2014年04月15日

『わたしの生きがい論』(梅棹忠夫)「無為無能のすすめ」進歩で解決できるとおもうのは、あまい

『わたしの生きがい論』(梅棹忠夫・講談社)

「生きがい」についての、いくつかの講演をあつめた本だ。
はじめてよんだとき、わたしはもう、ほんとうにおどろいてしまった。
「生きがい」なんかもたないほうがいいのではないか、
がんばって仕事をしてはいけないのではないか、という内容なのだ。

「生きがい」の構造を、目的を設定し、それにむかって努力すること、
としてとらえると、
どんなことにでも「生きがい」をもてることになる。
できるけど、それでよろしいか、というのが梅棹さんのといかけだ。

企業にしてみると、目的を達成したときの成果をじょうずにしめしたら、
だれにでも生きがいをもたすことができるという おいしいはなしだ。
仕事を生きがいとして社員にはたらいてもらえば業績がのびる。
企業のいいなりでいいのか、という意味だけではない。
人類全体、全地球的な規模でかんがえたときに、
これまで進歩とおもってやってきたことが、
自分たちの首をしめてきたのではないか。
たとえば科学が発展し、医学は進歩し、ひとはなかなか死ななくなった。
その結果、人口はどんどんふえ、水も食料もたりなくなっている。
また、個人としては生きがいをもってはたらいたにすぎないのに、
その結果としておおすぎる製品がうまれ、世界じゅうの環境に影響をおよぼした。

「われわれの存在自体がわれわれの存在にとって有害なんだという、
そういう奇妙なことにさえもなりかねない」

日本やほかの先進国は、そうして発展できたから、まだいいかもしれない。
しかし、これから工業化をすすめようとしている国が、まだまだたくさんある。
中国でうまれたPM2.5が日本にも影響するように、
ひとつの問題がその国だけでおさまる状況ではもはやない。
地域をこえて、全地球的な規模で運命を共有するという段階をむかえている。
これまでは進歩することで
すべてが解決できるとおもってきたけれど、
ずっここのまま未来がひらけているとおもうのは、あまいですよ、
と梅棹さんはいう。
問題があまりにもむつかしすぎ、だれも調整ができない。
生物が生きるためには酸素がいる。
その酸素をつくりだしてくれるのは植物だけだ。
世界の森林をきりひらき、開発をすすめることと、
酸素の供給量を確保するために、森林の面積を維持することの調整は
だれにもできない。
温室効果ガスの排出量をへらそうと、
それぞれの国に目標値をわりふってもなかなかうまくいかない。
問題がむつかしすぎるのだ。

壁はもう、そこまできている。
このままアクセルをふみつづけていては、
はげしく壁にぶつかって人類がいっぺんに滅亡の危機に直面するかもしれない。
いつかは壁にぶつかるとしても、
いまわれわれにできることは、アクセルから足をはなし、
ブレーキをふむしかない。

講演がすすむについれて、会場がしずまりかえっていくようすがつたわってくる。
はじめはいろいろ質問や意見がでていたけれど、
あまりにもくらい未来にことばをなくしていく。
梅棹さんがブレーキをかける方法としてうちだすのが
「無為無能のすすめ」だ。

なにか問題がおきたとき、それを科学のちからで解決しようと
人類は知恵をしぼってきた。
しかし、そのこと自体が、さらに問題を複雑にしてしまったのではないか。
一生懸命にはたらけばうまくいくという段階ではもはやない。
一生懸命にがんばることが、よけいに状況をわるくする。
なにもしないほうがましだ。
いかにしてがんばって仕事をやるかという問題ではなくて、
いかにして仕事をしないですませるか、ということが大切になってきた。
そうはいっても、時間とエネルギーがあるわけだから、
それらをじょうずにつぶしていく必要がある。
それが本当の意味での教養かもしれないという。
「人生をつぶす」というかんがえ方で、あそぶことこそが大切になってくる。
じょうずにあそんで一生をおえる。
「ないもしないでおこう。ものをつくるなら、
なんにも役にたたないものをつくろう」

この講演がおこなわれた当時、
梅棹さんがわかものに期待したのは「創造ばなれ」だ。

「創造でしたら、だいたいいままでもやってきました。似たようなことです。
どうせ、そんなにたいしたものはでてきやしません。(中略)
わたしがもしなにかに期待しているとすれば、
それは、そんな創造なんていうようなことを
やめてしまったひとの生きかたなんです。(中略)
われわれができなかったことは、創造しないということなんです」

講演から40年がたち、「壁」はいよいよあつくそびえ、まぢかにせまってきた。
人類は、どのように壁にぶつかるのか。あるいは回避することができるのか。
わたしには、創造ばなれや「人生をつぶす」かんがえ方はまだまだ一般的でなく、
あいかわらず進歩することに価値がおかれているようにみえる。
地球にとって、また、われわれ自身にとって、
われわれの存在が有害であるとしても、
はやくほろびてしまったほうがいいとは、いいたくない。
なんとかブレーキをふみつづけ、最悪のぶつかり方をさけられないものか。

posted by カルピス at 11:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする