『人にはどれだけの物が必要か』(鈴木孝夫・新潮文庫)
タイトルどおりの内容だけど、そのめざすところはふかい。
すくないものでやりくりするのは地球をすくうためで、
鈴木氏は自分のことを「地救(球)人」となのっておられる。
朝は散歩がてらにゴミをひろう。古新聞は家にもちかえって、
ある程度たまってから業者へもっていく。
自分の家にはいったものは、ぜったいにゴミにしない。
紙はレシートにいたるまで資源用にわける。
ゴミすて場をみてまわり、つかえるものはもってかえり、
自分でつかったり、なおしてひとにあげたり。
いまつかっている腕時計は、1950年に親戚からもらったものだし、
カバンはなくなったお父さんのものを修理しながらつかっている。
なにしろ、本書の帯にあるのが「買わずに拾え、捨てずに直せ」だ。
犬やネコはペット用のエサをあたえるのではなく、
残飯でそだてろという。
構内のあかりをけしてまわり、おちているアキカンを
いっしょにひろおうと学生に声をかける。
革製のハンドバッグがすててあれば、とうぜん修理してひとにあげる。
人間のためにいのちをうしなった動物にたいする感謝の気もちからだ。
かわりもののおじさん、あるいは
巨大産業文明にいどむドン・キホーテにみえる鈴木氏のおこないは、
すべて資源をむだにしないためで、
そのさきには環境破壊に加担しないというかんがえがある。
世界じゅうでおきている環境破壊が報告され、アマゾンのジャングルがきえ、
北極の氷がとけていることがつたえられるけど、
それに対応するのは科学や政府の責任とおもっているひとがおおい。
そうではなくて、ひとりひとりの価値観・生きかたをかえていかないかぎり、
これらの環境破壊はぜったいになくならないと鈴木氏はかんがえている。
「自分のやっていることが、地球に対して有害ではないか、
地球に食い込んでいはいないか、という原理を
企業も個人も考えることです。(中略)
それを無視すると、人間の乗っている地球船がひっくり返るという形の
カタストロフィが早晩起きる」
たとえば、として、そこらじゅうにおいてある自動販売機はほんとうに必要なのかと鈴木氏はいう。
ものすごくたくさんの電気をつかうことになるし、からだにもよくない。
つかわれている容器も問題がある。
「アルミのカンをつくるために、
南方でボーキサイトの鉱山を開発し、それを精錬し、
船で日本に運んできて、電力の缶詰と言われるぐらいに電力を使っている。
公害とかエネルギーとか梱包とか汚染とか、
ありとあらゆるものが一個のカンについている。
それをちょっと飲んで、ポイっと道に捨てる。
アルミカンの公害というのは、都市の美観を損なうなんてものじゃない。
遥かに重大な地球に対する負荷の問題なのです」
この本は、梅棹さんの『わたしの生きがい論』でいわれていた壁への衝突を、
個人レベルで対応している実践編だ。
とはいえ、人類が壁にむかってすすんでいるという危機感はおなじでも、
それを解決しようという方法はぜんぜんちがう。
『わたしの生きがい論』では、無為無能になることがすすめてあった。
鈴木氏は、価値観をかえようと、精神論にむかっている。
「とにかく、日本は勿論、世界的に経済のレベルを下げるべきだ。
どこまで下げればいいのか。『ハダシになれ。ハダカになれ』というのは駄目です。
だけど、そこまで下げても、慣れれば何ともないという
10パーセントか20パーセントかは、簡単に下げられる。(中略)
啓蒙と適当な法律、適当な値上げなどで、
いまの浪費を減らすようにして、10パーセント、20パーセントは下げられる。
しかし下げたって、地球の荒廃は絶対的には止まらない。
そこで哲学者が登場して、人間というのは
どのように生きればいいのかという問題を、
国家的にも、学問的にももっと真剣に考える必要があるのです」
それができれば、とおもう。
しかし、いったん身につけた生活レベルをさげられないのが人間ではないのか。
水不足で米がみのらなかったときは、
タイからきた米にもんくをいい(たべものがあるだけありがたいはずなのに)、
地震で流通がとだえ、スーパーにものがならばなくなると、かいしめする。
アメリカ産の牛肉がはいらなくなり、
吉野家がメニューから牛丼をはずしただけでおおさわぎになった。
コーヒーやハンバーガーが100円なんて、
どうかんがえてもやすすぎる値段なのに、
いつのまにかそれをあたりまえとおもってしまう。
生活レベルを10パーセントさげようと もし日本政府がいえば、
ものすごい抵抗をうけるのではないか。
個人的な試練はうけいれることができても、
ひとに命令され、社会全体でとりくむことがどれだけむつかしいか。
できることをやろう、という鈴木氏の提案はよくわかる。
しかし、それがひろがりをもたないのがこれまでの日本であり、世界だった。
個人レベルのとりくみが、なかなかひろがりをもたないことについて、
鈴木氏はもどかしがっておられるようにみえる。
「あとがき」には、意外なことに、
この本はスラスラかかれたわけではないとある。
自分には生きかたを論じるなんて
問題がおおきすぎ、手にあまるとおもっておられたそうだ。
いろんなかんがえをあたまにうかべても、そんなことは無理だと、
そばにいる自分がすぐさま否定する。問題が複雑すぎるのだ。
それではいつまでたってもさきへすすめないので、
ブレーン・ストーミングの方法をとりいれ、どんなアイデアについても
マイナスな点には注意をむけないという姿勢をつらぬくことにして、
ようやくまとめることができたという。
「現在の複雑きわまる社会では、一見単純に見える事柄でも、
ひとたびそれを取り上げ考え出すと、それこそ切りのないほど、
他のすべてと繋がっていることに気付かされるのである。
その時点で多くの人は、問題解決の余りの難しさを今更のように悟り、
残念だがどうにも仕様がないと諦めてしまうのだと思う」
鈴木氏は、生きていることがたのしくてしかたがないそうだ。
「『自分流の生き方のお陰で、幸福でたまりません。
毎日、朝起きて寝るまで、嬉しくてしょうがない。
雨が降っても楽しいし、風が吹いてもたのしい。
私は生きていて、本当によかった。
この地球は素晴らしい』という実感を臆面もなく言えます」
「盆暮のお中元、お歳暮はしない。
バーや焼鳥屋も行ったことがない。
赤提灯の暖簾をくぐったこともない。
いっぺん行きたいと思っていたキャバレーは、そのうちなくなってしまった。
競馬も競輪もゴルフもやったことがない。
碁も将棋もしたことがない。
その代わり、ほかの人がやっていないことだけする。
すごく楽です。金もいらない。時間は山ほどある」
鈴木氏は、地球を自分のものと とらえられている。
自分の地球だから大切にする。
こんなすばらしいひとが日本にいて、
地球をまもることを生活のなかで
ずっと実践してこられてきたことをわたしはしらなかった。
鈴木氏の生きかたをみらなうのに、才能はいらない。
ただ自分の行動が、地球の負担になっていないかを気にかければいい。
ゴミをひろったり、あたらしいものをかわなかったりと、
大学教授とはとてもおもえないような生きかたを
ずっとつづけてこられたのだから、鈴木氏のいわれていることには説得力がある。
わたしは、梅棹さんのいわれる「無為無能」を実践しているところだけれど、
鈴木氏のこの地道なとりくみにもまた、つよくひかれた。
ひととおなじでなくても、地球をまもるためなら
多少まずしくなるくらいはうけいれよう。
「あまちゃん」で有名になったことばに
「ダサイくらいなんだよ、がまんしろよ」がある。
おなじ気もちにわたしもなろう。
地球のためだ。ちょっとかっこわるいくらいなんだ、がまんしよう。