『地震と独身』(酒井順子・新潮社)
東日本大震災から1年たったとき、
酒井順子さんは政府主催でおこなわれていた
「東日本大震災周年追悼式」の中継をテレビでみていた。
遺族のことばをきいたり、家族のものがたりに耳をかたむけながら、
「独身の人達は、一体・・・?」というおもいがわいてきたという。
たしかに、独身者がどううごいたかについては
あまりニュースでみかけなかったようにおもう。
酒井さんのこれまでの仕事から、
震災における独身者のうごきに関心をむけるのはきわめて自然だし、
なおかつ、独身者についてずっとふかい観察をかさねてきた
酒井さんならではの仕事といえる。
ライフワークというか、これまでの延長線上というか、
酒井さんは自分が「独身」であることをきっかけに、
身ぢかなようで、じつはよくしらない世界をさぐり、紹介してくれる。
章だてがうまい。
・独身は働いた
・独身はつないだ
・独身は守った
・独身は助けた
・独身は戻った
・独身は向かった
・独身は始めた
・独身は結婚した
ときて、最後は
・無常と独身
でしめる。
震災にあった独身者への おおくの取材をかさね、
彼らがなにをかんがえ・どううごいたかをききだしていく。
必然的に この本は、すぐれたルポルタージュとなった。
つらい体験をはなしてくれる独身者たちに、
酒井さんはすこしずつはなしをすすめていく。
本の内容が震災だけに、いかに酒井さんといえども
「負け犬」とは冗談でもいえず、
取材の対象はつねに「独身者」とよばれている。
酒井さんの文章に特徴的な「わらい」「かるさ」はない。
取材のおわりには、つねに相手をおもいやるひとことがのべられる。
もちろん本心からのことばだけれど、
いつもの酒井順子をしるものには「よいこのサカイ」でありつづけるのが
すこしおかしい。
だからつまらないかというと、そうではなく、
相手からおもったこと・おもっていることをじょうずにききだすのは、
酒井さんが得意とする分野だ。
それぞれのひとがうけたおもい体験は
だれにでもはなせるものではなく、
きいているもののふかい理解と共感があってはじめて
くちにすることができる。
福島市の病院ではたらく女性は、
原発の事故で避難してきたおばあさんについてはなす。
「『オラのベコ、置いてきてしまった・・・』
って、ベコを置いてきてしまったことを、すごく悔いているんですよ。(中略)
子供は、避難して新しい土地に行ったら、大変だとは思うけれど、
いずれ適応していくことができるし、未来もある。
でもじいちゃん、ばあちゃん達は、住み慣れた土地で、
これから人生の仕上げをしなくちゃいけなかったんですよ。
家畜も一緒にいた、思い出のたくさん詰まっている場所から
離れさせられてしまうお年寄りを見るのが、一番切ない・・・。
あんな善良なおばあちゃんに、人生の最期に、
そういう悲しい言葉を言わせてしまったということが、
看護をする人間として、やりきれなかったです。
おばあちゃんにそんなことを思わせてしまうことは、
絶対に間違っている、って強くおもいました」
ひとりのわかい女性が、どんなおもいをだいて仕事にあたったのか。
いかりだったり使命感だったり、必然だったり。
震災という非常事態に、ひとはなにをかんじるのか、
はなされる特別な体験が、よむ側につよくつたわってくる。
福島の原発事故については、取材をうけたひとも慎重にはなしているし、
酒井さんもそのとりあつかいに気をくばっている。
放射能にどう反応するかは、ほんとうにそれぞれのおかれた状況によってかわる。
にげたひとにも、とどまったひとへも、酒井さんは
そのひとがなにをおもい、どううごいたかだけにふれている。
わたしは、
「おばあちゃんにそんなことを思わせてしまうことは、
絶対に間違っている」
という女性のつよいいかりにむねをいためるだけだ。
震災で結婚をかんがえるようになったひと、
震災にあっても結婚をかんがえなかったひと。
「人間は、常に変わらぬ幸せを得るため、
愛する人とつがいをつくって結婚し、
家族という集団を形成するわけですが、
『常』などというものはこの世に無いこと、
すなわち『無情』という言葉の意味を、震災は見せつけました」
「どうしても答えの出ない大きなもの、
その答えを探すために」僧侶としての道へ、
旅だった男性が紹介されている。
酒井さんもまた、無情の道をあるきつづけるようだ。
この本の印税は、全額が義捐金として寄付されるという。
酒井さんのすばらしい仕事をたかく評価したい。