戦略も
とうぜんありえる。
第4章は「選考委員と選評を斬る!」となっていて、
それぞれの賞を特徴づける(問題な)選考委員がとりあげられている。
作品のよさを正確によみとれない選考委員もおおく、
おやくそくでトンチンカンなことをいうので、
かえっていい味をだしている例もある。
豊崎「シンちゃん(石原慎太郎)の特徴は、
必ず時代の閉塞とか日本社会の衰退とかを、
文学と重ねるとこです。
エラソーな、ごダイソーなことを言って
候補作を否定していく御仁です。
豊崎「(渡辺淳一はながい作品がきらいで)
”小説の基本は、削ることにあるという、
古くて新しい真実を忘れるべきではない”だの
えらそうなこと選評で書いてるんですよ。
じゃあ、自分の『失楽園』はどーだっつーの、
あんなもんこそ削りに削って一巻本にせえっつーの!」
ほかにも、「タイトルに噛み付く宮本輝」とか
「直木賞=大乗仏教説を唱える五木寛之」とか、
いかにも、というかんじだ。
日本の文学賞は、いちどかぎりの受賞ということになっているけれど、
「他の分野では、主演女優賞もレコード大賞もMVPも、
何度でもとれるのが当たり前。
文学賞でも、海外の大きな賞は、
ブッカー賞や全米図書賞のように重複受賞を認めている」
そういわれたらそうで、
とくに芥川賞と直木賞は、選考委員がかわらないのが
いろんな弊害をまねいているみたいだ。
ケータイよりも文学のほうが、
ずっとガラパゴス化してたりして。
この本は2004年に出版されている。
その後10年たってどうかわったかという最新の文学賞情報を、
このおふたりの解説でぜひよんでみたい。
一般にしられている文学賞は芥川賞と直木賞ぐらいだけど、
それ以外にもさまざまなジャンルに500以上の文学賞があるという。
この本は
・無数にある文学賞を明快かつわかりやすく分類整理する
・文学賞ブックガイドとしての役割をもたせる
ことを目的にした、「小説好きによる小説好きのための小説賞ガイド」だ。
大森望さんと豊崎由美さんの対談というかたちですすめられている。
対象は、小説にあたえられる賞にかぎられており、
詩・俳句・短歌などはあつかわれていない。
「『直木賞をとりました』と親戚のおばさんに報告したら、
『おめでとう、次は芥川賞ね』と言われた」
という、よくありそうなはなしに象徴されるように、
文学賞のなかでいちばん有名なのが芥川賞で、
そのつぎが直木賞というのがふつうの人の認識だろう。
それでは、純文学の新人賞は芥川賞が最高峰なのか。
そこらへんのことを、出版業界にながくたずさわる2人が
ばっさりきりすてるのが、この本のおもしろさだ。
「とにかく今、芥川賞を左右しているのは宮本輝なんですよ。
とりあえず、テルちゃんに読ませなきゃいけないわけ。
テルちゃんでもわかる日本語、テルちゃんでもわかる物語、
それが芥川賞への近道」(豊崎)
「村上春樹が受賞してないってのはほんとに、
芥川賞史に残る大汚点ですよ」(豊崎)
「そういう人を救済するのが目的で出来たのが三島賞なのだけど、
さすがに村上春樹にあげるにはタイミングが遅すぎた」(大森)
文学賞というと、いかめしくてむつかしいものを連想するけど、
そのなりたちや、選考の過程をしらされると、
人間味があるというか、ありすぎるというか。
けして純粋にその分野の最高作品が
えらばれているわけではないことがわかる。
各章のおわりには、まとめにあたる「文学賞の心得」という欄がある。
・直木賞は、賞を与えるタイミングを間違えている。
・文学賞は、作家のためにある(読者のためにあるのではない)。
など、ひとことでその賞の特徴がわかるようになっている。
皮肉っているようにおもえる心得は、
それほどその賞が矛盾をかかえているのだろう。
受賞作品をえらぶのは選考委員であり(編集者がえらぶ賞もある)、
だれを選考委員にもってくるかによって
どんな作品が受賞するかという傾向がきまってくる。
選考委員のこのみにあわせて作品をしあげてくるという戦略も
とうぜんありえる。
第4章は「選考委員と選評を斬る!」となっていて、
それぞれの賞を特徴づける(問題な)選考委員がとりあげられている。
作品のよさを正確によみとれない選考委員もおおく、
おやくそくでトンチンカンなことをいうので、
かえっていい味をだしている例もある。
豊崎「シンちゃん(石原慎太郎)の特徴は、
必ず時代の閉塞とか日本社会の衰退とかを、
文学と重ねるとこです。
エラソーな、ごダイソーなことを言って
候補作を否定していく御仁です。
豊崎「(渡辺淳一はながい作品がきらいで)
”小説の基本は、削ることにあるという、
古くて新しい真実を忘れるべきではない”だの
えらそうなこと選評で書いてるんですよ。
じゃあ、自分の『失楽園』はどーだっつーの、
あんなもんこそ削りに削って一巻本にせえっつーの!」
ほかにも、「タイトルに噛み付く宮本輝」とか
「直木賞=大乗仏教説を唱える五木寛之」とか、
いかにも、というかんじだ。
日本の文学賞は、いちどかぎりの受賞ということになっているけれど、
「他の分野では、主演女優賞もレコード大賞もMVPも、
何度でもとれるのが当たり前。
文学賞でも、海外の大きな賞は、
ブッカー賞や全米図書賞のように重複受賞を認めている」
そういわれたらそうで、
とくに芥川賞と直木賞は、選考委員がかわらないのが
いろんな弊害をまねいているみたいだ。
ケータイよりも文学のほうが、
ずっとガラパゴス化してたりして。
この本は2004年に出版されている。
その後10年たってどうかわったかという最新の文学賞情報を、
このおふたりの解説でぜひよんでみたい。
2014年03月12日
Jリーグでの残念な人種差別
8日のサガン鳥栖戦で、浦和レッズのサポーターが
「JAPANESE ONLY」という横断幕をかかげるという残念な事件があった。
これまでも浦和のサポーターはなんどもトラブルをおこしており、
Jリーグは浦和にたいし、かち点の剥奪か
無観客試合というペナルティを検討しているという。
今回の事件は、人種差別にたいするJリーグの対応という点で注目される。
差別は、やってるほうはかるい気もちかもしれないが、
されている側にとればたまったものではない。
日本人は、日本にいるときに人種差別されることはまずないけれど、
外国へ旅行にいくと、差別される側になる。
わたしはフランスで「シノワ(中国人!)」とよばれ、
小学生くらいの子どもにバカにされたことがあるし、
モロッコはもっとひどくて、わかものとすれちがうと
かならず「シヌイ(中国人!)」といわれる。
中国人といわれてもいいようなものだけど、
ただ「あなたは中国人ですか?」とたずねているのではなく、
「アホな中国人野郎!」といういい方なので不愉快になる。
旅行記をよむと、中米でも「中国人!」とばかにされるようだ。
アジア系の人種は差別してもいいという、
暗黙の共通認識があるのだろう。
当然のことながら、ばかにされると不愉快だしあたまにくる。
ことばだけでもいやなのに、
暴力をふるわれたり、精神的な迫害をうけたら
どれだけおそろしいことか。
差別をうけたことのないひとは、
そのむなしさやこわさを想像できない。
わかいころによんだ本多勝一さんの本で、
わたしは「殺される側」「殺す側」という立場をしることができた。
戦争でも差別でも、加害者には被害者の気もちがわからない。
「そんなにひどいことはしていませんよ」
なんて、加害者はいえないのだ。
過去の加害した事実を、なかったことにしたいひとたちや、
ヘイトスピーチをするひとたちの存在は、
人種差別に寛容な雰囲気をつくりだしている。
浦和のサポーターは、そんな空気におされて
あのような横断幕をかかげたのだ。
本人は人種差別の意図はなかったといっているそうだ。
しかし、いたみをかんじる側の選手・監督にしたら、
さぞはらだたしい横断幕だったろう。
大震災のときには(いまだって)、
どれだけたくさんの外国のひとたちにたすけてもらったことか。
そして、絆・友愛など、うつくしいことばをわたしはさんざんきいてきた。
災害にあわれた方へ、サッカーをつうじて
夢やよろこびをとどけたいという気もちはとおといし、
支援にたずさわった方への感謝の気もちをうたがうものではないが、
今回のような人種差別をほおっていたのでは、
くちさきだけのパフォーマンスにみえてしまう。
Jリーグが検討している厳重な処罰をわたしは当然だとおもう。
人種差別をはっきりと否定する、きぜんとした態度をうちだしてほしい。
日本のサッカースタジアムで人種差別だなんて、
あってはならない残念な事件だった。
「JAPANESE ONLY」という横断幕をかかげるという残念な事件があった。
これまでも浦和のサポーターはなんどもトラブルをおこしており、
Jリーグは浦和にたいし、かち点の剥奪か
無観客試合というペナルティを検討しているという。
今回の事件は、人種差別にたいするJリーグの対応という点で注目される。
差別は、やってるほうはかるい気もちかもしれないが、
されている側にとればたまったものではない。
日本人は、日本にいるときに人種差別されることはまずないけれど、
外国へ旅行にいくと、差別される側になる。
わたしはフランスで「シノワ(中国人!)」とよばれ、
小学生くらいの子どもにバカにされたことがあるし、
モロッコはもっとひどくて、わかものとすれちがうと
かならず「シヌイ(中国人!)」といわれる。
中国人といわれてもいいようなものだけど、
ただ「あなたは中国人ですか?」とたずねているのではなく、
「アホな中国人野郎!」といういい方なので不愉快になる。
旅行記をよむと、中米でも「中国人!」とばかにされるようだ。
アジア系の人種は差別してもいいという、
暗黙の共通認識があるのだろう。
当然のことながら、ばかにされると不愉快だしあたまにくる。
ことばだけでもいやなのに、
暴力をふるわれたり、精神的な迫害をうけたら
どれだけおそろしいことか。
差別をうけたことのないひとは、
そのむなしさやこわさを想像できない。
わかいころによんだ本多勝一さんの本で、
わたしは「殺される側」「殺す側」という立場をしることができた。
戦争でも差別でも、加害者には被害者の気もちがわからない。
「そんなにひどいことはしていませんよ」
なんて、加害者はいえないのだ。
過去の加害した事実を、なかったことにしたいひとたちや、
ヘイトスピーチをするひとたちの存在は、
人種差別に寛容な雰囲気をつくりだしている。
浦和のサポーターは、そんな空気におされて
あのような横断幕をかかげたのだ。
本人は人種差別の意図はなかったといっているそうだ。
しかし、いたみをかんじる側の選手・監督にしたら、
さぞはらだたしい横断幕だったろう。
大震災のときには(いまだって)、
どれだけたくさんの外国のひとたちにたすけてもらったことか。
そして、絆・友愛など、うつくしいことばをわたしはさんざんきいてきた。
災害にあわれた方へ、サッカーをつうじて
夢やよろこびをとどけたいという気もちはとおといし、
支援にたずさわった方への感謝の気もちをうたがうものではないが、
今回のような人種差別をほおっていたのでは、
くちさきだけのパフォーマンスにみえてしまう。
Jリーグが検討している厳重な処罰をわたしは当然だとおもう。
人種差別をはっきりと否定する、きぜんとした態度をうちだしてほしい。
日本のサッカースタジアムで人種差別だなんて、
あってはならない残念な事件だった。