『紫式部の欲望』(酒井順子・集英社文庫)
『源氏物語』にしても『枕草子』にしても、
わたしはこれまで、おおむかしにかかれた日本の古典への苦手意識がきえず、
教科書からさきの世界をのぞこうとしなかった。
宮廷の、かたぐるしいことがかいてあるのだろうときめつけ、
具体的にはどんなはなしなのかまったくしらなかった。
「えー!、『源氏物語』って、こんなはなしだったの!」
というのが本書をよんでみての感想だ。
これまでとおざけてきた古典が、欲望についての本だったとは。
酒井さんは『源氏物語』をよむうちに
「この作品の中には、紫式部の『こんなことをされてみたい』
『あんなことをしてみたい』という生々しい欲望が、
あちこちにちりばめられているような気がしてくるのでした。
そしてその欲望は、今を生きる私達の中にも、確実に存在するもの」
ということに気づく。
『源氏物語』というものがたりは、
おそらくいろんな視点からよむことができるのだろう。
宮廷を中心とした当時のくらしぶりであったり、
その時代を、ひとびとがどう生きていたか、だったり。
この本は、その意味で、紫式部が「たぎらせていた欲望」に視点をあてたものだ。
光源氏というキャラクターをうごかしながら、
この時代における欲望をつまびらかにする。
恋愛にまつわる欲望は、『源氏物語』がもつたくさんの魅力のひとつ、
などというかるい存在ではなく、
それこそが『源氏物語』のメインストリートであることに酒井さんはおしえてくれる。
章だてをみると、これがまさか『源氏物語』についてかかれた本だとはおもえない、
きわめて現代的な内容となっている。
こういうきりくちだったら、とっつきにくい古典にもしたしみがわいてくる。
・連れ去られたい
・ブスを笑いたい
・見られたい
・モテ男を不幸にしたい
・乱暴にせまられたい
・いじめたい
・正妻に復讐したい
わたしはぜんぜんしらなかったけど、
『源氏物語』をレイプ小説とみることもできるくらい、
光源氏はちょっといいかんじの女性をみると、
いや、いいかんじでもない女性にたいしてでさえ、
手をださずにはおれないプレイボーイだったようだ。
やりまくる光源氏のうごきによって、
紫式部の欲望があぶりだされていく。
おもしろかったのが「見られたい」の章の「チラ見え」の威力について。
当時の女性はさまざまなガードをもちいて
簡単には男性にみられないようこころがけていた。
しかし、だからこそ、そこでチラッとみえた場合の威力もまた、
そうとうなものであったことを酒井さんは指摘する。
「下がり端だの扇だの御簾だの几帳だのといったガードの数々は、
ガードがありながらも、『ちょっと動かせば、すぐに見えますよ』
と男性を誘うものでもあったのではないかと、私は思うのです」
「下がり端も扇も御簾も几帳も、
スカートのような働きをしていたのだといえましょう。
スカートは、その下にはいているパンツを隠す役割を担うと同時に、
パンツの存在を強調しているわけで、
同じように下がり端だの御簾だのも、女性の姿を隠しつつ、
『ここに女がいます』ということを強調している」
いっぽう、男性にとれば、ふだんは目にすることのない女性の、
そのほんの一部でもみることが、どれだけ刺激的な行為だったか。
「彼等は、異性を見ることに対する免疫を、全く持っていません。(中略)
ほんの一瞬、厚く着物に覆われた女性の姿が見えただけでも、
恋心を炎上させることができる」
女性たちは、とうぜん「みせる」ことの絶大な効果をしっているので、
どうかくし、どうチラみせするかの戦略をもっていたにちがいない。
井上章一さんの『パンツが見える。』には、
中国におけるパンツのやくわりが紹介されている。
それによると、日本ではスカートからパンツがみえないように
女性たちが気をくばるのにたいし、
中国の女性はちは「パンツをはいているから大丈夫」という意識なのだという。
パンツまではみられてもだいじょうぶ、という部分なわけで、
パンツをみられても平然としていられる中国では、
『源氏物語』におけるチラみせは効果を発揮しない。
チラみせの威力は、日本ならではのものかもしれない。
わたしはこの本をよむにつれ、当時の執筆環境が気になってきた。
1000年もまえに、紙がじゅうぶんにあるわけでもなかっただろうに、
この膨大なものがたりは、どうやって構成がねられ、
執筆され、手なおし、プロデュース、出版されていったのか。
そして、当時のだれがどのようによんでいったのかと、
どんどん不思議な点がでてくる。
いまでなら、フセンをつかってアイデアをかきだし、整理し、グループにわけ、
かくのはもちろんパソンにむかって修正しながら、なんてことができるけど、
当時の執筆環境はそれらのいっさいをゆるさない。
ぶっつけ本番で、いきなりサラサラっとかいていったのだろうか。
まだ印刷技術がないので、複写するには原作をかきうつしていたのだろうか。
これらのことが頭にうかぶのは、
それだけ平安の生活様式が、わたしのなかでリアリティをもったからだ。
むかしもいまも、というよりも、いまよりもずっと
やりまくっていた平安の貴族たち。
『源氏物語』とは、そんな欲望についてかかれたものであることを、
酒井さんはおしえてくれた。
この道案内は、酒井さんにしかできなかっただろう。
酒井さんはべつの著作で『枕草子』についてもかかれている。
これらの本に、わたしはぜったいに手をだすことはない、とおもっていたけれど、
こんな生々しい内容だったらよんでみたくなる。
あたらしいジャンルに関心をむけてくれた、酒井さんならではの仕事に感謝したい。