2014年05月20日

外国人が食を旅行の目的にしないのはなぜか

「クールジャパン」でご当地グルメについてやっていた。

この番組は、抵抗をかんじながらついみてしまう。
なにがわたしの神経をさかなでするのだろう。
外国人ゲストのだれもがじょうずに英語をはなすのが
おもしろくないのかもしれない。
共通語は日本語のほうがいいし、
そうでないなら母語をはなせばいいのに、
イタリア人もブラジル人も中国人も南アフリカ人も、
みんな英語をはなすのはクールなのか。

ということはともかくとして、
ゲストたちによると、イタリア以外の国は、食の地域性があまりないそうだ。
どこもおなじようなものをたべているという
(ゲストの発言がその国を代表してしまうので、
その意見が事実なのかどうかはわからない)。
なによりも、たべることを目的とした旅行は
かんがえられないという発言におどろいた。
イギリスでもし「ヨークシャーパイをたべにヨークシャーへいこう!」と
ともだちにいったら「ほんとに?」と怪訝な顔をされるのだそうだ。
日本人にとって、食と旅行はきりはなせないものなのに、
外国人とはそんなに感覚がちがうものなのか。
旅行とは彼らにとって観光や名所旧跡めぐりをすることなのだそうだ。

みかけはおなじように旅行へでかけ、
おなじようにその町のたたずまいをたのしんでいるようでも、
日本人と外国人はぜんぜん別のことをやっているというのがすごい。
こういうのは、いわれないとわからない。
日本の旅行会社がつくるチラシは、
とくに国内むけではあきらかにたべもののことばかり強調してある。
ご当地グルメをめがけての旅行は、日本独特のスタイルだったのだ。

旅は宿である、というひとがいるけれど、
わたしは きっぱり旅は食である、といいきれる。
旅行記をよんでいても、たべもののことがかいてないとものたりないし、
かいてあればたいていそこへでかけたくなる。
いちどだけ自転車をもっていって
タイとマレーシアをはしったことがある。
それも、自転車をこげばおなかがすいて、
めずらしいものをたくさんたべられるから、
というのがおおきな理由になっていた。

『愛と哀しみの果て』で印象にのこるのは、
サファリにでかけたレッドフォードとメリル=ストリープが
夜のキャンプ場でヨーロッパスタイルの夕食をとるシーンだ。
ワインがひやされ、食後のデザートとしてオレンジの皮をむいていた。
ああやって、列強の国々は、
植民地に自分たちの文化をもちこみ、ひろげていったのだ。
現地の食にはまったく関心をむけず、
ただ自分たちが自分たちの国でやっていることを
アフリカでもつづけようとした。

日本人の食にむけた好奇心は、健全な精神のあらわれではないか。
自分たちの文化だけでなく、ほかの地域の食にも敬意をはらっている。
文化に優劣はないことを、すくなくとも食においては実践してきたのだ。
ほかの町でなにをたべているのか関心がないなんて、
なんというまずしい精神だろう。

これまで旅行したなかで、いちばん気にいった料理は
ネパールの定番定食であるダルバートだ。
ダル(豆でつくったカレー)をごはんにかけてたべる。
タルカリ(つけあわせのおかず)とダルの相性が絶妙で、
毎日たべてもまったくあきない。
国の料理としてはタイ料理がいちばんだとおもう。
たかいレストランにはいったことがない。
屋台や食堂でじゅうぶんおいしい料理をたべさせてくれる。
ベトナムへいったのもフォーがたべたかったからだし、
中国も目的は水餃子だった。
観光をめざしてでかけた旅行は
アンコール・ワットだけかもしれない。

どこの国の料理もそれぞれおいしくたべてきた。
わたしは日本料理がいちばんとはおもわない。
その土地のひとにとって、その土地の料理がいちばんにきまっている。
わたしが100年まえのアフリカでメリル=ストリープと夕食をとれたら、
きっとコックに土地の料理を準備してもらい、
ハチミツでつくった酒で乾杯しているだろう。
異文化の食に関心をむけない白人たちより
ずっとクールな生活をおくったにちがいない。

posted by カルピス at 21:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする