朝日新聞の書評欄に『驚くべき日本語』(集英社インターナショナル)
という本がとりあげられていた。
著者のロジャー=パルバース氏は、4つのことばをあやつれると紹介されている。
いくつものことばをしる外国人が、
客観的に日本語をみたときの特徴がかかれているようだ。
まだよんでいないのに、本の「感想」をかくのは調子のいいはなしだけど、
この書評をよんで想像したことをかいてみる。
日本語が おどろくほどわかりやすい、というのは、
ほんとうだとおもう。
日本人は、日本語について「あいまい」とか「非論理的」とかいうけれど、
つかっているひとが「あいまい」で「非論理的」なだけで、
日本語のせいではない。
そうやって自分たちを特殊な存在としておもいたがるのは、
日本人の特徴ではあるかもしれないが、日本語の特徴ではない。
発音も、むつかしくはない。
日本人には発音できない、あるいは発音しにくい音がたくさんあるけれど、
それは、それだけ日本語の発音がシンプルであるということのうらがえしだ。
外国人にとっていいにくいのは病院と美容院のように、
ながい音をどうあつかうか、の場合がおおいようだ。
書評のコピーには「世界言語にもなりうる可能性」とある。
そうだろうとおもう。
ただし、漢字がなければ、あるいは、ローマ字をつかえば、
という条件がつくのではないかと想像する。
はなすことにかぎれば、日本語はとてもかんたんに
ふかい内容をつたえらえることばだ。
しかし、かいたりよんだりということになると、
漢字の存在が障害になる。
外圧にたよるのは不本意だけど、日本人がいうよりも、
ほかのことばとくらべたうえで、著者のような外国人が指摘したほうが、
日本人の耳にはいりやすいのではないか。
「世界言語にもなりうる可能性」のあることばなのに、
漢字がじゃまをして道をとざしているなんて
なんてもったいないことか。
英語よりもずっとかんたんな日本語が世界にひろまれば、
それによりすくわれるひとがたくさんいるだろうし、
日本人にとってもありがたいはなしなのに。
いぜんよんだ本に、村上龍さんが「解説」をかいていた。
文庫本のいちばんさいごによくある「解説」のことだ。
あろうことか、村上龍さんはその本をよまずに「解説」をかいており、
そのことをことわったうえで、どうどうと「解説」してあった。
さすがに龍さんだと、わたしはすごく感心したわけで、
なにをするにもどうどうとしていれば、
たいていのことは どうにかなるという貴重な体験となった。
というわけで、この記事は、よんでいない本の感想だ。
『驚くべき日本語』というタイトルにうれしくなりながらも、
「漢字がなければ」という ただしがきがかくされているでは、と想像してかいた。
はやく本書をよんで、内容をたしかめたい。