チェーンソーがいかにあぶない道具か、ということをきのうのブログにかいた。
じっさいにキズぐちをみたわけではないけれど、
電動ノコギリのようにスパットきれるわけではないので、
チェーンソーの歯がちょっとあたっただけで、肉がぐちゃぐちゃになるという。
みかたをかえれば、木のほうからしたら、
それだけとんでもない武器をからだにむけられていることに気づく。
つかいかたをあやまり、人間がケガをしたときだけをおおげさにいうのは
木からすればとんでもないはなしだろう。
ふとい木をわずかな時間できりきざむ高性能の歯が
人間のからだにあたったときに
大ケガをするのはあたりまえなのだ。
それだけチェーンソーは、木にとってむごい道具である。
チェーンソーをつかうなら、木にむける暴力を意識し、
それが自分にもおよぶかもしれないリスクを うけいれなければならない。
歴史に「もし」はないというけれど、
「もし」チェーンソーがなければ世界のジャングルは
いまの10分の1も開発されてないのではないか。
チェーンソーのかわりにのこぎりをつかっていては、
とても熱帯雨林のジャングルにはたちむかえないだろう。
チェーンソーの圧倒的な能力によってのみ、
ものすごいスピードでの伐採が可能となった。
ニュースがつたえる森林破壊の映像は
いつもチェーンソーのかんだかいエンジン音がセットだ。
とはいえ、チェーンソーがなければ、それにかわるなにかが発明されだろうから、
もうすこしさかのぼって、産業革命によって内燃機関がつかわれるようになったのが
人類の破滅への第一歩かもしれない。
ピストン運動による圧倒的な破壊力は、それまでのしくみとはけたちがいだった。
そのまたむかしに破滅の起源をもとめると、そもそも人類は火なんかつかわなければよかったのだ、
なんて極論にまではなしがおよぶ。
そこまですべてをいっしょくたにしてしまうと、
わけがわからなくなってしまうので、
シンプルに、チェーンソーだけがない世界をかんがえる。
武器や核兵器の使用とおなじように、
チェーンソーもまた国連がしばりをつくったらいいのに。
チェーンソーがもしなければ、宇宙からみた地球のようすは
いまとちがうものだったはずだ。
アマゾンでも東南アジアでも、森の生物は生きのびて
人間の手がはいるのをこばんでいたにちがいない。
チェーンソーをあつかうときに、いつもわたしはそんなことをおもう。
それだけチェーンソーはおそろしい威力で木をきりたおしていく。
国連なんかをもちだしながら、自分は便利につかっている。
さすがにこれでは説得力がないとおもいながら、
ついまえからの妄想をかいてしまった。