安西水丸さんがなくなる。
『週刊朝日』に「1回だけの『村上朝日堂』復活!」がのり、
村上さんのほかにも14人の方が追悼の記事やコメントをよせている。
村上春樹さんの本でしか わたしは水丸さんの絵をしらなかったけど、
ほかにもすぐれた仕事をたくさんされてこられたのだ。
また、そのひとがらについても魅力をかたるひとがおおい。
安西水丸さんのしたわれかたをみると、
まるで吉行淳之介さんのような存在だったという印象をうける。
粋で、やぼなことがきらいで、つまりかっこいい。
小説をかくということは、いかに生きてきたか、ということなのだ、と
いうようなことを村上春樹さんがかいていた。
たとえば、ご飯をどういうふうにたべ、
どんなおしゃべりをしてきたか、の
すべての蓄積が作品にはあらわれる。
安西水丸さんは、きっといろんなことが
なにをしても かっこよかったひとなのだろう。
その粋な生き方が、おおくのひとに愛される。
台所でゴソゴソとゆうべののこりものをあたため、
小皿にとりわけもしないでたべているようでは
水丸さんの絵は生まれない。
コメントでは、イラストのかきかたについて
「一気に描く。一枚しか描かない」
という水丸さんのことばが紹介されている。
村上さんの本をみていると、水丸さんは
ずいぶんやわらかそうなひとにおもうけど、
「一気に描く。一枚しか描かない」は、
やぼな人間にはいえないひとことだ。
わたしにとっての村上春樹さんは、
安西水丸さんがかくところの村上さんだ。
「村上朝日堂」にのる水丸さんの絵をみて、
村上さんへの敷居がひくくなったひとはおおいのではないか。
村上さん、ときにはハルキさんと気やすくよばせてもらえるのも、
かなりの部分は水丸さんによる、ゆるい「村上春樹」像のおかげだ。
「村上朝日堂」もいいけど、きわめつけとして
村上かるたの『うさぎおいしーフランス人』をあげたい。
この本もまた、村上ー水丸という ふたりのくみあわせでしかなりたたなかった。
ひさしぶりに、ちょっとよみかえしてみると、
ズルズルとつぎのページをめくりたくなる。
徹底的に意味をはなれ、役にたたないこの本を、
「世界の村上ハルキ」はかかざるをえず、
それをささえられるのは 水丸さんしかいなかった。
小説家としての村上春樹だけでなく、
村上さんの魅力をかたるうえで かかすことのできないべつの一面を、
水丸さんがひろくしらしめてくれた功績はおおきい。