『カップリング・ノー・チューニング』(角田光代・河出書房新社)
かったばかりの中古のシビックにのりたくて、
「ぼく」は友だちの家をたずねてまわる。
かっこつけたくて、きめたくて、それしか頭にない
どこにでもいそうなかるい男の子だ。
シビックをみせびらかせたかったのだけど、
「ぼく」のはなしにつきあってくれるほどひまなやつはいない。
かんがえてみれば、中古のシビックなんて
ひとに自慢できるような車ではない。
高校1,2年のときおなじクラスだった春香の家をたずねる。
春香みたいにふにゃふにゃした女はすきではなかったけど、
ほかにはなしをきいてくれる友だちがいないからしかたなかった。
春香は車をみるだけでは気がすまず、のせてほしいといいだす。
おりろといわれたらどこでもおりるから、
一日だけでものせてほしいという。
一日だけ、といったくせに、
春香はおおきなボストンバッグをさげて車にのりこんでくる。
どこに、なにしにいくのか、あてがあるわけではない「旅」がはじまる。
車のなかで春香は、高校のときみたいに、
あいかわらずふにゃふにゃしたはなし方をする。
高校のときの、中学校のときの、どうでもいいはなしを延々とつづける。
ラブホテルにはいっても、なんだかんだいってやらせてくれない。
なんでこんな女をのせてしまったのか、「ぼく」はだんだんうんざりしてくる。
ようするに、これはトホホ感いっぱいのロードムービー小説なのだ。
おなじ著者の『キッドナップ・ツアー』は、
ロードムービーという枠ぐみはいっしょだし、
トホホなお父さんがでてきたけど、もうすこしピリッとしていた。
お父さんがへんなぶんだけ、女の子はまともなにそだっていた。
この『カップリング・ノー・チューニング』はそうではない。
どこまでもしまらないはなしだ。
角田光代の作品として、あまりいいできとはおもわない。
でも、わたしはこういうトホホ作品がだいすきなのだ。
知的な青少年もいいけれど、この作品にでてくる「ぼく」みたいな
等身大主人公にもすくわれる。
高校生のときによんでたら、きっとおおよろこびしていただろう。
なんていうことのないこういうB級作品でも、さいごまでよませるから
角田光代はたいしたものだともいえる。
春香のあと「ぼく」は2人の女性をシビックにのせることになる。
ひとりはつきあっていた男からにげている。
もうひとりは、沖縄にいくのにヒッチハイクをしている女性。
「ぼく」はかるいけど、わるいやつではない。
2人目にシビックにのせた女性は
すきな映画が『スモーク』といってるのに、
「ぼく」は『小さな恋のメロディ』なんていいだす。
小学生のときみて感動し、それから10回もみてるのだそうだ。
たしかに『小さな恋のメロディ』はタイトルから想像されるような、
チャラチャラした作品ではない。
当時のイギリス社会のいきづまったかんじがよくあらわれている
すてきな映画だ。
でも、ここではそんなこと関係ない。20歳の男の子は、
とくに女性のまえで『小さな恋のメロディ』がすき、なんていってはいけないのだ。
それに、「ぼく」は15万円の中古シビックに
「ネモ号」なんて名前をつけてしまう。
いくらかっこいいスニーカーできめようとしても、
おぼっちゃん性をけせないぐらいいいやつなのだ。
ダサいことをおそれるどこにでもいそうな男の子。
シビックにのせた3人の女性は、
それぞれ「ぼく」がおもいえがいている世界と
ちがうところで生きている。
「ぼく」は、ささやかな体験をつむうちに、
いったいなにがかっこいいことなのかわからなくなってくる。
世界はへんなやつばっかりなのだ。
3人目にのせた女の子は、沖縄へいく、といって
「ぼく」のさそいをことわり、ひとりで車からはなれていった。
サービスエリアにあったゴミ箱に、それまではいていたビーチサンダルをおしこむ。そんなふうに、それまで大切にしていたものをかんたんにすてる女の子をみて、
「ぼく」もまた自由にすきなところへいけるようになりたいとおもう。
だれかとはなしたくなって、電話ボックスからしりあいの番号にかける。
いそいでいたせいか、番号をまちがえたみたいで、
電話にでたのはききおぼえのない ちいさな女の子の声だった。
「どこだかわからない場所で、
だれだかわからない相手としゃべっている自分がおかしくて、
ガキの声に答えながらふきだしそうになる。(中略)
もしどこかに行きたくなったら、行き先なんてわからなくても、
何ひとつ目的がなくても、とりあえずどこかへ行きたくなったら、
となりに乗せてあげるよ、と言いたくてたまらなくなる」
いきさきなんか、どこでもいいし、
目的なんかなくてもいい。
どこかへいきたくなることが大切なのだ。
電話ボックスをでたときに「ぼく」は
「ずいぶん涼しくなったもんだ、と、独り言を言った」
それまでの「ぼく」は、ひとりごとをいうような人間ではなかった。
ひとりでのりこえるつよさを身につけたから、
ひとりごとがいえるようになったのだ。
いまではひとをたよらずに、自分をはなしあいてにして、
ひとりでやっていける。
ショボい「旅」だったし、なにかをなしとげたわけではないけど、
「ぼく」はふかい充実感とともに「ネモ号」にもどった。
トホホだけど、そんなにわるくないはなしだ。
カフカくんほどかしこい男の子ではないけれど、
「ぼく」のみじかい旅だって、おわってみれば一皮むける体験となっている。
こんな無防備な旅は、わかいときにしかできない。
(本書は、2006年に河出書房新社から文庫として出版されたとき
『ぼくとネモ号と彼女たち』というタイトルにかわっている。
『カップリング・ノー・チューニング』じゃあ、
たしかにぜんぜん意味がわからない。
かといって、あたらしいタイトルもそんなにいいとはおもわないけど)