2014年04月02日

「目からウロコ」はほんとうか

「目からウロコ」という表現をよくみかける。
これまでおもいこんでいたことがじつはまちがっており、
あることをきっかけによくわかるようになった、という意味だろう。
これまでとまったくちがうあたらしい世界がひらかれた、
みたいなときもつかってある。
「目からウロコが何枚も」
「目からウロコがボロボロと」
など、さらにおおげさにいいあらわしてあることもおおい。
なんとなくわかった気になるこの表現は、はたしてただしいのか。

言語学者の田中克彦さんが、著書『ことばの自由をもとめて』のなかで、
この「目からウロコ」を徹底的に批判されているのをよんだことがある。
わたしは田中さんのはげしい攻撃に、
もうこれで「目からウロコ」はまちがっていると
決着がついた問題だとおもいこんでいた。
それなのに、「目からウロコ」はあいかわらずあまりにもよくみかける。
みんな「目からウロコ」はまちがっているとしらないのだろうか。
わたしは いつまでもこの表現がつかわれつづけることを
不思議におもっていたけれど、
かんがえてみれば、言語学者が批判したからといって、
うのみにしたり、権威をかさにきて否定するなんて なさけない態度だ。
自分のいいとおもう表現をつかいつづけるひとのほうが、
よほど自由で勇気があるといえる。
みんな「目からウロコ」がだいすきなのだろう。

わたしは、気のきかない、そしてまちがった表現として
「目からウロコ」をずっととおざけてきた。
あらためて『ことばの自由をもとめて』をひらいてみると、
田中克彦さんの主張はそう断定的なものではなく、
「目からウロコ」がどう世の中に定着していったのか、
そして、その変化がなにによるものなのかを
おもしろがっておられるみたいだ。
そうつよいいい方で批判されているわけではなかった。

「私の好みから言うと、こんなことばは絶対につかいたくない。
だいたい、ウロコは魚とかヘビにあるかもしれないが、
人間に、ましてや、目などにあってたまるもんか」

というところがつよく印象にのこったようで、
だからといって このことばをつかうのが
まちがっているとはかいてない。

もともと「目からウロコ」は聖書にあることばなのだそうだ。

「何かウロコのようなものが目から剥がれ落ちて、
突然目が見えるようになったというので、
たぶん眼病のかさぶたみたいなものじゃないですか」

と同僚の先生(英文学)が田中さんにおしえてくれたという。
田中さんは外国語の辞典をしらべてみる。

「英、独、仏、いずれも、
ウロコは複数になっているが、ロシア語では単数で出てくる。
そしてこの単数の語の本来の意味は『薄皮、膜』というような意味だから、
『一枚の薄皮』がパラっと剥げたという感じなのに
英、独、仏のほうは、何片ものウロコがぱらぱら、ぽろぽろと
剥げ落ちてくるという、ちょっとかゆくなるような情景である」

こうなると、わたしがおおげさだとおもっていた
「目からウロコが何枚も」
「目からウロコがボロボロと」
はかえって正確に全体像をあわらしていることになる。

すこしまえのブログに、「ペロリとたいらげる」「口にチャック」などの身体表現について、
椎名誠さんが「見たことがない」と批判的にかいているのを紹介した。
こうした感覚からいえば、「目からウロコ」もそうとう奇妙でありえない表現だ。
しかし、あまりにもよく「目からウロコ」をみかけるので、
とうぶんこの表現はなくならないだろうとわたしはおもう。
「目からウロコ」をつかわないひとのほうがめずらしいのではないか。
この手の表現をするのはいまや「目からウロコ」の独壇場であり、
あとはウロコの枚数をたくさんにするぐらいしか
強調する方法がないみたいだ。

田中克彦さんは、「目からうんこが落ちた思いです」
とかかれた手紙をみつけてよろこんでいる。
「目からウロコ」はおかしいとおもいつつかいたから
「うんこ」にずれてしまったのではないかと推測し、
この手紙をかいた女性に共感のエールをおくっている。
「現実にはありえないという点ではウロコもウンコも五十歩百歩なのだ」
というのが田中さんのむすびだ。

あくまでもこれは、田中克彦さんの意見であり、
言語学者がいったからといって賛成する必要はない。
でも、わたしも「目からウロコ」とは距離をおきたいとおもう。
おなじ体験をするのなら、もっとましなものをおとしたい。
そんなことをいっているから、わたしの目にはいつまでもウロコがおおったままで、
不自由な精神をかかえているのだろうか。

posted by カルピス at 23:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする